第7話 敵情視察

 「銀行口座、凍結。」

 その言葉を聞いてから、体に力が入らなくなったのだ。

 仕事しようと思ってはいるんだけど、頭も動かなくなってしまった。

 阿部部長も机の上で両手を組んで宙を見ている。考え事をしてるのだ。


 六時になった。終業時間だ。あたしは帰り支度をした。

 阿部部長が、「お疲れさん!」って言った。

 その声が、悲しげに聞こえて、あたしは思わず言ってしまったのだ。

 「あたしにできることは何でもするのだよ。あたしは部長の味方なのだよ。」

 阿部部長は我に返ったように、にこりと笑って言った。

 「ありがとう、戸部京子君。ありがとう。」

 あたしも笑ったら、少し体の力が戻ってきた。

 「戸部京子君、君にお願いしたいのは、この土日ですっかり英気を蓄えることだ。月曜日は、また元気に出社して欲しい。」

 ちょっと涙が出そうになった。そうだ元気を取り戻さないと、あいつらに負けてしまうのだ。

 あたしは部長に「お疲れ様」を言って、事務所を出た。

 空は夕焼けに染められていた。

 自転車をこぐには、まだ体がふらふらしている。

 夕焼けのなか、あたしは大映通りを自転車を押して歩いた。行き交う人がみんな幸せそうに見えた。なんだか自分だけが幸せから取り残されているような気がした。

 「大魔神君、明日はお休みだから、また来週。」

 大魔神君は、いつでも胸を張っている。悪い奴は許さないぞって顔をしている。

 そうだ、あたしも負けないのだ。


 家まで自転車を押して帰ったら、いつものようにお兄ちゃんが庭掃除をしていた。

 「妹よ、勤労ご苦労さん。」

 お兄ちゃんはいつものように、いつもの言葉であたしを迎えた。

 でも、元気が無いことはすぐに気付かれてしまった。

 こういう時、お兄ちゃんはほっといてくれる。会社に怒鳴り込んだりもするけれど、基本はあたしの気持ちを分かってくれる。


 金曜日の広沢亭は凄く忙しい。小さな料亭だけど十二あるお座敷が全て埋まってしまう。女将と若女将は廊下を行ったり来たり。配膳係のパートさんも忙しく立ち働いている。お兄ちゃんも、お客様のお迎えのお手伝にかり出されてる。

 

 あたしは、お風呂で体を温めることにした。湯船の中でぼーっとしていると、嫌なことを忘れられるような気がした。


 晩御飯を食べようと居間に行くと、お兄ちゃんがいた。

 日本酒の一升瓶が、ちゃぶ台の上に鎮座しているのだ。

 お兄ちゃんが、ガラスのコップになみなみとお酒を注いで、あたしにぐいと差し出した。

 「呑め!」と言っているのだ。

 「くぴくぴくぴくぴ」、あたしはコップ酒を一気に飲み干した。

 おいしいのだー。

 時代劇のセリフに出てくる「五臓六腑に染みわたる」っていうのはこういうことだね。 

 元気の無いあたしをお酒で励まそうというお兄ちゃんの心憎い気遣に、あたしは豪快な飲みっぷりで応えたのだ。

 さすがの兄貴も驚いているのだよ。

 これは丹波若宮酒造の綾小町なのだ。綾小町はすっきりした甘口のお酒で、香りもすごくいい。

 「ほう、分かるか。お前、唎酒ききざけもできるんかいな。」

 そう言ってお兄ちゃんは苦笑した。

 料理は鯛のお刺身なのだよ。お兄ちゃんが板場から、お客様に出さない部分をもらって来たみたいだ。鯛は春が美味しいのだ。春の鯛は脂が乗り具合が上品なのだ。「ぷちぷち」って噛み切ると旨味がはじけるのだ。

 うちは丹後の宮津から魚を仕入れている。鯛といえば明石の鯛が有名だけど、日本海の鯛もなかなかやるものなのだよ。

 お酒は体を暖かくする。心を軽くする。鯛のお刺身をおつまみに、くぴくぴ飲んでたら、お兄ちゃんに何もかも話していた。

 松永重治の事、浅野課長や下田主任のこと、銀行口座凍結の話もしたのだよ。

 お兄ちゃんはあたしの話を聞きながら、何度も頷いた。聞き役に徹していたのだ。

 あたしが、あらかた話終わると、お兄ちゃんはぽつりと言ったのだ。

 「お前の会社、危ないんちゃうか。まあええ、潰れたら就職先は俺に任しとけ。ええ会社、紹介したる。」

 ひどいのだ。あたしの気持なんか全然分かってないのだ。あたしはね、あいつらに負けるのが悔しいのだよ。阿部部長を助けたいのだよ。

 「酔ったにせよ、お前なかなか根性入ったこと言うな。」

 お兄ちゃんはそう言って笑った。

 酔ってるのだよ。酔って悪いか、なのだよ。

 こんなにお酒を飲んだのは初めてなのだ。そのおかげで元気が出てきたのだ。あいつらになんか絶対負けない自信がでてきたのだ。

 あいつらの悪口をつまみにお酒を飲んでいると、なんだかろれつが回らなくなってきた。

 「京子、お前、目ぇ据わっとるぞ。」

 据わって悪いか! 馬鹿兄貴。

 「悪くない。これがやけ酒や、酒の飲み方のひとつや。勉強になったやろ。」

 なるほろ、これがヤケザケなのか。ヤケザケは世界がぐるぐる回のだな。


 その後、トイレで吐いたのを憶えている。吐いてしまえば、すっきりして寝てしまった。

 翌朝、少し頭が痛い。二日酔いって、これかって思った。

 戸部家の家系はみんなお酒が強い。朝、気づいたんだけど、一升瓶が空になっていた。お兄ちゃんも飲んだけど、あたしも相当飲んだのだって、ちょっと反省した。

 


 その日は英気を蓄えることに集中した。昼から嵯峨野を散歩した。

 汗ばむほどの陽気のなか木陰を辿りながら歩いて、歩けば歩くほど元気が戻ってくるような気がした。

 ここはあたしと典子お姉ちゃんの遊び場だった。戦国武将ごっこ、懐かしいなぁ。

 「あたしは伊達政宗なり。京子は片倉小十郎なりよ!」

 「あたしは石田三成なり。京子は島左近なりよ!」

 あたしはいつもお姉ちゃんの家来だった。

 ある日、あたしが「お姫様」の役をやりたいって言ったとき、典子お姉ちゃんはすごく悲しそうな顔をした。

 それでも、典子お姉ちゃんはあたしを愛姫(めごひめ)にしてくれた。伊達政宗の自転車のうしろに乗せてくれたのだ。 

 

 散歩から帰ると、お兄ちゃんが言った。

 「出かけるぞ。」

 お兄ちゃんは、敵情視察に行こうと言っているのだ。松永商会のお店をのぞきに行くのだ。

 よく典子お姉ちゃんが言ってた。

 「敵を知り、己を知らば、百戦危うからずなりよ!」

 敵情視察、行くべしなのだよ。


 京都にいちばん近い松永商会の店舗は大阪の高槻市にある。高槻市は大阪と京都の中間にあるちょっとお洒落な街なのだ。

 阪急電車を降りると商店が軒を連ねる。どのお店も大阪の泥臭さが感じられない。たくさんの人が行き交っていたけど、大阪のコテコテ・ファッションじゃない。ここは大阪と言っても京都に近い感じだ。そういえば、高槻なんて街で電車を降りたのは初めてかも知れない。

 その商店街の中に、ひときわ泥臭く、コテコテの看板をあげた「居酒屋、半次郎」があった。これが松永の店だ。


 店内に入ると、お客さんはあたしたちだけだった。店内のBGMがJポップだっていうのも大阪らしい。

 あたしとお兄ちゃんはカウンターに陣取った。すぐに突き出しが出てきて、あたしたちは生ビールを注文した。

 突き出しは枝豆、冷凍ものだとすぐに分かった。業務スーパーで売ってるやつだ。

 メニューを一瞥したお兄ちゃんは、さっそく注文した。

 「鯛の刺身。」

 お兄ちゃん、鯛の刺身はゆうべいっぱい食べたのだ。あたしは他のものが食べたいのだ。

 「これは兄と妹の居酒屋デートやない。敵情視察や。まあ、勉強やと思て食うてみぃ。」

 出てきたのは、なんだかくすんだ色の鯛だった。勉強だからと一口食べてみた。なんか水っぽくて鯛の味がしない。

 「分かるか?」

 これは鯛じゃないのだよ。よく似ているけど何か別のものなのだ。

 「さすが我が妹や。旨い不味いだけでなく、これを偽物と見破ったのは大した舌や。」

 あたしたち兄弟は、年がら年中、うんざりするほど一流の懐石料理を食べてきた。本物ばっかり食べていると、偽物が自然に分かるようになるのだ。

 典子お姉ちゃんが呉服屋の丁稚の話をしてくれたことがある。

 呉服屋の丁稚は上等の反物しか触らせてもらえない。上等の反物ばかり触っていると、偽物や安物を見抜けるようになるのだという。

 だから若いうちは、小説でも映画でも一流のものに触れるべきだって典子お姉ちゃんは言うのだ。

 そんなことを思い出していると、お兄ちゃんが偽物の鯛の正体を教えてくれた。

 「これはな、ナイルテラピアちゅう奴ちゃ。鯛の代用魚や。安物の回転寿司の店なんかで使われとる。」

 聞いたことがあるのだ。これがナイルテラピアなのか? 三好水産のお寿司はこんなもの使ってないのだ。

 「この鯛の刺身、ひと皿で三百円や。この値段で出そう思たら、本物の鯛は使われへん。」

 分かったのだ。松永の店は激安居酒屋だったのだ。そういうのが流行った時期も確かにあった。けど、今は本物志向が時代の流れなのだ。


 お兄ちゃんが教えてくれた。居酒屋・半次郎、一号店は大阪のミナミにある激安居酒屋なのだそうだ。土地柄もあって今でも繁盛している。天王寺店や道頓堀店も好調らしい。特に道頓堀店は中国人観光客でいっぱいだそうだ。

 一時期は、激安ブームに乗って店舗を増やしてきたけれど、時代に取り残されてこんなガラガラのお店になった。

 「そういう事や。あそこの壁、見てみぃ。」

 そこには張り紙がしてあった。

 『長らくご愛顧いただきました居酒屋・半次郎、高槻店は今月末を以て閉店することとなりました。』

 松永は不採算店舗を閉店しようとしている。

 「損切り、ちゅう奴や。まあ、リストラやな。けどな、店を閉めるにも金がかかるんや。」

 松永商会と三好水産の再編成って、こういうことだったのか。

 松永は三好水産の五千万で損切りしようとしている。赤字の店を閉めてしまおうとしているのだ。

 そのうえで、「回転はんなり寿司」を手に入れようとしている。

 「これで敵が考えとることがわかったやろ。さあ、こんな店、早う出よ。この近くに旨いピザを食わせる店がある。」

 ピザなのか! ピザなんて長いこと食べてないのだ。それもイタリアンのお店の本物のピザだ。ピザという言葉だけでよだれがでてきた。

 あたしはお兄ちゃんにいそいそとついていった。

 ピザなのだよー、ピザ! ピザで元気を取り戻すのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る