第24話 差別主義者
その朝、黒澤君は西陣の本社に出勤した。
私と戸部社長,そして黒澤君の三人は、昨日、京都駅前店で起こった事件の善後策を話し合った。
黒澤君は和田君を懲戒解雇にすべきだと言った。スタッフに対して差別的な発言をしたばかりでなく、包丁を投げつけた。これは暴力だというのだ。
戸部社長は黒澤君の意見にうなずきながらも、和田店長にもう一度チャンスを与えるべきだという。
黒澤君はカバンの中からタブレットを取り出し、私たちに見せた。
それはSNSのツブヤイターの画面だった。
「この『京都の自由戦士』というのが和田店長のアカウントです。」
ヘイトか・・・
そこには、中国人や韓国人に対する罵詈雑言が並んでいた。
戸部社長は悲しい目をしながら、それらの書き込みを眺めていた。
和田店長は
「最近のSNSではこういう発言をすると注目されます。いい気になってこんな書き込みを繰り返しているうちに自分を見失ったんでしょう。」
黒澤君は言った。
こういうヘイトがコンプレックスの反動であることは私にも想像がつく。
時代のせいだと言ってしまうには、こうしたヘイトの言葉は酷すぎる。
私は黒澤君の意見には一理があると思うのだが、店舗の移管を終えたばかりの京都駅前店でドラスティックな処分を行うことは、他の従業員の士気を削ぐだけでなく、求心力を失わせることになるのではないかと危惧した。
こんな事くらいでとは言わないが、これで京都駅前店の統治(ガバナンス)が崩壊したら元も子もない。
私の意見には黒澤君も同意せざるを得なかった。
「戸部社長、和田君は一か月の自宅謹慎と、店長職からの降格ということでどうだろう。」
「仕方がないのだ。でも、降格は和田店長のプライドを傷つけることになるのだ。」
戸部社長は、和田店長をかばいたいと思う気持ちを払拭できないようだ。
だが、和田店長がほんものの努力の人ならば、この失敗を乗り越えてくれるはずだ。
それに、ツブヤイターの差別発言に対しても心から反省してくれると信じよう。
私がそう言うと、戸部社長は笑顔を取り戻した。
黒澤君も私の案に同意し、今回のような問題が起こったことは自分の責任だと頭を下げた。
新しいことを始めようとすれば、何らかの問題は起こる。私は開店当初の京都駅前店を思い出した。あの頃も問題は山積みだった。
それよりも、戸部社長、例の給与制度改革を一気に進める時ではないかね。
正社員への転換と昇給で、従業員の士気を一気に上げるのだ。
それから一週間、戸部社長が作った新人事制度を原案にして、私たちは給与二十パーセント・アップ政策のアウト・ラインを決定した。
細かいことは、実行する際に発生する様々な問題を解決しながら修正するのだ。その過程で、より多くの人の意見を糾合することができる。
見切り発車みたいだが、走りながら考えるというのも良い結果につながる。
戸部社長は「そだね」と言ってから、思い出したように補助金の話をした。
「正社員への転換には労働局の補助金が活用できたはずなのだ。」
補助金か、それは盲点だった。
戸部社長は机の中からキャリア・アップ補助金制度のパンフレットを取り出し、しばらくページをめくっていた。
私ものぞき込んではみたが、大雑把な説明しか書いていない。
「ネホリン、ハホリン、するのだ!」
戸部社長は労働局へ出向いて、根ほり葉ほり、補助金の情報を聞き出すつもりだ。
労働局のカウンターに腰を据えた戸部社長は、三時間にわたって質問を繰り返し、その全貌を把握した。
「ひとり正社員に転換すると、五十万円もらえるのだ!」
会社に帰ってきた戸部社長の顔が明るい。
ひとり五十万か。
おそらく十人以上は正社員に転換するから最低でも五百万だ。
これは凄い。会社の営業外利益になる。それに非課税だ!
偉そうに社長の椅子に座っている経営者の多くが、こういうことは考えつかないのだろうと私は思った。そんな経営者にできる社内改革は、ビジネス本に書いてあるようなチープな精神論を社員に強要することくらいだ。
京都駅前店の厨房には、「正社員転換希望者募集!」の張り紙が出た。
希望者は次々に応募し、非正規社員十六名が正社員に転換することになった。
京都駅前店のスタッフたちは、新しい会社の方針に喝采した。
そして、新人事制度の第二弾は賃金テーブルだ。
正社員は二十四の等級に分類され、等級に応じた賃金が支払われることになった。昇格は毎年九月。一年間の努力が賃金に反映されることになる。今回、正社員たちの給与は平均十パーセントのアップである。
それと同時に、パート社員の時給も改善された。パート社員も賃金テーブルによって等級に当てはめられ、正社員の給与から逆算した時給が決められた。同一労働、同一賃金の原則を定めたのだ。時給は平均で二十パーセント・アップとなった。
社員たちの喜ぶ顔が見えるようだ。
「税金で持っていかれるなら、このほうが絶対いいのだ。」
戸部社長は自信に満ちた表情を浮かべた。
黒澤君は人事制度改革の提案者が戸部社長だったことをスタッフたちに明かした。
社員の大多数は株式会社アゴラの代表取締役が戸部京子という女性だということは知っていても、その顔を未だ知らない。
戸部社長に一度、京都駅前店で社長の挨拶でもしたらどうかと言ったのだが、
「こんな小娘が社長ですって出てきたら、みんながっかりするのだ。」
そう言って、あくまで固辞する。
「それよりも、補助金の申請書類が大変なのだ。」
確かに・・・、役所の書類は手書きが多いからな。大変だったらまた手伝おうか? 何しろ八百万の仕事だ。
戸部社長は「大丈夫、あたしひとりでやったほうが早いのだ」と言った後、さらに抱負を語った。
「それから、来年はちゃんとしたボーナスが出せるようにしたいのだ。」
ああ、三好水産の頃は雀の涙ほどのボーナスしか出なかったからな。せいぜい稼いで社員に還元しよう。
正社員を中心とした人事制度によって、社員はそれぞれの責任を持たされた。
誰もがやる気をもって責任を果たそうとした。
その結果はお店のサービスに現れた。
サービスが良くなると、売上は自然に上昇した。お客様には肌でそれが分かるのだろう。
京都駅前店を訪れる度に感じるのは、店内の掃除が行き届きどんどん清潔になっていくことだ。それに、遅刻や無断欠勤は激減した。
こうなると、余分なスタッフを配置する必要がなくなった。
後のことになるのだが、私と戸部社長は驚愕することになる。
ひとりひとりが責任を持った結果、無駄なスタッフの配置を省いた効果で、売上に対する総人件費率が下がったのだ。
非正規社員を安い時給でこき使うことしか考えていない経済界のお偉方に見せてやりたいものだ。
衣食足りて礼節を知る。給料上がって責任を知る、というわけだ。
黒澤君は亜里沙ちゃんこと楊さんを新しい店長に抜擢した。
副店長は青木さんだ。
非正規社員がほとんどだった三好水産時代の京都駅前店では、店舗を取り仕切るほどの実力を持った社員は育たなかったのだ。
楊さんは、お得意の中国語を生かして中国語のポスターとメニューを作った。
ポスターの中央には大きな鯖寿司の写真が載っていて、その傍らには物欲しそうな顔のネコちゃんのイラストがついている。
このセンスはさすがに無いな、と私は思ったのだが、中国人観光客には好評のようだ。
これも後の話になるのだが、楊さんや青木さんの活躍で、京都駅前店が中国や韓国の旅行ガイドブックに掲載されることになるのだ。
店には長蛇の列ができるようになり、私たちは京都駅南口に新店舗の出店を考えることになる。
人事制度改革が一段落した頃、本社に一通の手紙が届いた。
開封した私は、それが和田店長からの退社届けであることに気づいた。
これはこれで仕方がないことなのかも知れない。
私は戸部社長に退社届を見せた。
「これが現実なのだね。和田店長は乗り越えられなかっただけなのだよ。」
戸部社長は静かに言って、退社届を私に返した。
私たちは現実の前に時として無力である。
だが、戸部社長には現実に屈することがあっても、決して理想を追いかけることを止めないでほしい。
私はそう祈るばかりだった。
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