第22話 人事制度改革
京都の秋の観光シーズンは九月の声を聴くとともに訪れ、十月に入ると盛り上がり、十一月の紅葉で最盛期を迎える。最近では地球温暖化のせいか、紅葉が十二月にずれ込むこともあって、観光シーズンはお正月まで続くのだ。
京都駅前店の売上は、京都駅を利用する人口に比例するから、ここが稼ぎ時ということになる。
今年は大河ドラマの主人公が明智光秀だということもあり、観光客は二割増しになっているそうだ。
私は時々、京都駅前店をのぞきに行くようにしていた。三好水産の部長時代は本社の業務に追われて店舗を見に行くのは休日にしていたが、アゴラになってからは時間に余裕ができるようになっていた。
平日にもかかわらず、店には小さな行列ができている。客席は満員、従業員はフル稼働だ。
黒澤君が銀閣寺店から連れてきたスタッフも活躍している。
亜里沙ちゃんこと楊さんは、中国人観光客にひっぱりだこになっている。青木さんは韓国語で接客している。バックパッカー雄大君は英語ができる。
この十年ほど、京都には多くの中国人や韓国人の観光客が訪れるようになった。こうした国際観光都市では外国語ができるスタッフが必要になる。
より良いサービスとおもてなし。
京都駅前店はまだまだ可能性を秘めている。
しかしだ、店長の和田君の動きに精彩がない。これまでは店長として君臨してきたが、スーパー・バイザーだった黒澤君に店の主導権を取られ、形ばかりの店長職だ。そして、銀閣寺店から来た優秀なスタッフに押されつつある。
いずれ黒澤君から報告があるとは思うが、人事制度を見直すべきいい機会なのかも知れない。
西陣の事務所に戻ると、戸部社長は過去の売上データをもとに、この秋の売上予測を作っていた。そこから人件費と経費を差し引けば、だいたいの利益が読めるのだ。
「儲かって、儲かって仕方がないのだ!」
戸部社長は、笑いが止まらないという顔をしている。
そりゃそうだ。三好水産のように自社ビルのローンを返済する必要はないし、低収益だった河原町店や赤字だった銀閣寺店もない。これで儲からないほうがおかしい。
しかし、予想以上だ。
観光シーズンの京都駅前店は月間二千万円以上の売上がある。経費で六百万円、人件費で六百万を差引いても八百万の利益が残る。オフシーズンの売上が芳しくない月を加えても、年商二億円、経常利益八千万円以上の会社になるのだ。
さて、戸部社長、この利益をどう使うかは経営者の腕の見せ所だ。
また自社ビルを建てることもできるよ。
私は冗談のつもりだったが、戸部社長は拒絶反応を顕わにした。
「そんなバカなことはできないのだ。この利益はみんなが働いて作ったものなのだ。だからみんなのものでもあるのだ。」
なるほど、従業員に還元しようというわけか。いいアイディアだ。
せっかく給料を上げるなら、従業員たちのやる気を引き出すような方法を考えるべきだ。
「従業員のやる気?」
頑張れば頑張るほど給料が上がるという意識を持たせれば、士気が上がるということだよ。
「なるほどなのだ。あたしは前から気になっていたのだ。京都駅前店のスタッフほとんどがパートさんなのだ。なかにはフルタイム以上に働いている人もいるのだよ。」
まずはパートさんの正社員化から始めようというわけだな。確かに士気が上がるだろう。
同業他社でも飲食店の労働者は非正規採用が多い。誰にでもできる単純なサービスだからパートでいい、そのほうが人件費が安く上がると経営者は考えている。
この逆張りをするとなれば、労働者の熟練度を上げ、お客さにより良いサービスし、売上のアップを狙うという考え方になる。
「そうなのだ。京都駅前店を日本一の回転寿司店にするのだ。そして、みんなのお給料も日本一にするのだ。」
あはは、経団連のお偉方が聞けば、ひっくり返るだろうな。
笑ってはみたが、私には経済界の重鎮の言葉よりも、若干二十歳の女の子が言った事のほうが正しいのではないかと思った。
株式会社アゴラは大きな利益を上げる必要はない。会社を維持し、私たちの給料が保証されればいいのだ。
多くの経営者は事業の拡大を第一に考える。まずは拡大ありき、利益ありきという発想だ。
戸部社長の実家、広沢亭は「いちげんさんお断り」の店である。この場合、新規客を最小限にするということだから、事業の拡大よりも料理の味やサービスの維持と向上に重きを置く。これも京都独特の商売のスタイルなのだ。
そう考えると、戸部社長の考えていることにも経済的合理性がある。
従業員の教育と士気の向上に努め、美味しいお寿司と、他にはないサービスを提供する。
こうした料理とサービスの向上で、さらに利益が上がれば、事業を拡大する。
ここで違うのは、第一義を何にするか、ということなのだ。
戸部社長は社員の生活の安定を第一義に選んだようだ。
やはりここは、人事制度を根本的に改める必要があるようだ。
数日後、黒澤君を本社に呼んでミーティングすることになった。
まずは現状報告を黒澤君から聴こう。
黒澤君の報告は私が予想したとおりだった。
京都駅前店のスタッフは、店長の和田君派と黒澤君派に分裂しようとしているということだ。
今のところ黒澤君が押さえ込んではいるものの、和田君と楊さんの対立は深刻になっているという。
仕事の上でも楊さんの能力は和田君を上回っていて、和田君もそのことを自覚している。
何をやらせても、和田君よりも楊さんのほうが的確で速い。統率能力においても、いつも明るく影日向の無い楊さんは、スタッフの求心力を集め始めている。
同じ銀閣寺店から来た青木さんと雄大君が彼女の両腕となり、三人が協力すると和田君がこれまで保留にしておいた問題もたちまちに解決してしまう。
「和田をこのまま店長にしておくのは、そろそろ限界だと思います。」
黒澤君は静かに言った。
和田君は三十六歳である。
年上の和田君を、黒澤君は呼び捨てにする。能力重視の黒澤君の言葉からは、和田君を見限ったとの意思が伺えた。
能力差、この問題は難しい。
努力すれば能力が手に入るかというと、必ずしもそうではない。生まれ持ったものもあるだろうし、育った環境にも左右される。
和田君は京都駅前店でバイトから叩き上げた。非正規社員の競争を勝ち抜いて正社員になり店長になった努力の人である。
一方、楊さんは中国の裕福な家庭に生まれ、大学を卒業した後は日本に留学した。夢は中国で回転寿司チェーンを開くことだという。
青木さんはシングル・マザーだから職歴は少ないが、お父さんから習った韓国語ができるばかりでなく、統率力に優れている。面倒見にいい姉御肌なのだ。
雄大君は、アーモスト大を卒業した黒澤君の後輩にあたる。世界をまたにかけるバックパッカーは危機管理に長けている。
「人間は不平等に生まれついている。」
私はジョン・F・ケネディーの言葉を思い出した。
戸部社長は黙って私たちの会話を聴いている。
少し暗い表情だ。
暗い表情のまま、彼女は話し始めた。
「実は、ちょっと前に、お兄ちゃんの知り合いで会社のコンサルをしている人に話を聞いたのだ。その人はいろいろ教えてくれて、能力別人事制度を提案してくれたのだ。でも、今の話を聞いていたら、能力で人を差別するのは間違っているように思うのだ。」
「戸部社長、これは差別じゃありません。区別です。」
黒澤君が語気を強めて言った。
だが、戸部社長はこれで納得はしていないようだ。
戸部社長のノートには能力別人事制度の原案が書き込まれていた。
コンサルから聞いたことを、自分なりにアゴラの現状に落とし込んでいる。
さすがだ、戸部社長は頭がいい。これも生まれ持った能力なのか。
戸部社長がコンサルの人から教えてもらった人事制度の核は「賃金テーブル」だった。社員が、仕事の習熟度に合わせて昇給していく。賃金テーブルに照合すれば、誰もがどの目標に到達すれば給料が上がるのかが手に取るようにわかる。
そして非正規ではなく正社員を中心とした雇用体制の確立だ。総人件費を二割増しにする大胆な計画だった。
「二十パーセント・アップとは、すごいな!」
黒澤君が感嘆した。
確かに、社員の能力の向上と、サービスの向上を同時に成し遂げるには、二十パーセント・アップくらいのインパクトがなければいけない。
この人事制度を構想していた戸部社長は、うつむいたままつぶやいた。
「なんか、不公平な気がするのだ。」
「能力に応じて働き、必要に応じて受けとる。」
カール・マルクスはそう言った。
人はそれぞれの能力を発揮して働く。受け取る給料は人の必要に応じる。
つまり能力が上でも、子どもが沢山いてお金が必要な人のほうが、給料が高くなるという意味だ。
だが、共産主義国家の失敗は、このような制度では、人の努力は引き出せなかった。努力と能力を最大限に引き出すには、その対価が必要だ。
そんなことは誰もが分かり切ったことだ。
分かり切っているが、ここで思考を停止しないという姿勢を、私は二十歳の戸部社長のなかに見たのだった。
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