第10話 嵐の中で
朝から電話が鳴り止まない。
戸部京子君と杉山さんが対応しているが、返答ができずに困っている。
電話の内容は、売掛金が振り込まれていないということだ。
「経理に確認します。」
などという誤魔化しが通用するのは三度までだ。
何故、支払われていないのかと、相手は迫って来る。
とりあえず、電話は全て私に回してもらうことにした。私が対応するしかない。
といっても、「何故、支払いが無いのか?」という問いに、「踏み倒しました」と答えるわけにはいかない。
そこで相手は「いつ支払われるのか?」と訊いて来る。「すいません、月末まで待ってください」と答えるのだが、月末に支払う当てはない。
これは引き延ばし工作に過ぎない。私にやれることは引き延ばししかないのだ。
だが、戸部京子君には会社のキャッシュフローを操ってもらわなければならない。こんな電話対応に貴重な戦力を割くことはできない。
私は三本ある事務所の外線のうち二本を引きちぎった。これで外線電話は一本になる。
外線の対応は杉山さんが担当する。かかって来た電話を杉山さんは私につなぐ。私が電話中の時は「阿部は今、他の電話にかかっておりまして。終わりましたら、こちらからご連絡を差し上げます」と相手の名前と電話番号を訊く。そして、相手先と電話番号を書いたメモを私の机に置くのだ。
私の机の上は杉山さんのメモでいっぱいになっていった。
大手三社とつきあいの古い業者さんは既に説得済みだ。数千円から数万円の少額の業者さんには既に支払った。残るは十万円から三十万円程度の支払の三十社ほどだ。一社、平均二十万円と考えても、合わせると六百万円ほどになる。
ゴールデン・ウイークの売上が好調だったこともあり、今、会社には一千五百万円強のお金がある。これで支払ってしまいたいのはやまやまだが、これは大切な運転資金なのだ。
午前中は電話の嵐だったが、午後になると大阪の業者がやってきて私に面会を求めた。
こういう場合、私が逃げてはならない。迎え撃つくらいの気概が必要なのだ。
私は大阪の業者と応接室で応対した。ここでも私はのらりくらりと引き延ばし作戦に出た。業者はいつ支払ってくれるのかという問いに対する私の言質を取ろうとする。彼らもサラリーマンだ。会社に帰っていつ支払われるのかを報告しなくてはならない。
「なんとか月末にはお支払いできるようにしたいと思います。」
私は言葉の選び方に慎重になる。
「『したいと思います。』えーかげんな返事やな。そんな返事もって会社には帰れまへんわ。」
「いやー、しかし、今お答えできるのはここまでです。」
「三好水産さん、あんたんとこは毎日、売上が入ってきますやろ。金が無いとはいわせませんよ。」
「売上金を使こたら給料が払えんようになります。それだけはできません。」
「うちの売掛、二十五万でっせ。二十五万払たから給料が支払えんってことあります?」
「いや、一社払ろたら、みんな払わなあかんようになります。そやから、もうちょっと待ってください。」
のらり、くらり、相手をかわすのだ。
相手が根負けして、ようやく腰を上げた。こういう場合も、丁寧にお見送りする。
応接室を出てみると、階段から騒がしい声が聞こえてくる。二階の事務所に次から次へと業者さんが押し寄せてきているのだ。
二階の受付では戸部京子君と杉山さんが、六人の業者さんを応対していた。
皆、四十代から五十代くらいの男性営業マンである。彼らは売掛金を払えと言ってやってきているのだ。自然と語気が荒くなる。女性二人で対応するのは酷というものいだ。
だが二人とも、私の指示を守って知らぬ存ぜぬを決め込んでいる。それが業者さんをさらに苛つかせているのだ。
「社長をだせ!」
業者さんたちは口々に言う。
「社長は病気療養中なのだ。ここにはいないのだ。」
「なら責任者は誰や!」
「阿部部長なのだよ。けど今は来客中なのだよ。」
「そんなら、待たしてもらう。」
そう言って、業者さんたちは受付から動こうとしない。
そして、私が三階から階段を下りていくと、業者さんたちの視線がいっせいに私に集まった。
「早く来られた方から順番にお話しさせていただきますが。」
私が冷静な口調で言うと、一人の営業マンが前に進み出た。私は彼を三階の応接室に案内した。また根競べが始まる。
残りの業者さんを戸部京子君は三階の会議室に案内した。
「ここで待ってくださいなのだ。順番に阿部が応対しますのだ。」
人を食った話である。戸部京子君も苛ついているのだ。だから業者さんたちを何時間でも待たせるつもりなのだ。
一社、平均して約一時間半の商談である。根競べなのだからこれくらいは平気でかかるのだ。外が暗くなっても、会議室にはまだ三人ほどの業者さんが残されている。
いくら夜遅くなろうとも、相手が待つ限り私は応対しなければならないのだ。相手が根負けするまで。
翌日、業者さんの数は増え、翌々日はさらに増えた。三好水産が危ないという噂がたったからだ。三好水産は五月を乗り切ることなく倒産するという噂だ。
戸部京子君は会議室に入りきれない業者さんのために廊下に折り畳み椅子を並べた。
誰が考えても私が今日一日でさばききれる人数ではない。それは業者さんにもわかることだ。
「いつまで待たせる気や!」
業者さんの一人が怒り出して、戸部京子君の手首をつかんだ。
その手を振り払おうとした戸部京子君が転倒して肘を打った。
「暴力なのだ!」
戸部京子君はその場で警察に電話した。
太秦警察署から警察官が来ると、会議室の業者さんたちも騒然となった。
警察官は戸部京子君から事情を訊き、暴力をふるった業者さんは事情聴取のため警察署に連行された。
戸部京子君は本気だ。本気でなければ警察など呼べない。警察を呼んででも、私たちの前に立ちはだかる邪魔者を断固として排除しようとしているのだ。
この警察の件を私は後で聞いた。
やはり女性だけでこの事態に対応するのは危険だ。私は一階の工場から石崎君に応援をたのんだ。
翌日からは石崎君が受付に立つことになったのだ。
彼の役目は押し寄せる業者さんたちを大人しく何時間でも会議室で待たせることだ。普段はちゃらちゃらしたところのある若者だが、この時ばかりは会社の守りを任されて、がらでもない傲然とした表情で業者さんたちに対応した。
なかには喧嘩腰の業者さんもいる。石崎君は少々喧嘩早いところがあり、業者さんと言い合いになることもしばしばだったらしい。
怒った業者さんが机や椅子を蹴飛ばしたこともあった。
そうすると戸部京子君は間髪を入れず警察に電話する。
太秦警察署から警察官がやってきて、業者さんを連行していく。
次第に業者さんたちも大人しく待つようになり、ようやく私と話せたとしても、はっきりとした回答を得られないことを悟ったようだ。
その間、戸部京子君は会社のキャッシュフローを回し続けた。
店舗から業者さんへ発注がいくと、業者さんは請求書を送ってくる。発注が多すぎる場合は、戸部京子君が独自の判断で一割から二割をカットする。
店舗は多めの発注をしたがるのに対して、これを多少削ることで、こまめな発注になるようにするのだ。
二十五日の給料日を乗り切り、水光熱費をぎりぎりまで引っ張って支払い、なんとか三好水産のキャッシュフローは五月を乗り切ったのだ。
これで、三好水産五月倒産の噂は払拭された。
押しかけてきた業者さんのなかにも、
「ここは阿部部長を信じて待ちますわ。必ず払ろてくださいよ。」
と言ってくれる人が出始めた。
しかし、源泉徴収税や年金保険料は二か月滞納している。それだけで八百万円以上になる。おそらく、これから数か月は店舗を回すことだけにお金を使わなくてはならない。滞納はさらに増えるだろう。
キャッシュフロー経営によってなんとか生き延びたとしても、正常な状態ではないのだ。
松永重治もこのまま黙ってはいないだろう。三好水産が生き延びれば、すなはち松永にとっても価値のある会社ということになる。
私たちがやっていることは根本的な解決にはつながらないのかも知れない。
その日、夜の九時過ぎまで業者さんの応対をしていた私が二階の事務所に降りると、戸部京子君が残って仕事をしていた。
「もう九時だ、早く帰らないとお兄さんが心配するぞ。」
「大丈夫なのだ。今日は遅くなると言ってあるのだ。それより部長、経営シュミレーションを作っているのだ。このままやって、会社が正常な状態に戻るまで二年かかるのだ。二年の間に不測の事態がおこれば、もっとかかるかも知れないのだ。なんだか、気が遠くなってきたのだよ。」
戸部京子君は笑っていたが、笑いに力がなかった。それになんだか辛そうな表情をしている。
「大丈夫か?」
と言うと、
「大丈夫なのだよ」
と応えながら、彼女の上体がゆらりと崩れて、机の上に倒れた。額に手を当てると熱があるようだ。
私はタクシーを呼んで、戸部京子君を自宅まで送った。タクシーのなかで彼女は寝息をたてていた。
五月を乗り切ったことでほっとして、疲れが出たんだ。
戦力を失うのは辛いが、ここは休めと神様が彼女に言っているのだろう。
彼女の計算によると、これから二年以上もこうした不安定な経営を続けなくてはならないのだ。先は長い。
だから、今はゆっくり休め。戸部京子君。
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