第31話 リベラルアーツ
「勉強したい。大学に行きたい。」
あたしは今更、何を言っているんだろう。
けれど、その気持ちだけは確固としてあたしのなかにあるのだ。
会社からの帰り道、お姉ちゃんは言った。
「京都学院大学がいちばん近いし、お手頃なり。京都学院大学にするなり。」
京都学院大学は私立の名門大学だ。入学試験はそんなに簡単じゃないのだよ。
「大丈夫なりよ。大船に乗ったつもりであたしに任せるなり!」
家に到着すると、あたしは鶴の間に連れていかれた。大先生が宿泊している部屋だ。
「先生、失礼いたしますなり。」
お姉ちゃんは両膝をつき、両手で厳かにふすまを開けた。
「なんだ。かしこまって、どうしたんだ、戸部典子君。」
大先生は寝転んで本を読んでいた。
「今日は先生に折り入って頼みがあるなり。」
「君が私に頼みなんて、珍しいな。」
大先生は起き上がって胡坐をかいた。
「実は、妹の京子が大学に入りたいと言い出したなり。」
「ほう、社会に出てからでも学問をする気持ちは立派だ。」
大先生はあたしの方をむいて、褒めててくれた。
「どうせなら京都学院大学に入れたいのだ。先生の力でなんとかしてやって欲しいなり。」
お姉ちゃんは銀行の封筒を畳の上を滑らせるようにして、そっと大先生に差し出した。
「なんだ、これは。」
「五十万円入ってるなり。」
「だから、なんだと言ってるんだ。」
「五十万じゃ足りないなりか! 先生も欲張りなりね。」
お姉ちゃん、あたしを裏口入学させる気だったのか! そんなの、止めて欲しいのだ。
大先生はたしなめるようにお姉ちゃんに言った。
「妙なことを言うな。大学入試は神聖なものだ。学力以外の何物も合否を決めることはできないのだよ。」
「先生がちょこちょこっと口をきいてくれるだけでいいなり。」
「無理だ。」
「無理なりか?」
「できるわけないだろ、ばか。」
「仕方がないなり、先生は薄情な人なり。あたしが勉強教えて、先生を見返してやるなり。」
「まてまて、こう見えても私は大学で教鞭をとる身だ。相談に乗れることもあるはずだ。」
大先生はそう言って、あたしの思ってることを聞いてくれた。
能力や民族差別のこと、グローバリゼーションやダイバーシティのこと。
あたしは何ひとつ知らなかった。
悔しいとか、情けないとかじゃない。
ただ知りたいのだ。学びたいのだ。
あたしの話を聞き終わった大先生は、目を閉じてあたしに質問した。
「戸部京子君、君は何のために学問がしたいんだ?」
あっ、そんなことは考えもしなかった。
あたしが返事に困っていると、大先生は静かに語り始めた。
「学問をして出世したい。金持ちになりたい。人から褒められたい。そんな動機で学問をするつもりなら、いますぐ止めなさい。ただ、学びたい、学ばねばならぬ、そう思う心だけが人を学問に駆り立てる唯一の動機になるのだ。」
ドドーン!!
あたしは雷に打たれたような心地だった。
大先生の言葉があたしのなかの「学びたい」と思う気持ちを強く揺り動かした。
そして、先生は言ったのだ。
「戸部京子君、君の学びたいと思う気持ちは本物らしい。ようそこ、知の世界へ。」
大先生が笑っている。
「先生、にくいことを言うなりね。」
にまにま笑いのお姉ちゃんは、銀行の封筒をポケットにしまった。
大先生はあたしの学力についていくつか質問した。
あたしは高校時代の成績表を部屋から持ってきた。
英語の成績がいまひとつなのは分かってた。大学入試には必ず英語がある。
「私も大学入試にでは語学で苦しんだ。英語も中国語も読むことはできても、未だに会話はさっぱりだ。」
大先生はそう言って頭をかいた後、何かを思い出すように宙を見てから言った。
「京都学院大学には、社会人入試というのがあったはずだ。私もこの春から勤めるから、詳しくは知らないが、パンフレットに書いてあったぞ。」
大先生はカバンのなかから京都学院大学のパンフを取り出したのだ。
社会人入試には夜学は無い。社会人は昼間に大学に通う学生たちと共に学び、刺激しあう事が目的だって書いてあった。社会で経験を積んだ学生は高校から大学に進んだ人とは違うアドバンテージがある。
社会人入試の受験科目は英語・国語・数学・社会・理科の科目から得意な三科目で受験できる。
もう一つ、面接試験があるけどね。
「若干二十歳で年商二億の会社の社長だ。面接は怖くない。」
大先生は言い切った。
と、いう事は、苦手の英語をパスして、代わりに得意の数学が使えるのだ。
「文系なのに数ⅡBまで履修しているのか。成績もトップクラスだな。」
大先生の言葉にお姉ちゃんが嬉しそうに答えた。
「京子は戸部家で唯一、微分積分が理解できるなり。」
「うむ、サイン・コサイン・タンジェントというやつだな。私もウワサくらいは聞いたことがある。」
大先生は腕組みしながら静かに言った。本人はギャグのつもりみたいで、微かに笑ってる。
大先生は続けた。
「文系の学部を数学で受けるというのも妙なものだが、経済学なんかでは数学の素養が必要だ。数学も英語も歴史も、全部つながっているんだよ。これを『知の体系』と言うんだ。私は歴史学を学ぶ者だが、歴史も知の体系と言う大樹の枝葉に過ぎない。数学も物理も同じだ。しかし、その枝葉は知の体系と言う大いなる幹から枝分かれしているのだ。」
ゴゴゴゴゴゴ、グオー!
今度は突風があたしの心を吹き抜けて行った。
そうなのだ、どこからでもいいのだ。知識に触れることができれば、そこから勉強をしていけばいいのだ。
あたしのなかに、勉強への強い憧れがあることに改めて気づかされた。
さすがは大先生なのだ。勉強ができるだけじゃない。学問がどんなものか知り抜いているのだ。
あたしは大先生の言葉を待った。
「学問をすることは決していいことばかりではない。重荷を背負わなくてはならない、大学の学問は知識を習得することだけだはない。考えることが重要なのだ。考えても考えても答えが出るわけではない。それでも考え続ける。それが学問なのだ。」
答えが無いのか? じゃあ、どうすればいいのだ?
「考え続けるだけだよ。ある結論に達したとしても、それが必ずしも正しいとは言い切れない。一旦、結論を保留して考え続けねばならないんだ。だから学問は重荷でもあるんだ。ただ、知識に触れる喜びは、それ以上かも知れん。」
あたしの心を閉ざしていた厚い雲の間から光がさしてきたのだ。
そうなのだ、あたしは何かが知りたいのだ。それが何か分からないけど、学問をしていけば、いつかそれが分かるようになるのだ。
大学の勉強は中学や高校の勉強とは違うのだということが、あたしには理解できた。
「大学の学問は高校までの勉強とは違う。リベラル・アーツという言葉を知っているかね。」
りべらる・あーつ?
また知らない言葉だ。
あたしがぽかんとしていると、お姉ちゃんは大先生の右腕を取って関節技をかけたのだ。
「ぎやー!」
大先生はそのまま仰向けに倒れて畳をばんばん叩いている。
「痛い、痛い、やめろ! 戸部典子君!」
「これがリベラル・アーツなり。」
お姉ちゃん! それはマーシャル・アーツなのだ。総合格闘技なのだよ。
「じゃ、お約束のギャグはこれでお終いなのだ。」
お姉ちゃんは大先生の手を放した。
「なんてことするんだ!」
大先生はお怒りだけど、なんかこの二人の関係は漫才みたいなのだ。
中国という異国で、日本人として同じ歴史の研究をしてきた同志みたいな関係。あたしには、そんな関係がまぶしく見えた。
「リベラル・アーツ。」
大先生は説明してくれた。
中世のヨーロッパの話だ。
中世のヨーロッパでは知識は聖職者が独占していた。聖書はラテン語という昔の言葉で書かれていて、聖職者以外には読める者がなかった。
聖職者が「神はこうおっしゃっておられる。」と言えば、誰にも疑うことはできなかった。
中世が終わりに近づくと、大学ができるようになった。そこで学んだ学生はラテン語が読める。
聖職者が「神様はこうだ」と言っても、「聖書にはそんな事は書いてありません」って言い返せるようになった。
学問することによって、中世の宗教の鎖から解き放たれたのだ。
「つまり、リベラル・アーツというのは『自由のための技術』という意味だ」。
自由! 雲の切れ間から青空が見えた。
あたしは、青空のなかを飛んでいるような気分だ。
あたしたちは、社会の常識だと思ってることがある。理不尽だけど常識だから守らなければならないと思ってる。
でも、どうだろう。
あたしたちは中世のお坊さんの言葉を鵜呑みにしているだけじゃないのか。
どうして、世の中はそうなっているのか?
差別はどうして起こるのか?
多様性は差別を超えられるのだろうか?
グローバリゼーションはほんとうに、みんなを幸せにするのだろうか?
分からないことだらけの世の中だけど、ひとつひとつ勉強していくのだ。考えていくのだ。
「どうだい。学問の世界に足を踏み入れる覚悟はできたかな。」
先生の言葉に、あたしは大きくうなずいた。
「さて、それでは旨い物でも食おう。さっき板場にフグがあるのを見たぞ。」
先生は舌なめずりして言った。
「先生はあたしのはからいで特別安く泊めているなり。先生の宿泊料にはフグはついていないなり。」
「大丈夫だ、さっきの五十万があるだろう。」
「これはもう先生のものでは無いなりよ」
「このやろー、フグを食わせろ!」
また、漫才が始まった。
いいのだよ。あたしが奢るのだ。
がんばって勉強して、社会人入試に合格するのだー。
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