第9話 キャッシュフロー経営

 「大魔神君、あたしは元気になったのだよー。」

 自転車は滑るように朝の大映通り商店街を進んだ。

 月曜日の朝は憂鬱なんて言ってる場合じゃない、阿部部長の言いつけどおり、あたしは元気を取り戻したのだ。


 「京子ちゃん、元気になったみたいだね。」

 杉山さんがあたしの顔色を見て言った。

 そうなのだ、あたしが元気でなければ、ここは乗り切れないのだ。

 「阿部部長、おはようございますなのだ。」

 阿部部長の顔に微かな笑みが浮かんでいる。

 きっと、対抗策を考え出したのだ。

 あたしも考えたのだよ。昨日は頭の中で計算して、数字がこぼれそうになった。

 あたしの考えは阿部部長と一緒だった。

 キャッシュ・フロー経営なのだ。


 嵯峨銀行の口座には毎日、各店舗の売上が入金される。ひと月の売上は平均して二千五百万くらいなのだ。

 これに対して出ていくお金は、お給料の一千万と、業者さんへの支払の一千万くらいだから黒字になるのだ。

 滋賀第一銀行に支払っていた自社ビルのローンも払わなくていい。社長と社長の奥さんへのお給料も支払わない。だから理論上は充分にやっていけるのだ。


 けど、四月の十日に、嵯峨銀行から滋賀第一銀行の口座に一千万円を振り替えた。いつも十日の日に滋賀第一銀行の口座に売上金を入れて、そこからお給料が支払われる仕組みになっていたからだ。

 だから今、嵯峨銀行の口座には五百万円強しか残っていない。四月の後半の売上予測は一千万と読んで、月末には一千五百万くらいのキャッシュが残る。ここからお給料と業者さん支払いをするのは無理なのだ。


 でもなのだよ、今月さえ乗り切ればキャッシュ・フローが回りだすのだ。

 「さすが戸部京子君だ。キャッシュ・フロー経営に気が付くとはたいしたもんだ。」

 キャッシュ・フロー経営なんて難しそうな名前だけど、要するに入って来るお金に、出ていくお金が追い付かれなければいいのだ。うさぎと亀の追いかけっこのようなものだ。

 あたしたち亀さんは、うさぎさんの追撃を逃れればいいのだよ。


 「問題なのは、今月末だ。ここだけはどうしても資金がショートする。どうするね?」

 「お給料は絶対払わなければならないのだ。お給料が出なかったら、みんな辞めてしまうのだ。そうしたら店舗の運営ができなくなるのだ。」

 「じゃあ、業者さんへの支払をしなかったら、お寿司の材料であるお米も魚も仕入ることができなくなるぞ。」

 「待ってもらうのだ。一か月だけ待ってもらうのだよ。」

 「業者さんだって社員を抱えている。うちからの支払が無かったらお給料が払えなくなる業者さんだってあるかも知れない。」

 「でも、うちの会社が優先なのだ。うちが生き残らないとこれからの商売もなくなってしまうのだ。」

 「戸部京子君、それが正論だ。ただし、私たちの都合でしかないことも頭に置いておかなくてはならないんだよ。」

 「分かっているのだ。いま、やらなくちゃいけないことは、あたしたちが生き残ることなのだ。」

 「では、戸部京子君、仕事に取り掛かってくれ。業者を説得するためにキャッシュ・フロー経営のシュミレーションを作ってほしい。」


 阿部部長は、仕入れ業者の大手三社を説得すると言った。お魚を仕入れている若狭水産さん、お米は京都米穀さん、調味料などを卸してもらってる金田フーズさん。この三社を押さえてしまえば、お店はなんとか回るのだ。

 でも、他にも業者さんはたくさんある。お魚だって若狭水産さんだけじゃない。少しだけど他の業者さんも使っているのだ。

 「他の業者さんはどうするのだ?」

 あたしの質問に阿部部長は申し訳なさそうな顔をしてこう答えたのだ。

 「とりあえず、踏み倒す!」

 あたしたちが生き残るために誰かを犠牲にしなくてならない。そんなことは分かっていたはずなのに、犠牲になるのが弱い小さな業者さんだということを、あたしは改めて思い知らされた。


 事務所の異変に気付いた石崎君と後藤工場長が二階へ上がって来た。

 先週の金曜日以来、松永社長も浅野課長も下田主任も姿を見せなくなっている。こんな小さな会社だ。気が付かないわけがないのだ。

 「いったい何がおこってますのや?」

 後藤工場長はこんな時でもゆったりした口調だ。

 石崎君は身を乗り出して、阿部部長から真相を聞き出そうとしている。

 まあまあと、安倍部長は二人をなだめるようにして、金曜日からの経緯を話した。

 「そらー、まぁー、えらいことですなー。」

 「工場長、何気楽なこと言ってるんですか、会社がピンチなんですよ。浅野と下田、あいつら裏切りやがった。」

 石崎君が悔しそうに言ってから、「何かできることがあれば何でもやりますよ」と続けた。

 「今は通常業務で頑張って欲しい。いずれお二人の力を借りなければならない時が来ますから。」

 阿部部長は、そう言って、二人を一回の工場に帰らせた。



 その日の午前中に、あたしは経営シュミレーションを作った。昼からは阿部部長とシュミレーションを見直して、これで業者さんを説得できるかどうかを検討した。

 うさぎさんと亀さんの追っかけっこ。亀さんが決してうさぎさんに追い付かれないことを説明しなくてはならないのだ。


 翌日から、安倍部長は業者さんのところに出かけて行った。

 この交渉を始めるには、相手先の責任者に三好水産の窮状を説明しなければならない。

 三好水産が三好社長の経営放棄ともとれる行動と、松永社長の会社乗っ取りの狭間で右往左往していること。メイン・バンクである滋賀第一銀行に見放されたこと。会社としては致命的な問題だ。

 そのうえで、キャッシュ・フロー経営による事業の再生を説かねばならない。

簡単そうに見えて、難しい仕事なのだ。

 ただ、阿部部長は業者さんからの信頼が厚いし、論理的なプレゼンテーションはきっと、あたしたちの会社が大丈夫だということを分かってもらえるはずだ。


 業者さんとの度重なる折衝の結果、安倍部長は四月末の支払の保留については大手三社から了解をとりつけた。

 でも、世の中は甘くない。それ以降の取引は現金取引にするというのが条件だった。


 これまでは納めてもらった商品の代金は月末にまとめて払えばよかった。これからは、商品を発注する度にお金を払う。お金を払わなければお魚もお米も仕入れることができないのだ。

 お金の管理がすごく難しくなる。なんでもかんでも仕入れてしまうと、お給料のお金が足りなくなったりするのだ。

 「戸部京子君、キャッシュ・フローの管理は頼んだよ。」

 阿部部長はそう言ったけど、これは責任重大なのだよ。

 あたしは逃亡する亀さんになった。



 四月が終る。お給料は無事に支払うことができた。

 安倍部長が大手三社と京都に本社がある会社の説得を終えたところで時間切れになった。大阪や滋賀の業者さんには何の説明もしていない。

 月末の支払は電気・水道・ガスといったライフ・ラインに関わるもの以外は全てすっ飛ばした。

 ゴールデン・ウィークが始まって、京都は観光客で溢れかえってる。会社によっては十連休なんてところもあるらしいけど、あたしたちの会社は暦どおり五月の一日と二日は出勤する。

 業者さんから何本か電話があった。売掛金が振り込まれていないという苦情だった。

 「申し訳ありません。経理に確認して支払漏れになっていればゴールデン・ウィーク明けに入金します。」

 あたしは受話器に向かって誤魔化しの言葉を唱え続けた。

 ゴールデン・ウィークが明けたら、みんな気づくのだ。三好水産が支払いをストップしたことに。

 「嵐になるな・・・」

 阿部部長が、窓から五月晴れの空を見上げて言った。天気の話じゃないのはすぐに分かった。



 ゴールデン・ウィークは広沢亭のお手伝いをして過ごした。お客様にお酒や料理を運んだり、話のお相手をしたりする。こうしていると、いちばん落ち着くような気がした。

 子どもの頃は、うちのお手伝いをしたくてしょうがなかった。小学校三年生になると、ようやくお客様にお茶を運んだりさせてもらえるようになった。大人の仲間入りができて、すごく嬉しかったのを憶えている。

 お客様にサービスして、喜ばれて、あたしも嬉しい。

 働くことって、そういう単純な喜びだったはずだ。

 けれど、あたしがこれから立ち向かわなくてはならないのは、もっと複雑で大きなものだ。それは誰かを傷つけさえするだろう。

 けれど、阿部部長や杉山さんや、石崎君や後藤工場長、仲間は守らなくてはならないのだ。


 ゴールデン・ウィークは晴天に恵まれ、新緑は目に痛いほど眩しかった。

 明けて五月七日、嵐が来た。



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