第6話 銀行口座、凍結

 これは戸部京子君の言うように横領だ。

 だが、松永重治は既にM&Aの契約を交わしている。三好水産の社長だと名乗っても、それが嘘であるとは言い切れない。つまりはグレー・ゾーンなのだ。


 社長が会社のお金を持ちだして、勝手に使ったら社長と云えども横領なのだ。

社長はあくまで個人であり、会社は法人である。法人であるからには、社長と云う個人とは別人格なのだ。会社の財産は会社という法人のものであって、社長のものではない。

 これが理屈なのだが、世間には理屈が通じない社長が多い。会社の財産と自分の財産の区別がつかない経営者はたくさんいる。

 会社の経費で高級車を乗り回すくらいなら、まともなほうだ。案外、税金対策だったりする。

 いちばん困るのは、社員が懸命に働いて儲けたお金を、社長が怪しげなビジネスに投資したあげく、本業が疎かになり、やがて会社を傾けてしまうなどということである。こいいうことが実際にワンマン社長のご乱行で起こってしまうのだ。

 これは横領ではない。だが、横領に等しいと私は思う。だから、三好社長の無謀な計画を握りつぶすのが私の重要な仕事だったのだ。

 今回の松永重治の現金持ちだしは、横領と言っていい。 

 だが、これを刑事事件として訴えることは難しい。警察は民事不介入である。裁判を起こすとすれば民事裁判になる。法廷での長い争いになる。争っている間に会社は疲弊する。裁判に勝ったとしても、松永重治がお金を全部使ってしまっていたら、回収することはまず無理だ。


 松永重治を訴えるべきだと主張する戸部京子君に、私はこの世界の不条理を説明した。

 彼女は泣きそうな顔になった。

 悔しいのだ、悔しくて泣きそうになっているのだ。

 「なら、滋賀第一銀行の口座には三千万円近いお金が残っているのだ。それだけは取り返すのだ!」

 そうだな。戸部京子君の言うとおりだ。

 私は戸部京子君に、ネット・バンクで、残ったお金を他の口座に移せないかと訊いた。

 「振込パスワードが分からないのだ。これは数字四桁の番号だから、多分、浅野主任の頭の中にしかないのだよ。」

 万事休すか。

 しかし、それらしいパスワードを入力すれば、案外いけるんじゃないかと思った。

 「すまんが、戸部京子君、トライしてみてくれ。」

 「この振込パスワードは五回間違えると、口座が閉じてしまうのだよ。チャンスは五回しかないけど、あたしがやってもいいのか?」

 「頼む、私がやるよりも君の方が確かなはずだ。運を天に任せたと思ってやってくれ。」

 戸部京子君は眉毛をハの字にして困った顔になった。

 困った顔のまま浅野課長のパソコンに向かったのだ。

 「戸部京子君、気楽にやってくれ。失敗したとしても、向こうもネット・バンクが閉鎖になれば、あいつらもネットでの資金移動ができなくなるのだ。失敗してもイーブンだよ。」

 そう言うと、戸部京子君はいくぶん気が楽になったようだ。

 一回目は君島麻衣子の誕生日、「0628」だ。

 パスワードが違いますという表示が出た。

 次は浅野課長の誕生日だ。「0714」これも違う

 会社の創立記念日。「0518」ダメだ。

 三好社長の誕生日、「0423」違った。

 「もう、あと一回しかないのだ。」

 戸部京子君の声は悲鳴に近かった。

 だが最後の勝負、戸部京子君は「3443」を入力した。三好水産のごろ合わせだ。

 南無さん! 

 「ダメなのだ!」

 ネット・バンクの画面が赤くなり、振込機能の停止が表示された。

 杉山さんが明るい声で、戸部京子君を励ましている。

 「京子ちゃん、気にすることないよ。これであいつらもネット・バンク使えへんようになったんやし。結果オーライや!」

 だが、事務所の空気は凍り付いたままだった。


 三好水産にはもう一つの銀行口座がある。嵯峨野銀行の口座だ。

 ここには日々、各店の売り上げが入金される。ここからは本社や店舗の経費が支払われることになっている。水光熱費や店舗の家賃である。取引先への支払もこの口座からするのが決まりだ。食材の仕入れに対する支払いである。

 売上からこうした経費を差し引いた分を、滋賀第一銀行の口座に振り替える。滋賀第一銀行の口座からは社員の給与が支払われる。余ったお金はそのままプールされるのだ。

 先月も月末で締めて、二千万円近くの金額を振り替えたところだ。

 日々、嵯峨銀行の口座には売上は入って来る。

 けれど、キャッシュ・フローを回すためには、滋賀第一銀行の三千万が必要なのだ。


 杉山さんが思いついたように言った。

 「通帳を失くしたことにして、再発行してもろたらええんちゃうの。銀行印はこっちにあるんやし、銀行は『あかん』て言わへんのとちゃうか。」

 主婦の知恵、見事なり。

 この言葉を聞いて戸部京子君の顔がぱっと明るくなった。

 よし、明日朝一で、滋賀第一銀行京都支店へ乗り込もう。「しれっ」として、通帳の再発行をお願いする。それが部長としての役目だ。



 翌日、滋賀第一銀行の窓口で通帳の再発行を依頼した私は、図らずも銀行の応接室に通された。応接室では土田支店長が私を迎えた。

 「通帳、失くさはったんですか。困ったもんですな。」

 「お恥ずかしい話です。ちょっとした不注意でして。」

 「いやいや、こんなことで阿部部長に来店していただいて、びっくりしとるんです。このくらいなら下田主任のくらいでええんと違いますか?」

 土田支店長は何が言いたいのだろう。こちらの腹を探っているようだ。


 「そういえば、三好水産さんM&Aされたって小耳にはさみましたで。」

 なるほど、この噂は既に銀行筋の知るところとなっているのか。だが、「はい、そうですよ」と言うわけにはいかない。

 「いやいや、M&Aの話は進んでおりますが、まだ決定したわけでは無いんですよ。」

 「そうですか。そんならええんですけどね。」

 土田支店長はぶっきらぼうに言って、M&Aの話題をお終いにしてくれた。

  私は何食わぬ顔で通帳の再発行をお願いした。

 「それやったら、事務的な手続きですからさせてもらいますよ。いや、今日は阿部部長の顔が見れて嬉しんですわ。」

 土田支店長はにこやかにそういったが、腹の中は分からない。


 応接室のドアをノックする音がした。

 応接室に窓口係の女性が入ってきて、「通帳の再発行には三営業日ほどかかる」と私に告げた。今日は金曜日だから、来週の水曜日というわけだ。

 私はほっとして、滋賀第一銀行京都支店を後にした。



 会社に戻ると、戸部京子君と杉山さんが私の顔をまじまじと見ている。結果が気になるのだろう。

 私は暗い表情でため息をついた。すると戸部京子君の目が潤み出した。

 こりゃ、まずい。冗談はやめよう。

 私は右手の親指をグイと前に突き立てた。

 「よかったのだー。杉山さんのアイディアの勝利なのだ!」

 「これであいつらも、三好水産のお金に手を付けられへんようになったんやな。」

 二人は手に手を取って大喜びしている。こんな会社だけれど、愛してくれているのが私には面映ゆくもあった。



 これで、三好水産の当面の運転資金は確保できた。

 そう糠喜びしたのも、つかの間だった。

 午後の三時過ぎに、土田支店長から電話があった。

 「阿部部長が帰らはった後に、午後からもう一組お客さんがありましてな。松永重治いう人で、三好水産の代表取締役の名刺を置いていかはったんですわ。」

 私は、とぼけた口調で答えた。

 「松永さんね、うちをM&Aするという話でしたが、資金が足りないそうで話は無かったことになってます。勝手にうちの社長の名刺作って、そこらでホラ噴きまくってるという噂は聞いたことがありますけど、ほんまでしたか。」

 私は言葉に驚きと怒りを込めた。ここは芝居だ、あくまで私は知らないことにする。

 登記簿の上では三好水産の社長は三好善太郎のままなのだ。

 私は「何なら登記簿取ってみたらわかりますわ」と強気で答えたのだ。


 「何を言うてはりますのや、松永さんは浅野課長と下田主任と一緒に来店されたんですよ。これ、どういうことですか?」

 さすがの私も答えに窮した。

 何も言えない、言う言葉が見つからない。

 電話口で土田支店長が話す言葉を私はただ聞いている事しかできなかった。

 「通帳も浅野課長が保管してるゆうことですから、再発行はできませんな。それから、三好水産さんの問題がはっきりするまで、口座は凍結させてもらいます。」

 戸部京子君と杉山さんが、私が電話している耳元まで近づいて電話の声を聞いていた。

 「銀行口座、凍結。」

 その言葉は二人も聴いたはずだ。

 「なんちゅう奴や。滋賀第一銀行は中小企業の味方やなかったか!」

 怒り心頭の杉山さんの隣で、戸部京子君が現実から取り残されたように薄笑いを浮かべている。

 そうだ、こんなことは普通では起こりえないのだ。

 だが、土屋支店長にも彼なりの理屈がある。

 それは、銀行マンの理屈、いや、金貸しの理屈だ。

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