第34話 ひとのかたち
河原町店の売上は予想を十パーセント弱上回って推移した。
順調な滑り出しだ。
これで株式会社アゴラは年商三億円以上の規模となるだろう。
一年前の災いを、これほどまでの成功に導いたのは戸部社長である。
彼女がいなかったら、私たちは路頭に迷っていたのかも知れない。
戸部社長がインドに出発したのは、まだ桜のつぼみが硬い頃である。
関西空港へはみんなで見送りに行った。
戸部社長は初めての海外に緊張しているのか、ぎこちない表情で手を振って、イミグレーションの向こうへ消えた。
数日後の朝、出社してみると、さっそく戸部社長からのメールが届いていた。
添付された写真は、デリーの市場で撮ったもののようだ。インドの人々が行き交う路上で、戸部社長が少し怯えたように笑っている。
メールにはこうあった。
「インドはどこに行っても人が一杯なのだ。人口十三億で、もうすぐ中国も抜いてしまうのだ。若い人が多いのも日本と全然違う。すごいエネルギーを感じるのだ。
デリー空港に着いたのは深夜だったのだ。深夜にもかかわらず凄い人だった。みんな浅黒い肌をしていて怖かった。
ディップさんというお姉ちゃんの知り合いが迎えに来てくれた。ディップさんに会うまでは不安でしょうがなかったのだよ。あたしはお姉ちゃんの背中に隠れるようにしてた。
ディップさんは三十代の男の人で、流暢な関西弁を話した。日本に出稼ぎに来ていた時、憶えたって言ってた。
インドの人を最初は恐々見てたんだけど、二日くらいすると慣れてきた。インドの人たちはみんな優しい。たまには怖い人もいるけどね。
市場を歩いていたら、若い男の人に声をかけられた。ナンパじゃないのだよ。お腹がすいたから、何かおごって欲しいって言ってた。英語だったけどジェスチャーで分かった。
ディップさんが来て男の人を追い払った。あたしには、ちょっと可哀そうに思えた。
デリーは、高層ビルの建設ラッシュなのだ。ビルを作ってる人たちが忙しそうにしてる。スーツを着たビジネスマンが高層ビルで働いてる。
かと思ったら、下町には屋台みたいなお店が軒を連ねてて、ターバンを巻いた怖い顔のおじさんが座ってる。
人のかたちは様々なんだって思った。いろんな人がいる。
豊かな人も、貧しい人も必死で生きてますって顔してる。
こんなの日本にいたら絶対わからないよね。だから、インドに来てほんとうに良かったと思うのだ。」
人のかたち、か・・・
戸部社長が何を感じているのかは、私には知るすべがない。
だが、これだけは分かる。
戸部社長は感じて、知って、学んでいるのだ。
私は戸部社長のメールと写真を印刷して、一階の掲示板に貼りだした。
後藤工場長や石崎君、それに事務所にやってくるお客様にも見せることにしたのだ。
後藤工場長は、老眼鏡をかけてメールを読んでいる。
石崎君はちょっと羨ましそうなそうな顔をしている。
事務所に立ち寄った黒澤君は、うれしそうに写真を見つめている。
二通目のメールはアグラからだった。デリーから特急で二時間くらいのインドの古都だ。
写真は、タージマハールをバックに、典子さんと並んで写っているものだった。
白い大理石の巨大な建築物の前で、二人ともにこやかにしている。
一枚目の写真と比べると、戸部社長の緊張がほぐれてきたのがよく分かる。
「アグラに来たのだ。
ファティブルシークリとかタージマハールとか、インドの史跡巡りなのだよ。
史跡は素晴らしかったけど、いちばん感動したのはインドの子どもたちと話をしたことなのだ。
タージマハールの裏手には川が流れていて、そこから見るタージマハールの夕焼けがきれいだからって、ディップさんが連れて行ってくれたのだ。
あたしが、日本から持ってきたチョコチップクッキーを食べてたら、近くで遊んでた小学生くらいの子どもたちが寄ってきた。あたしがチョコチップクッキーをあげると、みんな笑顔になったんだよ。
あたしはジェスチャーとカタコトの英語で話しかけた。通じないところはお姉ちゃんがフォローしてくれた。やぱっり苦手意識を克服して英語も勉強しなくちゃって思ったのだ。外国の人と話するって、わくわくするのだ。
今夜はアグラに泊まるのだ。夜のタージマハールが見えるテントのホテルらしいのだ。庭にいっぱい大きなテントがあって、それが客室なのだそうだ。楽しみなのだ。
日本ではできない体験をいっぱいするのだよ。」
完全にインドに馴染んでるな。
日本ではできないこと、見られないものをたくさん吸収してくるといい。
三通目のメールには寝台列車の中で撮った写真が添えられていた。
「デリーから夜行列車の乗ったのだよ。屋根のうえも人が乗ってるんだよ。びっくりした。
寝台列車なんて初めての経験なのだ。
明日の朝にはバラナシに着くのだ。ガンジス川が流れる街なんだそうだ。ガイドブックを見たら、火葬場があって、人が火葬されてるのが見られるって書いてあった。なんか不安になってきたのだ。
食べ物はカレーばっかりで、ちょっと飽きてきた。ディップさんがバラナシに着いたら、日本人のお姉さんがやってる店があるって教えてくれた。
お茶漬けとか食べられのかなぁ、って言ったら、『チャーハンがあるよ』ってディップさんは答えた。
チャーハンって日本食だったのだよ。
でもインドのチャーハンは絶対食べたいのだ。」
四通目のメールはバラナシからだった。
旅は順調に進んでいるようだ。
「バラナシでの最初の朝は、夜明け前に起された。
お姉ちゃんは、
『夜明けのガンガーを見に行くなり』
って、言った。
ホテルから外に出ると、あたりはまだ暗かった。
川沿いの路地を歩いてガンガーの夜明けの見えるベスト・ポイントまで行ったのだ。
暗いから牛さんのうんこを踏みそうになったのだ。インドではどこでも牛さんがいるのだ。牛さんは神様の乗り物だから大切にされてるのだ。
奈良公園の鹿さんみたいなものなのかなぁ。
ガンガーに日が昇る。
それは、ものすごく感動的な風景だった。
日が昇ると、川にはたくさんのボートが浮かんでいた。
お姉ちゃんはボートに乗るって言った。
ボートでガンガーへ漕ぎだした。
朝日が水面に映って奇麗だった。
そしてボートは、火葬場に着いた。
火葬場の番人だというターバンを巻いたおじさんが、あたしたちを出迎えた。
なんか目がぎらぎらしていて、あたしは怖いと思った。
ターバンのおじさんは、あたしたちを小屋の中に案内した。
小屋の中には、ちいさなお婆ちゃんが座っていた。
ターバンのおじさんは言った。
『この老婆は、ここで死を待っている。』
あたしは凍り付いたのだ。
それから、おじさんは、続けた。
『老婆は、おまえのために祈っている』
私のために祈っているのか!
あたしも、お婆ちゃんに向かって手を合わせた。
それから、ターバンのおじさんは、言うのだよ。
『私たちは火葬のための薪を買うお金が必要なのだ。ぜひ寄付をして欲しい。』
やっぱり、お金だったんだね、って思って、あたしは首から下げた財布の中から千円札を取り出した。
そしたら、おじさんは首を横に振ったのだ。
あたし、なんか悪いことでもしたのか!
あたしは、びっくりしたんだけど、
『日本人は千円ではダメだ』
って、言われた。
『日本人はお金持ってるから、もっと出せ』って、言ってるのだよ。
頭の中がパニックになった。
五千円なのか? もしかして一万円とか・・・
横にいたお姉ちゃんが、にまにまして百ドル札を差し出した。
やっぱり一万円だったんだ!
『これが文化の違いなり。日本とインドでは寄付に関する文化が違うなり。日本では一円でも寄付は寄付なり。インドではお金持が貧しい人に施しをするのは義務みたいなものなり。これがインドの相互扶助システムなりよ。』
お姉ちゃんの言葉は勉強になった。
こういうことは、海外に行ってみないと分からないことなのだ。
あたしたちは、日本に来た外国人の振る舞いが変だって思うことがある。
でも、違うのだ。
あたしは千円出して、失礼だって思われた。
きっと、あたしは変な外国人だったんだろう。
どっちが正しいわけでも無いのだ。
この世界には色んな人がいて、たくさんの文化がある。
日本の文化とインドの文化は同じくらい価値があって、どちらが優れているかって話じゃない。
それぞれが、違っていてあたりまえだ。その違いを認めないと世界は理解できないのだ。
あたしたちが小屋を出ると、積み上げられた薪が燃えていた。炎の中で、人が焼かれるのを見た。
あたしは、そっと手を合わせた。」
私は顔をあげて、戸部社長の旅に思いを馳せた。
私のように歳をとってしまうと、よほどのことがないかぎり感動することもなくなった。
人は経験と知恵を得て、感動を忘れる。
若い感性だけが、動かすことができる心がある。
そして、その感動が、その人の思想を生むのだ。
私は戸部社長の若い心が羨ましく思われた。
私は、いつものようにメールと写真を印刷しようとしたが、今回のメールに添付されていたのは動画だった。
私は後藤工場長と石崎君を階下から呼び、三人で動画を見ることにした。
後藤工場長は、まるで孫の姿でも見るように目を細めている。
「おお、戸部社長が踊ってますわ。」
戸部社長が、ガンガーを背景に、手を広げてくるくる回っている。
しかし、石崎君は戸部社長の後ろを流れるガンガーを指さして、青い顔をしている。
楽しそうにはしゃく戸部社長の背後では、ガンガーの水面を、人の形をした何かが、どんぶらこ、どんぶらこと、流れて行ったのだった。
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