第19話 さよなら、大魔神君
Ⅹデー、京都駅前店を三好水産から株式会社アゴラに移管する日までのカウント・ダウンが始まったのだ。
部長はリースしているお店の物品の切り替えに漏れがないかチェックに忙しいみたいだし、後藤工場長と石崎君は鯖寿司の製造のかたわら、新しい西陣の事務所の整備に没頭している。
あたしも気合が入りまくりなのだけど、実はあまりやることが無いのだよ。
三好水産のキャッシュ・フローを回し続ける必要はもうない。
アゴラの経理資料は全部準備完了だ。
アゴラに移管する社員は全員、三好水産を辞めてアゴラに就職するのだけど、九月一日のⅩデーまでは人事の処理はできないのだ。
部長がやってるリース物件のチェックリストを作ってみたけど、さすが部長なのだ。あたしがダブル・チェックする必要なんて微塵もなかった。
何か仕事はありませんか? なのだ。
部長に尋ねたけれど、
「ここは社長らしく悠然と構えていればいいんだよ。」
という返事が返ってきた。
この頃から、あたしは「社長」って呼ばれるようになった。
なんか恥ずかしいやらむず痒いやらで、照れてしまうのだ。
あたしはずっと本社勤務だったから現場のことをあまり知らない。
黒澤さんにお願いして、京都駅前店のお手伝いをすることにした。皿洗いだけどね。
皿洗いって言っても、食洗器が自動的に洗ってくれる。お皿を食洗器に放り込むのがあたしの仕事だ。
黒澤さんは銀閣寺店の優秀なスタッフを京都駅前店に人事異動させた。
「この方が社長さんですかぁ。」
楊さんは、あたしを見てびっくりしたみたいだった。そりゃそうだよね。
「最近は中国や韓国からの観光客もものすごく増えているから、中国語のできるスタッフはこれから必要なのだ。頑張ってくださいね。」
あたしは楊さんに言った。
精一杯社長らしいことを言うべきだと思ったのだけど、やっぱり二十歳の小娘の言葉になんか説得力がないよね。
けれど楊さんはガッツ・ポーズで「はい、頑張ります!」って応えてくれた。
楊さんの日本語は完璧だ。黒澤さんと話するときも、ものすごい早口でしゃべる。アタマの回転が速いんだろうなって思う。
黒澤さんは楊さんのことを時々、「亜里沙ちゃん」って呼ぶ。楊さんの日本名なのだそうだ。日本に帰化したときに自分でつけたそうなんだけど、あとでキラキラ・ネームだと気づいて、こっぱずかしくなってしまった。今は中国名を通称にしてるのだ。
「あたしも亜里沙ちゃんって呼んでもいいですか?」
って、聞いたら、
「この名前で呼んでいいのは特に親しい友達だけよ。でも社長の頼みはことわれませんわ。」
って、言った。
元気いっぱいで魅力的な楊さんには、「亜里沙ちゃん」って名前が相応しいような気がした。
アゴラの新しい戦力であり、新しいお友達なのだ。
銀閣寺店から来たスタッフは、あと二人いる。
青木陽子さんは韓国語ができる。
在日韓国人のお父さんの影響で子どもの頃から日本語と韓国語のバイリンガルで育った。シングル・マザーで幼稚園のお子さんがいる。
高橋雄大君はバイトのお兄ちゃん。
バック・パックを背負って世界を巡り歩いた旅人なのだよ。年に一回は海外に行くための休みが欲しいからという理由で、正社員になることを断り続けた変わり者なのだそうだ。
黒澤さんは面白そうなスタッフを厳選したみたいだ。
銀閣寺店からの異動した三人のスタッフには既に会社移管の話は伝えてある。
けれど、京都駅前店のスタッフは未だ何も知らない。
黒澤さんは直前に伝えるつもりだという。
蟻の一穴から情報が漏れることが、いちばん怖いのだ。
だから、京都駅前店でのあたしは「社長」ではなくバイトのお姉ちゃんとして扱われた。
皿洗いだけど、ここから見るとお店のことがよくわかる。
優秀な人、ドジな人、さぼってる人、一所懸命な人、要領のいい人、悪い人・・・
そして人間関係も複雑だ。
Ⅹデー以降は黒澤さんが店長の上に立って京都駅前店をまとめ上げるのだそうだ。
八月三十一日、何もかも準備が整っていた。
京都駅前店の賃貸契約やリース契約は三好水産からアゴラに切り替わる。
閉店後の終礼で、黒澤さんはスタッフたちに説明した。
西陣の町屋事務所は活動を開始した。
一階の土間では鯖寿司の製造がはじまり、二階の座敷には机とパソコンが搬入済みなのだ。あたしたちも明日から西陣に移るのだ。
その夜はドキドキしていた。家に帰ってからも落ち着かないのだ。
貴志お兄ちゃんが一升瓶をあたしの前に置いた。
「前祝いや!」
嬉しいけど、明日は大切な日だから、飲みすぎには気を付けるのだよ。
あたしはゆっくりと舐めるようにしてお酒を飲んだ。
その日が来た。
あたしたちは大映通りの事務所に出勤した。これで、この事務所ともお別れになるのだ。
松永に三好水産を明け渡すのだ。
実印、銀行印、通帳、それから本社ビルの鍵一切を引き渡す。
パソコンのパスワードもすべて解除した。パソコンのなかの重要なデータはみんな消した。
松永の横領の証拠となるような資料はPDFにして保存した。
三好水産に残ったお金は、滞っていた業者さんへの支払いに回した。
もう、この会社には何も残っていない。残っているのは自社ビルと借金だけだ。典子お姉ちゃんが言ったように焦土になった。
九時半になると松永社長がやってきた。浅野課長と下田主任も一緒だ。
三人ともニヤニヤして、あたしたちを見下している。
「社長、ようやく三好水産が手に入りましたね。」
浅野課長がそう言い、下田主任が頷いた。松永は満足げな顔をしている。
あたしたちは三好水産に辞表を出した。
「ご苦労さん、部外者は出て行ってくれ。ここは松永商会の傘下になったんや。」
松永は辞表を受け取り、大笑いをはじめた。
でもね、心の中で笑っていたのはあたしたちのほうなのだ。
頬が緩むのをこらえて苦しかったのだ。
あたしたちは神妙な顔つきのまま三好水産を後にした。
自社ビルを出た瞬間から、誰もがにまにま顔になった。
大映通りを歩いて、自社ビルが遠くなると、みんなが声を上げて笑った。
九月の晴れ渡った空の下、大映通りを歩いて帷子辻の駅へ向かう。嵐電で北野白梅町まで出て、そこからはバスだ。
大映通り商店街のゲートの前で、あたしは大魔神君を見上げた。
「大魔神君、今まで見守ってくれてありがとう。これでお別れになるのだ。」
大魔神君は何も言わない。あたりまえだけど、怖い顔で宙を見ている。
大映通りに通ってもう二年と半年か・・・
「さよなら、大魔神君。」
あたしは心の中でつぶやいた。
「おーい、戸部京子君、電車が来るぞ!」
阿部部長の声だった。
感傷に浸って、置いて行かれるところだったのだ。
あたしは、小走りに走りながら大魔神君を振り返った。
「大魔神君、今日で大映通りは最後だけど、近所だからまた会いにくるね!」
大魔神君が遠ざかっていく。その姿が涙で滲んだ。
そして、あたしは新しい一歩を踏み出したのだ。
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