第28話 オクトパシー
和田店長が西陣の事務所を訪れたのは十二月の声を聞いた頃だった。
紅葉は最盛期を迎え、観光客が京都へと押し寄せていた時期である。
和田店頭は憑き物が取れたように穏やかな顔をしていた。
私は和田君を再び正社員の列に加えた。京都駅前店に戻るのも気が引けるだろうから、本社の鯖寿司工場でしばらく働くように命じた。
「無理に雇っていただかなくても、しばらくバイトしてます。」
和田君はそう言ったが、我々は既に河原町店奪取に向けて動き出している。
それに、今のアゴラには一人くらい余剰人員を雇う余裕がある。
戸部貴志君は連日、事務所に顔を出している。
彼のネットワークは松永商会の現状を掴みつつあった。
松永商会は資金的に詰まり始めているという。
三好水産を手に入れたものの、京都駅前店は既に無く、会社に残されたお金もすべて業者さんへの支払いに回したので、残金はゼロに近い。
三好水産の財産と、京都駅前店の売上をあてにしていた松永社長には晴天の霹靂だっただろう。
河原町店を閉店するにしても資金が必要である。店内の備品はリースがほとんどだが、閉店するとなると店内を元の状態に回復しなければならない。これには、三百万円以上の資金が必要なはずだ。
私たちとしては、河原町店を現状のまま手に入れたいのだ。
原状回復してスケルトンになってしまえば、新しく店内を作り直すのに一千万以上のお金がかかる。
ただ、株式会社アゴラが河原町店を引き継ぐことを松永社長が知れば、それなりの引き渡し料を請求してくるのは目に見えている。
そこで、私たちは一計を案じた。
松永商会と第三者の間で、河原町店引継ぎの契約を結ばせるのだ。
松永社長としては原状回復の費用をかけずに店舗の撤退が可能になる。
そして私たちはこっそり、河原町店のデベロッパー、大家さんと交渉して河原町店の賃貸契約を結んでおく。
松永商会撤退のあと、第三者が河原町店を内装と備品ごとアゴラに引き渡すのだ。
第三者となるのは、株式会社イリスという会社だ。
矢野税理士の顧問先で、店舗の什器を扱う会社だ。
手数料は百万円強だが、安いものだ。
イリスは契約書を取り交わすだけで百万円の手数料が入るというわけだ。
根回しは進む。
この計画は「オクトパス作戦」と命名された。
例によって、戸部貴志君が名づけ親である。
河原町店が蛸薬師通にあることが作戦名の由来なのだ。
戸部社長はオクトパス作戦を略して、「オクトパシー」と呼び、誰もがこの略称を使うようになった。
そういえば、ゼロゼロセブンにそんな悪の組織が登場したな。
私が言うと、戸部社長は、
「今はダブルオーセブンって言うのだよ。」
と教えてくれた。
私のような昭和世代にはゼロゼロセブンのほうが馴染み深いのだ。
ショーン・コネリーのジェームス・ボンドなんて若い人は知らないのだろう。
あっ、「007、オクトパシー」はロジャー・ムーアだっけ。
和田店長は鯖寿司工場で手伝いをしながら、河原町店に関する会議には参加させた。
彼は本社が何をしているのかも知らなかったのだろう。次々に飛び交う意見と、交渉の進捗状況に目を丸くしていた。
こういうのも現場しか知らない和田店長には刺激的だろう。新しい体験は必ず今後の仕事の中に生きるはずだ。
社員を育てるのは会社の重要な仕事だ。「即戦力募集」などと言う求人が多いが、誰かが育てない限り戦力は生まれないのだ。アゴラでは戦力を育て、戦力は会社の財産なのだから大切に扱うのだ。
人は石垣、人は城。
武田信玄の遺訓を私は思い出した。
年明けの十五日に松永商会は河原町店を撤退する。
十六日から、引き続き河原町店をオープンさせることもできるのだが、戸部社長から異論が出た。
新しいスタッフを集めて、スタッフたちを教育する期間が無いというのだ。
確かにそうだ。
一月と二月は観光シーズンはオフになる。わずかな売上を確保するよりも、ここはじっくり構えて、スタッフを教育したほうがいい。
黒澤君の意見も同じだった。
現場は本社が思うほど簡単には動かない。
本社のスタッフもまた現場を知らないことが多い。
戸部社長は京都駅前店で皿洗いをしたことで、現場の空気を自分のものにしたようだ。
再オープンは、京都に春の観光シーズンが訪れる三月一日と決まった。
梅の花が咲くころ河原町店はアゴラの下で再び始動するのだ。
新しいスタッフを募集しなければならないが、アゴラが河原町店の求人を始めると、松永社長にオクトパシーがばれる可能性がある。
オクトパシーは秘密作戦なのだ。
戸部社長は、京都駅前店の求人をハーロー・ワークに提出した。
求人票には「京都市内での転勤があります。」という文言が載っていた。
なるほど、これで求人票に偽りはないことになる。
こういう知恵は誰にでもあるものではない。
私はいつも思うのだが、戸部社長もそろそろ自分の能力に気づいて欲しいものだ。
現状の河原町店スタッフは店長以下、かなりの人数が横領をしている。黒澤君も、その腐敗がどこまで進んでいるのか不明だという。
おそらくは社歴の浅い末端のパート社員には横領の毒に侵されていないだろうとの判断から、一月十六日以降に、何人かピックアップしたパート社員に電話をしてみる予定だ。
わずかでも三好水産に縁のあったスタッフの雇用を守りたいものだ。
私も戸部社長に影響されたのか、儲かるのか儲からないのかという尺度だけでなく、正しいかどうかという尺度を常に心に置くようになった。
「正しい」と「儲かる」は案外相性がいいのだということを、二十歳の女の子は教えてくれた。
少し早いが忘年会をしよう。
年末になるとお店が予約できないからな。
吉本のお婆さんに相談すると、
「鳥岩楼で鳥鍋なんかどうでっしゃろう。」
との答えが返ってきた。
西陣は西陣織で栄えた旦那衆の街だ。そんな街にはたくさんの名店が今も残っているのだ。
そうした老舗は宣伝もしない。ガイドブックにも載らない。ガイドブックに載っているお店は、お金を払って広告として雑誌に掲載されているに過ぎない。
京都の知る人ぞ知る名店は地元の人に聞くに限る。
鳥岩楼の座敷を借りて大宴会だ。
と、いっても、本社は私と戸部社長、後藤工場長と石崎君の四人しか常勤がいない。今年は和田店長がいて、黒澤君も参加できるそうだ。宴会男の貴志君ももちろん顔を見せる。
たった七人だが、今年の年忘れとしよう。
何しろ今年は、大変な年だった。
鳥鍋をつつきながら、私たちははしゃいだ。
何もかも辛い思い出を忘れて、賑やかに酒を酌み交わした。
座敷の障子に小さな影が舞った。
障子を開けると、外は雪がちらついていた。
初雪である。
障子の向こうのガラス窓を開けると、冷たい空気が鍋で温まった座敷に吹き込んできた。
京都にも冬がやってきたのだ。
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