第5話 桜の舞い散る下で
桜が満開になった。
嵐山や鴨川、たくさん桜の名所があるけど、街そのものが桜でいっぱいになるのが京都なのだよ。
街のあちこちで、桜の木が「ぽこっ」と花を咲かせているのだ。
桜の「ぽこっ」を見ると、こんなところにも桜の木があったのだと嬉しくなる。
三月の経理資料が揃ったので、朝から前川税理士の事務所に行ったのだ。
「聞いたんやけど、三好水産さん、M&Aされたんやって?」
税理士の前川先生があたしに訊いてきた。
あたしは「良く知らない」と返事をしておいた。
あたしが言ったことで変な噂が広まるのも嫌だし、前川先生はおしゃべりなのだ。
「松永商会って、店舗広げ過ぎて経営が苦しいって噂もあるよ。三好水産、大丈夫?」
前川先生はいろいろ言うけれど、「あたしは知らない」で押し通した。
あたしはいつものように経理の資料を渡して税理士事務所を後にした。
北野白梅町から嵐電に乗って帰社するのだ。
嵐電っていうのは京福電鉄・嵐山線のことなのだ。
チンチン電車みたいなかわいい車両なのだよ。
「がたんごとん」と音を立ててかわいい電車が走るのだ。
電車の窓いっぱいが桜色に染まって、桜の花びらが電車の窓から吹き込んでくる。ほんの数秒だけど、世界が桜で埋め尽くされる奇跡のような瞬間なのだ。
あたしは嵐電から見る桜がいちばん好きだ。僅かの間だけど「世界は美しい」って実感できる。
けれど、一瞬の夢はまたたくまに過ぎ去って、気が付いたらいつもの
駅を出たところが大映通りなのだよ。
「大魔神君、今日も緑の顔だね。」
大魔神君はスーパー・マーケットの前に立っている。
お昼前の大映通りは買い物のお客さんが多い。街が歳を取っているからお年寄りが多い。シルバー・カートを押したり、杖をついて歩く人が多い。
昔ながらの商店街がかろうじて残っているから、お年寄りには暮らしやすいのかな。
小さな商店街だから、十分ほど歩くと会社につくのだ。
阿部部長が「どうだった?」って訊いた。前川税理士が何か言ってなかったかと訊いているのだ。
あたしは前川税理士から聞いたことを部長に報告した。それから、「あたしは何も言わなかったのだよ」って答えておいた。
阿部部長は「それでいい。それでいい。」と繰り返した。
お昼になった。あたしとパートの杉山のおばちゃんは、いつも三階の会議室でお弁当を食べる。三階は社長室と会議室、それから応接室が二つあるのだ。
窓の外にも桜だ。お花見気分でお弁当なのだよ。
杉山さんとは、ときどきお弁当の取り換えっ子をするのだ。これが楽しいのだ。
あたしのお弁当は広沢亭の懐石料理の余りもの。確かに美味しいけれど、毎日食べてると舌が上品になって馬鹿になるのだ。だからたまには杉山のおばちゃんの家庭の味が嬉しいのだ。
杉山さんがお箸で出汁巻きを持ち上げた。
「この出汁巻き、出汁がほんまによく効いてるわ。さすが一流の味やな。」
杉山さんはいつもうちの出汁巻きに感動するのだ。
でもなのだよ、杉山さんが作った甘い卵焼きはすごくおいしいのだー。
「この
申し訳ないのは、こっちのほうなのだよ。
これなのだよ、これ! タコ・ウインナーなのだー。
うちのお弁当には絶対入らないメニューなのだ。
小学生の頃、遠足に行った時、友達のお弁当にはタコ・ウインナーが入っていて、すごく羨ましかった。あたしのお弁当は立派なお重だったけど、子供心に恥ずかしかった。タコ・ウインナーは、あたしの憧れだったのだ。
杉山さんは料理がうまい。この肉じゃがだって、このジャガイモの崩れ具合がいいのだ。うちの料理は野菜をきれいに面取りするから崩れたりしない。この崩れたドロっとしたところが美味しのだよ。
お弁当食べ終わるとほっこりする。杉山さんとおしゃべりするのだけど、話題は自然に会社のことになってしまう。
隣の社長室では松永社長と浅野課長と下田主任が、何やらひそひそ話をしているのだ。
「何を話してるか、聴くかれへんやろか。」
杉山さんが壁に耳をくっつけているけど、社長室の壁は厚くて中の声を漏らしたりしない。
「盗聴器でもつけられへんやろか?」
それは犯罪なのだよ。だけど、あたしも気になる。
会議室を出て、社長室のドアの前まで来た。
ドアが半開きになってる。中には誰もいないようだ。
あたしと杉山さんは社長室に忍び込んだ。
みんなお昼ご飯を食べにいってるんだ。
革張りの立派な椅子がある。これが社長の椅子だ。
樫造りの大きな机の上には、浅野課長や下田主任が作った資料が山積されてる。
壁面は書院造風に、床の間と違い棚になっている。三好社長が好きだった骨董の数々が並べてあるのだ。
床の間の掛け軸は水墨画、鶴が翼を休めている。
違い棚には赤絵付けの伊万里の大皿が飾ってある。
これは趣味が悪いのだ。広沢亭のお座敷に、鶴の掛け軸に伊万里の大皿なんか飾ったら、お母さんは卒倒するだろうし、義姉さんは怒り出すに決まってる。
「成り金」って、こういうことなんだなと納得してしまうのだ。
机の上にはパソコンがあるけど、三好社長、パソコン使えたのかなぁ。使えないけど見栄で置いているようなものだ。
パソコンの横には電話がある。三好社長が元気な時は、ここから内線で各部署に指示をしていたのだ。そう考えると、体が不自由になった三好社長が気の毒に思えた。
そうだ、電話だ。社長室の電話の内線をオンにしておくのだ。それでもって、電話をスピーカーにしておくと、社長室の中の声が拾える。
杉山さんとあたしは「にへら」と笑って、社長室から二階の事務所に駆け下りた。
事務所の電話の内線が鳴っている。
受話器をあげれば社長室と内線電話がつながった。
盗聴作戦、開始だ!
と身構えていたら、お昼ご飯から帰って来た浅野課長が事務所に現れた。あたしと杉山さんは、内線電話の事は気づかれないように電話を見られないようにした。
浅野課長は自分のデスクに座って、カバンから取り出した印鑑ケースを、大事そうに引き出しにしまって鍵をかけた。あたしは見ないふりをしながら、浅野課長の一挙手一投足に注意を払った。
それから、浅野課長は三階に上がっていった。たぶん、松永社長も社長室に戻っているはずだ。
エレベーターが三階に上がったのを確認して、しばらく間を置いてから杉山さんは内線をスピーカーにした。
阿部部長が「何だ!」という顔をした。
あたしは人差し指を口にあてて「しー」って言った。
内線から聞こえてきたのは浅野課長の声だった。
「おお、こうして見ると壮観ですね。」
「五千万の札束や、積み上げて拝むのもエエやろ。」
松永社長の声だ。
「ひゃっひゃっひゃ、三好社長はケチやったから札束なんか見せてくれたことなかったわ。」
下田主任の下卑た言い方が、あたしの心をざらつかせた。
「この金を元手に、松永商会と三好水産を再編するんや。浅野君、下田君、頼んだで!」
五千万、いったい何のことだろう。
さっき、浅野課長が机にしまったのは銀行印のケースだった。三好水産の余剰金をストックする滋賀第一銀行の銀行印は三好社長が保管しているはずだけど、三好社長は浅野課長に管理を任せていたのだ。通帳も浅野課長が持ってる。
ということは、この五千万円は三好水産のお金なのだ。
阿部部長が聞き耳を立てたところで、スピーカーが「ピー」って鳴りだした。内線を長くつなぎすぎたせいで鳴り出したのだ。
「内線、つながったままやど!」
浅野課長が大声を上げた。
「あちゃちゃちゃ!」
下田主任が内線を切ったみたいだ。
あいつらも、社長室の会話を聞かれたことに気づいたのだ。
しばらくして、エレベーターが三階に上がって、一階に降りた。三人そろってどこかへ行ってしまったのだ。
阿部部長の顔が青くなっている。
あたしはただならぬものを感じた。
そうだ銀行印だ。
浅野課長は机に鍵をかけた。けれどあたしは会社の合鍵を全部整理して管理しているのだよ!
この間から暇をみつけてやっておいた仕事が、こんなところで役に立った。
合鍵で浅野課長の机を開けた。銀行印が引き出しの奥に大事に保管されていた。それから、引き出しの中にからは、滋賀第一銀行のネット・バンクのIDとパスワードが書かれたメモが見つかったのだ。
浅野主任のパソコンの電源を入れた。ログイン・パスワードはいつも見ているから知っているのだよ。
「maiko0628」
舞子アイドル、君島麻衣子ちゃんの誕生日でログインできるのだ! 浅野課長が隠れアイドル・オタクだということはお見通しなのだ。
ネットバンクで、滋賀第一銀行の口座にアクセスした。
今日、帷子ノ辻出張所から、現金五千万円が下ろされていた。
残高、二千九百二十三万八千五百三十二円。
阿部部長の手が震えている。
杉山さんはあんぐり口をあけている。
松永社長は社長と言っても、まだ株式の譲渡を受けていないはずだ。株式譲渡の代金、一億円も三好社長に払っていないはずだ。登記の上では今でも三好社長が社長なのだ。
松永社長は、浅野課長と下田主任を手なずけることで、三好水産のお金を持って行ってしまったのだ。
これは、横領なのだよ!
松永社長と浅野課長、下田主任は、この日をさかいに三好水産から姿を消した。
後で知ったことだけど、この日から彼らは大阪の松永商会の事務所で三好水産の乗っ取り計画をたてていたのだ。
滋賀第一銀行の通帳は浅野課長が持ったままだ。けれど、銀行印はこちらの手の中なのだよ。この口座のキャッシュ・カードは作ってないから、通帳と銀行印が揃わないとお金を動かすことはできないのだ。
腹が立つのだ。浅野課長と下田主任は、松永重治の口車に乗せられて、あたしたちを馬鹿にしているのだ。自分たちは松永重治の側近だから、この会社を好きなようにしていいと思っているのだ。
この二人は、三好社長に長時間労働を強いられてこき使われてきた。今度は松永重治が社長になるのだと思って尻尾を振っているのだ。松永重治についていけばいい目ができるとでも考えているんだろう。
なんて残念な人たちだろうと思った。腹を立てながらも、彼らの残念な頭の中を想像すると、少しだけ可哀想に思えてくるのだ。
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