慟哭の中揺れる心 part2 (改稿)

 羽籠はごもりたちは、さっさと路地裏を出て、歓楽街の光に消えていった。


 なんの因果でここまでされ無きゃ、ならなかったんだ。


 軋み痛む体を、空に向ければいつの間にか、降りだした雨が頬に当たり、次第に強くなる雨粒が涙と共に流れる鼻水、口端を流れる唾液を洗い流す。

 このまま眠りたい。気を失って全てをリセットしたい。

 そう思いゆっくりと目を閉じる。っが痛む体は眠りをも妨げ、ただ降り頻る雨に、濡れ体温を下げていくだけだった。


「…………ぢっ、いってぇ……」


 何分も経ってようやく、痛みとして知覚できるまで回復した体を動かすが、相変わらず腹やら腕やら、とにかく全身が痛い。


 雨音を弾けさせ、俺を前まで近づいた足音が止まった。

 目を向けるのも億劫な俺の顔を覗き込んできた、女の蒼い瞳に既視感を覚えた。


「日向くん?」


 優しく間延びした声の主は一ノ瀬 雪子だった。


「あっ、クズ男じゃん……最悪」


 っとA子だった。

 最悪の連中に見られた。っが体は動かない。


「うぅ~どうしたの? 大丈夫? 傷だらけだよ?」


「あのさ……酷い顔……絡まれた?」


 二人の心配する声がとても暖かく感じられた。


 人に優しくされるなんて嫌いな筈なのに、こんなときだけ、痛みとか、悔しさとは違う涙が溢れてくる。

 隠すように腕で目を覆うが嗚咽が漏れ、乾いた情けない声はたどたどしい。


「な……んでも、っずぅ……ない」


 鼻水と雨を同時に啜り、二人の顔を見ないように歯を擦り、自分でも情けなく思う涙を必死におさえようとする。


「ねぇ……日向くん……」


 冷めた額に冷たく細い指が触れ、一ノ瀬の声が余計に鼻孔が開き、目頭が熱くなる。

 俺への気遣いかA子は何も言わない。


 痛む体を再び一ノ瀬に支えられ、泣き顔を隠す姿に二人は何も言わず。

 近くにあるという一ノ瀬の住む、マンションへと連れて行ってくれる事となった。


×××


 圧巻のタワーマンションをA子と二人で見上げ、鉛のように重い体を引きずるようにして、明るい大理石のエントランスへと足を踏み入れる。


 最初のガラス扉を抜けて、三人で三基あるエレベーターのうち、一つに乗り込む。


「ねぇ、あんた名前なんて言うの?」


 静かに駆動するエレベーターの中で突然、A子に名前を問われる。

 俺の肩を支える一ノ瀬にも、本郷ほんごうではなく日向ひなたっと偽名を名乗った手前、ここは同じ偽名を名乗らざるを得ない。


「つぅ……日向ひなた 恭一きょういち……」


「ふーん、あたしは濱田はまだ 涼子りょうこすずしい子っで涼子」


 懇切丁寧に漢字まで教えてくれたが、正直覚える気になれない。


「めんどくせぇからA子で良いだろ……」


 反射的に憎まれ口を叩くと、A子の鋭い視線が俺を射す。

 目的の階に着くと扉が開き、それと同時に俺の足を傘の先端で刺してきた。


「いってぇ!! …………痛っ」


「えへへ、今のは日向くんが悪いんだよね~」


「ふんっ!」

 分かりやすく憤りを見せたA子が扉を押さえ、俺と一ノ瀬が出ると扉を離し、三人でだだっ広い廊下を進む。


 一ノ瀬の部屋を前に、頑丈そうな扉には、ドアノブ以外に鍵穴らしいものがない。


 一ノ瀬はせっせと鞄から薄い端末を取り出し、ドアノブにかざすと錠が外れる音がした。

 例によってA子が扉を開いてくれてる間に、さっさと中に入ると、室内の壮大な広さ、荘厳かつ壮麗な室内に感嘆の言葉が漏れた。


「おぉ……すげぇ」


「ひろっ! ちょー広い!!」


「えへへ~~初めて買ったんだぁ~」


 恥ずかしそうに笑う一ノ瀬に靴を脱がしてもらい、キッチンカウンターを越した先、街を見下ろすほどの高さがある窓側に備えられた。

 五十インチ以上はあるテレビの、差しにある皮張りのソファーにずぶ濡れの制服のまま、寝かせられる。


「雪子ちゃんのお父さんって、何してる人なの?」


 俺も気になってた質問を、A子が代わりに投げ掛ける。


「えーっと……居ない? かな?」


「え? じゃあこの部屋は?」


 一ノ瀬が問われるとハッと何かに気付いた様子で突然、あわあわ言って露骨に焦りだした。


「あわわ、えぇっと……うぅ、ううん……」


「お、落ち着いて雪子ちゃん! もう聞かないから!」


「うぅ……ごめんね」


 一ノ瀬を不憫に思ったのか、A子が質問を諦めたので、真相は分からないままになった。


 恐らく俺の予想では、男と同棲していてその部屋を間借りしているだけ……だと思うが、広さに反して最低限の家具がある程度で、調度品など一切無い、徹底した断捨離ぶり。

 男の収集癖が垣間見えないのは少し不自然だな。


 一ノ瀬がさっきまで俺を支えていたため、に濡れてしまった制服の上着を脱ぎ、胸元だけ丸くふくよかに膨らんだワイシャツ姿になる。


「凄いよね雪子ちゃんって……」


 その大きな乳房に惹かれたA子が、何やらブツブツと唱えながら、指を厭らしく動かし、一ノ瀬を背後から襲った。


「ふぇ!? ちょ、ちょっと、どうしたの?」


「フフフッこの胸がイカンのだよ、この胸が!」


 大きくふくよかに育ったメロンを、優しくこねくり回すA子と、恥ずかしそうに顔を伏せてA子の手を退けようと抵抗する一ノ瀬とのプレイを見せつけられる。


 俺はいったいどういう目で見ればいいんだ。混ざればいいのか?


「ほれほれ! ここがええのか? うん? 正直に言うてみ?」


 A子が変な大阪弁になっている。

 まるでセクハラするオヤジみたいな発言だな。AVの見すぎだ……A子。


「ふゅぅ~あ、ちょっ……だめだよ!」


「ホホホ可愛いな~~」


「いい加減止めてやれよ……」


 俺がA子を制止しようと声を掛けるが、完全にHIGHになってるA子を止めるには、言葉だけでは駄目なようで、俺の言葉を歯牙にもかけない。


 かといって体はまともに動かないから止めにも入れない。理屈じゃないんだな。


 痛くて動けないんじゃなくて、打たれた所が筋繊維を千切り、皮膚を腫れさせ、動けなくするんだ。


「ほ、ほら……日向くん、お風呂に入らないと……りょ、涼子ちゃん……」


「雪子ちゃんが、も~っと甘い声で鳴いてくれたらね……」


「うぅぅぅ~~」


 一ノ瀬が泣き出しそうな顔で唸っているのを見てA子が爆笑し始めた。


「アハハハハハ!! ほんとっ可愛いな~~今時居ないよ~」


 腹を抱えて笑うA子に対して、一ノ瀬は豊満な胸を腕で隠しながらふるふる小刻みに震えている。


 ホント、なにやってんだコイツら……いや、寧ろ俺は何を見せられてたんだ。


 一ノ瀬が立ち直り、ようやく室内に備えられた暖房がつけられ、スイッチを押して風呂を沸かしてくれた。


「じゃあ日向、あんた先に風呂に入ったら? 覗きなんかさせないから」


「……この状態で入れるわけねぇだろっツ、イテッ」


 なんとか重傷は避けられた背筋を使い、上半身だけ起き上がらせ、A子に文句を垂れる。


 すると氷を袋に入れた一ノ瀬が駆け寄って来て、上着を脱がせてくれた。


「あっ体が冷えちゃったら大変だから、タオルで拭くね?」


 それだけ言い残して、風呂場から柔らかそうな綿のバスタオルを持ってきては、俺のワイシャツも脱がし、恥ずかしながら女の前で上半身裸の状態になった。


「痛かったら言ってね♪」


 溌剌とした笑顔を向け、節々が赤く晴れ上がり、所々に古傷やら根性焼きの痕が目立つ腕から包むように優しく体表の水分を拭う。


 本当にほとんど力を入れず、俺も気恥ずかしさから無言で受け入れ、優しいちから加減と柔いタオル生地のせいで、変にくすぐったく感じてしまった。


「くっ……んくっ」


「大丈夫? 痛くない?」


「んっ、あぁ大丈夫、くすぐったいだけだ」


 俺に奉仕するように膝を折り、上目遣いをしながら、クスリと笑う一ノ瀬に、何故か心がザワつく。


 流石に下半身、特に“ナニ”は無理なので、若干濡れたパンツを履いたまま。

 足は自分で軽く拭い、服が乾くまでの間、俺は一ノ瀬に借りたバスローブで過ごすこととなった。


 知らない間にA子は先に風呂に入ったようで、リビングに居らず、一ノ瀬もニコニコしながら俺の服を部屋で干した後。

 鼻唄混じりにキッチンで晩飯の用意を始めた。



 とても奇妙な感覚だ。


 俺が嫌いな、生温く穏やかな時間が目の前にあると、いつもの緊張感が一気に解れ、常に強ばっていた肩の力も抜ける。

 その上妙な手汗も、肌を刺す痛みもない。とても穏やかな気持ちで、陽気に口ずさむ一ノ瀬の鼻唄に耳を傾けられる。


 一ノ瀬もA子も、俺との無為な関わりを持った事に文句をいわない。

 俺ならばこんな面倒事に首を突っ込もうものなら「くだらない」なんて一言で一蹴、文句の二言は本人に吐くだろう。


 気を遣われているのかそれとも、一ノ瀬やA子の本質なのか分からないが、庇護を求めてただ泣いた俺より、随分と大人に感じる。

 哭いて誰かに助けを求めるだけの俺みたいな、矮小な人間とは雲泥の差だな。


「ふーさっぱりした~~」


 髪をバスタオルで拭きながら、風呂場から戻ってきたA子は、来たときと同じ上着姿のままリビングに戻ってきた。


「雪子ちゃん、なに作ってるの?」


「あんまり材料が無かったから簡単なパスタをね♪」


「へ~雪子ちゃんって料理得意なんだ」


「えへへ~~少しは自信あるよ~」


 そう言って一ノ瀬はA子に皿を渡し、俺の居るソファーまで三人分の食事を運んで来る。

 一ノ瀬の用意した、ほうれん草とベーコンのパスタが、ソファーの前のガラステーブルに置かれ、三人でいただくことになった。


「筋肉を回復させるには、まず炭水化物だから、日向くんも少しは食べてね?」


 そんな化学的な解釈は耳に入らず、目の前の湯だった暖かい食べ物に魅入られていた。


「手料理か……初めてだ……」


 炭化水素化合物で構成された料理……


 出来立ての料理ってのはコンビニ弁当に無い暖かみがあり、ファミレスなんかでいただく物より、一層食欲をそそられる。


「あんた、普段なに食べてんの?」


 俺の言ったネガティブ発言に、A子は呆れた様子で質問してきた。


「コンビニ弁当だな。面倒な時は健康食品かな」


「うわ~ちょー不摂生。よく太らないわね」


 自分でも不摂生なのは自覚があるが、なにぶん作れるような設備もないんでな。っと言っても始まらない。


 フォークに手を伸ばすが少し曲げると前腕が震え、上腕との痛みで伸びきらず、まともにフォークも持てなかった。


「…………いてっ」


「あっ、日向くん食べさせてあげよっか」


「え? いやそれは……」


 一ノ瀬が俺の言葉を待たずして隣に腰掛け、否応なしに俺の分の皿を持ち、パスタ麺をフォークに絡め、手で受け皿を作って口に運んでくれる。


「はい、あーん」


「…………っあ~~」


 正面から一ノ瀬の蒼い瞳と屈んだ胸元を見せつけられながら、食べさせられると余計に気恥ずかしい。


 なぜこんな事をいとも容易くやって抜ける辺り、この女の尻の軽さが窺える。

 コイツは誰にでもこうなのだろう。俺が特別って訳じゃなさそうだ。


「よく噛んでね~♪ おいしい?」


「………………薄味だ」


 A子を見るとパスタにあまり手をつけず、薄目でこちらを睨み返してきた。


「な、なんだよ……」


「いや……あんたもそんなことされたら喜ぶんだ、って……」


 とても冷めた言い方に、いつもなら憤慨している所だが、一ノ瀬の包容力を前に何故か逆らえない。


「ち、違う! 俺は――」


「日向くん? あーん」


 A子の言葉に照れながら否定しようとするが、すぐ隣の一ノ瀬が再びパスタを口に運んでくれ、反射的に口を開けて食べてしまう。


 また数口で食べ終えた俺とは違い、一ノ瀬は冷めた飯を食う事になる申し訳無さもあった。


 そしてA子はほとんど口もつけず、フォークを置く。


「ごめんねユキちゃん、あたしもう食べれないや」


「え? お口に合わなかった?」


「そうじゃないんだけどね。あんまり食欲が無いんだ……」


 A子が申し訳なさそうに謝りながら皿を持って台所に向かった。

 折角作ってくれた物を粗末にしたくなかった俺は、反射的にA子に声を掛けた。


「お、おい……それ、俺が食うよ」


「食べすぎは良くないよ?」


「せっかく作ったんだし、勿体無い……」


 そう言うとA子が黙って俺の前に皿を差し出し、何かに気付いたようにニッと口端を歪めて笑った。


「ははーん、まだ雪子ちゃんに、あーん♪ して欲しいんだ~~」


 突然の冗談に困惑し、痛みも気にせずその場で声を荒げた。


「は!? なんでそうなるんだ!」


「隠さなくてもわかってるわ~変態さん」


 一ノ瀬を見るとポカーンっと意を介さない様子で、この場を眺めている。

 自然に労っているつもりだった一ノ瀬は、俺が声を荒げている意味が解らないようだ。


「違う! 一人で食えないから……仕方なく!」


「じゃあ、あたしが食べさせてあげようか?」


「え……? そ、それはちょっと……」


 迂闊な否定するとA子が再び、下卑た笑みを浮かべる。

 や、ヤバイまたつけ入る隙を与えてしまったか?


「ほらやっぱり! 隠さなくてもいいのにね~~」


 案の定裏目に出た。


 一ノ瀬に同意を求め冗談めかしく言うと、一ノ瀬は目を丸くし、微笑みながら答えた。


「うぅ? 私は別に気にしてないよ?」


 一ノ瀬が呆気あっけらかんとして言い放つ。


 そんな言葉じゃこの場は納まらない……そうだ逆を行け、A子が嫌がる事、そうすれば納まる。


「じゃあ、一ノ瀬はまだ食ってくるから、A子がかわりに食わせてくれよ!」


 言うとA子の笑顔が瞬時に消え、俺に怒りに似た目を向けた。


「はぁ!? なんであたしが! てかA子じゃないし」


「ヒヒッ、なに嫌がってんだよ。お前がやるって言ったんだろ?」


 調子に乗ってさらにA子を追い込むと、悔しそうに歯噛みしながら、彼女の残そうとしたパスタの麺をフォークに巻き、嫌々といった様子で俺に差し出した。


「ほら! さっさと食べなさいよ!」


「……ッチ」


 俺は舌打ちし、可愛いげの無いA子の差し出すパスタを口に運び、一口食べるとさっさと次のパスタを巻き、差し出してきた。


「まへぇ、まはぁはへてふ!(待て、まだ食べてる)」


 口を指差して訴えるがA子は聞かず、フォークを開かない口に突っ込んできた。


「さっさと食え!」


 無理矢理押し込まれると、またすぐに次のパスタを一口サイズに巻き、俺の口に押し込む。


 窒息しそうになるところで、慌てて水を持ってきてくれた一ノ瀬に、水を飲ませてもらい、パスタを流し込んだ。


「お、お前……無茶しすぎ……」


「あんたがあたしに食わせて欲しい、って言ったんでしょ! ほら!」


 また差し出されたパスタを口に運ぶ。

 胃にまだ入りきっていない麺を、一瞬戻しそうになった。


「んぐっ……、もっと優しく食わせろ! デリカシーがねぇ女だな!」


「はぁ!? 人をメイドかなんかと勘違いしてる変態よりマシよ!」


「誰が変態だ! 誰が! お前、変態の定義も知らねぇのか!」


 俺達がいがみ合ってる中、一ノ瀬が不意に笑い出した。


「ふふふっ二人とも、やっぱり仲が良いよね」


「「どこをどう見て仲が良いんだ!」」


 偶然にも答えが合致したA子を睨むと、A子も険しい形相でこちらを睨んでき、一ノ瀬はさらに腹を抱えて笑った。


「あはっ! また合ったよ! あはは~!」


 一ノ瀬を見ていると、こちらまで笑いそうになる。


 逸らした目がA子と合うと浮かべていた微笑をすぐに止め、さっさと空いた皿を片してシンクに持って行ってしまった。



×××



 結局何故か俺もA子も泊まることになってしまった。

 俺は相変わらずソファーで一人、街の明かりを背に消灯されたリビングで、エアコンの唸る音を聞きながら薄手のタオルケットにくるまったまま、目を閉じるが眠れずに居た。


 腫れあがった傷口は気付けば青紫色に変わり、所々に斑模様まだらもようができて、内側には内出血のような血管が破れ皮膚内に溜まった痕が出来、ソファーに触れだけで痛む。


 一ノ瀬とA子は二人とも同じベッドで、別の部屋で寝てるらしく、リビングから隔絶された女の園から寝息聞こえてはこなかった。


「なんだよこれ……まるで青春満喫、男子高校生じゃねぇか」


 リンチに遭い、そこを通りがかった転校生と、ライダーキックかまされた女子生徒に介抱された。

 こんなこと人生で一度あるか無いかだろ。


 俺は眠れない夜を無為に、痛む体をよじらせ、寝返りをうちながら過ごしていた。


 そんな中突然、一ノ瀬たちの部屋から一人の人影が出てきた。



 その目は血走り充血しており、鼻息荒く涎を垂らしながら興奮状態の女は台所の電気を点ける。

 キッチンの灯りが点くと、そこには明るい髪を跳ねさせた無精のA子居た。


 ブツブツ独り言、言いながら出てきたが、一体どうしたんだ。


 シンクに備えられた蛇口から水を流し、口から溢れる唾液を気にもせず、包丁を取り出し腕にあてがって何やら叫び始めた。


「ちがう! 違うの! あたしは一人じゃない!」


 絶叫にも聞こえる独り言の後、肉が裂けるような音と、悲痛な叫び声が谺し、慌てて顔を上げる。


 腕を切ってやがる。

 そこには数時間前まで溌剌としていた濱田 涼子は居ない。死にたがる人間が突然、発狂しては理由も告げず死のうとする。

 俺はそんな光景を数年前に一度見ていた。


 度重なるクズ野郎の暴力で疲弊した母親が、何度も自殺を図った事を覚えており、そんな母親をアイツは余興でも楽しむように、壊れていく様を楽しんでた。


 すると一ノ瀬が異変に気付き、寝巻き姿のまま部屋から飛び出し、声を荒げながらA子に駆け寄った。


「涼子ちゃん!! 駄目だよ! そんなこと!」


「違うの! …………い、一枚でもあれば……あ、あぁ……違うのよ!」


 A子が常用している薬物、この界隈でも若者中心に流行っているLSD、リゼルグ酸ジエチルアミドのワンシートを欲しているようだ。


 動悸を抑えるよう、口で深呼吸しながら、恐る恐る覗いた先には、薬物の禁断症状で手足を細かく痙攣させ、一ノ瀬の向ける目を見ようとせず、虚空に怯えているA子が見える。


 思えば、晩にパスタを食べなかったのは、薬物依存による空腹感の欠如によるものだったのかも知れない。


「大丈夫! 大丈夫だよ!」


 一ノ瀬は落ち着かせるようA子の腕を擦り、生理学に準じた鎮静を図るが。

 A子は突然激しく一ノ瀬の腕を払い、手に持っていた包丁を振り回し、一ノ瀬が瞬時に腕で防御姿勢をとる。

 すると刃先が一ノ瀬の腕を切り、赤く鮮やかな血が糸のよう細く皮膚を破り流れ落ちた。


 一ノ瀬は痛がる素振りもなく自分の腕の傷を気歯牙にも掛けず、A子に声をかけ続ける。


「大丈夫……大丈夫だから……」


 突然血走った目を向け、襲いかかったA子だったが、落ち着きを取り戻したのか、持っていた包丁を離した。



 俺は状況の見えない台所付近に、タオルケットを持ちながら近づくと、おびただしい量の返り血がフローリング一面に流れ。

 絶え絶えの息を吐くA子を前に、くの字に曲げて座り込む一ノ瀬の顔は返り血を浴び、裂けた寝巻きから見えた白い腕は真っ赤に染まっている。


「日向くん……タオルケット貸して……」


 なぜか今にも泣きそうな声で要求された、タオルケットを一ノ瀬に無言で渡した。


 それでも一ノ瀬は取り乱す様子がない。本当、何者なんだコイツ。


 いまだ溢れ続けるA子の腕を、強く押さえつけるようにタオルケットで止血し始めた。


 血液恐怖症でない俺であっても、これだけの血が目に写れば貧血を起こし、倒れそうになるのに、コイツは呆然と虚空を見つめるA子に笑顔を絶やさずに声をかけ続けている。


「水が欲しかったんだよね? 大丈夫だよ」


「あ、な、なにか……――」


 なにか出来る事はないか? っと掠れた声で話し掛けるとA子の血走った目が、突然一ノ瀬に向いた。


 気持ちが悪い。突然静まったと思えば、こうして再び目を覚ます。なんだよコイツ!


「薬、持ってるでしょ? お金ならあるから、売ってくれない?」


 唐突な発言に俺は意味が分からず戸惑っていると、一ノ瀬は苦虫を噛み潰したような表情で呟いた。


「そんなのないよ……」


「嘘……なんで嘘なんて吐くの?」


 A子の真剣な声色は異常な恐怖を感じさせる。


「ねぇ……ねぇ!! なんで嘘吐くの!!」


 切れた腕はだらしなく垂れ、A子の真っ赤に染まった腕は一ノ瀬の首を掴み、細い指先にエナメル質の爪が一ノ瀬の白く柔らかい肌に食い込む。


「りょ、涼子ちゃん…………痛いよ……」


 一ノ瀬が僅かに苦しむように口を歪めたが、また目を細め苦しみながら笑顔を絶やさず、目尻に溜まった一滴の雫が頬を撫でた。


 A子は鼻息荒く、声になら無い渇れた声でぶつぶつと呟きながら、一ノ瀬の首に深く爪を立てる。


 俺は、俺なら、どうすればいいんだ。関わりたくない、でも、A子を止めれば一ノ瀬も助かる。


 A子の腕は見るからに神経まで深く切ったようで、腕を止血しなければいずれ失血して、血圧が低下し、自然と倒れる。

 それでなくてもこれだけ失血多量なら、貧血を起こして力が弱まり、一ノ瀬でも容易に外す事が出来るはずだ。


 だから俺は手を貸す必要はない――――


×××


 目に見える景色は、そのまま脳を介して現実の物として見せていると錯覚させられるのは、他人も同じ景色を見ているからだ。


 所謂、観測者理論。俺ともう一人、そして観測者が居るから、物理法則が成り立つと言う物。


 俺の目も耳も全て正常なら、なぜ目の前の光景は動かない? 

 

 先程、目を耳を閉ざし全てを時の流れに従おうと、目を閉じると異常なほど、自分の鼓動が聞こえ目を開けたら、俺の目の前で、一ノ瀬とA子は制止していた。


 キッチンの淡い光に揺れた一ノ瀬とA子の影は、感光した写真を視ているように動かず、その場に在り続けている。


 目を開いたまま、思考は廻り続け、耳鳴りすら鳴らない静寂、静謐。

 目が乾くこともなく、体の痛みもない。


『君は物事を簡単に裁断してしまうようだね……』


 突然頭に響いた声は何処か幼く、低い男の声。


 漆黒のコートに身を包んだ男は、顔を隠すようにフードを被り、音も立てず俺の視界に現れた。


 ――音が震動だというのだから、この静謐な世界において、音が無いのはごく自然な事……――


 そんな風に当たり前に捉える俺の思考に嫌悪感を覚えた。

 異常な光景、異常な現象は俺の知るものではない……


――だが確かに知覚している、これは現実だ――


『これは現実だ。君の知る本当の世界……』


 俺はこんな非現実など知るはずがない、いや知り得なかった筈だ。


――この男が教えた。だから俺は知っている――


 男は顔を覆うフードごと、俺の顔を覗き込む。

 そこには本来あるはずの人間の顔、影を一切写さず、男の頭には砂嵐のようなノイズが生じていた。


 悲鳴をあげようと肺に空気を取り込んだつもりが、何か詰まっているように空気を取り込めない。


『君の望むものがある……』


 男はガラスコップに入った無色透明の液体を差し出てきた。


 飲める筈がない、怪しすぎる。そもそも何故、俺は無色透明だと、何か解らない物だと思った?


 水だろ。これはただの水。そう考えた瞬間、胃を登るような感覚を覚えたが、これも錯覚だ。

 口など動かない。


――これは俺の欲した『ちから』……――


 体が動かないんだ。上位者の血など飲める筈がない……

 いやこれは血なのか? なら何故分かる?


――錯覚だ――


 いつしか紛れ込むノイズの中の声は、俺の意思に入り込み、声に促されるままに腕を伸ばした。


 ガラスコップ一杯の液体を一気に仰ぐ。

 味など無い、喉を通るというより体に浸透するような感覚だ。


――運命の糸は紡がれ、俺はこのちからに導かれた……縁を繋ぐ『えにし』は脆くあり、強固なものでもある――


 青白い粒子が身を包み、目に見える制止した世界が同じく『ちから』の影響であることを理解した。


 あの黒フードはもう居ない。


×××


 世界が動き出した時、視界の端は青白く光を帯びていた。


えにし……」


 瞬きをした瞬間、冷蔵庫から発現した固く冷たい金属の鎖はA子を絡めとり、引き寄せることを想像すると、鎖は冷蔵庫に引き取られ、A子は冷蔵庫にはりつけになる。


「……なに、これ……」


 一ノ瀬が茫然と口にした言葉を聞き、失念していた俺の意識を戻した。


「なんだよ……これ……」


 自分の発した言葉が耳に届いた瞬間。

 視界に写っていた青白く光は消え失せ、A子の体に巻き付いていた鎖も同時に消え失せる。


 するとA子の体は冷蔵庫を背に、魂の抜けた人形のように掌のひらを丸め、冷蔵庫の前で事切れた。


 それを見た一ノ瀬が素早く駆け寄り、A子自身が切った腕に乗っていたタオルケットを強く押さえつけ止血する。


 溢れる血液は次第に少なくなり、一分もすると出血は治まった。


「日向くん、涼子ちゃんの腕を押さえてて」


「ん、あぁ、分かった」


 一ノ瀬の変わりにA子の腕をタオルケット越しに押さえつけ、その間に一ノ瀬が救急箱を持って戻ってきた。


 滅菌ガーゼを傷口に合わせてカットする。


「日向くん、タオルケット退けて」


「お、おう……」


 タオルケットを退けると。べっとりと赤いのりがタオルケットにこびりつき、A子の腕はきれいに横一線に切れていた。


 すると一ノ瀬はA子の腕を握り、傷口を注視し始めた。


「お、お前……うっ! もう限界!」


 A子の腕から手を離し、シンクに身を乗り出すと胃から上がってきた物を盛大に吐き出した。


 大理石でできたシンクの周りは冷たく白い。

 血の赤色が目に焼き付いて離れず、残光効果のような錯覚に視界が歪んで見える。


「日向くん! ちゃんと押さえて!」


 一ノ瀬の叱責に呼び戻され。

 目を瞑りながら再びA子の腕を押さえる。


 一ノ瀬はガーゼの上から半透明の細いテープを巻いて固定し、その上からさらに包帯を巻いた。


「よかった……」


「も、もういいか?」


 一ノ瀬に確認をとり、目を開ければ施術を終えた医師のようにため息を吐いて散らかったガーゼの切れ端や包帯の残りを片し始める。


 そのなかに茶褐色のアンプルに入った薬品があり、自然と興味が向き、一ノ瀬に質問した。


「あのそれ……そのアンプルなんだ?」


「えっと……医療用の鎮痛剤、“モルヒネ”だよ……」


「A子が言ってた薬って、モルヒネの事か?」


 俺は抱えたA子の細い腕を見つめる。


 一ノ瀬の持つモルヒネを求めるほどに、禁断症状が悪化した中毒者と居ながら、俺は気付けずにいた。


 それは違法薬物が身近に潜んでいた、という周知の事実を再認識させられたと同時に、A子は違法薬物に陶酔しなければならないほどに心が弱り、果ての自傷行為は何度目の出来事だったのだろう。


「かもしれないね……とにかく、涼子ちゃんをベッドに運ばないとね」


 っと言って一ノ瀬がA子を抱え、軽々と先程まで二人で寝ていたベッドに向かった。

 晩飯時に見た拒食症状は、薬物が原因だったようで既に感覚器官の一部が異常を起こしていたのだろう。


 細かい息をするA子に一ノ瀬は、A子の額に手を当てた。


「あっ……」


「なんだ?」


 突然なにかに気づいたように言葉を漏らした一ノ瀬の視線の先を見ると、先ほど包丁で切った自分の腕の傷に今ごろ気付いたようだ。


「あわわ、こっちも止血しないと~あぁ~パジャマが切れてる~うぅ~」


 一ノ瀬が泣きながら寝室を飛び出し、血塗れのキッチンで自分の傷の手当てをしている。


×××


 さらに夜が更け、救急車も呼ばず一ノ瀬と二人でキッチンの血を拭き取り。

 先程の出来事が嘘のように静かなリビングで、鎮静効果の高いホットココアを飲んでいた。


「はぁ~涼子ちゃん……大丈夫かな」


「死んだら面倒だったな。死体を遺棄しても放置しても罪にとわれる」


 犯罪にこれ以上、荷担するのは面倒極まりない。


「むぅ~違うよ~」


 隣にいる俺の前でぶんぶん腕を振り、否定の意をあざとく見せた後、神妙な顔つきで話し始めた。


「依存性の高い薬物だから、更正させようにも私たちだけって訳にいかないし~放っておきたくもないんだよね~うぅぅん」


「考える必要なんて無い。A子が自ら進んで薬物に手を染めた。他人に頼ることも出来ない社会にも問題があったかも知れないが、自身の弱さを勝手に肯定し、幻覚による多幸感での幸せを欲したんだよ。

 “他人の意見を尊重する”って、奴等の大好きな台詞を借りるならA子の選んだ道を尊重して言ってやるよ

“勝手に一人で死ね。悩みなんて薬が聞いてくれるほど、くだらないものなんだろ? 反社会的行為と知りながら、自ら選んだアイツに真っ当に生きる権利なんて無いんだから。どうぞ血を吐いて、のたうち廻り、惨めな最期を遂げてください”ってな」


「そんな! 助けてあげようよ!」


 一ノ瀬のくだらない価値観にため息が出た。


「人一人助けるってそんなに簡単じゃねぇよ。自分の時間投げ売って、アイツをを更正施設に通院させ、家庭環境と生活環境を改善する。そのうえ本人の意思とは無関係に、蝕まれた体に鞭打って禁断症状を抑えさせ、約八割だと言われている再犯率に、また薬を始めたA子をその度に同じことを繰り返させるのか?

 ロボトミーでもしない限り止めさせられないんだ。それとも一ノ瀬の言う助けるってのは更正施設に放り込んで、その後は関係ありませんって言うことか?」


「う、うぅ……ち、違うよ……」


 湯気がたつマグカップを口許に近づけ、今にも泣き出しそうな顔で、一ノ瀬は中身のココアを覗いていた。


「じゃあ助けるってなんだ? 殺してやることか? 一番楽だもんな。本人も望んでるよ。こんな世界に生きて嬉しいなんて、人間は自己陶酔に耽る妄想家みたいなもんだ。

 そもそもの明確な幸福論など持たないし、考えもしない哲学的ゾンビだらけ。

 俺たちガキが、A子にしてやれるのは精々二つ、一つはA子と縁を切り二度と関わらず、アイツの破滅なんて知らないと目を耳を閉じ、口を噤み、自らの行動を正当化しながら続け生きていく事。

 もう一つはさっき一ノ瀬が言ったような偽善、独善を押し付け自身を満足させ、永遠にA子を見下して生きていく事だ。俺なら前者をお薦めする」


 指折り優しく教えてあげると、一ノ瀬は小さく首を横に振り、呟いた。


「日向くん……酷いよ……涼子ちゃんの事嫌いなの?」


「嫌いならこんなに真剣に考えない……俺は正しい物の見方を示してるだけだ」


 一ノ瀬はそれ以上何も言わず、カップに残ったココアを啜りソファーを離れ、寝室へと向かった。


 独善や偽善など、この世に溢れた善意は、醜悪な部分を覆う簑で、現実にはそんな善意など全て悪意に変えることができる。


 なぜそうまでして現実から目を背け、助けるなどという偽善を押し付けるんだ。


 不意に一ノ瀬とA子と出会い、ここへ来た経緯を思い出し自分の言葉として想像ではなく、呟いた。


「孤独は嫌だったんだ……あれが助けられるって事なのか……」

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