【第三章】 組織

日向 恭一

Endless Waltz

 嗅ぎ慣れた新品のシーツの匂い、固いプラスチック片が入れられた枕を掴み、重い瞼をゆっくりと開ける。

 判然としないの中、今居る場所を認識しようと体を起こす。

 シングルベッドの上、エアコンの熱風と、型の古い薄型テレビ。間違いなく俺が現在、住んでいるビジネスホテル、五階の一室だ。


 これは夢? それともこの前の事が夢? 

 よく考えれば銃撃戦や、よく知らない女に殺されかけたり、デカイ外国人に槍で刺されるなんて、現実離れし過ぎているよな。


 体を起こして、ベッドのへりから足を下ろし、両腕を天井に向け背筋を伸ばすと、左腕のワイシャツが垂れてきた。

 よく見れば、パックリと裂けたワイシャツの袖。切り口から覗けば、左腕に一線にみみず腫のように浮かび上がる線がある。

 左脇にも同じように裂け目があり、見ると脇腹に縫った痕が残り、背筋を毛虫が這うような、嫌な寒気に襲われ身震いを起こす。

「って事は……あれか? 全部、現実?」

 エアコンの噴出口から唸りを上げて、熱風を排出する音だけがする室内で、微かに呟く。


 俺の傷口は治されたが、アイツらに居場所が割れた事になる。それは俺の命が危険に晒されている事に直結し、その実、この状況は何の解決にもなっていないという状況に他ならない。

「マズイ……ここに居てると、殺される」

 慌てて身仕度しようと鞄を覗いたが、あることに気付いた。

 ここを出てどうするんだ……。


 母親がこのビジネスホテルのオーナーと懇意(情婦)になって、ここに住まわせてもらい、あの親父ゴミの元を離れた。安易に外に出ても一ノ瀬の手先が、俺を狙ってる。

 もしかしたらあの訳のわからん異常な女が居るかも、学校なんてもっての他、一ノ瀬やあの女も在籍してるはず。

「いや……台風を恐れるなよ……。台風の目、渦中に身を投じてこそ、生きる芽が見える」

 学校という衆人環視の中で、俺を殺せるか? 少なくとも二百三百の目がある。

 それに一ノ瀬の手先と氷華先生……いや氷華達とは手を組んでいるどころか敵同士、利害の一致は無い。

 一度死ぬ直前まで行ったんだ。


 今は学校に行こう。運よく龍一に会えれば、俺は龍一の味方だって言える。

 死にたくない。殺したいが、死にたくない。常に一方的な暴力、殺人だからいいんだ。

 あのソルジャックとかいう外国人、一ノ瀬の手下の久世くぜと茶髪の男、羽籠はごもり 隆義たかよしと名乗ったヤクザ、それにあのゴミ野郎も同じだった。


 そんな事よりもう何日も風呂に入ってないし、こんなボロボロのシャツじゃ登校できない。

 ブレザー、スラックスは泥が付いており、スラックスに至っては、失禁したらしく、股間の辺りが乾いてアンモニア臭がより一層濃い。

 この一室に設けられた浴室、と言っても浴槽が在るわけではなく、有るのはシャワーだけといった構造だ。


×××


 シャワーも浴び、新たなワイシャツとスラックスに履き替え、裂けたブレザーを着ず、しわだらけのワイシャツにグレーのネクタイを結び、第一ボタンを外しネクタイも緩める。

 持ってても邪魔になるだけの学生鞄に、教科書を詰めようとデジタル時計を確認すると──月曜日、つまりは眠っている間に休日が過ぎていた。

「二日経ってたのか……」

 一瞬驚いたが、俺の傷口が縫合されていること、そして気を失う直前。痛みが無かった事から、刃が腹部の末梢神経を切断された為に疼痛とうつうが起こらなかった。

 そう考えれば、手術には其なりの時間が要され、俺をここに運ぶまでの時間を計算に加えれば、決して不思議じゃない。

 なんて暢気に考えて、時間を見れば既に八時を回っている。

 急がなければ、学校中のが教室に集中してしまう。


 真新しい教科書、全て一年生の物だが、一冊だけ化学の参考書が入っており、これを抜いて今日の分の薄い教科書だけで構成する。

 鞄の奥底に見慣れたナイロン製のカバーに刃が包まれた、標準的なサバイバルナイフ。この十六年の人生で一度も本来の使用目的を果していない。

 

 ワイシャツのまま、プレートに部屋番号が振られた鍵を持ち、部屋を出て清掃可能の札をドアノブに掛け、部屋を施錠する。

 エレベータを使わず非常階段で、一階のフロントに行き、無人のカウンターに借りきっている自室のキーを置いてビジネスホテルを出ると、ホテル内と外の寒暖差に思わず身震いした。


 昼間はガラリとスプレーアートが色濃く残るシャッターぐんの銀天街、その路地裏から出て、住宅街に入った。

 忌まわしい記憶が残る公園の入り口には『KEEP OUT』の黄線と、黒皮のジャケットを羽織った警官が立番りつばんしており、青い制服姿の男達、その中にはちらほらスーツ姿もある。

 入口を見えないように立っていた灰色のコンクリートの壁は、真っ黒に焦げ付き、通り過ぎ様に見える硝子窓は割れ、警官の中には吐き気を催して公衆便所から飛び出し、花壇で嘔吐する奴も居た。

 俺には当然、犯人に心当たりあるが、立番の警官の視線から逃れるように、子浦川を結ぶ橋へと急ぐ。

 いつに無く鈍く見える羽咋高校の外観が怪しく、危なげに映るのは、俺の胸中に言い知れぬ不安があるからだろう。


×××


 やはりと言うか、一人だけ皺の入ったワイシャツと緩いグレーのネクタイ。小学生に奇をてらって年中、半袖、半ズボンのガキが居るが……よもや俺がそう思われる格好を、この歳でしてしまうとは。

 くしゃみをする程ではない、手足は尋常でないくらい痛む。

 急いで教室に入り、温もりと緊張に手汗を掻きながら首筋を流れる冷や汗を拭い、俺の席の前に居る殺し屋を見た。


 揺れる黒髪と蒼い瞳が隣に座る濱田はまだ 涼子りょうこ――A子に向き、俺の存在に気付かず無邪気な笑みを浮かべながら談笑している。

 そして不意に訪れた視線移動。俺の存在を察知した殺し屋 一ノいちのせ 雪子ゆきこの冷徹な虹彩に俺を写し、A子に向けていた笑顔の皮が剥がれた。

「怪我の方は大丈夫?」

 殺し屋より先に声を掛けてきたのは、初めて会ったあの日より、頬が痩けたA子だった。

「…………」

 考え倦ねた結果、A子を無視して殺し屋の後ろに座る。

 やはり俺の考えた通り、この学内では俺を殺れないらしい。

 A子と殺し屋が訝しげに見つめる中、俺は隠した口角を釣り上げて勝利を確信した。

「ちょっと! 何無視してんるのよ!」

 A子が怒気の籠った声を上げる。

「…………」

 俺が答えずに黙っていると、A子は自分の席を立ち、俺の机を叩いた。

此方こっちが心配してるの! なんとか言いなさいよ」

「け、怪我なら大丈夫……」

 間近に見ればファンデーションで巧妙に隠されてはいるが、眼球は少し赤く、唇が濡れている。

「エヘヘッ、涼子ちゃんも久しぶりに学校来たんだよ?」

 「だから心配で当然」とでも言いたいのか、この殺人者は。

 どう見ても病気、マトモには見えないA子の様子に流石、人を平然と殺す殺し屋の面目躍如めんもくやくじょと言ったところか。

 目の前の殺し屋と骨と皮、そして静脈の浮き出た若干十五、六歳の少女とは思えない手と、対照的に健康的に少し焼けた黄褐色が歪に見えた。

「あぁ……そうか……」

 ニヘラニヘラと笑う殺し屋の蒼い瞳が此方に向き、反射的に目を逸らす。

「はぁ~あのね――」

 A子が何か言い掛けたところで、授業開始の予鈴の割れた音を古いスピーカーから流れ聞こえてきた。


 一限目の担当教諭が入室し、A子は眉根を寄せながら俺を一瞥。自分の席へと戻り、気怠げに発せられた号令を無視して俺は机に顔を臥せた。



×××


 窓際の席からか、暖房がついてもまだ肌寒く、仕切りに二の腕を摩りながら、乾布摩擦かんぷまさつのように暖を取っていると時折、殺し屋 一ノ瀬雪子が振り向く。

 俺も負けじと睨み返すとそそくさと前を向き直り、ノートを取る。


 そんな事が四限まで続き、ようやく一息吐けた。

「はぁ……」

 安堵の混じった深い溜め息を吐き、昼食のため食堂に向かう生徒と教室組に別れ始める。

「雪ちゃん今日はお昼どうする?」

 A子が何の気なしに一ノ瀬に声を掛けた。

「今日は初めて学食で食べよっかなって~」

 いつもの間延びした調子で一ノ瀬が答えると、A子はニッと笑う。

「今日は外に食べに行こっ!」

「ほぇ? で、でも学外は駄目なんじゃ?」

 困り顔の一ノ瀬を立たせて、有無を言わさず連れだそうとするA子に内心感謝した。

 これで脅威は去り、俺は平穏無事に学校内で生活を送れる。

「あっ、恭一あんたも来れば?」

 突然A子が振り返り、俺に向かって変な事を言ってきた。

 俺も条件反射で「へ?」っと素頓狂な声が出てしまう。

「な、なんで俺が……」

「いいでしょそんな事! はい鞄持つ! しゅっぱ~~つ!!」

 俺と一ノ瀬も不覚にも目を合わせ、何が何やら解らないうちに、寒さの厳しくなった外へと肩を押され、半強制的にサボタージュさせられる。

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