本郷 恭介

戦慄の後の静けさ

 肺一杯に冷えた空気を吸い白息を吐く、時々噎せかえるなか、子浦しお川を前にした住宅街の公園にたどり着いた。


 上気する頬と凍えた指先、荒く口だけで呼吸しながら公園内に入り、ひとつの街頭に照らされたベンチへと腰かける。


 先ほどの惨劇、目の前で大勢の人間が撃ち合い、殺され、一人の男が高笑う地獄に平然と顔をだし談笑する蒼い目の女。すべてに辻褄があう。


 俺を狙っていたのは忌々しいことに、一ノ瀬が所属する組織に手を出したであろう野郎のお陰で、俺まで命を狙われる羽目になったってところだ。


 頭を抱えながら吐き気からきた気持ち悪さに、ベンチから立ち上がり、砂の上に唾液を嘔吐し、鼻に残る不快な臭いと頭を鈍く重苦しい痛みがのし掛かり、既知感に似た耳鳴りが静寂に水を差す。


「ぉぇ……はぁはぁ……ぎもぢわりぃ……」


 木製で作られた風化したベンチの所々茶褐色に酸化された鉄を掴み、くの字に折れた腰を戻し、口を濯ぐため備えられた公衆便所に向かう。


 蛍光灯で照らされた薄暗い公衆便所に、妙な既視感を覚えながら、男子便所に近づくと話し声が聞こえた。


「へぇ~君は羽咋高校の生徒なんだ? ぐふふ……」


 聴いた事のある固有名詞、俺の通う羽咋高校の生徒に話しかけているのか?


 注意深く入り口から中を覗くと、灰色の上下スーツ、見るからに肥えた中年くらいの男が女子生徒に詰め寄る。


 蛍光灯に照らされて白く耀いて見えるセミロングの髪にウェーブを当ており、男の背で顔までは見えないが女子制服であることは分かる。


 所謂『青姦』ってやつか? 

 まぁ公衆便所ではやらんだろうし、『援助交際エンコー』や『JKリフレ(違法な)』は珍しく無い。


 変態プレイじゃなく『ラブホテルハコ』にくらい連れていくだろ。


「オジサン……わたしのお願い聞いてくれない? なんでもするから……」


 女の甘い声色に興奮した肥えた男は、見えてないが鼻孔を膨らませながら鼻を鳴らし、小さな窓枠の下に女を追い、下卑た声と共にズボンのベルト緩めた。


「ぐひっ、最初からそのつもりだろ?」


「ふふっ……うん、最初からオジサンにお願いしようと思ってたよ……」


 変態女と変態男のお陰で、俺は口の乾きと気持ち悪さに耐えなければならない、いや、いっそ女子トイレなら口を濯げるんじゃないか?


 だが目を離せないでいるのは……高校生の性か? まったく俺もバカだよな。他人の性行為を好き好んで見るやつがあるか!


「個室に用意してるから……」


 女の言葉に喜んびながら男は女の肩を抱きながら、木の軋む経年劣化した戸を開けた。


「ぐひっ! …………へ?」


 男の間抜けな声に女は突然笑い出した。


「ふふっ、ふふふふふ……実験たーいむ!」


 そう叫ぶと女のスカートポケットから折りたたみのナイフを取りだし、突然笑いながら肥え太った男の腹を突き刺したのだ。


「あ゛あ゛あ゛!! がっ!」


 唾を振り撒き、小さな叫びをあげ、腹に刺さったナイフを覆うように両手をわなわな震わせ、驚愕し目を剥く。


 女は口端を不気味に吊り上げたまま、個室へと男を押すと、簡単に便器に座る音がした。


  すると女は個室から顔をだし、手に持っているポリタンクの中の液体を個室内に掛けだす。


「あっぶっ! ぶぇ! た、助けて!! な、なんなんだ!」


 液体を掛けられた男は戦き、女に向かってか俺に向かってか叫びをあげる。


「オジサン、わたしのお願い聞いてくれたら、なんでもするって約束覚えてる?」


 幼い声は残酷に、手に持つオイルライターを男に見せながら話し掛けた。


「お、覚えてる! もう充分だろ? な? 救急車を……」


「よかった~今さっき言ったことだもん。忘れられてたらどうしようかと思っちゃった~――」


 無邪気に笑う瞳孔は怪しく揺らめく炎を見つめる。


 その瞳に光は無く、虚ろな瞳は手に持っていた煌々と靡く光を落とし、爆発にも似た火柱が天井を焼き、男の絶叫が谺した。


「ぎゃぁぁぁあ゛゛゛゛!!!! あづぅい゛!! あづぅ!!」


 叫び声と共に伸びた腕は、女の瞳の輪郭を彩る蒼白い光の発現により、突然現れた有刺鉄線のような物が開かれた扉に張り巡らされ、切れた皮膚から湯気のたった血液が吹き出し、汚い床のタイルを赤く染める。


 炭素を含む髪の焼けた臭い、皮膚と体外の内蔵は燃え、生臭くあり饐た臭いと熱気が外にいる俺にも届き。


 指先まで赤く灯った火は窓ガラスを内側から割り、女は悪臭と炎の熱気に耐えかねてか、表に出てきた。


「ふふふふふ…………あ」


 後ろ向きに未だ燃え上がる火柱と叫び声を聞きながら、うっとりと妖艶に微笑んだ女と、出入口で一部始終を見てい、脚が竦み動けなくなっていた俺と眼があった。


「センパイ……ふふっ! センパイだぁ!」


 今度は自分の放った炎に気にせず、突然、俺に抱きついてきた。


「な、な、なんだ! お前!」


「え~♪ 忘れちゃったんですか? 幸奏です! ゆ・か・な!」


 少し脱色した髪に艶と光沢のある銀髪の毛染め、こんなDQN丸出しの殺人者に知り合いなど居るわけがない。


「お、お前なんか知る訳ないだろ!」


 俺の言葉に俺の胸に顔を埋めていた女が顔を上げ、驚愕の表情、蒼白い光を放っていた瞳を向けた。


「本当に言ってるんですか? センパイ……」


 女の肩を押し、瞳の光が消えた瞬間、男子便所内で人が倒れるような大きな物音が外に居る俺達にも聴こえ、女は物音に振り向きもせず俯いた。


「…………わかった~♪」


 虚ろな目を向けたまま、俺を押し離した女は口紅とグロスの照った唇に人差し指を当て、妖艶な笑みを浮かべる。


「センパイ! 二日も会わなかったから怒ってるんだ~可愛い~フフッ、じゃあちゃ~んと教えてあげますね~」


 口を歪めたままブレザーの胸ポケットから取り出したスマートホンを弄り始め、三角印の再生待ちの画面と、エロサイトの広告が大きく枠を占める動画を再生した。


 

 そこには見覚えのある制服のワイシャツを胸元から裂かれ、割れんばかりの叫び声をあげる女の口を塞ぐように女に跨がる一人の男が首を絞める。


 女は息がつまり、潰れたカエルのように無様な、声にならない声を上げて小刻みに体を震わせ、カメラが女の顔に寄ると、そこにはメイクや髪色は変わっていたが、目の前の殺人者が写っており、血走った目を剥き目尻に溜まった涙が流れていた。


 二日も会ってないと言うのは、とどのつまり二日前に会っていたという事。


 それは龍一が言っていた、女と遊んだ夜の事を指すとすれば、俺は目の前の殺人者を知っている事になる。

 だが思い出せない。なぜだ。


「フフッ……私なんですよ! こ・れ♪」


 スマートホンの画面を俺の眼前から離し、自分で自分が犯されている動画を観ながら笑い、話始めた。


「センパイの言った通りになりましたよ~フフッ、この動画、再生回数十万回越えました。本物のレイプ動画! フフフ、実際、警察は動いてますけど『動画は既に複数出回ってまして、回収出来ませんって……』これなんかは一般人ですけど、龍一センパイがボコボコにした男の人がヤクザと知り合いだったみたいで、あの後私、誘拐されて、裏ビデオって言うんですか? 無理矢理縛られて、撮られて、今ではちょっとした有名人ですよ? エッヘン!」


 スカートのホックを外して見せた制服の下には、痛々しく残る青痣と内出血の痕。


 俺が言った通りに……っとは、どういう事なのか。

 俺はコイツに何を言ったのかも思い出せず、焦げた臭いと熱気、異常な状況にも関わらず目の前の女は悲痛に見えてしまった。


 それがただの弱者への憐れみだと理解しているつもりでも、思考するだけに留まり、何もできない自分に苛立つ。


「フフッ……センパイもしかして私の事考えてくれてます?」


「……ぐぅ……よ、よく戻って来れたな。誘拐した女は大概薬漬けにして売られるもんだが……」


 こんな時ですら、常識的な回答を選んでしまう自分の情けなさに歯噛みした。


「はい! 私も薬漬けにされそうでしたから、皆殺して来ましたよ!」


 屈託の無い笑顔を向け、嬉々としてそう答えた言葉に戦慄した。


 他人の人生を事を当たり前とする。あの茶髪や久世とか言う女と同じ類い。


「聞いてくださいよ~♪ センパイ。他にも色んな女の子居たんで、中には殺してとか叫ぶ片な人が居て最悪でした」


「…………お、俺は……お前を知らない」


 恐怖にも似た感情、この女に背を向ければ隣の壁越しに叫び声の止んだオヤジのように、醜い死が待っているような気がする。


「はぁ……まだ言うんですか? 私、ちょっと怒っちゃいますよ?」


 呆れたような声にも殺意を感じ、竦む足を引き摺りながら一歩下がる。

 それでも彼女の虚ろな目が、動画の彼女の見せた涙──嬲られる女の痛みを感じさせ、微かな同情を抱いたのは事実だ。


 胸の熱く痛み、目頭に涙が溜まる。


 白息に霞む彼女の虚ろな目から逸らせない。


「なのに……知ってるような気がする……──」


 鼻に溜まった鼻水を吸い、妙な気持ち悪さに唾液を飲み込み、また一歩下がった。


「──龍一の事も知ってるなら、俺はお前を知ってるはずなんだ……」


「そうです。センパイは私を知ってます。知ってなくちゃおかしい。知らない筈ない」


 捲し立てる女の言動に鳥肌がたった。


「誰だよ……お前!」


 俺の大声に呼応したように爆発音が便所から響き、中の火炎はより一層強さを増してきていた。


「センパイって人を殺した事あります?」


 今朝がた、同じような質問をされたのを思い出す。あのときは『殺した事ないでしょ?』っだったが。


 俺は迷いながらも、自らが望む答えを出した。


「無い……っが、殺してみたいとは思う」


 それは誰もが願う真実、蹂躙し嬲り、辱しめ、女だろうが男だろうが殺してみたい。特に女は甘美な声をあげ、絶命するのだろう。


 夢物語にも近い願望は、目の前に起きた他人の死を軽んじるような醜悪にして低劣な欲望。


 そう吐露しながらも、俺は目は他人の死を見、吐き気を催すほど凄惨なもので、耳を塞ぎたくなるような呻き声、悲鳴は理想とは程遠く、残るのは腹の奥底に吹き溜まる不快な感情。


 それでも口からは簡単に言葉が出た。

 自分の手にナイフが握られてようが、虐げられようが喉を裂く事も心臓を刺す事もできない、臆病者の癖に……。


「センパイ、私もあんな汚いオジサンよりずっと殺したかった人が居ます……」


 いつの間にか俯いて自身と向き合っていた。


 女の声にハッとして顔をあげると、女は何処から持ち出したのか、バッテリー内蔵の電動チェーンソーをバイクのアクセルを吹かせる。


 連なる刃を高々と上げて、女は虚ろな目を三日月のように細め、口角を吊り上げながら綺麗な歯茎を見せ、笑った。


「私はずーっとセンパイを殺したかったんです。特にこの子で~♪ フフッ」


 鋼鉄の刃が高速回転する音は、自然と恐怖心を煽り、冷や汗と首筋を刺すような緊張感、手汗と荒くなる動悸が胸を震う。


「あ、頭がオカシイじゃないか? お前!」


 渇いた口を開き、声帯を震わせた声は怯えの色が出た。

 

 女はさらに口の端を吊り上げ、一歩ずつ俺に近づいてくる。


「愛するって、こう言うことですよ。センパイを殺して永遠に私のものにするんです!」


 チェーンソーが唸り声を上げて目の前で振るわれた。


「ひぃ!!」


 恐怖に声をあげ、力が入らない腰が小刻みに震え、地面に両手を着いた。


 すると女はチェーンソーを止めて、俺の眼前に顔を近づけ、虚ろな目を向けて俺の瞳を覗き込んできた。


「“男は女の最初の男になる事を願い、女は男の最後の女になる事を願う”って言葉、知ってます?」


 突然、場にそぐわない質問を投げ掛けてきた。これをしくじれば、俺は殺されるのか?


 チェーンソーの止まった連面と繋がる鉄の刃を見つめながら、一人の詩人を思い出した。

 一瞬、レンブラント・ファン・レインと混同したが、答えは『幸福な王子』の著者。


「オスカー・ワイルド……」


「正解です! 意味は解りますよね?」


「はぁ?」


 恋愛においての男女の思考パターン、俺は彼女いない歴=年齢だから正しいのかは知らないが、少なくとも共感はできる。


 フランスの哲学者マルキ・ド・サドも描いた作品内での、処女性についてよく言及していた。


「解りませんか? センパイの最初の女になるのは私、センパイの最後になるのも……私なんです」


 女の言葉は現状を指していた。


 憎悪を孕んだような怪しい笑みを浮かべ。


 徐々に眼前に迫る瞳に写る、業火と黒煙を消し、怯え竦む俺の困惑した顔を映し。

 肉厚な唇にルージュが塗られており、灰の匂いと舞う黒煙から遮られ、甘い匂いと吐息が俺の口に重ねられる。


「ん……ぅむ」


 動揺しつつ鼻の頭が合い、妙な体温と肌寒さ、鳥肌が立ち、女の異常な行動に頭が混乱し始めた。


 重なる唇から漏れる吐息が、自然と顔を上気させ、長い髪を耳に掛ける。


「な、なにしてんだお前!」


 蜜のように甘美な薫りが鼻孔を擽り、甘い唾液が俺の口に溶け、茹だるように上気した彼女の頬が妖艶に写る。


「センパイ……もしかして初めてですか? フフフ」


 女が不敵な笑みを溢しながらワイシャツのボタンを二つ外す。

 はだけた胸元の小さな谷間に薄く浮かび上がる血色のいいはだが、俺の顔に近づき白息の掛かる軟らかく張りのある胸に眼を奪われた。


 遠巻きに聞こえ始めた、けたたましく鳴り響く警笛に舞い、上がる灰がチラチラと盛んに騰った炎に当てられ。


 女は冷たい指先を這わせ、俺の手を握るとさらに口角を吊り上げ、女の胸の谷間に俺の左手を押し当て、瞳に光を宿した。


 蒼白い光は瞳の輪郭に現れ、女の匂いと奇妙な光景に頭に鈍く痛み始める。



 虚ろな瞳、胸中に蟠りがあった。


 栫井かこい……幸奏ゆかな……名前だけ。

 符号が一致するように思い出したというか、名詞として接続するとしっくり来た。


 龍一も昨日の二日酔いのように気持ち悪かった時に言っていた、「女とビリヤードをして遊んでいた」と……。


 ふわふわとした記憶の情景を思い浮かべた瞬間、一つの線となった。


 龍一が集団レイプの現場に殴り込み、その時教われていた女が……“ゆかな”とか名乗って、その名前と合致した派手な女も“ゆかな”と名乗った。


 これは見た目の変化のせいとかではなく、ビリヤード場から出た辺りから突然、記憶が曖昧になっており、なんか近くで銃声が聞こえてたような気もする。


 スタンガン? の電撃の音と黒いコートを着た男だったか、そいつに薬と酒を飲まされて銘酊したんだろう。


 次の日の頭痛や吐き気は、酒とドラッグのちゃんぽんのせいだったのだろうが、誰が何の目的で俺に薬を飲ませたのか思い出せない……。


「いってぇ!!」


 女……栫井 幸奏の暖かかった胸の感触が失われ、手に激痛が走った。見ると栫井の手に重なった、俺の手から血が滴っている。


「いづぁ! 何してんだ! お前!」


「お前じゃないです……ゆ――」


 栫井が自分の名を口にする前に声を張り上げ、名前を思い出した事を話す。


「幸奏! お前、栫井幸奏だろ! 思い出した! 本当だ!」


「やっと思い出してくれましたね! フフ、やっぱり私の気持ちを知ってて……わざとあんな言い方してたんですね……? じゃなきゃ理由が無いですもんね?」


 喜びの表情から一転、突然声音を低くし、栫井の虚ろな瞳が俺を映した。


「な、なに言ってるんだ! 俺は今思い出したんだ!」


 苛立ちながら叫び、自分の手に視線を戻すと、赤黒く滴る血が薔薇の花弁ような錯覚を覚えた。


 だが、それはただの幻覚、栫井の瞳が語るよう、こいつは『異能ちから』を使ったんだ。


「嘘つくセンパイも、私は好きですよ……」


「ふざけるな……」


 狂言を繰り返す栫井に怯えながら反駁すると、栫井の手と俺の薬指に巻き付いていた鉄のいばら、有刺鉄線を引き抜いた。


 叫び声をあげそうになる口を噛み締め、抉れた指の肉に巻き付いた有刺鉄線は栫井の手のひらにも突き刺さっており、栫井は嬉しそうに異能を解き、あった筈の有刺鉄線が消えて、蜘蛛の糸のように皮膚を這う血液を舐める。


 痛みに震えながら栫井の胸から離された手を握り、必死に抉れた肉から溢れる鮮血を絞め上げ止血する。


「血の交わりは永遠を誓う二人には必要不可欠だと思いません?」


 警笛が知らず知らずのうちに公園の隣に止まり、黒く焦げ付く壁に背を向ける栫井に叫んだ。


「ぐ……お、お前の信仰に付き合う気はさらさら無いんだ!!」


 一か八か、目の前の女を睨み付け視界の端に映った青白い光が見え始めると、女の血に濡れた手首に背後の真っ黒に焦げた壁と炎に繋がれる鎖を想像する。


「あはっ! センパイも私と同じ……やっぱり運命だったんですね!!」


 喜びを露にする栫井の手首は鎖に繋がれ、寝転ぶ俺の背後に到着した消防隊員が俺の襟を掴んだ。


「キミ! 危ないぞ!!」


 両腕を鎖に繋がれた栫井は、立ち上がらせられる俺に怪しい笑みを浮かべた。


「センパイと同じ異能者なんて夢みたい……でも甘くないですか?」


 栫井が再び瞳に光を宿すと、鉄の鎖を内側から破るように有刺鉄線の蕀が栫井を繋ぐ鎖に現れ、無情にも地面に赤く湯気を出す鉄の鎖の破片が落ちた。


「ふふっわたしの方が強いみたいですね」


 笑う栫井に厚い防火服の隊員が駆け寄り、手を持つと栫井の笑顔が消え、嫌悪を抱いたような表情で隊員の手を払う。


「センパイ以外がわたしに触るな!!」


 怒りの籠った怒声を張り上げると、困惑した隊員の体から聞いたこともない音で、身体の内側から肉と骨、神経を破った有刺鉄線が隊員を傀儡のような奇妙な形で留める。


 手足は無理矢理、さかさを向き、防火服を突き破った有刺鉄線を伝って吹き出す鮮血が、冬の夜空、炎に照らされ、噴水のように身体の穴から吹き出し、俺を立たせた隊員も引き笑いのような変な声を上げた。


 俺は胃を刺激する吐き気を必死に堪える。


「嘘だ……なんでこんな……簡単に……人が」


 隊員の怯えた声が余計に俺の焦燥と苛立ちを掻き立てる。


「邪魔しないで……わたしはセンパイと、 ずっと一緒に居たいだけなんです」


 足下に転がっていたチェーンソーを片手に、刃の素早い回転、耳障りな隊員の絶叫が響く。


 俺は口に溜まった生唾を飲み込み、ガクつく膝を叩いて頭を振り、栫井に背中を向けてベンチを目指して走った。

 

 背後からチェーンソーの刃に肉を掻き裂かれ、嗄れた叫び声がより一層、俺に焦燥感と切迫感を与え。


 ベンチの上に置いてあった鞄を抱え、恐怖に振りかえりる事もできず、栫井の笑い声に怯え、植え込みに足を取られながら、公園を仕切るフェンスに足を掛け、飛び越えた。


 赤く発光する警告灯と火事になった公衆便所、気づかぬうちに公園を取り巻く野次馬共。

 面白半分に立ち上る黒煙を動画に撮ったり、笑いながら友人と話す連中が、 公園から出た俺に視線が向けられる。


 人混みを遠慮がちに掻き分け、腕に抱えた鞄を強く抱き寄せ、迷いながら氷華先生の言葉を思い出す。


『困った事があれば、助けられる筈よ』


 たしかそんなことを言っていた。


 不用意に一ノ瀬に、あの女に関係する人間に近づいたからこんなことになった。


 目の前で映画のように簡単に人が死に、感傷の暇なく次々に問題が舞い込む。


 俺がこんなことに巻き込まれる謂れは無いはずなのに……ホテルには帰れない。


 奴らが見張っている可能性が高い為、ホテルに帰れないとなると他に行く宛は無くなる。


 母親の勤める風俗店なんか、当然門前払いだろう。

 クソゴミ親父のせいで俺がこんな目に、異能? 組織? ふざけんな。俺は好きでこんな“ちから”が欲しかった訳じゃない。


 なんで俺だけが変な事に巻き込まれなきゃならないんだ!!


「はぁっはぁ、くそっ! クソクソ!! ぶっ殺してやるあのゴミ野郎!!」


 涙ながらに叫びながら走り続け、やがて警笛が遠くなっていくと、頼るところのない俺は既に消灯した暗い病院の前に着いた。


 白息を吐きながら鼻を鳴らし息を整え、熱い目頭から滲む泪を拭い、額に浮かぶ汗も拭き取る。


 全身を針で突くような痛みに歯噛みし、寒い夜空の許、病院の裏口に回った。


 緊急の患者のために備えられた裏口は解錠のランプが点いており、厚い扉が小さな隙間を作っていた。


 インターホンを前に迷い、俺は黙って扉を開けて入ると中は薄暗く、非常口を示すの緑の蛍光灯と足許を照らす小さな光源がまばらに廊下に広がっている。


 恐る恐る靴を鳴らしながらリノリウムの廊下を歩く。

 視界端の自分の影に時々驚きながら、無人の受付を覗いた。


「…………す、すいません」


 自分の耳にすら聞こえないほど小さな声を絞り出すが、当然のように受付から誰かが顔を出すことは無い。


「Buona sera (ボナセーラ)」


 突然俺の背後から男の声が聞こえ、音もなく現れた一人の男に驚いた。


「うわっ! な、は?」


 大きな影の男は俺よりも十センチ以上高い外国人が、金色の瞳で見下ろす。


 中世で見られるような、紋入りのマントを羽織った大きな背中に長い二本の槍を差していた。


 一瞬警戒したが、目の前の外国人の表情は穏やかで、敵意や恐怖を感じない。


「驚ロカセタネ。ワタシ、氷華ノ友人」


「あ、え? ど、どうも……」


 片言の日本語で挨拶した外国人が氷華先生の友人であることを話、背中を向けて歩き始めた。


「ドウシタ?」


「えっと……案内して貰えるんですか?」


 俺の質問に首肯し、俺は鞄を握り絞め外国人についていった。

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