第6話 妹と変化
「はえ?」
「まずは、注入~開始~。ミャハッ!」
気の抜けた声を出す雨理亜の頭に載せていた智花の手が、赤黒く変色し始めた。
よく見ると、智花の手首には、信親の者とは違う〝印〟が浮かび上がっている。しかも印は、手首どころか肘の先から手首まで、複数存在していた。
何かマズイことを、智花はしようとしている。悪い予感にかられ、信親は、智花の手を掴む。
「智花、雨理亜さんの頭から手を放せ!」
「お兄ちゃん、邪魔」
「うな!」
智花は、同年代の少女より、頭半分は背が低い。にも拘わらず、信親は、片手で弾き飛ばされた。
「あはははは、うな! だって。お兄ちゃんの悲鳴、面白―い。もっと聞かせて欲しいけど、今忙しいから、また今度ね」
「智花ちゃん、もう、やるつもりなの?」
薫が厳しい声で問い質す。何か知っている口ぶりだった。だが、智花は、薫の声などお構いなしだ。
腕の印が、変色したり元の肌色に戻ったりを高速で繰り返し始める。すると、雨理亜に変化が起き始めた
「入ってくる。入ってきているのれす」
「智花、何をしてるんだ!」
「まっずはねー。注入だよーん。長い間BLに触れられなかった腐女子未満の半端ちゃんたちはね、濃い腐気を注入してやれば、すぐ腐女子に進化するんだよん。イエス!」
一々クソうざったい話し方をする智花への苛立ちが募る。だが、深刻な単語を聞き、信親は、血の気が引いていく音を聞いた。
再度止めに入ろうとする信親の眼前で、雨理亜に変化が起こった。
分かりやすく外見が変わったわけではない。しかし、雨理亜の纏う雰囲気は、先ほどまでの緩いものから、なにか油断ならないものとなっていた。
小型犬が、成長した狼かコヨーテにでも変化したかのようだった。
直接戦闘系腐女子の中では最下級だが、身体能力はレスリングや柔道のオリンピック・メダリストを上回るといわれる、腐兵士を思わせた。
信親が固唾を飲んで見守る中、雨理亜はベッドの上に直立する。
「ふふふ、なにか、こう、そこはかとなく生まれ変わったような気分れすね」
「あんま変わんないのな」
「なんの話れす?」
信親が喉の奥で、ごく小さな声で呟いた言葉を、雨理亜は当然のように拾った。
やはり、雨理亜は変化していた。
直接戦闘系腐女子に成ると、聴覚も含む身体能力が大幅に上昇するのだ。
「どう? 凄いでしょ。ゆるゆるな感じのえーと?」
「仁科雨理亜れす」
「頭が締めかけのネジみたいにゆるゆるな雨理亜ちゃんが、ちょっといい感じにゆるゆるな雨理亜ちゃんに大変身! 現代のシンデレラストーリーだね! やったね!」
「やったね、なのれす」
雨理亜とハイタッチを交わす智花を、醒めた目で見ながら薫がつぶやく。
「ノブの妹、鬱陶しいにもほどがないかな?」
「スマン。昔から多動な子なんだ」
薫に謝罪してから疑問が浮かんだ。本当に、智花は無駄にハイテンションだっただろうか?
いや、そもそも智花の小さなころって、どんなだったろう。今のように不自然なテンションだったきもするし、実は大人しかった気もする。どうも妙だ。
消化不良のような、胸がつかえるような感覚でいる信親を無視して、智花は部屋の真ん中で、深呼吸を始めた。
一分ほど深呼吸を続けた智花が、今度は何か吐き出した。
禍々しく忌々しい、腐気を吐きだし始めたのだ。その勢いは、大型肉食獣の咆哮を思わせる、攻撃的で恐ろし気なものだった。
病室内は、台風が通っているかのように揺れはじめた。
「ノブ、智花を止めろ。この病院内にいる患者、いや、生者を、腐女子に変えるつもりだ!」
「薫、病院じゃなくて診療所だ!」
「どうでもいいよ! 人の話を聞いてくれるかな! このままだと、患者も医者も看護婦も、皆が腐女子にされるぞ。智花の奴、皆に杯を植え付けるつもりだ」
「薫、今は、看護婦じゃなくて、看護師っていうんだぞ。精神科と救急外来だと、暴れる患者が多いから体力いるから、男手もいるんだぜ。これ豆な」
「豆知識もトリビアもいらないんだよ! お前が空気読め!」
「なに、からけよめ?」
「ぶち殺すぞ!」
晶の胸の谷間から救出された恨みを晴らすため薫を煽り、首尾よくキレさせた信親は考えた。
よくわからんが、薫の言う「生者を腐女子にする」という戯言が本当なら大変だ。
なぜ、薫が智花のしようとしていることを知っているのかは、大いに気になるが、今は見逃そう。信親は、世界一美しい般若のように顔をしている薫に、親指を立てて見せる。
「よしわかった。止めよう」
「そうだね、ノブの息の根を止めるのは、後回しにしてあげるよ」
信親と、上手い殺害予告をした薫は、智花の背後に回り込む。が、邪魔が入った。
「智花さんの邪魔は、させないのれすよ」
「邪魔をするな、アメリカ!」
「雨理亜れす!」
「USA!」
「だから、雨理亜れすってば。仏生寺さん。なんなんれすかこの人」
「ごめん。ノブは、頭が手遅れなんだ」
失礼な奴らだ。
「薫、どっちの味方だ」
「それは、見方によるな」
「この状況で減らず口とは、余裕だな」
「ノブほどじゃないよ。フザケテないで、そろそろ智花ちゃんを止めようか」
「止めなきゃダメか?」
「駄目じゃないけど、止めたほうがいいと思うよ」
信親は、智花を横目に見た。
咆哮を上げる。智花の可愛らしい小顔には、高位の悪魔じみた表情が浮かんでいる。大きな目は吊り上がり、瞳孔は開きっぱなしだ。
唇は血のように赤い。耳元まで避けた口からは、鋭い犬歯が覗き、張りのある肌には、ところどころ不吉な紋様が刻まれていた。
「ノブ、ぼさっとするなよ。仁科さんはボクが抑えるから、智花をなんとかしてくれ」
「アレ、止めるのかよ。悪魔と戦うのは、勇者の仕事だろ、他人の仕事を奪うような真似は、倫理的かつ道徳的な俺にできることじゃないな」
「悪魔じゃなくて、妹だろ。頑張りなよ。お兄ちゃんだろ」
「厄介ごとが起きた時だけけ、お兄ちゃんっていわれるんだよな。言い回しは好きじゃないが、仕方ない」
覚悟を決めた信親は、智花に近づいていった。
止めるといっても、やり方もなにを止めるのかも、よくわかっていなかった。
智花が、雨理亜を腐女子と化したことを「ウォームアップ」と表現していた。加えて、薫は「生者を腐女子に変える」と言っていた。
これらの発言と、腐気を発散させている智花から推測するに、止めなければ周囲一帯が腐女子と腐女子化症患者であふれることになりそうだ。
智花を大人しくさせる必要がある。改めて智花の様子を窺う。あんなに可愛かったのに、本性を暴かれた妖怪のようになっている。本当に、どうしよう。悩む信親に向けた薫の冷たい視線が突き刺さり、思考を短絡させた。
信親は、とりあえず智花を殴りつけることにした。
「チェストッ!」
「うげ!」
後頭部を殴られると、美少女然としていた智花の口から、汚い悲鳴が吐き出された。
やっちまった。
一発で気絶させられるかと思ったが、打撃技が得意というわけでもない。まして、相手は腐女子の中でも高位に位置する腐浄士すら従わせる智花だ。
不意を突いたとはいえ、素手でどうこうできる相手ではなかった
反省より後悔が先に立っている信親に、智花がゆっくりと振り返る。朗らかに笑っていた。
打撃は対して効かなかったのかもしれない。許してくれるのではと、希望が芽生える。
「あのさー。お兄ちゃんさー。遺言的なヤツ、なんかある?」
駄目だった。
必死に頭を働かせて、気の利いたジュークで、この場を切り抜けようと画策する。
「ついカッとなってやった。今は反省している」
「あはははー。お兄ちゃんってば、チョー面白い。ウケル―。あ、でも。ちょっと死んでもらっちゃおうかな」
やはり、この期に及んで逃げ道はなさそうだ。
覚悟を決め、挑発を口にする。
「だよね! こういう展開になるって、お兄ちゃんわかったのに、ついやったり言っちゃったりしたよ。HAHAHA!」
「うわーい。最高の遺言だネ!」
満面の笑みで答える智花の両手には、いつの間にか取り出したのか、巨大な金槌が握られていた。
一寸法師の持つ打ちでの小槌を大型化し、柄を伸ばしたような金槌だった。
金で施された装飾は美しいが、殴られれば頭どころか、全身を潰されかねない代物だ。
信親は、固めた覚悟を、一度溶かすことに決めた。
「やあ、智花、その金槌、凄い奇麗だね」
「知ってるよー」
「汚さないように、気を使うだろう?」
「ううん、全然。武器は使わないと意味がないって、お母さんが言ってた。だから使うの!」
「兄に?」
「お兄ちゃんに!」
クソババアめ。テロだけでなく、娘の育成にも失敗してるな。組織造りは成功しているのに。
「なるほど、確かにその通りだ。でもな、智花、武器も道具も、使えば壊れたり擦り減ったりするものだ。ツマラナイことに使って、武器を痛めるような真似は、よしたほうがいいぞ」
「大丈夫だよ! これ、腐気で作られた腐宝だから、壊れないし汚れないし」
巨大な金槌を、小枝でも振るうように軽々と持ち上げ、智花は自慢気に笑った。
「マジ?」
「大マジでっす! 腐術に、不可能はないからね!」
智花の笑顔とサムズアップを前に、信親は愕然とした。
信じがたい話ではあるが、腐女子のやることに、常識は通用しない。まさか、腐気がそこまで便利なものとは、流石に欠片も思わなかった。
無から有を生み出すなんて、まるで魔法だ。
腐術の話は、ネット上の噂で知っていたが、目の当たりにすると驚きがあった。もし腐術の産物を向けられていなければ、感動すら覚えたかもしれなかった。
しかし、疑問が浮かぶ。確か、全ての腐女子は、高い身体能力で荒ぶる直接戦闘系と、腐気を用いて遠中距離で戦ったり、人を操ったりする間接戦闘・補助系二種類の分類されるはずだ。
もしかして、直接戦闘系は、武器を生み出すことに限り腐気で物を作れるのだろうか? それとも、智花が特別なのだろうか? 智花は、外見だけならかなり可愛い。晶ほどではないが、胸もある。だから、腐の神から特別扱いを受けているのだろうか?
極めて重要な事柄について思考を巡らせある信親だったが、あまり悠長に考える時間はなさそうだった。
智花が、信親の目の前で、金槌を振り上げているからだ。
ボケっと突っ立ているだけに見えたのだろう。雨理亜を組み伏せた薫から警告が飛ぶ。
「ノブ、案山子の真似でもしているのかい。戦う姿勢を取りなよ」
「もう遅いよん!」
可愛らしい笑みに、一瞬だけ邪悪な感情を乗せた智花が、金槌を振り下ろした。
「そうだ、遅いな。ていうかノロいな」
「えええええ!」
悲鳴があがった。
智花は余裕も笑みも無くし、両手の平を上にして、絶叫していた。
「なんで? どうして? お兄ちゃんなんて、トモちゃんの力の前では、ゴミ虫なのに」
「酷い言い草だな。悪口を言ってはいけませんって、学校で教わらなかったのか?」
「お母さんがー、事実を指摘されて怒ったり傷ついたりする奴は、身も心も悪いロクでなしだから取り合えず悪口で煽れって、教えてくれたよ! それより、トモちゃんの〝挽肉丸〟どこにやったの。返して!」
「嫌だね。もう、あれは、いや、こいつは、俺のモノだ」
信親は〝挽肉丸〟を、智花に見せびらかしてやった。
腐気で作られた挽肉丸を、受けの印で奪い取ってやった代償は、少なくなかった。
赤く染まった視界は揺らぎ、意識は混濁している。受けの印がある手首の周辺から熱と痛み、痒みが拡大し、右半身を蝕んでいた。
戦ってもいないのに、信親は大損害を受けていた。それでも、珍しく狼狽する智花に、不敵なはずの笑顔を向けてやった。
大きな金属の塊然とした見た目に比べ、挽肉丸は、棒きれのように軽かった。
愛用の得物を奪われた智花は、地団太を踏む。
「酷い! 可愛い妹の大事なモノを盗るなんて」
「妹のモノは俺のモノ。俺のモノは、この世界皆のモノさ」
「ノブ、後半は嘘だろ」
「嘘れすよね」
「神様に、愛されたがってるのかなぁ」
「無駄な努力れすよねぇ」
無粋なツッコミを入れてくる薫と雨理亜を無視して、信親は智花を追い詰めにかかる。
「ショックか? ショックだろうな。自分の得物を盗られたんだ。だが、智花、お前の迂闊さのせいだぞ。こいつを見ろ」
信親は、手首の印を見せつけてやった。
「それは、受けの印じゃん。ゴミムシの糞レベルの存在でしかないお兄ちゃんが、ホントなら腐女子にしか持てない印を持っていて、しかも使いこなしてるっていうの? ありえない! お母さんに言いつけてやる!」
智花は、今までよりさらに失礼な驚き方をして、子供のような脅し文句を投げつけてきた。
「お兄ちゃんの偉業を、素直に褒めろよ。素直な子のほうが、モテるんだぜ」
「これ以上モテる必要、智花ちゃんにはないの! もういいよ。智花ちゃんは、お家に帰りますから! どうせ兵隊は、他でも結構集めたし、集められてるはずだし!」
智花は、子供じみた宣言と意味深な捨てセリフを吐くき、信親に背を向けた。
「待て、智花。母さんは、どこにいるんだ。教えてくれ」
「はぁああ! トモちゃんの大事なモノを奪っておいて、願い事? 聞くわけないじゃーん。愚かなの? 愚者なの?」
「そこをなんとか」
頼み込む信親を見て、智花は意地の悪い笑みを浮かべる。
「土下座して、靴を舐めたら考えてあげるよー。イヤなら、地道に調べたらぁ?」
可愛らしい小顔に、小悪魔的表情を浮かべた智花が、小悪党的なセリフで兄をなぶってきた。
勝利を確信した妹の顔を見て、信親は、自覚のないピエロを見るように、静かに笑う。
「愚かな」
「ええっ?」
信親が間を置かず土下座すると、智花は驚愕のあまり口を大きく開けたまま固まった。
「土下座して、靴を舐めるんだったけ?」
「舐めるつもり、なの? トモちゃんの、妹の靴を?」
「左様である」
土下座したまま、堂々と宣言してやった。
俺カッコイイ。
一人悦に入る信親の肩を、心配そうな顔をした薫が、あやすように掴んで揺さぶってくる。
「ノブ、もういいだろ。智花ちゃんを止められたんだ。帰ってもらえばいいじゃないか」
「良くないね。これは家族の問題だ。口を出さないでもらおう。おい智花、靴と服を脱げ。全身を舐めてやる」
「ええ! 舐めるのは、靴でしょ。いや、それも汚いから嫌だけどさ」
「拡大解釈した」
堂々と答えた信親に、智花は悲鳴のような抗議をする。
「勝手な真似しないでよ!」
「おいおい、勝手だって? 靴を舐めろとか非常識な要求をしておいて、俺を勝手だとなじるのか?」
「なにその理屈!」
「全身をくまなく舐められたくなければ、母さんの居場所を教えろ。俺は、受けの印を持っている。こいつを使えば、お前から腐気を奪い、動けなくしてからゆっくりと事に及べるんだ。わかるな?」
「ぐぬぬ」
歯噛みする智花に、精神的な勝利を得た満足感で、信親の態度を大きくしていた。
非常識な人間であってさえ、より非常識な人間に出会うと、戸惑うものだ。
モノを知らない愚か者をあざ笑う行為は、最高に楽しかった。
「薫さん、あの男、土下座したまま勝ち誇っているのれす。あんなに底辺から上から目線で命令する人、初めて見たのれす」
「最初で最後の出会いだと思うよ」
背後では敵同士のはずの薫と雨理亜が、悪霊について語るかのように、信親を表していた。
「やれやれ、俺をおかしい人扱いとは、勘弁願いたいね。いいか、この姿勢は、土下座ではない。これ以上は、お前に下げる頭はないという、俺の意思表示だ」
「……モノは言いようれすね。なんだか、床に這いつくばったまま妹の全身を舐めまわすと宣言した男が、カッコよく見えてきたのれす」
「まあ、悪い奴じゃないんだけど、格好はよくはないと思うよ。うん、絶対に。むしろ、格好悪いし、よくよく考えたら良い奴でもない気がしてきた」
薫の信親に対する信頼と評価が急降下する中、智花が口を開く。
「変態でクソ虫なお兄ちゃんに舐められたくないけど、体も舐められたくないし、教えてあげる。お母さんは、池袋の地下にいるみたい」
「みたい?」
信親は立ち上がり、腕を組んで智花を見下ろす。
「お母さんと、同じ場所であったことないんだよねー。一方的にめーれー書わたされるだけだったりもするし。ただね、池袋の地下に、仲間集めて「ふしんのう」って腐の神様をおまつりする、神殿造ってるんだって、前にきいたんだよね」
「神殿? ふしんのう? 聞いたことない名前だな。マイナーな腐の神を祀って、あのババアは何をするつもりだ?」
「詳しい話は知らないよー。お母さんは、話してくれないし。でも、腐動明王派と腐女神派の幹部さんたちも参加してるから、規模はでっかいはずだよ」
「マジかよ。結構大ごとじゃないか。抗争状態じゃなかったのか?」
腐動明王派と腐女神派は、強大な武力と経済力を持つ腐女子界最強最大の団体・全日本腐女子連絡会――通称・全腐連――では双璧と呼ぶべき派閥だ。
静流の仲介で全腐連に加わる前は、大規模な抗争を起こしていた。
巻き込まれ、死傷したり腐女子化したりした民間人も多かったため、腐女子に対する国家権力の介入を招きもした。
「表向きは、そだよー。でも、裏では上同士で話がついてるの。てかお母さんがつけちゃったんだ。トモちゃんが知ってるのは、このくらい。お母さん慎重だからあんまし教えてくれないんだよねー。信用ないのかな?」
「そりゃないだろ。お前ガキっぽいし」
「お兄ちゃん、ドイヒー」
「秘密を漏らしても〝ついカッとなってしゃべった。今は反省している〟とか言うんだろ」
「そんな不真面目なこと、あんまり言わないよー。ホラ、トモちゃん割といい子な日もあるっちゃあるし。お漏らしは早めに卒業してるし」
信親の意地に悪いツッコミに、智花はズレた答え方をした。
薫の嘆く声がする。
「秘密を公言するんだね。本当に、この兄妹は、どうしようもないな」
「れすねー。ところで仏生寺さん、そろそろどいて欲しいのれす」
「あ、ゴメン」
薫が組み伏せていた雨理亜を自由にしてやる姿を横目に、智花が扉へ向かう。
「トモちゃんもこれ以上は知らないからね。あとは、お兄ちゃんが調べなよ」
「仕方ないな。今日のところは、この辺にしておいてやるよ」
「なんで、チンピラ風なのかなお兄ちゃんは? ま、もう相手するの疲れたし、いいや。じゃあね。雨理亜ちゃん、いくよー。他の人の引率ヨロ」
「ハイなのれす!」
雨理亜は、ベッドから立ち上がった十数名の腐女子化症患者たち――熊田あさみを含む――を、扉へ誘い始めた。
慌てて止めに入る。
「智花、彼女たちを、どこへ連れて行く気だ」
「彼女たちは、腐女子に成ったんだよ。保護してあげないといけないんじゃん? それに、本来この療養所にいる人たち全員を腐女子にして連れて行く予定だったんだよ。少しくらい手土産がないと、お母さんにマウントとられてから殴られちゃうじゃん」
「娘に馬乗りするのかよ、あのババアは」
「うん、娘の顔に、本気でパンチ・オン・ザ・グラウンドを打ってくるよ! きっと、トモちゃんの若さと可愛らしさと美しさと麗しさに、嫉妬してるんだよ! S・H・I・Tだね!」
「だからって、誘拐はないだろ?」
「あの、えーとノブ? さん」
智花を押しとどめようとする信親に、あさみが声をかけてきた。
先ほどまでと違い、あさみの顔には精気があり、信親を安心させた。
「信親、北畠信親で、ノブってわけ。薫が勝手に呼んでるだけなんだけどね。あ、妹がゴメンな。今、説得するから」
「いえ、結構です。わたし、智花さんについていきます。わたしは、腐女子として生きていくしかありません。腐女子にもなれず人間にも戻れない状態のまま苦しみたくありませんから」
他の患者たちも、あさみに同調して頷く。表情に迷いのある者はいないでもないが、瞳には決意か諦めの光があった。
「本気か、一度腐女子に成ったら、堅気には戻れないんだぞ。この世のなにもかも、受け攻めに分類せずにはいられない生物になる。腐女子対策課が目を光らせているから、一生警察に追われるぞ。一般人に擬態しても、所詮腐女子は逸般人だ。まともな社会生活なんて、送れなくなる」
「わかってます。全部ね。でも、こんなところに閉じ込められて、BLを求めて苦しみながら過ごすなんて、耐えられません。人に戻れず、腐女子にも成れないまま一生を終えるくらいなら、人間を止めて腐女子になったほうが、ずっとマシ」
あさみが、寂しそうにつぶやく。しかし、決意が変わりそうになかった。
「家族にも会えなくなるんだぞ。それと、こんなところじゃなくて、療養所な」
「そこ、まだ拘るんだね」
薫の呆れた声が聞こえてくるが、無視して信親はあさみに詰め寄る。
「療養所に閉じ込められて、BLを求めて苦しみながら過ごすなんて、耐えられません。人に戻れず、腐女子にも成れないまま一生を終えるくらいなら、人間を止めて腐女子になったほうが、ずっといい」
「言い直すんだ」
律儀なあさみの声色に、もはや迷いはなかった。
ツッコミを入れる薫より、よほど落ち着いていた。
「他の人も、同じ考えなのか?」
「あさみさんが、全部代弁してくれたのれす」
雨理亜が、静かに頷く他の患者を代表して、発言した。
「だけど、腐女子になったら、どこかしらの団体に所属しないと、生きていけないぞ。一度所属した団体から抜けるのは難しいし、金やBL本を治めたり、抗争に駆り出されたりで、かなり大変だ。堅気にはきついぞ」
「ノブ、もうよそう。彼女たちは、決めたんだ」
「薫、しかし」
「自分の意志で先に進もうとする人を、止めることなんてできないよ」
まじめな顔で、薫は信親を制した。
薫は、相変わらずミニスカナース姿のままだったので、違和感は凄かった。だが、内容は最もといえば最もだったので、信親は黙るしかなかった。
「お兄ちゃん、薫ちゃんの言う通りだよ。本人の意思、とっても大事! それに、うちは全腐連でも上位の団体だから教育体制とか、サポはバッチリだよ。心配しないで。立派な兵隊や技術者、運び屋に育ててあげる。たまに抗争で死ぬけど、その時はその時DA・YO・NE!」
色々気になる単語も出てくるが、信親には、もはや言葉が出なかった。
「ノブ、どうしようもないんだよ。腐女子化を抑える防腐剤も、全員に効くわけじゃない。腐女子化症が治らなきゃ一生じゃなくてもかなり長期間、病院、いや、療養所暮らしだからね。皆、外に出たいんだ」
「わかってる。余計なこと言った」
引き下がった信親を見て、智花は満足気に微笑むと、患者たちに正対する。
「じゃあ、そろそろ行こっか」
「いくのれす」
雨理亜だけが返事をし、あさみたち他の患者たちは、黙って従った。
信親が黙って見送る中、扉ヘ向かう智花が、不意に立ち止まった。
「あ! そうそう、言い忘れてた。お兄ちゃん、近いうちに死ぬよ」
「は? 俺すげえ健康だし。それともなにか、腐動明王か腐女神、いや、さっきいっていたふしんのう? とかいう神のお守りでも売りつけようとしているのか? 悪いが信心にかまけている時間はないぞ。俺は、俺という世界一矮小な神を崇め奉ることに、忙しいんでね」
「ううん。お兄ちゃん、お金なさそうだから売りつけられるとは思ってないよ。お兄ちゃんの手首にある、その忌々しい受けの印あるじゃん。それね、男が使うと、死ぬんだよね」
「いやいや、俺は生きてるじゃないか」
「腐の印は、本来腐女子にしか付かないはずなんよー。だから、腐女子に成れない男は、使用に耐えられないんだよねー。普通ならだけど。お兄ちゃんは普通じゃないからまだ死なないだけか、もしかして、死ねなくなっちゃってるのかも。じゃあね、もし生きていて正気が保てて、お金があったらお守り買ってね」
今日の日付を聞かれたから答えた。とでもいうような淡々とした言い方で恐ろしい情報を伝えるや、智花はさっさと立ち去っていった。
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