第35話 風の手のひらの上
バラナシからガヤまで四時間くらいの列車の旅なのだ。
ガヤに着くと、ディップさんのお友達のダルメンドラさんが車で迎えに来てくれた。
ダルメンドラさんは、ディップさんと一緒に学校を運営している人なのだ。
車で国道を三十分くらい走ると、ブッダ・ガヤの町が見えてきた。
ブッダ・ガヤはお釈迦様が悟りを開いた仏跡の地なのだよ。
ブッダ・ガヤに着いたのは夕暮れだった。
大きな赤い夕陽が、地平線に沈むのを見た。
バラナシの夜明けと、ブッダ・ガヤの夕日を、あたしは一生忘れないだろう。
お姉ちゃんは、大学生の時に女の子三人で、インド旅行したそうなのだ。
その時に知り合ったのがディップさんとダルメンドラさんだった。
彼らが運営している小学校は、アウト・カーストとか不可触民と呼ばれる貧しい子どもたちが学ぶ学校だった。
世界史の授業で習ったのを思い出した。
インドにはカーストっていう身分制度がある。バラモン、クシャトリヤ、バイシャ、シュードラという四つの身分で、それぞれ、僧侶、貴族、市民、下層民だ。
アウト・カーストっていうのは、その下の身分なのだそうだ。不可触民、触ってはいけない人々という意味だ。
インドの身分制度は今でも根強く残ってる。
けれど、インドも民主主義になって、カーストも少しずつ無くなってるって聞いた。
お姉ちゃんは、この学校を取材して本にすると言ってた。
あたしたちはディップさんのお家に泊めてもらうのだ。ディップさんのお家はコンクリートの二階建ての建物だった。
あたしたちが泊まる部屋は、ベッドが二つ置いているだけの殺風景な部屋で、小さな窓がついていた。
お姉ちゃんは一か月ほどここに滞在するそうだ。あたしは大学の入学式があるので、五日間で帰らなくてはならないのだ。
ディップさんの奥さんは日本人だった。さっぱりした感じのきれいな人で、美咲さんといった。二人の間にはミキちゃんという女の子がいて、あたしたちにも物怖じしない。
ディップさんの家は来客が多いから、ミキちゃんも知らない人に慣れているのだ。
あたしの家も料理旅館で人の出入りが多かったから、ミキちゃんには親近感がわいた。
初めてのブッダ・ガヤの夜は、みんなで外食した。
また、カレーだよ。とても美味しかったんだよ。
夕食の後、町をうろついた。土の匂いのする小さな町だった。
町の中心には、お釈迦様が悟りを開いた菩提樹の樹があって、そこには大きな
あたしは、お釈迦様の菩提樹の実で作ったお数珠を買った。
この旅の記念なのだ。
翌日は朝から町の中を見て回った。こんな小さな町にも人がうじゃうじゃ居る。人口が多いって、こういうことなんだと肌で感じた。
昼まえに、ディップさんの学校を見学しに行った。
教室では五十人くらいの子どもたちが、浅黒い顔に白い瞳を輝かせながら授業を聞いていた。
サボってたり、よそ見をしている子はひとりもいない。
先生は背の低いおじいちゃんだった。
先生にあてられた子は、
「イエッサー!」
と言って、直立不動で立って、先生の質問に答えた。
凄いのだ。日本人はいつかインド人に負けるって思った。
あたしが小学生だったときは、こんな風に勉強してなかった。自分らしさとか、個性とか、それが普通だと思ってた。
でも、グローバリゼーションの時代では、日本人もインド人も同じ土俵の上で戦わなくてはならないのだ。
戦うためには知識が必要だ。
どんな子どもも、知識に触れる権利がある。
そのために、この学校は作られたのだ。ディップさんとダルメンドラさんによって。
あたしには、この小学校の教室が神聖なもののように思えた。
学ぶことは神聖なことなのだ。
こんなこと、日本に居たら一生思わなかったかも知れない。
お昼になると給食なのだよ。
授業のときとは打って変わって、子どもたちはみんな笑顔でカレー食べてる。
ディップさんは言った。
「みんなね、給食が目当てで学校に通い始めるんや。家が貧しいからね、子どもは労働力なんや。親にしてみても何か見返りがないと子どもを学校に行かせへん。学校には給食がある。親は一食浮いたと思う。子どもたちも、給食が食べられるから学校に行きたいと思うようになるんや。」
この学校がなければ、この子たちは文字も読めない、簡単な計算もできないまま大人になったのかも知れないって思うと、涙が出た。
リベラル・アーツ、勉強は「自由のための技術」と言った大先生の言葉が身に染みて分かった。
「あたしは就職してから、毎月この学校に寄付してるなり。あたしの寄付は給食代になるなり。」
お姉ちゃんはそう言って、あたしにもアルミのお皿に盛りつけたカレーを手渡してくれた。
あたしはぽろぽろ涙をこぼしながら、カレーを食べた。
そんなあたしを気遣ってか、小さな女の子が傍に寄ってきた。
小学三年生のサリイちゃんだった。
サリイちゃんは、「大丈夫?」って尋ねるように、あたしの顔を覗き込んでいる。
あたしが無理やり笑顔を作ると、サリイちゃんも笑った。
後で知ったことだけど、サリイちゃんは二時間かけて学校まで通ってるそうだ。雨の日も、地面が焼けこげるような日差しの中も、休まずに通い続けているそうだ。
「勉強が面白くて仕方ない。」
いつもそう言ってるって、デイップさんが教えてくれた。
小学校三年生だけど、五年生のカリキュラムをこなす賢い子なのだ。
ディップさんが自慢げ言うのは、この学校の卒業生が去年IITに入学したのだそうだ。
あいあいてぃー、って何なのだ?
「インド工科大学なりよ。日本で言えば東大や京大みたいなものなり。入試は超難関なり。」
そうなのか、インドはアウト・カーストに生まれても、勉強次第で世の中に出られる時代になったんだ。それは自由で平等なのだけど、勉強の差で貧富の差が生まれるということでもあるのだ。
それが正しいことなのか、今でも分からない。
あたしは、そんなことを思いながら、学校を後にした。
サリーちゃんが手を振っていて、あたしも手を振った。
また泣きそうになったけど、我慢した。
お姉ちゃん宛てに、日本から大きな荷物が着いた。
「間に合ったなり。これを待っていたのだ!」
荷ほどきをすると、中からライフル銃が出てきた。
ライフルっていっても、水鉄砲なのだよ。ぴゅー、って水が出る水鉄砲じゃなくて、水を弾丸みたいに弾き出す、日本製の超高性能水鉄砲なのだ。
「これでリベンジするなり!」
お姉ちゃんは、にまにま笑った。
四月の初め、インド中がホリイというお祭りになるのだ。水かけ祭りなのだそうだ。
「雪辱戦なり!」
お姉ちゃんは水鉄砲ライフルを持って立ち上がった。
雪辱戦? どういうことなのだ?
首を傾げたあたしに、ディップさんは三年前の写真を見せてくれた。
赤と黄色の絵の具を顔にたっぷり塗られたお姉ちゃんが、悔しそうにしてる写真だった。
ホリイでは絵の具を混ぜた水を掛けあう。油断してると顔にべったりと絵の具を塗られるのだ。
だからといって、最新式水鉄砲を取り寄せてリベンジしようというのか!
ホォリイ、ホォリイ、ホォリイ、ホォリイ!
ホォリイの掛け声で、町はお祭り騒ぎだ。
あたしとお姉ちゃん、それにディップさんも、背中に色水の入ったタンクを背負って、いざ出陣たのだ。
「戸部典子、いきまーす、なりぃ!」
お姉ちゃんは、いきなり水鉄砲ライフルを三連射して赤い水の弾丸を通行人に命中させた。
色水の入ったビニール袋を持ったインド服を着た青年が、あたしを目がけて走ってくる。あたしはライフルをぶっ放した。銃口からは水の塊が弾丸のように飛び出して、白いインド服を黄色に染めた。
インド服の青年は、びっくりしてた。
こんなアホな玩具作るのは、日本くらいしかないよね。
お姉ちゃんとディップさんは背中合わせになって水鉄砲ライフルで敵を仕留めている。
あたしたちはタンクの色水が無くなるまで、無敵の進軍を続けたのだ。
でも、タンクの水が無くなったあとは悲惨だった。
樹の上からバケツに入った色水をぶっかけられた。
背後から近付いてきた少年が、びしょ濡れになったあたしの顔に銀色の絵の具をべったり塗った。
銀色の顔になったあたしに、お姉ちゃんが言った。
「京子、地球へようこそなり。」
その隙に、少年はお姉ちゃんの顔にも赤い絵の具をべったり塗った。
陽が傾く頃には、町中の人はみんなカラフルになってた。
あたしたちの周りには人だかりができて、みんな水鉄砲ライフルに興味津々なのだ。
ライフルを手に取ったおじさんが、「売ってくれ」って言ってる。他の人も「いくらだ」って言ってるみたい。
お姉ちゃんはどんどん値を釣り上げて行って、オークションになった。
かなりの高値で落札されたみたいで、お姉ちゃんはそのお金をディップさんに渡してた。
これも学校の給食費になるのだ。
こういう遊びかたって、粋なのだよ。
ホリイが終わるとブッダ・ガヤは焼けるような暑さになった。
ブッダ・ガヤ滞在の最後の日、あたしはひとりでぶらぶら歩いて学校まで行った。
ペット・ボトルの水を飲みながら、あたしは汗をかいて歩いた。
ブッダ・ガヤは日本人の観光客も多く、昼間なら日本人の女の子が歩いていても平気なのだ。
学校では午後の授業が始まった頃だった。あたしは教室の最後尾に着席して授業を聞いた。
英語だったから半分くらいしか分からなかった。でも半分は分かる。英語に耳が慣れてきたんだ。
インドの人は普段はヒンディー語でしゃべってる。でも、長い間、イギリスの植民地だったから、英語も公用語なのだ。
インドは豊かな国だった。けれどイギリスはインドの富を収奪してイギリスのものにした。インドは貧しい国になった。
学校の授業は英語なのだ。英語で勉強しておくと英語の本が読めるようになる。日本みたいに何でもかんでも翻訳がある国は珍しいって、お姉ちゃんが言ってた。
インドでは学術的な本はみんな英語だ。だから、勉強しようと思うと絶対に英語が必要なのだ。
あたしは、英語をスルーして大学に合格したけど、特殊な例なんだろう。
そんなことを考えていたら、授業が終わった。
子どもたちは起立して、先生に挨拶した。
授業が終わると、サリイちゃんがトコトコ、あたしのところにやってきた。
そして、あたしの袖を引っ張るのだ。
あたしを何処かへ連れて行きたいみたいだ。
あたしは、サリイちゃんの後をついて野道を歩いた。
陽の光が大地を焼いて、道は地平線の向こうまで白く光っているように思えた。
道の傍らに根を張った大樹の下で、サリイちゃんが立ち止まった。
猛暑の中、木陰には、ほっとするような涼やかな風が吹いていた。
サリイちゃんが、あたしを振り返りながら指さしたのは一面の麦畑だった。
この景色を、あたしに見せたかったのか!
太陽の光を受けて、麦畑は金色に輝いている。
麦の穂は実り、風が穂を撫でるように吹き渡っていく。
風に揺れた金色の穂は、波のように遠くへ、遠くへと広がっていった。
大地は実りの季節を迎えていた。
あたしは、こんな風景を探していたのかも知れない。
人々は汗を流して麦を育てる。毎日の労働は大変だけど、満足して働いている。
麦が実り、人々はそれを収穫して、みんなが幸せに暮らしている。
誰もがお腹一杯食べられて、安心して眠ることができる。
そんな世の中なら、ほんとうにいいなって思う。
サリイちゃんの人生が、この麦の穂のようだったら、どんなにいいだろう。
あたしは両手を風のなかに差し出した。
そうすると、サリイちゃんも同じように小さな手を広げた。
風はあたしたちの手のひらの上を、吹き抜けていく。
あたしが笑顔になると、サリイちゃんも浅黒い顔に白い歯を覗かせた。
可愛らしい幸せな笑顔だった。
あたしとサリイちゃんは、にこにこして、いつまでも麦畑を眺めていた。
<了>
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