第3話 傷跡

 取調室で説教を受けた翌日、信親は早朝から晶に連れ出されていた。

 目的地は、池袋駅周辺の立ち入り禁止区域に建つ、高いビルの中だった。

「長い階段だね。エレベーターは動かないし、ここで生活できる自信、ボクにはないな」

 いつ果てるとも知れない階段を登りながら、実は警察の協力者だった薫が、愚痴をこぼした。

 先導する晶が、疲労の乗った声で諭しながら解説する。

「この辺りでは、一番高いビルですからね」

「なんで、そんなところに、しかも禁止区域に、住んでるんだ? よほどの物好きなのか。お陰で、余計な運動をする羽目になった。いい迷惑だ」

「滅多に人が来ないところですからね。池袋暴動後に設定された立ち入り禁止区域は、腐気が強過ぎて、常人は入れません。腐女子化してしまいますからね。だから、情報提供者の腐女子が身を隠すには、最適な場所です。わたしち警察も、彼女たちの居場所が分かったほうが、管理しやすいので便利です」

「腐気が強いってのに、俺も薫も、アンタも入れちまうんだよな」

「ごくごく少数ではなりますが、腐気に耐えられる人間もいるのです。腐印を持つ人は、更に少ないですけどね」

 晶は振り向き、信親に、冷たい視線を向けてきた。視線の先にある手首を、信親は確認する。

 赤い目の文様に、昆虫のような足の生えた印が、手首に小さく浮き出ていた。

 晶と、ついでに薫が言っていた腐印とやら、らしい。力ある腐女子の証だ。

 ある日を境に、男同士の恋愛を描いた、いわゆるBL本を好んで読んでいた腐女子が、超人的な力をもつようになった。

 腐女子の中でも強い力を持つ者で、高位に属する眷属だけに浮かぶ様々な印を、腐印というそうだ。

 腐印を持つ者は、強力な身体能力や超能力や魔術のような力を持ちという。怪力で鋼板を破砕し、腐気を燃やして炎を吐き、中にはどうやってかは知らないが、飛行する者さえいるという話だ。

 本当なら、人間じゃない。信じがたい話だが、池袋暴動時の報道や噂、信親が大学内で示した超人的な動きを考えれば、納得できた。

 なぜ腐女子どころか、女性でもない信親に腐印が浮き出たのかは、解明できていなかった。

「本来の俺は、倫理的道徳的に優れた、善良な一般市民なんだがね。こんな焼印をつけられる身分じゃないんだぜ。まったくもう、だ」

「ノブさあ、昨日晶さんの胸、揉んでたよね?」

「薫、そいつは違うな。俺は、晶さんの巨胸を、鷲掴みにして揉みしだいたんだ。情報は正確に伝えるようにしてくれ、これから一緒にやっていくんだ。不正確な物言いは、混乱の元だぞ。アンダスタン?」

「ノブが倫理と道徳からは、ほど遠い場所にいるってことは、理解できたよ」

 美麗な顔に、あからさまな呆れた表情を浮かべる薫に、信親は調子に乗って反論する。

「薫は多分、俺が桐山晶さんの胸を、いや巨乳を揉みしだいたことから、批判的なんだろう? だが、よく考えてくれ、晶さんのほうから、捜査に協力する見返りとして、揉んでいいと言ったんだぞ。若い男である俺にだ。そりゃ揉むだろ。男の九割はそうする、俺もそうする。薫だって、物凄く肩が凝った老人から揉むよう頼まれたら、揉むだろう? ほとんど同じことさ」

「ほとんど同じっていうのは、違うって意味じゃないかな?」

「いやいや、重なる部分を重視してほしいね」

「信親さん、どうやら、お説教が足りなかったようですね」

 薫の反論に、さらなら反論をしようとする信親だったが、声のトーンを氷河期なみに凍えさせた晶の声により遮られた。

 取調室でされた三時間の説教を思い出し、心を閉ざした少年のように、信親は口をつぐんだ。

 今なら、俺は貝になれるかもしれない。信親は、暗く寒い海底にいるような気分になった。

 とはいえ、黙り込むのはムカつく話だ。

 昨日のうちに、大学の休学届は出されていた。

 晶が勝手に出して、信親が追認する形となった。

 つまり晶は、よほどの長丁場に、信親を付き合わせようとしているわけだ。

 多少は反論しておかなければ、立場が悪いまま長期間、晶と過ごす羽目になってしまう。信親は、氷の壁のように見える晶の背中に声をかける。

「晶さんさぁ、民間人相手に、ちょと態度酷くない? 俺、協力者よ。休学してまで日本の治安に貢献する模範的一般市民だよ。もう少し、友好的にできない? そりゃ巨乳は揉みしだいたけど、そっちが許可出したことじゃないか。恨むのも怒るのも、筋違いってもんだ。いいかい、ここには、被害者も加害者もいないんだぜ。いるのはそう、仲間だけさ」

 信親の抗議とも言いがかりともつかないセリフを聞くや、晶は踊り場で立ち止まり、振り返った。

 自然と、信親が見下ろされる形となる。急に感じた寒気で、声が上ずる。

「な、なんだよ」

「胸の件に関しては、もういいのです。童貞の信親君では、どうせ手を出せないだろうと、高をくくっていたわたしにも、問題がありましたから。ですが、わたしは貴方が、嫌いです」

 晶の声には、先ほどまでと同様に、氷河期レベルの冷たさがあった。だが、たまに聞かされていた冷たい声より、瞳に強い印象を、信親に抱かせた。

 氷の声とは対照的に、晶の瞳に浮かぶ感情は、猛火のようだった。

 燃え盛る氷のような晶から視線を向けられ、信親は声もでない。生まれて初めて、他者から激しい憎悪を向けられたことがショックで、体が硬直してしまっていた。

 数十秒間〝蛇に睨まれた蛙〟として過ごしてから、薫に助けを求めるべく、視線を向ける。幼馴染は、額を抑えてため息をついていた。

 なにか、悩みごとでもあるのだろうか? もしあるなら、今すぐ話してもらいたいものだが、薫はゲイシャ・ガールのように奥ゆかしいらしい。信親の視線に気が付いていても、話そうとはしてくれなかった。

薫が何に悩んでいるのかは知らないが、助けは期待できそうもない。自分の身と尊厳は、自分で守るしかないと思い直し、仏敵を前にした不動明王のようになっている晶に視線を戻す。途端に、もう少しで物理的な力を得そうな晶の視線に射抜かれ、信親は、また体を膠着させた。

 晶は、理由も言わずに睨みつけてきている。流石に信親も、理不尽に対する怒りが生まれた。

信親は、被告を追い詰める検事を気取って、晶に指を突きつける。

「桐山晶さん、何か文句でもあるの? あるのなら、言ってくれよ。睨んでばかりいないでさ」

勇気が湧き出たわけではない。自分の中で生まれたストレスに耐え切れなくなり、暴発しただけだ。

しかし、お陰で口を動かせた。

 反撃開始とばかりに、敵対的な態度をとる晶の視線を受け止める。相変わらず晶の視線は強く、チラチラとしか見ることはできなかった。

 信親の情けない態度に同情したのか、長い階段で立ち話をしたくなかったのか、薫が仲裁に入ってくる。

「ノブ、止めときな。晶さん、まずは仕事に行こうよ。そのために、こんなに長い階段を、徒歩で登っているんだからさ」

「……信親君、貴方は先ほど、被害者も加害者もいないと、言いましたね」

「正確に言うと〝ここには、被害者も加害者もいないんだぜ〟だ」

「加害者はいないかもしれませんが、被害者なら、いますよ。ここに」

 晶が自分の顔に人差し指を向けた。

「痴漢の被害者ってこと? それなら、高をくくっていたことが悪いって、晶さん自身が言ってたじゃないか。怒るのも嫌うのも、いや、嫌うのは仕方ないかもしれないけどさ。胸揉まれたんだし。だけど、怒ったり憎んだりは、筋違いじゃないかな」

「わたしは、池袋暴動の際、腐気に当てられました」

「え? じゃあ、いや、でも、それならどうして、外を歩けるんだ?」

 戸惑う信親に、晶には淡々と話す。声は平静だが、僅かな震えにより、温度が急上昇している火薬庫のような、危うさがうかがえた。

「腐女子化症療養所での治療が、成功したのです。ちなみに、完治したものは、私を含めて僅か二十人。今なお一万人を超える患者が、施設内で腐女子化症と戦っています。貴方のお母さんと、妹さんの組織が起こした事件のせいです」

 家族の名前を出され、信親は息を呑んだ。

「晶さん、あの時池袋にいたのか」

「ええ、久しぶりの非番で、柔道の練習もなし。珍しく、ええ、本当に珍しい休日でした。そんな日に、古い友人から買い物に誘われたんです。で、池袋暴動に鉢合わせし、腐気を浴びて、腐女子化症の患者となったというわけです。治療にかかった期間は半年、退院した患者としては、最短だったそうです」

「そりゃ凄い。神が見ていてくれたんだ。いや、晶さんの努力と才能の賜物だよ。きっと」

「半年、オリンピック強化選手の指定を解除されるには、充分な期間でした。ついでに、腐女子化を乗り切ったということで、わたしは、忌々しい腐女子どもに係るマル腐に配属される栄誉を得ました。言っている意味、分かりますか?」

 晶は階段を降り、息がかかる距離まで顔を信親に近づけてきた。

 瞬きをしない晶の瞳に、信親の恐怖した顔が映る。キスができそうなほど接近した唇からは、ミントの香りの混じる湿った吐息が漏れ、信親の顔面にまとわりつく。柑橘系の香水と共に、薄っすらと甘い体臭が、鼻に滑り込み。思考能力を奪っていった。

 気が付けば、信親の口は、馬鹿げた言葉を吐いていた。

「ええと、半年も休めた上、滞りなく社会復帰できて、良かったなーって話?」

「世の中には、追いつめられると、最悪な選択をする者がいる、と聞いたことがあります。信親君、貴方のような人のことです」

 晶は、緩慢にすら思える動作で、信親に手を伸ばしてくる。蛇のように、美しくも力強い晶の指が絡みつき、信親のそれほど鍛えていない首を締めあげてくる。 

「ええと、桐山晶さん。意外なかもしれなけど、人は首を絞められると、とても苦しいんだよ」

「まあ、それは意外ね。インターネットの掲示板かSNSに書き込んで、皆に知らせてあげなくちゃ。ああ、そうそう。ついでに、苦しんだ挙句に死ぬって情報も付け加えておかないといけないわね。気道を抑えられて、脳に血液が行かなくなる気分はどのような感じです? 教えてくれれば、墓石に彫ってあげます。ええ、気が向いたらですが」

 饒舌かつ上機嫌なまま信親の首を絞めあげる晶に、薫が慌てて止めに入ってくれる。

「桐山警部、ストップ、ストップ。本当に死んでしまう」

「大丈夫だ、薫。俺は、お前の心の中で、生き続けるのさ」

 必死な薫を愛おしく感じた信親は、つい余計な強がりを言ってしまう。

「余裕かましてる場合か! 顔色が死人みたいになっているぞ」

「俺は、小学生のころ、大便を、朝九時から放課後の三時まで、我慢してみせた経験がある。もう何秒かは、いける」

「ああ、そんなこともあったね……って、ガチで死にかけているじゃないか! 薫さん、殺人で現職警官が捕まるのは拙いでしょ」

 晶は薫の〝現職警官〟という単語に反応し、首を絞めあげる力を緩めた。

 手を信親の首にかけたまま、晶は下を向く。小さなツムジが見えた。

 数分間、荒い息を吐きながら、晶は肩を上下させ、絞り出すような声を出す。

「被害者は、いるんです。わたしを含めて沢山。あの親子を、北畠静流、智花を止めないと、また、わたしのように、人生を狂わせられる者が出るんです」

 打ちひしがれ、感情の奔流に流されかける晶の姿に、流石の信親も気不味かった。

 なにせ、晶の人生を狂わせた原因は、信親の身内だ。

 智花の生死と行方を探るためにも、晶と最低限の信頼関係を築く必要がある。既に瀕死状態の関係だが、重ねて余計なことを言えば、警察官であり、智花の情報源でもある晶との関係が、完全に終わってしまう。

 言葉は選ばなければならない。しかし、信親の中で、言ってはいけない言葉の羅列が、幾重にも浮かんでいた。

 責任転嫁・回避、被害者叩きなどの不誠実で最低な概念が、語彙を尽くした状態で、頭の中を渦巻いていた。

 どれか一つでも口に出してしまえば、晶との人間関係は、実質的な終焉を迎えることになるであろう、ロクでもないセリフばかりだった。

 俺は、そんなに性格悪かったけ? 確かに性格はクソで下品だが、卑しくはないはずだ。

 頭に小汚い言葉が浮かぶのにも、理由はある。先ほど晶から殺されかけたことに加え、母親と妹が起こした事件の所為で、他人の視線や言葉を気にするようになったストレスのせいだ。

 俺の精神に圧し掛かる荷重のせいだ。

 悪いのは、俺の言葉でも口でもなく性格でもない。なら、言ってしまっても大丈夫ではなくとも、仕方ないのではないだろうか?

 言ってしまえ、言ってしまえと、頭の片隅で誰かが囁く。信親は、頭の中で浮かんだロクでもない言葉を吐こうと、深呼吸をする。

「やめておきなよ。ノブ」

「え?」

 信親が取り返しのつかない言葉を吐こうとしたとき、冷静というより冷たい制止の声が、薫からかけられた。

 振り返ると、感情が無くなったかのように、表情が消えた薫がいた。

信親と晶との間で右往左往していた姿からは、想像できないほど落ち着いていた。

目には、全てを見通す賢者のような、深い色が浮かんでいた。

 しばし、沈黙が降りる。晶も、警察官から人殺しにジョブチェンジする寸前となったことに衝撃を受けている有様だ。

 信親の首を絞めていた手を、震える瞳で見据えていた。

 薫は、信親から目線を外さない。信親は〝言ってしまえ〟と囁く声から解放され、夢か酔いから醒めたような、妙に浮ついた心情のまま、立ち尽くしていた。

「あのぉー。桐山警部でぇ、いらっしゃいますかぁー? お迎えに上がりましたぁ~ん」

三人の間に、奇妙で気不味い空気が流れる中、上からコテコテのアニメ声がかけられた。

 信親たちは、一斉に声の方向に視線を向けた。

 階段の踊り場付近の手すりに、毛玉が、正確には、毛玉と見間違えそうになるほど繁茂した茶髪の少女が、立っていた。

 茶髪の少女は、長いスカートのメイド服姿で、頭にウサギ耳のカチューシャを装着していた。百四十になるかならないかの低身長で、パーマのかかった茶髪は、ひざ下まであった。

 風呂上がりのドライヤーにかかる時間を想像し、信親は戦慄した。下らないことで慄いている信親を他所に、立ち直った晶が、囚人を呼ぶ刑務官のような硬い声で、少女の名前を呼ぶ。

「山田たか子ですか、お迎えご苦労」

「本名はやめてくださいよー。白兎のことはぁ、白兎って呼んでくださいー」

 外見は可愛らしいし、声もまあ可愛いが、喋り方が好みじゃない。こいつは駄目だな。信親は傲慢にも、白兎と名乗る少女に、不合格の烙印を押した。

 しかし、晶も白兎を気に入らないらしく、舌打ち一つして、白兎の文句に応える。

「人を本名で呼んで、何が悪いのです? たか子さん」

「可愛くないんですぅ。白兎がダメならぁ。ホワイトラビットでもいいですよぉ」

「長くなって呼びにくいので、却下です。白でいいでしょう。貴方の呼び方なんて下らないことより、貴方の仕事を果たしなさい」

「ちえ~、アッキーの意地悪」

「たか子さん。いえ、白兎さんでしたっけ? 今は、貴方達腐女子を逮捕するのに、令状はいらないんですよ。腐女子排除法は、知っていますよね?」

「桐山警部殿、上の事務所までご足労お願いします。報告書とお茶とお菓子を、お出しいたしますです。ささ、こちらへ」

 手錠を出しかねない晶の冷たさに、恐れをなしたのだろう。背筋を伸ばした白兎は、間違った敬語を上ずった声で使い、数十段先の事務所とやらに、案内を始めた。

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