第4話 M&A
朝、出勤してきた戸部京子君が机の上にカバンを置くと、私のとろにやってきた。なんでも、昨日、広沢亭に宿泊したお客さんが鯖寿司を作るところを見学したいとのことだ。
広沢亭のお客さんなら身元も確かだ。
「いいだろう」と言うと、戸部京子君はスマホでお兄さんの貴志君に連絡した。
貴志君とお客さんは大魔神の前にいるという。
戸部貴志君とは面識がある。戸部京子君の入社当初、彼女が浅野課長と下田主任に虐められて泣いて早退したことがあった。貴志君は怒鳴り込んできたのだ。
「戸部京子の保護者です。妹が会社でイジメにあっていると聞いて抗議しに来ました。」
彼は冷静を装っていたが、顔が今にも火を噴きそうに赤くなっていた。
私は事情を説明して、
「妹さんは私の直属の部下にしますから、こんなことは今後はありません。」
と言った。
安心したように貴志君の赤い顔から怒りが冷めていった。
貴志君は私の大学の後輩だった。それだけで一気に意気投合した。
年甲斐もなく大学の応援歌を二人で歌った。
「グレート! グレート! 京都学院!」
貴志君が怒鳴り込みに行ったことを知った戸部京子君が、「お兄ちゃん、恥ずかしいからやめて欲しいのだ」と言って戻って来た時、ちょうど応援歌の熱唱中だった。
お客さんは戸部京子君と貴志君が案内しているようだ。私も一階の工場へ降りてみることにした。
お客さんはベージュのスーツを着た上品そうな老紳士だった。
「いちげんさんおことわり」の料理旅館に泊まるくらいだから、それなりの名士なのだろう。鯖寿司の製造過程を戸部京子君が説明している。
石崎君が試食用の鯖寿司を運んできた。また、アレをやるつもりだ。
「この二つの鯖寿司、違いが分かるっスか?」
鯖寿司を食べ終えた老紳士が首をひねっている。
「山本様、右のが作り立ての鯖寿司、左のが昨日作ったものなのだ。」
ほう、と言って、山本なる老紳士は戸部京子君に顔を向けた。
戸部京子君が得意げな顔をして鯖寿司について説明している。
「京都は山国だったので海の魚が手に入らなかったのだ。そこで魚を発酵させた『なれ寿司』にして保存食にしのだよ。保存の技術が進歩すると塩漬けにした鯖を若狭から運んでくるようになったのだ。このルートが有名な鯖街道なんだよ。こうして誕生したのが鯖を締めてお寿司にする鯖寿司なのだ。あたしの大好物なのだ!」
「うーむ、鯖寿司とは奥の深いものじゃのう。」
山本氏はそうつぶやいて、戸部京子君に微笑んだ。
彼女も頬いっぱいに鯖寿司をほおばりながら笑った。
「貴志君、いい勉強をさせてもらった。」
山本氏は貴志君にそう言ってから、私たちに礼を述べた。
「ほな、ご隠居、次行きまっせ!」
「わしはまだ隠居はしておらんのじゃと、何回も言ったではないか。」
「ここはね、ご隠居やないと雰囲気でませんのや。」
貴志君はそう言って、大映通りにご隠居を連れ出した。山本氏は上機嫌で手を振りながら帰って行った。
この後は、貴志君の案内で太秦広隆寺と蚕ノ社を回るそうだ。
お昼を過ぎると、三好マネジャーが出勤してくる。三好社長の奥さんである。社長とは大恋愛の末に結婚したと聞いている。背が低く華奢な体形のせいか存在感が薄い。いつも物憂げな表情を浮かべている。
給与計算や労務管理が彼女の受け持ちなのだが、おそらく私たち社員を監視する役割を与えられているのだろう。
三好社長は二年前、戸部京子君が入社する直前に脳梗塞で倒れた。
あの時は、会社に救急車が来た。対応が早かったため命に別状はなかったが、左半身が麻痺してしまった。
リハビリを繰り返し、ようやく杖を突いて歩くことができるようになったが、倒れる前のように毎日、会社に来ることはなくなった。時々、奥さんの車に乗せてもらって出社することはあるが、以前の精気はない。
三好社長は私を社長室に呼んで、何度も何度も同じことを言った。
「この会社を頼むで、阿部君、あんたしか任せられる者はおらへんのや。」
私への言葉と裏腹に、三好社長は浅野課長と下田主任へ頻繁に電話をかけて指示を与えているようだ。毎日、夜の九時過ぎに売上報告をさせ、その日、会社であったことを報告させている。
社長は私という存在を認めてくれている。共に回転寿司の店舗を一から立ち上げた同士だと思ってくれている。
その反面、私に対する嫉妬がある。
彼は成功者だ。私は一サラリーマンに過ぎない。
彼は働きながら夜学で学んだ。私は京都学院大学出身である。
彼は社長として権力を振るう。振るえば振るうほど私を支持する社員が増える。彼は会社の経営方針を決める。だが、無謀な計画は私が握りつぶしてしまう。
脳梗塞で倒れるまでは、三好社長にも自制心が働いていた。私が居なければ三好水産は動かないことを社長がいちばん理解していたからだ。
だが、今は違う。社長の私への妬みが怒りに変わっている。社長の濁った眼の中に、私はぞっとするような怒りを感じ取った。
もはや、昔の三好社長ではない。
三好夫妻には子どもがいない。つまり会社の後継者に血縁をもってくることができないのだ。
社長がこの会社の売却を考えているという話は以前から聞いていた。つまり三好社長が保有する三好水産の株式を第三者に譲渡するということだ。
売却代金は当然、株式の売却を行った三好社長のものになる。そのお金で楽隠居を決め込むということだ。
三好水産は第三者にM&A、つまり「合併と買収」されるのである。別の会社に吸収されるか、新しい経営者が乗り込んでくるのだ。会社が再編されるなか、私は不必要な人材になるかもしれない。
だが、三好水産の財務体質は決して良好とは言えない。
三年前に出店した清水店は売り上げが振るわず、一年で撤退となった。撤退を決めたのは私である。傷口が広がらないうちに撤退しようという私の案に、いちばん反対したのが三好社長である。
ようやく清水店の傷口が塞がり、戸部京子君の資料をもとに新しい経営計画を練るところだったのだ。
今、「デューデリジェンス」つまり財務調査をやられたら、この会社の財務上の弱点が分かってしまうことになるだろう。
そう、今の時点でM&Aはありえないと私は高をくくっていた。
ところがである。
この日、三好マネジャーが私に話があるという。私たちは三階の社長室で話をすることにした。
三好マネジャーの話は三好水産のM&Aに関するものだった。会社の売却先が決まったらしい。
昨日、浅野課長と下田主任が案内していた男が売却先の社長なのだそうだ。
松永重治。大阪で居酒屋チェーン十四店舗を経営する松永商会の代表取締役である。
会社の売却代金は一億円。自社ビル込みの価格である。
もちろん、三好水産が自社ビルを建てた際に受けた銀行融資の保証人は松永氏に引き継がれる。銀行からの借入は、まだ一億三前万円ほど残っている。これで三好社長は会社の借金の保証人から解放される。
三好社長には悪い話ではないだろう。しかし、この会社を一億円で買い取ろうというのは話が出来過ぎてはいないだろうか。
私は三好マネジャーの話を頷きながら聞いていたが、なにか判然としないものが残る。この会社を一億円もの大金で買おうとする松永氏とは何者だろうか。
翌日から、会社の売却に向けての作業が始まった。三好社長は杖を突いて出勤し、来客に対応している。
私は時々、社長室に呼ばれる。契約書や銀行の借用証書に実印を押すためである。
会社の実印は私が金庫の中に保管している。三好社長に渡してしまえば、いつ無謀な計画をスタートさせるかわからないからだ。
清水店撤退の時、社長の暴走を心配する三好マネジャーも賛成して、私が実印をもつことになった。
社長室に呼ばれる。実印を押す。もう、戻っていい、と言われる。
社長は、私に契約内容を悟られたくないようなのだ。そして、あの怒りに満ちた目で私を睨む。
何が進んでいるのか全く分からなかった。三好社長は税理士や弁護士に言われるままに実印を突いていることだけは確かだ。
社員たちは誰もこの動きを知らない。
いや、戸部京子君だけは何かただならぬものを感じているようだ。
これまで会社に顔を見せることが少なかった社長が毎日のように出社している。
来客がある度に、彼女はお茶を持っていく。社長室の雰囲気を知れば、これが通常ではないことが分かるはずだ。
そして、四月一日をもって、三好水産は松永商会の傘下に加わることになった。M&Aが完了したのだ。
売却代金の一億円は四月中に支払われることになるという。代金の支払いをもって、登記簿上の代表取締役を松永重治氏に書き換え、経営権とともに会社の実印とを引き渡すのだという。
やはり変だ。売却代金の支払いが無いまま、会社が松永氏に引き渡されることなど通常はありえないのだ。
後で知ることだが、これにはとんでもない裏があったのだ。
私たちはまだ、それを知るすべさえ持たない。
四月一日、桜のつぼみが膨らみかけたころ、松永重治は三好水産の社長の椅子に座った。
松永社長は浅野課長と下田主任を社長室に呼び、彼らは一日中、何事かを話していた。
密談と言っていい。
私は完全に蚊帳の外に置かれた。
「この会社は、いったいどうなっちゃうのかなぁ。」
戸部京子君が心配顔で窓の外の桜を見ている。
桜は今年も何事も無いかのように咲きほころうとしていた。
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