第13話 祇園囃子
会社を焼き尽くす。
あたしは恐ろしいことをしているのかも知れない。
でも、やると決めたんだから、あたしの怒りも悲しみも、全てを焼き尽くしてこそ事は成就するのだ。
だから、あたしは強くなるのだ。
なんて心に誓ったのだけど、あたしの仕事はキャッシュ・フローを回し続けることだけ。毎日、数字との戦いなのだ。
デベロッパーさんとの交渉は部長がやってる。京都地所との話し合いは部長の顔でなんとかうまくいきそうだ。リース物件の切り替えも問題はなさそうだし、モノの移管は思ったよりスムーズにいきそうだ。
黒沢さんからは毎日、部長に連絡が入る。黒澤さんの人事構想は優秀な人材を選りすぐって新しい会社に移管することに狙いを定めている。
人間を能力の優劣で区別する黒沢さんの考えに、あたしはあまり賛成できない。
黒沢さんはこれは差別ではないという。差別というのは国籍や生まれた家、身体的な特徴や障がい、それから自分ではどうしょうもない条件によって貶められることだと言った。
「能力は自分の力で勝ち取るものであって、優秀でないのは本人の努力が足りないからだ」
黒沢さんの言葉には一理あると思うのだ。
けれど、あたしは三人兄弟の末っ子に生まれて、貴司お兄ちゃんや典子お姉ちゃんみたいな才能に恵まれなかったと思ってる。人の能力は様々だけど生まれながらのものだと考えて、あたしは納得してきた。だから大学にも行きたくなかったし、行かなかったのだ。
そんなあたしを黒沢さんは優秀だと褒めてくれた。もっと能力が伸びるはずだと言ってくれた。あたしにはよく分からないけれど、もし、あたしが優秀ならその能力をみんなのために使う。
新しい会社に京都駅前店を移管するXデーは九月一日に決まった。もう三ヶ月もないのだ。それまでは三好水産をなんとか運営し、新しい会社の運転資金を確保しなければならない。
数字があたしの目の前で踊っているように見えた。
パソコンの前に座って、モニターの中の数字と会話するように仕事を進めていくのだ。そうすれば数字はいろいろなことを教えてくれる。
ひょっとしたら、これがあたしの才能なのかも知れない。
回転寿司は現金商売だから店の売り上げがそのまま会社の実績になる。今は梅雨だから売上げは芳しくない。
けれど梅雨が明ければ京都は祇園祭なのだ。観光客やお祭り見物の人たちが京都に押し寄せる。
それが終われば大文字焼きがある。大文字の日は年間で最高の売り上げが期待できる。そして九月からの京都は秋の観光シーズンに突入なのだよ。
これを考えると先は見えたって思うのだよ。
ただ、今の季節は売り上げが厳しい。もう少しだけ耐えるのだ。
あたしはそう言い聞かせてパソコンに向かう。
梅雨の晴れ間が気持ちいい。そんな日の午後、一通の郵便が届いた。社会保険事務所からの督促状だった。
そういえば、松永が会社を乗っ取りに来た日から、この会社の資金繰りがおかしくなって、年金保険料を払うどころじゃなかった。
督促状と共に呼出状も入っていた。滞納している保険料の支払い計画を持って来いというのだ。
「この会社はもうすぐ焼け野原になる。だから年金保険料はぶっとばしてしまうのだ。」
あたしがそう言うと、阿部部長にたしなめられた。
「払っていないこっちが悪いんだ。私と一緒に社会保険事務所に説明に伺おう。」
こうして、あたしと部長は社会保険事務所に出向いたのだ。
社会保険事務所の徴収課、要するに取り立て屋さんの三十代くらいの男性職員はあたしたちに同じ言葉を繰り返した。
「払ってもらわないと困ります。年金保険料は社会を支えているたいせつなお金なんです。」
このおじさんの言葉には説得力がない。
あたしが子供のころ、年金保険庁はみんなが収めた年金保険料をでたらめに扱って「消えた年金」が大きな問題になった。
年金保険庁は解体されて日本社会保険機構という特殊法人になった。年金を粗末に扱った年金保険庁の職員は、そのまま日本社会保険機構に移管されたから、何にも体質が変わっていない。
あたしだって、それくらいのことは知ってる。
あたしは新しい会社に連れていけないスタッフを気の毒に思っていたのだけど、こういう人たちを見ると、黒澤さんの言うように優れた人材だけを選ぶのが正解だと思えてきた。
あたしたちはおじさんの叱責の言葉を聞き流して、返済計画書を提出することで勘弁してもらった。
翌日、さっそく返済計画書を作った。もうすぐ焦土になる三好水産に計画もへったくれもない。
「えい! やー」で、でっちあげたのだ。
あたしは提出のため社会保険事務所に行った。徴収課のおじさんは計画書のコピーに受け取り印を押しただけで、それ以上は何も言われなかった。
社会保険事務所の帰りに、河原町店にいる黒澤さんに書類を届けに寄った。
黒澤さんからは阿部部長に渡してくれと封筒を預かった。
空はどんより曇っているけれど、雨が降る気配はなかった。あたしは河原町から嵐電の駅がある四条大宮まで歩くことにした。
新しい建物と古い町屋が混在する街角を縫うように歩くと、町屋の二階から
コンコンチキチン、コンチキチン
もう一カ月もすると祇園祭だから、祇園囃子のお稽古をしているのだ。
あたしは、祇園囃子のリズムに合わせて歩いた。
賑やかだけど、このお囃子はどこか物悲しい。
どこか遠くの知らない世界から聞こえてくるような気がする。
コンコンニチハ、コンニチハ
心のなかで歌うと、少し元気が出た。
コンコンチクショウ、コンチクショウ
あはは、コンチクショウなんて歌ってる。
あたしたちがどんな辛い思いをしていようが、どんな苦しい立場に追い込まれようが、季節は巡る。
そして季節が変われば人々もまた変わっていく。だから、明日は明るいと信じたいのだ。
この六月を乗り切れば、希望は祇園祭と共にやってくるはずだ。
大きな落ち込みの無いまま六月の売り上げは推移してくれた。これで最後の苦境を乗り切ることができるのだ。
あたしはほっとしてお給料の計算を始めた。
六月二十五日が給料日。これさえ支払ってしまえば後は祇園祭から大文字にかけて特需景気なのだ。あとは一気に新しい会社の立ち上げに邁進するのだ。
おっと忘れるところだった。嵯峨銀行の通帳記帳をやっとかなきゃ。
支払いにはネット・バンクを使っていて、銀行の窓口に行くことなんてほとんどない。けど、嵯峨銀行のネット・バンクは通帳記帳が百二十行以上未記入になると振込ができなくなるのだ。
あたしは曇り空の下、大映通りを歩いて帷子ノ辻の嵯峨銀行まで行った。
ここのATMはいつも空いている。
通帳をATMに差し込んで、機械が通帳に印字する音を聞く。百行くらいあるから長いのだ。
午後三時をまわっていたので窓口はすでに閉まっていて、ATMコーナーにはあたしひとりだった。
ぎいこ!
という音とともに通帳が吐き出された。
通帳を確認するあたしの目から、涙がこぼれだした。
涙はいつまでもいつまでも止まらなかった。
叫びたかった。
叫びたかったけど、あたしには涙を流すことしかできなかった。
ATMコーナーには何人かの人がやってきたけど、ATMの前で泣いているあたしを、誰もが見ないふりをして立ち去った。
通帳には「サシオサエ」の文字があった。
五百万円が社会保険事務所に差し押さえられていたのだ。
あたしが帰ってこないことを心配した阿部部長が迎えに来て、あたしは部長に取りすがって大声で泣いた。
「お給料が払えないのだ。もう終わりなのだ。」
部長は「大丈夫だ、大丈夫だ」と言ったけど、そんなはずはないのだ。それはあたしがいちばんよく知ってる。
後で聞いた話だけど、普通は返済計画書を出せば差し押さえはないのだそうだ。
ただ、三好水産には倒産の噂がつきまっとっていて、社会保険事務所はその噂から、あわてて差し押さえに踏み切ったのではないかと阿部部長は推測していた。
年金保険料は社会の為にたいせつなお金だというのは分かる。でも、会社を潰してしまっては元も子もないはずなのに。
そんな理屈を、あたしたちが言うべきじゃないかも知れないけどね。
あたしたちは、会社を潰して、新しくやり直そうとしていたのだから。
でも、それも終わりなのだ。
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※この小説に登場する日本社会保険機構及び社会保険事務所はフィクションであり、日本年金機構及び年金事務所とは一切関係がありません。しかし、似たような話はどこにであるのだよ。
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