第25話 人類の課題

 あたしは和田店長の件を忘れることにした。

 忘れることにはしたのだけど、ときどき胸の中が苦しくなる。

 差別主義者は許されないけど、和田店長はほんとうにそんな酷い人なんだろうか。

 亜里沙ちゃんや青木さんは、確かに仕事ができる。和田店長にはプレッシャーがあったはずだ。だからといって憎む対象を間違えってしまったということなのか。

 会社の帰り、自転車に上であれやこれや考えたのだけど、あたしには知らないことが多すぎる、分からないことがたくさんある。


 でも今日は、月曜日なのだ。

 家ではお母さんがハンバーグを作って待っているのだ。

 鬱陶しい顔は見せられないのだよ。

 ハンバーグはいつもの味だけど、家族そろって食べるご飯は美味しい。

 夕食の片づけが終わると、あたしはお母さんとおしゃべりする。

 「あんたが社長で、大丈夫なんか?」

 お母さんは冗談めかして何度も言う。

 「大丈夫じゃないけど、何とかなってる」って、あたしは答えた。

 お兄ちゃんがあたしをチラチラ見てる。

 あたしが何かを抱え込んでいることを見抜いているみたいだ。

 そうだ、お兄ちゃんなら物知りだし、あたしの分からないことを教えてくれるかもしれない。

 今日は家族団らんだから明日にするけどね。



 翌日の火曜日は、まかないのてんぷらをおかずに、お兄ちゃんと二人で夕食をとった。

 お兄ちゃんはてんぷらを肴にお酒飲んでる。

 「甘鯛ぐじのてんぷらかいな、秋やねー。それにしても賄にしては豪勢やな。」

 甘鯛のアラのてんぷらなのだよ。でも美味しいのだ。

 「京子、おまえこのところ元気ないみたいやな。」

 やっぱり見抜かれてる。

 あたしは、湯飲みをお兄ちゃんの前に差し出した。

 「酒が欲しいんか?」

 あたしはコクリとうなずいた。

 お酒を「くぴっ」と飲むと、お兄ちゃんに話す勇気がわいてきた。

 

 あたしは和田店長のいきさつを話した。

 「うーん、それはルサンチマンやな。」

 るさんちまん? 

 初めて聞いた言葉なのだ。それはウルトラマンの親戚か何かなのか?

 「あはは、ちゃうちゃう。ルサンチマンというのは弱者が強者に対して抱く恨み辛みみたいなもんや。大学くらいしかこんな言葉使わへんから聞いたことないかも知れんけど、まぁ、社会に対する怒りがねじくれたようなもんや。」

 あたしは、「へー」って言った。

 やっぱり、あたしは何にも知らなかった。

 「順番に説明しよか。まずはグローバリゼーションというのを理解しとかなあかん。世界の経済がひとつになるいうことや。」

 ぐろーばりぜーしょん、は知ってる。ニュースなんかでもときどき聞く言葉だ。

 そして、お兄ちゃんは言うのだ。


 世界中でモノや知識の行き来が激しくなると、世界中で競争が始まる。

 例えばここにあるボールペンは中国製や。四十年くらい前は、日本人は日本製のボールペンを使っていた。

 中国が発展すると労働力の安い中国がボールペンを作るようになった。もちろん、労働力の高い日本製よりもコストが安いし売値も安い。そううなるとボールペンの製造業は中国に行ってしまう。日本のボールペン製造業は潰れる。


 日本は賃金が高い。中国は安い。けれど、ボールペンを作る労働者の能力に大きな差はない。中国とガチンコで戦うには日本人の賃金を下げなければ勝負にならない。

 「でも、日本人にしかできない仕事もあるはずなのだ。」

 あたしは反論した。

 「そんなもんを無くすのがグローバリゼーションなんや。日本人も中国人も同じ人間や。同じ人間が同じ労働をしてるのに賃金が十倍ほど違うんや。これ、理屈で考えたらおかしいとは思わへんか?」

 確かに、そうだ。日本人も中国人も同じ人間だ。同じだけ働けば、同じお給料をもらうのが当然だ。

 それに、今の中国はパソコンやスマホだって作ってる。最先端の製品もみんな中国製だ。


 お兄ちゃんは続けた。

 昔は日本は経済大国で、中国は共産主義の貧しい国だった。日本人に生まれただけで豊かな生活ができた。

 ところが今は違う。中国で改革開放政策が始まり資本主義を導入した。

 中国は日本をたちまち追い抜いて世界で二番目の経済大国になった。

 日本国内では格差社会が広がってるなんていうけど、日本と中国の格差は縮まったんや。

 そして、世界中の国の格差もこれからどんどん縮まっていく。

 中国の次にはインドがものすごい勢いで経済発展してるし、東南アジアだって負けてはいない。世界の国々がどんどん平等になっていく。

 けれど、国内では格差が広がる。この格差が能力による格差なんや。

 「つまりや、優秀な日本人がおって、優秀やない日本人がいる。中国人も韓国人もインド人もあらへん。アホの日本人と賢い中国人やったら、勝負は見えるはずや。」

 お兄ちゃんの言葉に、あたしはたじろいだ。

 世界は平等になるけど、能力の差で格差が広がる。


 和田店長は努力に努力を重ねて店長になった。

 けれど、亜里沙ちゃんや青木さんが突然現れて、自分よりも仕事ができるのを自覚した。

 亜里沙ちゃんは中国から帰化した日本人。青木さんは韓国の血を引いている。和田店長の怒りがヘイト発言にすり替わった。これがルサンチマンだ。

 和田店長の事件、そのままだ。

 あれはグローバリゼーションの縮図だったのか?

 「そうやな、グローバリゼーションの世界では日本人かどうかなんて関係ない。誰もひとりの人間として競争せなあかん。けど、そんな単純なものでもない。」


 「何が平等なのか?」と、お兄ちゃんは言った。


 お兄ちゃんも昔考えたことがあるそうだ。

 誰もが同じ給料だったら競争して能力を上げようなんて思わない。

 共産主義国家は、これをやろうとしたが、努力や結果に対するインセンティブを認めないと、経済は落ち込んでしまう。

 生産性の低い共産主義国家は、資本主義国家の後塵を拝すこととなった。

 そして、ロシアも中国も、今は資本主義を採用するようになった。


 江戸時代の日本は門閥というのがあって、武士の子は武士になり、百姓の子は百姓だった。こういう世の中は決して平等ではない。けれど今の社会のような激しい競争はなかった。

 明治になると四民平等となり平等な社会になった。誰もが平等に競争できる社会だ。百姓の家に生まれても、実力次第でのし上がることができるようになった。

 「福沢諭吉の『天は人の上に人を作らず』というのはそういう意味や。」

 そうだったのか? 

 あたしは驚いた。福沢諭吉の言葉は学校で習ったけど、そんな意味だったのか。

 「せや、勉強した者は裕福になり、勉強せえへんかったら貧乏になると、福沢諭吉翁は言うとんのや。だから、この本のタイトルは『学問のススメ』なんや。武士だろうが百姓だろうが、勉強した者が勝ちやと言うとんのや。」


 それは黒澤さんの能力主義なのか?

 「そうやな、黒澤の姉さんの考え方は福沢に近いかも知れん。姉さんは平等主義者やからな。」

 黒澤さんが平等主義者なのか! これにもびっくりした。

 「人は平等だからこそ実力を競い合えるんや。身分が決まっていたら、下の者は上の者に絶対勝てへん。能力主義ちゅうのはな、人が平等で無いと成立せんのや。」

 黒澤さんは能力主義者だと思っていた。けど、お兄ちゃんの話を聞いて、黒澤さんの根底には平等があることに気が付いた。

 

 「ただな、黒澤の姉さんは、ひとつ間違っている。」

 何が間違ってるのだ?

 「人間は不平等に生まれついとんのや。努力すれば能力が手に入るなら話は簡単や。黒澤の姉さんの説も間違っとらん。けど、必ずしもそうや無い。これが不条理なんや。」

 不条理。なんか難しい言葉だ。

 けど、分かる。同じように努力しても、報われる人と報われない人がいる。

 「不条理は能力だけやない。能力で勝ち負けが決まるんなら簡単や。例えば社会的な成功者がいて何億円も稼いだとする。けどな、この成功者の能力が飛びぬけて高いわけでもない。成功するのは運が必要や。運も能力のうちかも知れんけど、これも不条理や。」

 運の話は阿部部長も言ってた。三好社長が成功したのは運が強かったからだって。

 そう考えると、不条理の意味が少し分かったような気がした。

 世の中には、理屈で割り切れないことがたくさんある。

 気の遠くなるような複雑な話だとあたしは思った。


 「この世界が不条理に満ち満ちてるのは、百歩譲って仕方がないとしよう。いちばん危険なんは、この格差が世代的に固定されることや。親が金持ちやったら、子どもは英才教育を受けてまた金持ちになる。貧乏人の子はいつまでたっても貧乏人のまま、ちゅうことになる。これが何世代も繰り返えされたら階級が出来上がってしまうのや。」

 そうか、みんなが平等だから自由な競争ができるのに、競争の勝者が何もかも独占してしまう可能性もあるのだ。

 それが何世代も積み重なれば、江戸時代のように身分ができてしまうかも知れない。



 「この間読んだ本によると、人間の能力のかなり大きな部分が遺伝によって決まってしまうと書いてあった。特に知能指数の遺伝確率は八十パーセント以上だそうや。」

 能力が生まれる前に決まっているとしたら、それで人を区別するのは差別なんじゃないのかな?

 「そこは難しい。能力差を否定してしまうと、努力や能力によるインセンティブも否定することになる。能力による対価が発生しない場合、人は努力しない。学校の入学試験も同じや。能力差を否定するなら、入りたい人は誰でも東大に入れることになる。能力に対する差別をどう解消するかは、人類のこれからの課題だ。」

 

 人類の課題だったのか!

 そりゃ、あたし程度が扱える問題じゃないよねー。

 悩んで損した!


 「それでもな、同じ両親から生まれたお兄ちゃんと京子は八十パーセントの確率で同じような知能指数になるらしい。」

 あたしとお兄ちゃんが同じ知能指数なのか? 

 「あくまで可能性が高いということや。けどな、お兄ちゃんには分かとるのや。お前の能力は高い。」

 前に黒澤さんにも同じことを言われたのだ。


 「そこでや、京子。おまえはその高い能力を何のために使う?」

 あたしは間髪を入れずに答えた。

 「みんなのため!」

 お兄ちゃんは嬉しそうに、お酒の入った湯のみを持ちあげた。

 「乾杯や、京子!」

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