ファム・ファタール

 水滴が雲の糸のようサンルーフを伝い、運転席のフロントガラスを規則的にワイパーが振るわれる。

 まるで俺の不安を化現けげんしたかのように、羽咋に向かうにつれて強まる雨足。

 一ノ瀬の蒼瞳が開かれ、緑髪を撫でながら俺を見つめ微笑んだ。

「えへへ……」

 なにを笑っているのか。

 嘲るクソ女をそしる悪態ばかり、湯水の如く湧いてでると同時に、苛立ちを隠せない自分を客観的に見下ろす俺がいる。

 やがて車が停まると、シートベルトを外した一ノ瀬が俺の前へ膝まづく。

「貧乏揺すり! めっ!」

 俺の口へ人差し指を当てる。

 冗談か気を紛らわせるための気遣いか、一挙手一投足が鼻につく。

 いっそコイツに引き金トリガーを引きたいと思えるほどに、俺は追い込まれているようだ。

「貧乏揺すりもしたくなるだろ。なんたって……俺がこの世で一番殺したい相手なんだからよ!!」

 語気を荒げ、震える手でオフデューティを一ノ瀬に向けた。

「そうだね……」

 優しく諭すよう、この女は俺の言葉に同調した。


 手錠が外され、足取り重く街灯だけが足下を照らす路傍へと降りる。

 エドゥアルドは早速、ベネリのM3──グリップと銃底ストックの一体化されたスーパー90のフォアエンドを引く。

 眼前には見慣れない雑居ビルが一棟。

 外からは一切の光が漏れない、無人のように見えるビルだが入り口で横たわる、二つの死体からここがただのビルでない事は分かる。

「ここに親父アイツが居るのか」

 オフデューティを強く握り、フードを深く被る一ノ瀬は無言で首肯する。

 何度も眼にした人殺しの目──一ノ瀬、特有の鋭く無情な眼差し。

「エドさん……周辺の警戒を……」

Уразуметно了解……」

 冰刀の防刃布をほどき、つかつかと先頭を行く。

 俺も一ノ瀬の後を拳銃を構えながら進んだ。

「アルファ6は戻ってください……アルファ3は対象の確保──」

 灰色の壁を彩る紅、ガラス戸を穿つ弾痕が壁までめり込んでいる。

 一ノ瀬と俺の足音だけが妙に反響するなか、荒い吐息と共に階段を駈け降りる男たち二人と目があった。

「──コンタクト……」

 一ノ瀬の呟きに青ざめた男の一人が迷わず、長ドスを構えて斬りかかってきた。

「でりゃぁぁあ!!」

 ゆうに十段以上の階段を飛び降り、上段の構えで斬りかかる青ざめた男に対し、一ノ瀬は俺の肩を押して階段を駆ける。

 青ざめた男の一撃は見事空振り。

 だが俺へと狂喜の眼差しを向け、長ドスが横凪ぎに振られようとした時──爆音と目玉が跳んできた。


 白煙を上げる銃口が見え、眼前の男は髪を散らせ階段にこびりつく肉片と夥しい血液が、その幕引きを物語る。

「あぁ、助かったエドゥアルド・ティーシン……」

 俺の言葉を無視しロシア人は銃口を下ろした。

 すると階段を落ちてくる拳銃が目に入る。

 見上げると一ノ瀬が返り血を浴びながら、もう一人の男の首を悠然と跳ね、桜色の唇を歪め俺を見下ろす。

「行こ? 日向くん」

 何もしていないにも関わらず、白息に紛れて額に滲む汗が目に流れる。

 数日で感覚が麻痺してしまった殺人。吐き気こそ微々たるものだが、胸中に蟠る汚泥のような感触は未だに慣れない。

 階段を上がり首の無い死体、その胸に付けられた金バッジが長尾組のものである事で、このビルに合点がいった。

 ここはアイツが管理する長尾組の羽咋支部、その事務所が入った雑居ビルだ。


 なるほどつまりエレベーターがあるにも関わらず、真っ先に階段を使うのは、事務所の入った階にエレベーターが停まらない事を加味した訳か。

 銃声がまた鳴る。警戒しながら二階を覗くと、場違いで陽気な口笛と話し声が聞こえてきた。

「EAが周到なら、もっと早く数を減らせたよ」

「あぁ? あのレズ女が突っ込むのが原因だろ。それにアニュスのバカに一匹でも殺らせねぇ為だ」

「だからって普通、遂行順序を無視する? またユキちゃんに怒られるよぉジュン」

「うぅっ、ゆ、ユキちゃんには黙っててくれ!」

 聞きなれたバカ話。佐野サイコ野郎久世くぜ千佳ちかだ。

「聴いてたよぉ~佐野くぅ~ん!」

 ぷくっと頬を膨らませる一ノ瀬に対し、心底怯える佐野が今にも土下座しそうな勢いで膝をつく。

「ひぃ!! ユキちゃん!?」

 突然部屋の扉が開かれ、一人の男が踊り場で相対した。

 まるで無防備、丸腰の男──久世は透かさずスリングを引き、シテス【亡霊スペクトラ】を手繰る。

 佐野も反射的にホルスターからCz75を抜き撃つ。

 銃弾の多重奏が男を持ち通り蜂の巣にした。

「隊長、私たちは一階で増援を警戒します」

 銃を下ろし久世は火傷を擦りながら、醜く歪んだ笑みを向け、一ノ瀬は首肯する。

「じゃあな」

 頭に包帯を巻いた佐野が、銃を持つ手で手を振った。

 敬意を払ってくれたのか前に見た佐野より少し態度が軟化している気がする。


 階段を降りる佐野と久世。唐突に久世が足を止め、俺達に向いた。

「恭一君、殺人者や強盗がなんで顔を隠すか知ってる?」

「警察の追跡から逃れるため……だろ」

 質問の意図が分からず、愚直な答えを選んだ俺に歩み寄り、久世がいつも被っている唾広のミリタリー帽子を被せてきた。

「罪の意識を偽るため……諸説色々だけど、顔を隠してると落ち着くよね」

 帽子の唾を掴み、目深に落とすと一ノ瀬や久世達の視線がいやに気にならなくなる。

「あぁ……少しだけ借りる」

「うん」

 歪な微笑みを向け、久世は階段を降りた。

 傍らの一ノ瀬を見ると頬を膨らませ、なにか言いたげに唸りをあげている。

「うぅ~うぅ~!」

「なに唸ってんだよ……」

千佳チカちゃんいいなぁ~って!」

「はっ?」

 俺が小首を傾げるが一ノ瀬は、プイッとそっぽを向けて歩き始めてしまった。

「日向くんなんて知らない!」

 なんて緊張感のないやり取りだろうか。


 階段を上り三階、四階と来ると立ち込める硝煙の濃厚な残り香より、剥き出しの混凝土コンクリートにへばりつく臓物と血潮が多く。

 喉や腹を裂かれ、頭蓋骨を穿たれた死体の山が出来上がっていた。

「うっ匂いが……」

 胃の奥から込み上げる胃液。

 その強烈な死臭と、窓ガラスから刺すように降る雨水が不快指数を高める。

 だがそんな中を一ノ瀬は平然と歩き進めていた。

 まるで路傍に転がる小石を見るよう興味無さげな視線を向けるだけだ。

「さっ、ここだよ」

 一ノ瀬の促す一室、ネームプレートには何て事の無い部屋番号が振られ、扉は半分開いていた。

「あぁ……」

 オフデューティを握り、慎重にやや身を屈めながら入室する。

 カジノのよう、扉を潜るともう一枚扉があり。カーテンを避けて扉を押して中に入った。

 

 シックな室内、業務用のデスクや壁に散乱する弾痕、そして地べたを這いずる瀕死の男。

 喉を裂かれ漏れでる吐血、両腕はなく足の腱が切れ、芋虫のように身動ぎを続ける。

 こひゅぅこひゅ──時々血の混じる呼吸をし、やがて男は目を剥き瞳孔を開いて事切れた。

 誰の仕業か……それは上を見上げた時に気付く。

 血の滴るマチェットを剥き出しに、アンバーの鋭い瞳がこちらを捉えていた。

「Heterogeneous……」

 アニュス・デイ・クリスティーナが呟き、静かに地面へ着地する。カトリック風のキャソックを身に纏ったスレンダー美人は、鼻孔を広げ俺の首もとに寄ってきた。

「……」

「な、なんだよ」

 俺の質問を無視し小首を傾げるとマチェットを仕舞う。

 少し遅れて一ノ瀬が入り、俺の肩を叩くと部屋の奥へ続くドアを指差した。

「あっちに日向くんのお父さんが居るよ?」

「そうか……」

 覚悟を試されているのか。

 俺が戸惑い、躊躇した瞬間──或いは逃亡した瞬間、二人の刃は俺を屍に変える。

 額に滲む汗を拭い、針の刺すような痛みに耐え、俺は思い足を引き一歩ずつあゆみを進めた。

 磨りガラスに見える応接室。

 アルミかステン製かのドアノブを回し、恐る恐るドアを開けた。


 紫や赤といった趣味の悪い原色で彩られた室内に漂う、嗅ぎ慣れた麝香じゃこう。アイツの匂いだ。

 オフデューティを構え、革張りの二人掛けソファーへ向ける。

 黒髪に赤いメッシュが入り、いかにも高そうな紫色のジャケットを羽織り、気に入りの【KENT】を吹かしていた。

「あぁテメェが仕組んだのか?」

 自然と居ずまいを正したくなる低く威圧的な声音。

 コイツは目の前で仲間が殺され、どれだけの屍が築かれようが歯牙にも掛けない。そういう男。

 傍らに立つアイリスが、その長大な銃口を向けていても眉一つ動かさず、平然と煙草を吸う。

「あ、あぁ……お、俺が仕組んだ……」

「へ~坊っちゃんが俺を殺そって事か? 笑っちまうなぁ──」

 煙を吐き、ヘラヘラと黄ばんだ歯を見せながら笑う。

 俺や母親を「玩具」と呼んでいたぶる時と同じように。

「──いや。笑ってるんのは坊っちゃんの方か……ガタガタ、震えが止まんねぇなぁ!」

 手前の机を蹴り悠然と立ち上がる。

「どうした? 撃たねぇのか?」

 挑発するよう手招きしてみせるが、親父クソ野郎は一歩も動かない。

 傍らではアイリスが厳しい目を向けているからだろう。

「こ、殺す! ぶち殺してやる!! お前が母さんや俺に何したか……殺して後悔させる!!」

 喉が張り裂けそうなほど大声で怒鳴り、目頭が熱くなってきた。

 これほど望んだ状況なのに。なぜ俺は震える。なぜ躊躇する。

 笑えた筈だ。俺は殺人を犯す。この手で……この銃で!

「クハハッッ! ぬるい生き方しかしてない、お坊っちゃんが俺を殺す!? まだか? まだか? ホラ見ろ、嬢ちゃんがた!! このクソガキじゃあ殺せねぇってよ!!」

 引き金トリガーに掛けた指が重い。

「日向くん……撃てないの?」

 背後で聞こえた一ノ瀬の冷たい声。それが刃を突き立てられてるみたいに、酷く張りつめたよう聞こえた。

「殺す! 殺す殺す殺す殺ずぅぅ!!」

 鼻水が垂れ、口の端は気泡が沸いてくる。いつの間にか泣いてた。

 怖い……怖い、怖い、怖い……

 口にする言葉とは裏腹に、後悔してたのは俺の方だった。

「お、お前を撃つのは簡単……だ、だけど、お前の口から母さんに対する謝罪を聞いてない!」

 お前が許してほしいって言うなら、俺も一ノ瀬を説得する。だから言え! 「すまなかった」と。ただ黙って頭を下げるだけでもいい!!

「ククッ謝罪? そうだな──」

 殊勝な顔つき。こんなクズでも命は惜しいんだ。

「──ブタに謝るバカが居んのかよ! ハハハッ!!」

 俺のなかで何かが音を立てた。

「うぁぁあ゛あ゛!! このクズ野郎がぁ!!」

 引き金トリガーを無茶苦茶に引くとシリンダーが回り、内蔵劇鉄ハンマーが打ち下ろされた。

──バァァアン!!──


「豚はテメェだ! クソ野郎!! 死ね! 死にやがれ!!」

 二発、三発。シリンダーの回転とマズルフラッシュの瞬き、白煙と咆哮に紛れクソ親父の体がくずおれる。

 左肩口から流れる微量の血液。致命傷が避けられ、二発は壁に穴を空けるだけだ。

「はぁはぁ……クソッ! 這いつくばって死ねゴミ豚野郎!」

 伏せた親父クソ野郎の右足を抉られてい、アイリスのリボルバーが煙を上げている。

 唾液をぶちまけ、膝をついて髪を掴むとスナブノーズの銃口を額にぶつけた。

 皺の刻まれたデコに、まだ熱を持つ銃身が当たると肉の焼ける音がする。

「今すぐ地獄に送ってやる!!」

 怒声とは打って変わり。さっき勢いで引けたトリガーが、セーフティでも掛かってるみたいに硬い。

「どおした恭介きょうすけ……ぶるっちまって殺せねぇってか? 所詮ガキはガキだな!」

「うぁぁ゛あ゛あ゛!!」

 必死に叫んで克己しても右手が震え、首筋が強張るだけ。

 引けない。最後の一発、親父コイツを殺して全てを終わらせられる一発。

 組織に狙われた俺を救う一発、虐げられてきた母親を救う一発が引けない。

 重い……銃が、引き金が、腕が、指がとてつもなく重い。

 俺の迷い、葛藤が暗雲の如く思考を混濁させる。重苦い困惑を払うよう一ノ瀬の声が聞こえた。

「日向くんが撃たないと意味がないの」

 眼前の親父コイツは何も言わず俺を淀んだ目で睨み付けるだけ、背後には一ノ瀬が俺の首を落とそうと刀を構えている。

 今さら出来ないなんてのたまいたく無い。

 親父の頭を鷲掴み、地面に叩きつけるとオフデューティを後頭部に突きつけた。

「後悔なんてしない……お前が……お前なんかが父親だったから!」

 異能で殺しても俺は殺害の感触を忘れるだけ、俺がこの手で引き金を引いて殺す。

「クハハッ! ハハハハ!!」

 震える指に徐々に、徐々に力を込める。100g、200g、300g……

 ──カチッ──弾倉シリンダーが回わりラチェットが音を立てる。擊針ピンが9mmのリムを打ち、雷菅の破裂と共に黒色火薬に火が着く。

 ライフルリングによって高速回転に乗る弾頭が、頭蓋骨を割り脳に達するのに1秒もない。

 骨髄に紛れ、血液が吹き出す。研ぎ澄まされた神経が、荒い呼吸を耳へ届け、弾頭が脳を破壊する音を蝸牛かぎゅうに響かせた。


 笑い声が止み、手の痺れを訴える右手から力なく拳銃が抜けると、穴の空いた頭、毛穴からミミズが這い出るように爛れる。

 酷い耳鳴りが、込み上げる胃液が、目や鼻から溢れ出す体液が……手に、指に絡まる親父の髪と血が……

「よかったね♪ 日向くん!」

 間延びした一ノ瀬の声。

 振り返ると満面の笑みを浮かべ、俺に手を差し伸べていた。

「なにが……なにがよかったんだ……」

 自問自答していた。殺人の恐怖。

『これでよかったのか』『他に方法は』『人殺し』『犯罪者』反芻する負の言葉。

「日向くん、殺したかったんだよね? 嬉しくないの?」

 俺の心の隙を、我が物顔で蹂躙する笑顔が憎い。

 だが同時に蘇る自らが発していた『殺人は快楽を得る為』という言葉。嬉しくなくちゃおかしい。

 嬉しい筈だ……復讐したかった。ずっと親父コイツに。

 嬉しいならどうする? 嬉しい時ってどうしてた?

「ヒィッ、キヒッキヒヒヒ──」

 そっか。笑えばいい。それが正常な反応か。

「──ヒヒハハハハ」

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