第18話 送り火
三好水産の屋上からは五山の送り火を見ることができる。
いちばん近いのが鳥居大文字、遠くに小さく見えるのが大文字、さらに遠くなるが、妙法と船形も見える。左大文字だけは山の裏側になるため残念ながら見えない。
毎年、この日の仕事が終わると、本社の社員一同が集まって大文字見物に興じる。
店舗は一年で最も忙しい一日だから、私たち本社スタッフは軽い罪悪感を感じながら京の風物詩を味わうことになるのだ。
今年は、こんなゴタゴタの最中だが、三好水産最後の大文字見物としゃれこむことにしたのだ。
戸部貴志君率いる「えくすぺんだぶるす」のみなさんもゲストとしてお呼びすることにした。
黒いTシャツの軍団が昼間からやってきて、鯖寿司工場を見学したり、私たちの相談に乗ってくれたりしている。誰もが何らかの知識をもったエキスパートたちなのだ。
弁護士や税理士だけでなく銀行員や公務員、大学の先生、現役の警察官もいる。貴志君の人脈の広さには驚かされるばかりだ。
戸部京子君は矢野税理士から決算書の読み方を習っている。彼女も決算書に対する知識はあるのだが、数字の羅列が何を意味しているのかを読み解くにはそれ以上の知識がいるのだ。
先日、矢野税理士は三好水産のお金がどこかに消えていることを指摘し、今日はその答えを持ってきたのだと私に言った。
戸部京子君も興味深そうな表情を浮かべている。
矢野税理士のまわりに「えくすぺんだぶるす」の面々が集まってきた。みんな推理小説の謎解きを楽しむかのようである。
「決算書を読み解けば、答えが書いてありましたよ。」
矢野税理士は机の上に三好水産の決算書五年分を並べた。
「決算書の付表、委託費一覧を見てください。業務委託費のなかに『株式会社近江商店』というのがあります。年間二千四百万円の委託費が支払われています。近江商店の代表取締役は三好明子、つまり三好社長の奥さんです。」
なるほど、三好社長も奥さんの三好マネジャーも会社から高額な給料を貰っている。そのうえで、委託費として奥さんが経営する会社に資金を流していたのか。
「中小企業ではよくあることですが、最近は実態の無い委託費の支払いは背任とみなされる場合があります。」
「これは横領じゃないのか?」
戸部京子君が矢野税理士に問うた。
「会社のお金を社長が自分のために使った場合が横領、自分以外の人の利益のために使ったら背任になります。この場合は社長自身でなく奥さんに利益が行っているから背任です。」
横山弁護士が言った。
「やりようによっては刑事で訴えられるな。」
「けど、年間二千四百万円の背任では京都府警はなかなか動いてくれまへん。」
現職刑事の多田さんの反応は現実的だ。
矢野税理士は微かに笑みを浮かべている。
そして得意げに彼の推理を展開し始めたのだ。
「三好社長と松永社長の間には何らかの密約があったと思われます。おそらく松永社長はこの委託費に気づいた。三好水産をM&Aしようとしていたのだから、デューデリジェンスくらいはしているはずです。年間で二千四百万円ですから五年で一億二千万です。おそらくは、それ以前からあったのでしょう。」
一億という数字に戸部京子君が怒りを覚えたようだ。
「会社のお金はみんなが一所懸命に働いて稼いだものなのだ。それを社長が勝手に自分のものにしてしまうのは不公平なのだ。」
「貴志君の妹さん、でもね、これはよくあることなんですよ。ただし、これが表面化すれば背任で刑事告訴することも可能なんです。警察がちゃんと取り上げてくれればね。」
「えくすぺんだぶるす」のみなさんは微妙な表情をしている。
いわば、これはグレー・ゾーンなのだ。
矢野税理士は続けた。
「松永はM&Aに必要な一億円を支払う代わりに、M&Aの後も三好社長の背任を不問に伏すことで交渉した。三好社長はこれを飲んだ。飲んだけれども納得することもできなかった。せめてもの反撃は、M&A自体を中途半端なままにすることだった。だから、会社の実印は阿部部長に預けたままにした。」
これが真相か。あまりにも下らなさすぎる。
こんなことで社員の生活が危機にさらされたのだ。
「松永も許せないけど、三好社長もひどいのだ。」
戸部京子君が泣きそうになっている。彼女にしてみれば自分が守ろうとしてきた会社がこんなにも無残な場所であったことが悲しいのだ。
そんななかで横山弁護士が発言した。
「背任かも知れんが、終わったことや。刑事告訴してもお金が返ってくる可能性は低い。三好水産を引き渡したあと、京都駅前店が移管されていることを知ったら、松永は反撃してくる可能性がある。それを封じておかんとな。」
横山弁護士は、三好水産がどこかから数千万円のお金を借りたことにして借用書と公正証書を作っておくべきだという。
これは裏技、そしてグレー・ゾーンだ。
公正証書を巻いた借用書は、三好水産の財産を差し押さえる効力がある。
松永が反撃してきたときは公正証書を発動して松永の資金を押さえてしまう。
敵の手を封じる作戦だ。
確かに、それくらいの防衛線は張っておくべきだろうという私に、誰もが頷いた。
「それは、ダメなのだ。」
戸部京子君だった。
「松永が三好水産の社長になっても河原町店や銀閣寺店のスタッフは残るのだ。三好水産があたしたちのせいで潰れたら、社員たちが職を失うのだ。あたしたちがやろうとしていることもひどいことなのだ。無茶苦茶なことなのだ。でも、みんなを守るためだから大儀があるのだ。こんなことをしたら、あたしたちも松永と同じになってしまうのだ!」
戸部京子君は目に涙をためている。
彼女は私たちの正義について話している。
そして社会の倫理について話している。
戸部京子君がいなかったら、私たちは一線を越えてしまうところだったかも知れない。株式会社アゴラはスタートの時点で過ちを犯してしまうところだったのだ。
戸部京子君を社長に選んだ私たちの選択は間違っていなかった。
横山弁護士が頭をかいて申し訳なさそうな顔をしている。
「貴志君の妹さん、あんたみたいな若い人に教えられるとは思わなんだ。ええ社長になるで、あんたは。」
貴志君が拍手すると、みんなが戸部京子君に拍手を送った。
「他者を手段としてだけでなく目的として扱え。カントもそう言うとる。これを株式会社アゴラの社是にしょう。」
貴志君、こんなところでカントを持ち出すか。だが、こういう学生気分をいつまでも持ち続けている貴志君が、私にはうらやましく思われた。
戸部京子君は、みんなの拍手に照れながら、姉の典子さんの言葉を私たちに伝えた。
「この戦いは守るための戦いなのだ。無用な殺生は避けるなり。」
「典子もええ事言うやないか。今日は大文字の日や。送り火や。お盆に殺生はいかん、いかんぞ。」
貴志君の下手な笠智衆の物まねにみんなが苦笑した。
夜の七時を過ぎると、日が落ちる。
私たちは屋上で大文字の点火を待った。
鯖寿司をほおばりながらビールだ。
ここからの大文字も見納めになる。
貴志君は夕刻に家に帰った。広沢亭の手伝いがあるらしい。宿泊のお客様に大文字の解説と見どころを説明する仕事があるらしい。
戸部京子君は「えくすぺんだぶるす」の人気者になったみたいだ。「貴志君の妹さん」と呼ばれていたのはさっきまで。今は「社長」と呼ばれて照れに照れている。
東の空の遠く、暗闇に大文字が浮かび上がった。
ここからでは小さな文字だったが、誰もが歓声をあげた。
続いて、松ヶ崎の「妙法」、西賀茂の「船形」が夜空を焦がす。
そして嵯峨鳥居元の「鳥居」が私たちの眼前に大きく赤く広がった。
戸部京子君の頬を炎が染めている
炎は、私たちの業を焼きつくすように燃え、消えた。
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