第32話 老兵は死なず

 社会人入試か。

 確かに京都学院大学にはそんな制度があったな。

 私は戸部社長のチャレンジを精一杯応援したいと思った。

 昼間、学校に行って、夜働くのもいいが、キャンパス・ライフを楽しんで欲しい。

 社長の仕事なんてのは、普段はあまり無いくらいが平和でちょうどいいくらいだ。

 事務員を一人雇って社長の業務を軽減しよう。

 社長しか分からない、部長しか分からない、などという会社は不健全なのだ。情報を共有できてこその組織だ。


 年も押し迫った。

 クリスマスの喧騒が終わり、人々は年越しの支度に忙しくしている。

 十二月二十八日、戸部社長は二十一歳の誕生日を迎え、バースディ・ケーキをパクつきながら受験勉強にいそしんだそうだ。

 私は受験勉強中は仕事を休むように言ったのだが、戸部社長は受け入れなかった。仕事が終わってから、家で勉強するのだという。

 家庭教師は貴志君と典子さんだという。現役の小説家から国語を習い、歴史の研究者から日本史を教えられる。なんとも贅沢な布陣だ。


 私の一人息子である武志も成績をぐんぐん伸ばしていた。京大合格は微妙な線だが、一年くらいの浪人もいいだろう。

 受験生を抱える我が家では、今年の正月は静かに過ごすしかない、

 戸部社長も正月休みは受験勉強か。

 ご苦労さまである。



 年末のぎりぎりまで、河原町店の準備を進めた。

 人事もほぼ決定し、一月十六日から二月の末まで研修に入る。

 黒澤君には再びスーパー・バイザーの役割が与えられた。彼女は、「店舗統括部長」の辞令を受けた。

 そして、和田店長が河原町店の店長として着任することになる。



 年が明けた。

 正月三日には毎年、三好社長のところに年始の挨拶に行くことになっていった。

 三好社長はもう私の雇い主ではないが、一応のけじめとして最後の挨拶に行くことにした。

 お土産にビール、と思ったが、やはり病人にはまずい。

 シュークリームを手土産に、私は天神川三条のマンションに向かった。


 三好社長は来客があったときだけビールが飲めることになっていたせいか、大喜びだった。

 二人でグラスに注がれたビールを飲みほした。

 三好社長とは、何度こうしてビールを酌み交わしたことだろう。

 これが最後になるのかも知れない。


 「どうや、あのお嬢ちゃんは?」

 三好社長は、戸部社長のことを「お嬢ちゃん」と呼ぶ。だが、見下している様子はない。ただ、三好社長にはテレがあるようだ。

 「戸部社長ですか。経営者としてはまだまだですが、彼女には彼女なりの信念があるようです。」

 そう答えた私に、三好社長は年末に京都駅前店に行った時の話をしてくれた。

 「えらい行列ができとったで。あんなん開店したとき以来やな。お嬢ちゃんは凄いなぁ。ほんま、凄い。」

 スタッフの待遇を改善し、教育と責任を与えた彼女の経営方針はみごとに当たったのだ。

 きめの細かいサービスと、心のこもったおもてなし。スタッフの誰もが誇りをもって働いている。


 「彼女が、大学に行きたいと言い出しましてね。」

 「ほう、そうか、ええこっちゃ。勉強はできる時にしとかなあかん。わしは働いてばかりで、勉強する間がなかった。人生で悔い言うたら、それくらいや。阿部君、せいぜい応援したって。」

 もちろんです、と私は答えた。

 「勉強か、勉強か、ええなぁ。」

 三好社長はそう呟きながら、ちびりちびりとビールを飲んだ。


 時代は私たちとは違っていたが、三好社長のように貧しい家庭に生まれたら、高等教育を受けられる機会も遠のく。

 日本は豊かな社会を実現し、進学率も飛躍的に上がった。

 しかし、今の日本では格差が広がり、貧しさゆえに進学を諦めざるを得ない子供たちが増えている。

 豊かな家庭に生まれた子どもたちは、小さい頃から英才教育を受けて、金の力で大学に行く。

 戸部社長は能力差別に思い悩んだが、これからは経済的な格差が新しい差別やルサンチマンを呼び起こすことになるだろう。

 そんな話をすると、三好社長は、

 「そんなことは百も承知や。」

 と言ってから、私に向き直った。

 「あのな、儂らには子どもがおらへんやろ。せやからな、若い賢い奴を助けたろうと思うてな、あんまり裕福やない家の高校生の学費を出したることにしたんや。女の子二人に男の子一人や。儂らの娘と息子みたいなもんや。」

 奥さんの三好マネジャーも嬉しそうに笑っている。

 「この人の最後の我儘や言うてね。」

 「そや、我儘かも知れんが、東大か京大に行かしたる。医者か弁護士にするんや。」

 医者と弁護士、三好社長らしい発想だ。

 私は苦笑しながら、戸部社長が「ただ、学びたい」と言ったことを思い出していた。

 

 三好社長は来春、天神川三条のマンションを引き払って、故郷の近江八幡に帰るという。マンションも売却するらしい。

 「もう、都会はええ。田舎暮らして悠々自適や。近江八幡にな、今、家建てとる。琵琶湖が見える丘の上や。」

 三好社長はテーブルの上に新しい家の図面を広げてみせた。

 物凄い豪邸ではないか。

 忘れていた、三好社長は三好水産から委託費の名目で一億以上のお金を抜いていたのだ。

 松永社長に三好水産を乗っ取られながらも、しっかり蓄財をしていたのだ。

 「悠々自適や!」

 三好社長は大笑いしている。

 そうだった、この人は運が強いのだ。

 松永くらい、赤子の手をひねるようなものだったのだ。


 「それでも、あのお嬢ちゃんには敵わんかった。」

 その言葉だけは、少し寂し気だった。

 「彼女には仲間がついていますからね。」

 と、私は言った。

 「人生の終わりに、えーもん見せてもろたわ。」

 これが、三好社長の本懐なのだ。


 私は天神川三条のマンションを後にした。

 正月の空気は澄んでいる。

 軒を連ねる家々からは、暖かい団らんの光が漏れてきて、私を幸せな気分にさせた。

 私はマンションを振り返り、思った。

 

 老兵は死なず、ただ去り行くのみ。



 その一年後、三好社長は他界した。

 昼寝をすると自分の書斎に入ったまま、眠るように死んでいたという。

 三好社長の奨学金を受けた子どもたちは、彼の予言通り東大と京大に進学した。

 一代の成功者が社会に残した、ささやかな置き土産である。

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