第33話 二十一歳の受験生
受験科目は国語と日本史と数学。
それぞれ百点づつの合計三百点なのだ。
社会人入試の合格ラインは百八十点台なんだけど、お兄ちゃんは余裕をもって二百点は取らなければダメだって言った。
去年の入試問題で模擬試験をやってみたら、国語と日本史が五十点くらい、得意の数学も六十点ちょっとだった。百六十点、合格ラインに届いていない。
ショックなのだ。高校時代には平均点の六十点は余裕だったのだ。
「高校卒業してから三年も経っとんのや。忘れてて当たり前。それに京都学院大学の入試は難問が多いので有名や。」
「特に日本史は引っ掛け問題が多いなり。あたしでもうかり間違ってしまうなりよ。」
やっぱり、甘くなかった。
時間があまり無いのだ。
数学は問題集を買ってきて、これを解くことで勘を取り戻すのだ。数学は得意だったはずだ。自信があるのだよ。
国語は古文がネックになった。本はたくさん読んできたから現代文の読解力には問題はないって、お兄ちゃんは言った。
でも、古文は苦手だ。
中学生の時、国語の特別授業で源氏物語の現代語訳を読んだ。感想文に「光源氏は女性の敵」って書いたら、先生からこっぴどく怒られた。それからは古文界隈には近づかないようにしてたのだ。
「文法からやり直すのは時間が無いな。」
お兄ちゃんはそう言って、あたしに古典の暗唱をするように命じた。
枕草子に徒然草、平家物語に奥の細道、その冒頭の一ページから二ページくらいを、まるまる暗唱するのだ。
「はるはあけぼの、ようようしろくなりゆくやまぎわ」
とか、
「つきひはひゃくたいのかかくにして、いきこうひともまたたびびとなり」
とか、片っ端から憶えた。
そうすると、なんとなく古文の意味が分かるようになってきた。
「読書、百遍にして、意おのずと通ず、ちゅうことや。」
日本史はお姉ちゃんの担当だ。
「引っ掛け問題に対応するには、歴史を暗記するだけじゃダメなり。歴史を理解する必要があるのだ。歴史の流れを、何故そうなったのかを考えながら追いかけるなり。」
歴史って暗記科目じゃないって、お姉ちゃんは前から言ってた。
例えば平安時代は、天皇が政治に深くかかわった時代と、摂関政治の貴族の時代と、末期の武士が台頭する時代を分けて考えるのだそうだ。
そういうことが分りだすと、歴史の流れが理解できるようになるのだ。
あたしはお姉ちゃんの歴史の解釈をいろいろ聞いた。高校の授業とはまるで違う日本史だった。
お姉ちゃんの授業は講釈師みたいで面白かった。こんな授業だったら、みんな歴史が楽しくなるのにね。
一月が終わる。もう試験まですぐだった。
二回目の模擬試験は広沢亭の客間でやった。
数学七十一点、国語六十五点、日本史六十三点、合計百九十九点なのだ。
合格ラインを超えた!
その日、お兄ちゃんとお姉ちゃんは祝杯をあげた。
あたしも、おこぼれをもらおうとしたのだけど、受験生がお酒飲んじゃダメだよね。
仕事はいい息抜きになった。
不真面目に仕事してたんじゃないよ。
けど、仕事の合間に、頭の中で古文の暗唱を繰り返したり、歴史の流れをおさらいしたりしてた。
河原町店の研修が始まって、みんなが忙しそうにしてた。
社会保険だとか雇用保険だとか、新しく入社するスタッフの書類を整えるのがあたしの仕事だった。
みんなが、受験生のあたしに気を使ってくれているのが分かった。
今は甘えるのだよ。その気持ちはありがたくいただくのだ。
二月の底冷えのする日が入学試験だった。
あたしはポケット・カイロをふところ抱いて試験に行った。
「実力を出せれば大丈夫だ。」
お兄ちゃんが言った。
「迷ったら、もう一回問題を読み直すなり。」
お姉ちゃんが言った。
久しぶりの教室は緊張したけど、落ち着いて問題を解いた。
びっくりするくらい、問題が易しく思われた。
勉強したかいがあったんだ。
精一杯やったって、あたしは思った。
受験が終わった。
これからは仕事もばりばりやるのだ。
河原町店に出かけていくと、みんなが真剣な表情でミーティングしてた。
あたしが社長だってわかると、みんなびっくりしてた。
そりゃそうだよね、受験生の社長なんてなかなか居ないよねー。
三月一日は合格発表。
河原町店のオープンと同じ日だったけど、あたしは京都学院大学のキャンパスにいた。
お兄ちゃんと、お姉ちゃんもついてきた。
合格者の受験番号が貼り出されるのを、あたしは固唾をのんで見守った。
「2687」それが、あたしの受験番号だ。
あたしは数字の羅列を目で追った。
あった! 合格だ!
お姉ちゃんがクラッカーを鳴らし。お兄ちゃんが紙吹雪を撒いた。
恥ずかしいのだよ。
この吉報を会社のみんなにも伝えるのだ。
あたしはバスに乗って河原町へと向かった。
河原町店はオープンしたところだった、あたしが着いたのがお昼時だったせいか行列ができていた。京都駅前店の評判が、河原町店にも伝わっているのだ。
阿部部長と黒澤さんが行列を眺めながら路上に立っている。
鯖寿司を運んできた石崎君もいた。
あたしは、満面の笑みで、近づいて行った。
阿部部長は、そんなあたしに「おめでとう」って言った。
この笑顔のせいで、合格がわかたのかと思ったら・・・
あたしの後ろで、お兄ちゃんとお姉ちゃんが、「合格」って書いた紙を掲げていたのだ。
恥ずかしいから、やめて欲しいのだ。
「おめでとう、おめでとう」
みんなが言う。
でもほんとうの勉強はこれからなのだ。
「亜里沙ちゃんからの伝言だ。」
黒澤さんが言った。
「大学に合格したら、夏休みには亜里沙ちゃんの中国の実家にご招待だそうだ。」
中国なのか。行ってみたいけど、仕事も勉強もあるのだよ。
「いや、若いうちに海外を見ておくのも大切な勉強だと思うよ。」
部長が言った。
「そうなり。ダイバーシティーを理解するには外国に行くに限るなり。日本の常識が全く通用しないことだってあるなりよ。そこから振り返って日本を見てみるなり。違う風景が見えるなり。」
「違う風景」
お姉ちゃんらしい言葉だ。そうだよね、これからはいろんな可能性にチャレンジしないとね。
「あたしも、そろそろ動き出すなり。本を書かないかって出版社から依頼がきてるのだ。取材旅行に行くなりよ。京子も来ないなりか?」
ええー、受験の次は海外なのか!
「行ってくるといいよ、戸部社長。この一年は大変だった。海外でリフレッシュしてくればいい。」
阿部部長はそう言ってくれた。
それにしても、お姉ちゃん、何所に行くのだ。
「インドなりよ。友達のディップが呼んでいるのだ。ディップはブッダ・ガヤで貧しい子どものための学校を経営しているなり。ディップの学校を取材したいなりよ。」
初めての海外旅行がインドなのか!
「インパクトがあるなりよ。」
インパクトがあり過ぎるのだ。
「戸部っち、インドへ行け。」
石崎君が言った。
「お土産はカレーでいいぞ。」
黒澤さんが言った。
「行ってらっしゃい。」
阿部部長が言った。
「決まりなりね。航空券を手配しておくなり。」
三月の終わり、あたしとお姉ちゃんは関西国際空港を飛び立った。
エアー・インディアはカレーの匂いの漂う飛行機だった。
七時間のフライトの末、あたしたちはデリー空港に到着した。
あたしは初めてインドの大地を踏んだ。
それは未知の世界への扉だった。
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