第2話 社長 VS 部長
「阿部部長、お先に失礼しまーす。」
戸部京子君がいつものように元気よく私に挨拶して帰って行った。
この一年、戸部京子君には経理のデータを整理するように命じてきた。
彼女の作成した資料は一目瞭然に各店の売上、仕入れ原価、経費、人件費などが分かるように作ってある。ここから、原価率や人件費率、経費率などが見えてくる。非常にわかり易く、明快なデータなのだ。
この作表ひとつを見ても、彼女の頭の良さが伺える。これまで経理課の浅野課長や下田主任が作ったデータは不明確であるだけでなく。各店舗が単体で赤字なのか黒字なのかも分からない。
経理課は三好社長の直属になっていて、社長が「明日までにこんな資料が欲しい」といえば徹夜してでも資料を作るような組織になっている。
ここでは社長は独裁者の如く振る舞っている。
だから、売上が悪いという数字を示すと、たちまち三好社長の機嫌を損ねてしまう。彼らは社長のお気に召す資料を作ることに必死なのだ。
その結果、この会社の実態を誰も把握してという状態に陥っている。
そこで私は会社の経理全体を把握できる資料の整理を任せる人材として戸部京子君に白羽の矢を立てた。
この一年間、彼女はそれに応えてくれた。
年間を通しての会社のお金の動きが全て把握できるようになった。
私が京都学院大学を卒業したのはバブルの頃だった。
上場企業に就職し、営業部に配属された。
朝、会社に出勤し資料をまとめ、昼からは得意先回り、夜は接待という時代である。
忙しい日々もつかの間、バブルは弾け不景気になった。
それでも数年はバブルの残り香があった。商品の種類を絞り、在庫を圧縮すれば、なんとか黒字になった。
だが、崩壊の速度は留まることを知らなかった。
私の所属する部署は、たちまち赤字に転落し、リストラの対象になった。
早期退職制度といえば聞こえがいいが、要するに首切りである。
入社七年で私は会社を辞めた。
就職先は無かった。就職氷河期が訪れていたのだ。
どこの面接に行っても、リストラされた営業マンの採用先は無かった。
ハロー・ワークで、三好水産株式会社の求人を見つけた。
その頃の三好水産は、三好社長と後藤さんが細々とやっている大映通りの魚屋でしかなかった。店頭での鮮魚の販売と、後藤さんが作る鯖寿司が評判で、地元のスーパーや商店に卸していた程度の商売である。
三好社長も当時四十二歳だった。求人に大学出の学士様が来たと大喜びだった。
三好社長は京都駅前に回転寿司の店を出店するプロジェクトを私に打ち明けた。
それからは大変だった。何の知識もない若造がデベロッパーと交渉し、仕入れ先を選定し、人材を採用しなければならなかった。
通勤時間がもったいないので、開店までの半年間は会社で寝泊まりしていた。ブラック企業なんて生易しいものではなかった。
だが、仕事は面白かった。毎日新しい発見があった。次々に現れる難問を解決する度に、自分がめきめき成長していくのが分かった。
そんな私と三好社長の二人三脚でなんとか出店の目途がついた。
京都駅が新しく地上六十メートルの駅ビルとしてオープンする。その日に合わせて三好水産の第一号店「回転はんなり寿司」は営業を開始した。
オープンキッチンで職人が目の前で握った寿司を並べる。お客様の注文に応じて握ってもくれる。このスタイルが好評を博し、第一号店は大繁盛した。
私と三好社長は酒を酌み交わしながら涙を流して成功を祝った。
「回転はんなり寿司」は、その二年後に河原町通りの繁華街に第二号店をオープンさせた。当初は好調な出だしだったが、売上が伸び悩んだ。
私は三好社長に根本的な経営分析の必要性を説いたが、社長は事業の拡大にしか興味を持たなくなっていた。
見切り発車のまま第三号店、銀閣寺店の出店を強行したのだ。
そのうえ、銀行から融資を受けて、魚屋の敷地に三階建ての自社ビルを建ててしまった。
私は危機感を持った。
資金計画はどんぶり勘定、「行け行けどんどん」で計画性のない事業拡大をやろうとする。
それでも三好水産は順調だった。京都駅前店の大きな売上がこの会社の屋台骨を支えていたからだ。
その頃の私には細田君という部下がいた。商業高校から新卒として採用した男の子だった。
それほど優秀とは言えなかったが、私は三年間、彼を鍛えに鍛えた。
資料の作り方、分析の仕方、何でも彼に教えた。私は彼に社内資料の整理を命じ、彼は数字と格闘した。
出来上がった資料は会社の経営状態が不安定であることを示すものだった。
三好社長は細田君が作った資料を見て激怒したのだ。
私はこの資料は私が作らせたもので、細田君を叱るのは筋違いだと社長に抗議したが。社長の怒りは細田君に向いたままだった。
三好社長は私には遠慮があるのだ。だから私には何も言えない。
社長の細田君への攻撃はいつまでも続いた。細田君は会社を辞めてしまった。
「やっぱり高卒はあかんな、今度は大卒を採用しよ。どうや、阿部君!」
社長じきじきの面接で採用されたのが浅野君と下田君だ。
聞いたこともないような大学の出身だったが、三好社長には大卒に対する信仰のようなものがあるようだった。
貧しい家庭に生まれた三好社長は、魚屋で修業しながら夜間高校を卒業した。
若い頃から寝る間も惜しんで働き、独立を果たした立志伝中の人だ。
何事もポジティブ。ネガティブな考え方は、たとえそれが正しかったとしても認めようとしなかった。
社員には社長独自の精神論を押し付けるようになった。
私と三好社長は、表面上は社長と部長という会社の両輪だったが、水面下で対立するようになっていった。
社長の精神論を嫌う社員たちの多くが、私を支持するようになっていた。社長には、それが気に入らなかったようだ。
三好社長は経理課を社長派にしようと動いたのだ、浅野君と下田君を自分の子分のようにしてしまった。
何を吹き込んだのかはおおよそ検討がつく。彼らを幹部候補とおだて上げ、新卒の社員に課長と主任の肩書を与えたのだ。
「お前らは他の社員より格上だ。だからわしの言うことを聞け」というわけだ。
彼らは社長のお気に召す資料しか作らない。社長が思い付きで指示したような資料を毎日遅くまで残って作っている。
回転寿司のお店の閉店は夜九時である。九時になると彼らは各店に電話して売上金額を問い合わせる。社長に売上速報を送る為だけに、彼らは遅くまで残業している。
私はこのような仕事を無駄であると思う。彼らは無駄のために残業し、休日出勤をしているのだ。
残業代は出ていないと思う。給与計算は三好社長の奥さんである三好マネジャーの仕事だ。
私は残業というものは、必要に応じてやるものだと思っている。繁忙期や新規出店などのプロジェクトがある場合は仕方がないが、平常は終業時間どおりに帰宅して英気を蓄えた方が効率的なのだ。
仕事を時間内に終えるためには、社員の能力の向上もあるが、無駄な仕事というのを省けば案外すっきりしてしまう。上司も思い付きで無駄な仕事を社員にさせている場合が多い。
戸部京子君には無駄な仕事を一切させない。
方向性さえ与えてやれば彼女は自分で考えて仕事をすることができる。
独創性というか、数字に対する独特の感性がある。一を教えれば十を知る賢さがある。
私の秘密兵器として成長しつつあったのだ。
戸部京子君と出会ったのは今から三年前の前の夏だった。
三好社長が、私を食事に誘った。
第四号店、
店は広沢の池のほとりにある料亭「広沢亭」である。
「いちげんさんおことわり」の老舗で、三好社長はこの店を主に接待に使っていた。
通された座敷の障子には月が映っていた。
おかみさんが挨拶に現れ、窓の障子を開けると月は水面に落ちて輝いていた。
蒸し暑い京都の夏だが、こうした景色を楽しむことで涼を得るのだ。
この時、料理を運んできてくれたのが次女の戸部京子君だった。
まだ嵯峨高校に通う女子高生だという。
何事もてきぱきとした女将さんとは違って、おっとりした仕草で接客してくれた。
「お嬢さんかいな?」
三好社長に女将さんが答える。
「へえ、次女の京子です。まだ高校三年生どすけど、店の手伝いさせとるんです。」
「高校三年生かいな。ほなら受験やな。」
「この子、困ったことに、大学へは行かへん言うてますねん。」
「勉強、でけへんのかいな。」
三好社長は口が悪い。高校生の女の子に言うセリフではない。
「成績は中の上くらいなんどすけど、本人がもう勉強したないって言うてますねん。」
「嵯峨高校の中の上やったら大したもんやないか。お嬢ちゃん、勉強はな、できるときにせなあかん。わかっとるか。」
三好社長は戸部京子君に向かって問いかけた。彼女はうつむいたままゆっくりと、しかしはっきりした声で答えたのだ。
「あたしみたいな人間は大学なんかに行って勉強するより、働くことで勉強した方がきっと世の中の役に立つと思うのだ。」
「世の中の役に立つか! ええ言葉を聞かせてもろた。あんた、高校出たら、
こうして戸部京子君の三好水産への入社が内定した。
顔を上げた彼女のむず痒いような照れ笑いを私は一生忘れないだろう。
三好社長の一存で決まった採用ではあったが、彼女の優秀さは入社一週間もすると発揮された。
浅野課長や下田主任の経理資料を論理的かつ説得力のあるものに作り替えてしまったのだ。当然、浅野、下田両氏にとってはプライドを傷つけられるような事件だった。
私は彼女を直属の部下とした。
ただ、彼女の悪いところは自己評価があまり高くないのだ。自分は普通、いや普通よりもやや劣っていると思っている。
これには彼女の家庭環境が大きく影響している。
戸部家には強烈な個性の持ち主が多いのだ。
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