悲愴な肉塊

 いつの間にか眠っていたのか。目を覚ますと、病院の冷たいリノリウムに伏せていた。

 暗がりを照らす足元の非常灯のみが光源となり、淡い白色灯が延々と続いている。

「……静かだ」

 異様なほど静か。一切人の気配がしない違和。

 そう考えていたおり──ひたり、ひたり──水を打つよう、廊下の暗がりから聴こえてくる。

 足音……そう、人の足音だ。人が居ないというのは嘘になるな。

「だれだ」

 足音の主に問うわけでもなく、自問自答のように呟いた言葉。

 ひたり、ひたり──と未だ俺へと近付いてくる足音。それが非常灯に照らされ、色白い二本の細い足が露になる。

「ヒヒッ……ヒヒヒ」

 笑い声。しかも女の。

 ひたり、ひたり──少しずつ表れる肢体。血色の悪い足に膝まで掛かる、褪せた緑色の患者服。

 異様で異常。そんな印象を起こさせる女だ。

「見ツケタ……」

「は?」

 淡い光が歪む口元を微かに写す。

 にちゃり──歯茎は黒ずみ、ボロボロの黒い歯が光を折り──ひたり、ひたり──また近付いてくる。

「クソ……なんなんだよ」

 歯噛みしながらも、徐々に姿を表す女から視線が外せない。

 獣のように鋭い爪牙、青アザだらけの細い腕、逆立った長い毛は、美しさや気品とは乖離した醜悪な女。

 汚い笑いを浮かべ、遅鈍な動きで迫る。

「アナタ……見ツケタ。ヒヒヒ……」

 狂人──人語をマトモに介せない。ヒトから逸脱した異常者。

 そんな女の目は、角膜は割れ、本来白色の結膜は赤黒く晴れ上がり、ダークブラウンの光彩に纏う、赤色の粒子が血涙のように頬を伝う。

 鮮やかな赤……白より遅く、青より早く俺の目に色彩として認識される。

──その色がどうであるかはさておき、この女が光彩に映す光は間違いなく、つまりコイツも俺と同じ異能者だ。

「ドコ? ドコ行ッテタノ?」

 誰と勘違いしてるのか。俺を粘っこい視線で絡めとり、吐き気を催す程の饐えた匂いの髪を払う。

 その指が俺の頬を撫でた瞬間、得も言われぬ嫌悪に襲われ、思わず強く手を払った。

「触るな!!」

「ヒヒッヒヒヒ……」

 小刻みに肩を震わせ、奇妙に笑う異常な女。

 半歩後ずさるため、足を下げた途端、笑い声が止み静寂が辺りを包み、ジンジンと肌にまとわりつく痛み。

 強烈な耳鳴りに混じって微かに声が聞こえた気がした。

「アナタ……カワイイ赤ちゃんヨ? 見テ」

 覚束無い舌足らずな話し方だった女の言葉が、今度はハッキリと聞こえた。

 『赤ちゃん』女はそう言い、微かに耳に届く声が徐々に鮮明に鳴り始める。

 オギャア、オギャア──金切り音にも似た高く嫌な声。

 何度も、何度も、何度も。頭の中に反響し、痛みを覚える程にその声は大きくなった。

 オギャア! オギャア!──痛い、煩い、止めろ。

 足音等なく、次第に女の事なんてどうでも良くなるくらい、声が五感を支配する。

 目を閉じ、耳を塞ぎ、踞ってもまだ聞こえる。うるさい。

「あぁ……あぁぁ!」

 気が狂いそうだ。赤ん坊の声がずっと!

「うるせぇうるせぇうるせぇ!!」

 消えろ。消えろ。

 オギャア!! オギャア!!────お前が殺した。

「へ?」

 見上げた時には何もかもが遅かった。

 目の前に広がる光景。見上げたモノへの理解。

 玉のように無垢な眼球が無数にこちらを見下ろし、赤い歯肉から生えたての歯を歪ませ、ヒトの形をしたそのモノは赤ん坊の顔で出来た肉塊だった。



+++



 霞がかった朧気な情景。何度目にしたものか、最近はめっきり減ったと感じていたが、の夢か。

『ヒトミ、元気な赤ちゃんだぞ!』

 白衣を着た若い男が、大事そうに孩児がいじを抱え、ベッドに横たわる少女に顔を見せる。

『ほんと、かわいい……』

『あぁ! 俺たちの子だ!』

 幸福を噛みしめるよう、白衣の男は少女の手を取り、皺だらけの我が子を見つめ続けた。



+++



 セピア色の情景。まるで過去を覗き込むよう。

 だが俺のものではない。俺の母はヒトミではないし、親父アイツは医者じゃなかった。

『どうしよう……勢いであんなガキと出来ちまった』

 今度は白衣の男が、幸福とは程遠い。苦虫を噛み潰した形相で、ヒトミと呼んでいた少女のカルテを握る。

 そこに妙齢の女が肩を抱く。同じ病院のナースのようだ。

『あたし、小児科だけど?』

『……そうか』

 悪魔の誘い──女の言葉に口の端を歪に歪める。

突然死症候群SIDSだ……あの醜いサルはそれで死んだ』

 女を見つめ、白衣の男は同意を求めるように唇を重ねた。



+++



 再び眼前の景色が変わる。どうしようもない男に騙された少女、彼女は看護婦に制されながらガラスに顔を埋めていた。

『私の子! 私たちの赤ちゃん! どうして!!』

『落ち着いてくださいふぁんさん! 誰かぁ!』

 ガラスの奥には慌ただしく、焦燥を露にした医師が一つカプセルに視線を落としていた。

 少女は譫言うわごとのように『赤ちゃん、私たちの!』っと繰り返し、額から血が出るほどガラスに頭をぶつける。

 やがて駆けつけた看護婦に取り押さえられ、拘束具付きの移動ベッドに縛り付けられ。

 張り裂けんばかりの悲鳴を上げながら、鎮静剤を打たれた少女は、目に浮かぶ涙に血を滲ませていた。



+++



 下半身の疼きに鼻孔をつく悪臭に目が冴えてきた。

 手術台に固定された手足。眼前には女の肢体、肋骨あばらぼねが浮き出た垢まみれの体が俺に跨がっている。

「っ! ん!?」

 赤黒く腫れる瞳がギョロっと俺を見下ろす。

「アァ……アナタとのコドモ、マタ出来タ」

 下半身に覚えた熱さ、疼きはこの女と繋がっていたせいだ。

 歪な笑みを浮かべながら、かげる股から垂れた白濁液がヌラリと耀き。俺は強烈な吐き気に襲われた。

「っぐ! うぅ……」

 悪臭にまみれた醜悪な異常者。

 その思考の一片すら理解できない──そう考えていたが。

 あの朧気でセピア色の情景、そこに現れた煌 ヒトミと呼ばれた俺と同い年くらいの少女が、目の前の女によく似ている。

 容姿や言動はまるで別人だが、筆舌に尽くしがたい、六感めいたものが俺に伝えるんだ。

 『目の前の女は、あの少女』だと。

 そして俺は観てしまった。男に騙され、死んだ赤ん坊を想い、気の触れた瞬間ときを──

「おぇ! げほっ! げほっ!」

 胃液がこみ上げ口の端を伝い、饐えた匂いが口腔から鼻に抜ける。

「うぷっ……あぁ畜生、お前が蒔いた種だろ。どうして俺が──」

 愛憎の混じった不気味な微笑を睨み妄想する。

えにし……拘束を破る」

 視界にうつるクオリア粒子と共に、手足を繋ぐ鎖に相乗し、俺の妄想した鎖が現れる。

 するとすぐに妄想を止め、粒子が霧散したところ背後で鉄片の落ちる音がした。

「ヒヒッ、イヒヒヒ」

 黒い歯を覗かせながら異様な笑い声を上げる女。

「うぐっ、くそ! どきやがれ!」

 俺に股がる女の細い腕を掴み、呆気ない程簡単にベッドから引き摺り落とすと、スラックスのチャックを閉めながら手術台から降りて手術室を出た。

 


 窓ガラスにうつるのは窒化銀ちっかぎんでできた鏡面の裏側のよう、俺すらうつさない。

 まるで外界から隔絶されたようで、リノリウムの床を蹴る俺の靴音。

 そして背後から響く──ひたり、ひたり──と俺を追う足音だ。

「畜生! 畜生!! ふざけんな」

 悪態を吐きながら階段を下り、一階のエントランスホールへと走っていると人の声が聞こえてきた。

「お姉ちゃん! どうして裏切ったの!」

 一ノ瀬の声だ。

「雪子……貴女あなたに戦ってほしくなかった……」

 駆け寄るといつもの眠たげな目した氷華先生と、一ノ瀬が相対していた。

 一ノ瀬の手に握られた日本刀。触れた指先から凍りそうなほど冷たく、鋭利な切っ先を悲しげに氷華先生に向けている。

「っ! 日向くん」

 俺の存在に気付いた一ノ瀬。二人の間に立ち、俺は声を荒げた。

「争ってる場合かよ! アイツが!」

 来た方向を指差しあの女が迫っていることを報せるが、二人とも睨みあったままだ。

「日向くん、これは私たちの問題だから……」

「だから? だからなんなんだよ!──」

 時折振り返りながら刀を構える一ノ瀬は依然、瞬き一つしない。

「──いまは俺たちの命も危ない。ここで氷華を斬って、俺たちを殺したところで何になるんだ!!」

 声を荒げると一ノ瀬は、剃刀のような鋭い目を向け、澄んだ蒼い瞳に涙を浮かべる。

「私だってお姉ちゃんを斬りたくない! でも、お姉ちゃんが組織を裏切ったから!!」

 いつもの間延びし呆けた喋りを忘れ、紅潮した頬に雫が伝う。

 氷華も悲痛な面持ちで後退り、自然と肩がぶつける。逃げ出したいのだろう。

 目の前で苦悩する妹。そんな妹から目を背けてきた姉。

「よく周りを見ろ! ここは現実じゃない、いわば異空間だ。そこから抜け出す方法が分からなきゃ、二人とも無駄死にだぞ!」

 氷華の肩を押し退け、一ノ瀬ににじり寄る。

 一ノ瀬は視線を外しあきらかに動揺している。感情に訴えかけたのは正解だったようだ。

「でも……お姉ちゃんは組織を──」

「二人の蟠りはここを出てから片付ければいい。今、組織の目は無いんだ」

 「でも、でも……」っと戸惑い狼狽えている一ノ瀬に飛び掛かり、刀を持つ右腕を掴んだ──っと思った。


 突然鳩尾に響く衝撃。思わず膝をついた。

「うっ! がぁっ!」

 一ノ瀬の白く長い足が戻ると、首筋に冷たい感触が。

 見れば冰刀ひょうとうあでやかな刃紋に赤い血が流れる。

「日向くんも裏切るんだね──」

 眠たげに淀んだ蒼眼が見下ろす。

「──いま始末してあげる……」

 桃色の唇から漏れる白息、身震いする程の悪寒。

 彼女が発する殺気が、確実なものへと変わる瞬間。振り下ろされる冰刀に眼を瞑った。

「止めなさい雪子!!」

 いままで聞いた事のないはっきりとした氷華の声が轟く。

 ハッとしたよう目を開くと、眼前に透き通った氷の刃が一ノ瀬の刀を止めていた。

「っ! お姉ちゃん……」

 妹の一ノ瀬と遜色ない蒼い瞳。そこには白色の粒子が放出されている。

「わたしには成さねばならない事があるの。ごめんなさい……でも貴女から目を背けないわ」

 つばぜり合い刀、押し返した氷華の刀が結晶となって砕け散った。

 一ノ瀬を前に氷華は白衣を脱ぎ、黒革の手袋を抜き取る。

 その下に潜んでいた異形。骨と皮だけ、痩せこけた老婆のような左腕、静脈動脈が浮き出て爪の剥がれた指先は鋭く。

 その手に再び握られる氷の刀に、血を滲ませながら一ノ瀬を睨み付け、俺のシャツの襟を掴む。

「立ちなさい……」

 言葉に従い、痛む下っ腹を抱えながらよろよろと立ち上がる──っとその一瞬のスキ。

 一ノ瀬の刀と氷華の結晶刀が火花を散らせた。

「相変わらず、殺人のセンスは天才的ね」

 眉一つ動かさず、氷華は左手だけで一ノ瀬の刀を受け流す。

「嬉しくないよ」

 一片の喜びも感じられない冷徹な反駁。一ノ瀬の本質なのか。

 氷華は気にも留めず飄々と眠たげな目を向けながら、刀を受け流しつづける。


 俺の襟を掴む指が解かれ、慌てて二人から距離を取った。

「あの頃より、少しは上手くなったんじゃないかしら? シヴェールから教わったの?」

「シヴェールさんは……」

 今度は氷華が一ノ瀬の心のスキを突き、結晶刀を振り下ろす。

 無論一ノ瀬も素早くそれに対応し、刀で受け止めた。

 再び唾せり合う刀同士。手足が痛み始め、見れば窓ガラスが凍るほど低温になっている為か、今度の結晶刀は砕ける様子がない。

 次第に体勢を崩し、膝を折る一ノ瀬。すると唐突に廊下を駆ける足音と共に二人の頭上に黒い塊が跳んだ。

「よぉ! お困りか雪子?」

 聴き親しんだ声と共に、二発の銃声と閃光が瞬く。

 同時に氷華の結晶刀が砕け散った。


 すると好機と見た一ノ瀬が、体勢を立て直し刀を振るい、避け損なった氷華の左胸から一線──爛れたように白衣が裂け、浅く斬れた胸に鮮血が薄く滲む。

 二、三歩退いた氷華の肩を掴み、顔を上げるとそこには見覚えのある深紅の髪を揺らす男が居た。

「龍一……」

「よぉキョウ。元気そうで何よりだ──」

 いつもと変わらず、ニヤニヤと楽しそうな笑みを浮かべている。っがいつもとは違うことがあった。

 両手に握られた白銀の銃身、湯立つ銃口をこちらに向け、敵意に満ちた瞳だ。

「──俺、言ってなかったか? 喧嘩よりコイツのが万倍ウマいんだぜ」

 龍一のいつもの軽口が、はじめて怖い・・っと思ってしまった。

「よりにもよって……厄介な奴が監視だったのね」

 斬られた傷口を押さえながら、氷華は忌々しげに呟く。


 相手は二人、しかも凄腕の暗殺者。対して素人の俺と、手負いの異能者一人。

 なんだこれ、また絶体絶命じゃねぇか。

 一瞬雲間から陽が射したように思ってたのに、バカばっかりかよ。俺たち殺しても、アイツから逃げられない。

「キョウ! 裏切り者ってなどうなるか知ってるか?」

 何度となく逃げ延びてこられた。今だって、目の前の女を盾に逃げられるかも知れない。

 なのに離せない……離したくないって思ってる。ならここで俺達は終わりだ。

「龍一くん……」

「まぁ、薄々気づいてるよな。そう、死ぬんだ。っというか俺が殺す!」

 俺は死ぬ──あの親父ゴミ野郎にも劣るってのか。

 認めたくない。あの銃弾を刀を異能で防げないのか……いや防げる。

 俺の力を使って今この場を切り抜けられる!

「まだ俺は死ねない! 死にたくない! 【えにし】!!」

 白い粒子を虹彩に纏い、張り巡らした鉄鎖が眼前の景色を覆う。


 その中から龍一のくぐもった声が聞こえた。

「あぁチキショ、だから氷華について行ったのかよ。バカ野郎」

「なにが言いたいんだ龍一……」

「お前も【異常者】だったって事だよ!!」

 鉄鎖を穿つ豪砲が一本、また一本と鎖を絶っていく。

「くそっ! 強度もねぇのかよ!」

 悪態を吐きながら新たに張り巡らせる鎖。

 鳴り止まない銃声が次々と鎖を破り、やがて一発の銃弾が俺の頬を掠めた。

 生暖かい血が唇を撫で、蜃気楼のように歪む視界に一閃──鉄鎖はクオリアに昇華し、虚空へと霧散する。

「なんなんだよ……バカ野郎」

 獅子を狩る獣。鋭利な蒼眼が俺達を睨む。

 そんな蒼い目の獣の奥、冷酷無比な白銀の銃口が向けられ、深紅の髪を靡かせ、息吐く間も無く引き金を引き金を引いた。


 

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