第29話 夢の海

 


「おあああああっっっっっ!!!!!!」


 焦るな。

 逸るな。

 されど急げ。


「――――っっ!」


 雄叫びの余韻を喉に残しながら、俺は猛然と浜を駆ける。

 貝殻を踏むざくりという音が重なるごとにマトゥアハの威容が近づく。

 ざくり、ざくり、ざくり。

 ざくっ、ざくっざくっざくっと野菜をリズミカルに刻むような歩音。


 8メートル。

 6メートル。

 4メートル。

 スケート選手がブーレキングするように足でイの字を作りながら急停止する。

 巻き上がった貝殻が雨あられとイモガイに降り注ぎ、ばちばちと黄土色の体表に波紋を作る。


 マトゥアハは微動だにしない。

 奴の持つ「目」は紋様に過ぎず、一切の感情を示さない。

 ただ翡翠色と銀色の尾だけが悠然と宙を泳ぎ、抵抗の無意味さを知らせている。

 ぱらぱらと降り注ぐ貝殻の雨の中、奴の体躯は水スクリーンのようにぱしゃぱしゃと波打つ。


「!」


 さっきと同じだ。

 身体がゼリーのように異様な軟性を帯びている。

 一体どんな手ごたえがあったのか。確かめてみる必要がある。


「おおっ――――」


 赤く長い鋏脚の切っ先を地に向け、脛を薙ぐがごとく一閃する。

 狙うはカタツムリのように平たい足だ。


「っっっらああっっ!!!」


 柔らかいフカヒレをナイフがくぐるように、奴の足を剣がすり抜けた。

 絹よりもたおやかな感触は一瞬で、手に伝わるのは密集した貝殻を切っ先がえぐり取る鈍い衝撃のみ。

 長すぎる剣を片手で振ったおかげで、肘から手首にかけての筋肉がみしみしと軋む。


「ぐっ、ぐ……!」


 手ごたえがほとんど無い。

 通らない。

 攻撃が通らないのだ、こいつは。


(何がどうなってる……!)


 黒目や赤目ですら手ごたえはあった。

 こいつはまるで実体そのものが無いかのように刃がすり抜ける。


 ――――いや、実体はある。

 銀と翡翠の針は確かに俺たちの魂を瀕死に追い込んだ。その毒素もおそらく本物だ。

 つまりこいつは実像と虚像とを『切り替えている』。


(意味が……分からねえ。生物にそんなことができるわけが……!)


 物干し竿よりも槍よりも長い剣を引き戻し、たすきがけにした背中の帯に通す。


(どう攻略すりゃいいんだ……こんな奴……!)


 短い方の剣を両手で握りつつ、俺は波の音を聞いていた。

 ざざあ、ざざあ、と寄せては返す波の音が、ともすれば俺が人生最後に聞く音楽。

 ごくりと唾の塊を飲む。


 ヤドカリの刃を両手で握った俺は先ほどの蘇芳や温州と同じく、イモガイの周囲をすり足で移動していた。

 下ろした切っ先からは海水とも汗ともつかない液体が滴っている。


 一滴、二滴。

 玉砂利に落ちる雨粒のごとく貝殻に落ち、爆ぜる。


 マトゥアハはじっと俺の挙動を窺っているように見えた。

 俺が秒針なら黄土色のイモガイは長針だ。

 俺が奴を一周する間に、マトゥアハはようやく七度ほど角度を変えている。


 遅い。それに鈍い。

 一歩だ。

 一歩踏み込めば奴を切り伏せられるかも知れない。

 そんな甘い幻想が胸に渦巻――――首を振る。


(違う……! 違うだろ、俺……!)


 これまで何十年、もしくは何百年も人に討たれることのなかった怪神。

 そいつが隙を晒すはずがない。

 これは余裕だ。余裕の構え。

 手の平の孫悟空を諌める釈迦のように、こいつは俺の振る舞いをじっと見つめている。


(……)


 恐怖と興奮とでバスドラムさながらにばくばくと鳴り響く心臓。

 巌流島で睨み合う二人の剣士も今の俺と同じ鼓動を聞いていたのだろう。

 だが彼らは幸福だった。切れば死ぬ奴が相手だったのだから。


 ずるんと刃が通り抜ける感覚を思い出す。

 まるで霧か蜃気楼だ。いや、水に浮かぶ月か。


(なぜ刃が通らねえ……!?)


 ――――否。


(『なぜ』じゃねえ。通らねえ理由なんかどうだっていい……)


 ざりり、ざりり、と秒針の俺が長針のマトゥアハより早く360度を歩み終える。

 次の一周が始まる。


(本当に無敵で不死身の怪物なら仲間なんて要らねえはずだ)


 黒目。赤目。緑目。青目。

 あの怪物たちの存在意義は。


(何か秘密があるに決まってる……そうだろう?)


 ひと睨み。

 海藻のように伸び放題の髪の毛先から、不潔な汗が一滴落ちる。

 ぴちゃりと爆ぜた塩水が俺の脛を叩き、マトゥアハが身じろぎした。


(何なんだよ……お前の秘密は……!)


 通らないはずがない。

 通らないのではない。

 通る瞬間が必ずある。

 神に刃が届く瞬間。


 いや時間だけではない。思い出せ。TPOだ。――――いやTPOじゃない。

 万事の機運を決めるは天・地・人。


 場所。あるいは人。


 どこかなら。

 いや誰かなら。

 マトゥアハを傷つけることができる。


 考えろ――――


「!」


 はっと息を呑む。


 マトゥアハを傷つける。マトゥアハを殺す。


(あるじゃねえか、手掛かりが……)


 俺たちより先にこの島へたどり着き、力尽きた先人のメモ。

 あの骸骨が遺した手記のフレーズを思い出す。





 ――――マトゥアハは死者にしか殺せない。





 そうだ。

 死者だ。


 死者だけがマトゥアハを殺すことができる。


「……」


 ぐびり、と味も感じないほど薄くなった唾を飲み込む。

 彼我の距離を3メートルに保ちつつ、俺とマトゥアハは睨み合う。


 ざりり、ざりり、と靴の下で貝の死骸が崩れる。

 波濤から散った泡が貝殻へ降り注ぎ、じわじわと染みる音すら聞こえる。


(……死者、か)


 死者。

 神を殺すのは、死者。


(どういうことだ……!)


 切っ先を下ろしていた俺は、黒目の皮を巻いた柄を顔の横へ持ち上げる。

 真っ赤な刃を天へ向け、奴の尾だけに意識を集中させる。


 黄土色のイモガイの尻で線虫のように蠢く銀と翡翠の針。

 射程は約2メートル。

 迂闊に近づけばひと刺しで俺の戦意は挫かれるだろう。

 死ぬのではなく、挫かれる。


(……)


 長剣を手に踏み込めば先んじて一撃を加えることもできるのだろうが、そもそも刃が通らなければ無意味だ。

 奴を討つためには謎を解かなければならない。


 死者。

 死者とは何だ。

 死者とは――――



「!」



 その一撃に反応できたのは僥倖だった。


 針が――――『伸びた』。


 俺の網膜に銀の残像を残した針が足元に突き刺さっている。

 靴の爪先からほんの数センチ。

 ほんの数センチの位置で地を貫いたそれが、ずぼりと抜ける音を俺の耳が捉える。


 ゆっくりと足元へ視線を動かすと、するすると銀の針が奴の尻へと引っ込んでいくところだった。


(みっ……)


 見えなかった。まるで。

 撃たれてから小銃を構える少年兵のごとく、俺はバックステップで更に一メートル距離を稼いで剣を握り直す。

 ぐっしょりと背中が濡れているのが分かった。靴の中もだ。汗がぬめり始めている。


「……っ。……はっ」


 奴は持ち上げた銀の尾と翡翠の尾を扇状に振っている。

 ひゅひゅ、ひゅひゅ、と生物らしからぬ規則的な動き。

 高速のメトロノームを思わせる動きに見入っていると、ある紋様が浮かび上がった。


 ――――目だ。


 銀と緑の尾の残像に、人間の目が浮かび上がっている。

 縦長のアーモンド型の目。

 稲荷寿司野郎の向こうに、大きな大きな人間の目が見える。


 ぞわりと悪寒が背を這う。


 お前を見ているぞ。

 お前を見ているぞ。

 そんな幻聴すら聞こえるようだった。


 見ているぞ。

 見ているぞ。


 人の目は俺を恐怖に陥れる。

 俺を測り、吟味し、検証し、値踏みするのが人の目だ。


 あなたは勝てません。

 あなたでは無理です。

 グレーのスーツを着た面接官にそう告げられたかのようで、胃が縮こまる。

 あははそうですよね、なんて卑屈な笑みを浮かべそうになる。


(ビビんな……ビビんな……!!)


 俺が俺自身に呼びかけるその声音は震えていた。

 意識すら怯えているのだから肉体はなおさらだ。

 肺が震え、吐き出す息が震える。喉の奥が震えたせいで鼻の穴が震えている。呼吸が震えているせいで目まで乾く。

 瞼までもがぴくぴくと痙攣するのを感じながら、俺は我知らず後退する。


 一歩、また一歩。

 ざりり、がりり、と貝殻を踏んで押し下がる。


(引くな……引くんじゃねえよ……!)


 俺が退けば。今退けば。

 狡猾な奴は必ず女たちにイモガイをけしかける。

 そうなったら何もかもが水の泡だ。


「ううっ!! うううううっっ!!」


 ぱんぱんぱん、と腿を叩く。骨に響くほど強く叩く。


 進め。

 ――――進め!


「っ!」


 ざりり、と貝を踏む。




 変化は一瞬で訪れた。




「!?」


 マトゥアハの身が数十センチ持ち上がった。

 思い切り背伸びでもするような所作。

 その「足」が戦車のキャタピラを思わせるほどの高さを得たかと思うと、ぬるり、とそれまで以上の速さで奴は動き出す。


 ごつごつした貝殻の剣山をイモガイは悠々と進んだ。

 ぬるり、ぬるり。

 ナメクジを思わせるそいつの移動速度は浅瀬に押し寄せる波のそれにも似ていた。

 ぬるぬるぬるぬる、と障害物などないかのように迫る異形。

 慄然とした俺は再び後退を余儀なくされる。


「うっ、くっ!」


 無駄だと分かっているのに水平に剣を振るう。

 ずぱん、と黄土色の身に水平にめり込んだ刃が奴を通り過ぎ、勢いのついた刃に身体が持って行かれそうになる。

 体勢が崩れ、バランスを見失う。


「うおっ、く!」


 ぬるるる、とあっという間に俺の足元へ這い寄ったそいつが針を閃かせた。

 すんでのところで剣から手を離し、背に負う長剣を抜きながら振り下ろす。


 最良の姿勢、呼吸で振り下ろした長剣は俺の思う以上に美しい軌道を描いた。


「っでええええいっ!!」


 めりめりめり、と黄土色の身体を縦一直線に剣が割る。

 剣がめり込むことによって生まれた亀裂に黄土色の肉が吸い込まれていく。

 思わず快哉を上げてしまいそうになるほど理想的な『一刀両断』。


 長剣を振り下ろされたイモガイは真ん中からぱっくりと二つに分かたれた。

 人間で喩えるなら正中線で真っ二つにされたに等しい。

 もうあとほんのちょっと力を入れるだけで、こいつの右半身と左半身は真ん中でバイバイする。


 なのに――――


 なのに奴は、動いていた。

 木のナイフを入れられ、具の栗を晒すほど開いた水羊羹のようにぷるぷると震える身が時間を巻き戻したかのように吸い付く。

 ただ吸い付くだけではない。

 奴を割り開いた長剣を飲み込み、融合してしまう。


「ひっ!?」


 そこにあったのは身体の中心を長剣で貫かれたイモガイの化け物。

 奴は平然と尾を振ると、腰を抜かしかける俺に迫る。


「うう、くっ、畜生! 畜生ぉっ!!」


 ずりずりと後ろ手に浜を押し、立ち上がり、走る。

 ぬぬぬぬ、ぬぬぬぬぬ、と串刺しのイモガイがどこまでもどこまでも追い縋る。


(ダメだ……!)


 先ほど放り捨てた剣を拾った俺はいよいよ決断を迫られる。


 死者。

 死者になれ。


(……)


 ざくっざくっざくっと浜を駆ける俺。

 その背後に、ぬぬぬぬ、と迫るマトゥアハ。

 時折かつん、こつん、と長剣が浜の貝を叩く音が混じる。


 追いかけっこは長くは続かない。

 いずれは俺は力尽き、果てるだろう。


 奴は貝だ。水は殻の中にいくらでも蓄えているだろうし、少し浅瀬に近づくだけで無限に皮膚呼吸できる。呼吸器を潰すという今までの必勝法は通じない。

 緑目に用いた瞬間沸騰もダメだ。ここから灰色の炎までは遠すぎる。向かっている間に女たちが狙われてしまう。


 いや、いや、と俺は俺に喝を入れる。

 遠回りをするな。楽をしようとするな。目を逸らすな。

 こいつを斃す術は一つしかない。


(……)


 はあ、はあ、と無意識の内に荒い呼気が漏れる。

 肉体が告げている。

 もう、限界なのだ。



(俺が……死ねばいいのか)



 不思議と、恐れは感じない。

 自死は今の俺にとって手段であって目的ではない。


(死ねばあいつを殺れるのか)


 割腹。窒息。溺死。どんな方法でもいい。

 俺が死者にならなければマトゥアハと戦える者はいない。


 だが死者に一体何ができるというのだろう。

 ゾンビにでもなって戦えと言うのか。

 人は水死体になっても動けるのか。窒息してチアノーゼを起こした顔で立ち上がることができるのか。

 些末な考えを弄びながら、俺は確信を得て頷く。


(いや)




 活路は――――



 ――――ある。




 奴の翡翠針がもたらす一時的な高揚と快楽。

 あの溢れ出すほどの生命のエネルギーを補給できれば、もしかすると。

 数十秒。いや数分。いや、数十分。

 俺は肉体的に死んだ後も戦えるのかも知れない。

 魂だけになって奴に食らいつけるのかも知れない。


(……)


 全力疾走をしていたはずの俺はいつの間にか疲れ果てたマラソンランナーのように申し訳程度のランニングへ移行していた。

 マトゥアハの足は緩まず、ぬぬぬ、ぬぬぬぬ、といつまでもいつまでも追ってくる。

 もう10メートルと離れていない。じきに追いつかれてしまうだろう。


 がり、ざり、ざり、と俺は一歩ごとに少しだけ身体を浮かし、できるだけ身を休ませながら走る。

 走りながら、考える。


(この心臓を……ぶっ刺す)


 そして。

 そして奴の翡翠針を食らう。


 そして奴を――――殺す。


(……)


 完璧だ。

 一分の隙も無い。

 死者が奴を殺す。

 命を投げ打った勇者の一撃こそが怪神を斃し得る唯一の方法なのだ。


 ざり、がり、と俺は立ち止まる。

 もはやジョギングに近い速度でしか動けなくなった俺のすぐ近くで、ぬるり、とマトゥアハも足を止めた。


 黄土色の目が俺を見つめている。

 奴はもしかすると俺の覚悟に気づいたのかも知れない。

 腐臭を放つ魂が最後に放つ光に。


「やってやる……やってやる……!!」


 俺は緑目の遺した赤い刃を己に向けた。


 臓物をまき散らしながら戦えるか。 

 狙うは腹なんかじゃない。心臓だ。


(……!)


 目をきつく閉じる。

 ふー、ふー、と頬を膨らませて息を吐く。

 このひと息ひと息すら愛おしい。

 俺が最期に吸う息だ。

 俺が最期に感じる空気だ。


(……っ!)


 刃を振り上げる。

 そしてそれを―――― 











 完璧だ。

 一分の隙も無い。

 死者が奴を殺す。

 命を投げ打った勇者の一撃こそが怪神を斃し得る唯一の方法なのだ。



 完璧に「マトゥアハは死者にしか殺せない」のメモの通り。

 俺は死者を再現した。


 俺にも死者を再現できた。






 だったら。






 ――――俺にもできるのなら、とっくに誰かがやっている。








 ふうう、ふしゅうう、ふひゅー、と。

 俺は自らの無様な呼吸をBGMに目を開ける。


 切っ先は俺の心臓を向いたままだ。

 あと十センチも刃を動かせば俺は絶命する。


「……!」



 ――――違う。



 こうじゃない。

 こんなことで奴を殺せるなら、とっくに誰かがやっているのだ。


 思い出せ。

 黒目と対峙した俺を助けてくれたのは、奴に殺された無数の亡霊たちだ。

 俺より先に散っていった彼らが『歩まなかった道』こそが俺の活路。


 そうだ、思い出せ。

 俺は勇者なんかじゃない。

 俺は――――俺は凡愚だ。若い頃、あんなにも毛嫌いし、軽蔑していた凡愚なのだ。

 凡愚には凡愚の道がある。


「っ!!」


 俺は再びマトゥアハを睨む。

 奴は――――



 奴は嗤っている。



 愚かにも自決などという手段で神に打ち克とうとした俺を。

 そして愚かにもその愚かしさに気づいてしまい、今まさに不死身の神と対峙せんとする俺を。


「……」


 思い出せ。

 俺は「何か」を拾い損ねている。


 俺より賢い者、強き者、正しき者の辿った道はとうに閉ざされている。

 己の命を投げ打ってもマトゥアハは決して斃せない。

 ならどこだ。

 俺の活路はどこにある。


 俺だけの道。

 まだ誰も見つけていない道。


 誰も見つけていない。


 ナタネも。

 温州も。

 蘇芳も。


 教ゆ――――





 蘇芳。




 彼女が探していたもの。

 彼女が見つけられなかったもの。


 そうだ。

 彼女は――――


 ×××が無いんです、と言っていた。

 ×××があるはずなのに、と。


「……」


 ざあああ、しゅうううう、と。

 押し寄せた強大な波が力なき羽虫のごとき泡となって消えていく。





 ――――分かった。





 俺はくるりと踵を返す。


 向かう先は――――海。











 がじゃ、がじゃがじゃ、と濡れた小石と濡れた貝殻が靴の下で楽器に変わる。

 背後に迫るマトゥアハは音もなくするするとその上を這う。


 ざぼん、と一気に膝までが冷たい海に浸かる。

 ぬかるみに足を取られるかのように俺の歩みは鈍り、数歩も進んだところでそれ以上歩けない程の急斜面が待っていた。

 浅瀬から一気に急斜面。海は残酷だ。


 俺は海へと泳ぎ出す。

 泳ぐのは本当に久しぶりだ。高校の時以来か。

 敗残兵のごとく剣を口に咥え、平泳ぎで朝の海へ。


 眩しい。

 太陽が昇り切らない群青の空の下でも、海はかくも眩しい。

 訓練されたイルカのようにぴょいんと垂直に跳んだ俺は、その光をかわすようにして海中へ。



 こぽぽ、と衣服から立ち昇る泡が耳を撫で、光差す空へ。

 後には無音の世界が残される。



 無音。

 無音だ。

 海の中は静かだ。


 ここでは海面で立つそれより遥かに柔らかな波が押し寄せ、引いていく。

 魚が口から吐き出したのか。はたまた貝殻の奥に詰まっていたのか。

 来し方行く末も分からない幾らかの気泡を孕み、波はそよ風となって青い世界を通り過ぎる。

 いかなる楽器にも奏でることの叶わない、『海の中の水の音』が俺の耳を心地よく撫でる。


 視界は明るい。

 斜面になった水底は白く、水は透明度が高い。

 色とりどりの魚が泳いでいる。

 優雅な女の髪を思わせる海藻が揺れている。

 ここはまだブルーダイヤモンドの海。マトゥアハの潜む深淵ではないのだ。


(……)


 数メートル潜行したところで俺は目を閉じる。










 蘇芳の探し物は結局見つからなかった。


 それは島で生活する中で彼女がごく自然と抱いた疑念であり、ある時、俺たちはその内容を打ち明けられた。

 なるほど、言われてみれば確かにそうだと俺は頷いたし、温州やナタネも同意を示していたが、それ以上の追及は為されなかった。

 なぜならそれは当座の俺たちの生活には全く関わりのないものだったからだ。

 むしろ忌避すべきものでもあった。



 この島には民家がある。


 集会所があり、作物を育てる場所があり、水を溜める池がある。

 非常に原始的ではあるが、ある種の社会的共同体(コミュニティ)が確立していたことは疑いようもない。

 彼等はマトゥアハの恵みの中に生まれ、水を飲み、飯を食らい、マトゥアハの恵みを浴び、申し訳程度の社会を築き、そして死んだのだ。

 幸福な、おそらくは世界で最も幸福な霊長類の巣。


 何を探してるんだ、とある夕食の席で問うた俺に彼女はこう答えた。 


 『殯(もがり)があるなら必ずあるはずのモノです』


 それは何だ、と俺は聞き返した。

 今にして思えば間抜けな問いだ。


 答えは決まっている。

 蘇芳の理解が正しければ、殯(もがり)とは人間の肉体を自然に腐敗させ、白骨化するための施設を指し、同時に告別の儀式を意味する。

 ならば当然、島のどこかにあるはずじゃないか。



 ――――『墓』が。








 ぷく、と睫毛に泡が触れた。

 閉じた瞼の裏から空気が漏れたのだろうか。

 微かなくすぐったさに俺は目を開け、そして『奴』を待つ。


 海岸には名も知れぬ白い貝殻が堆積していた。

 そして今、俺の遥か下に見える海底には無数の白砂が積もっている。

 白い海岸。青い海。

 パンフレットに描かれそうな、まさに理想的なリゾートビーチだ。


 例えここが、『水葬』の風習ある人々の住処だったとしても。


(……)


 俺は民俗学者ではないから分からないが、食糧を海から得る人種は決して死体を海に捨てないと聞く。

 血肉を棄てて、それらを食らった魚を食らう。考えるだにおぞましい食物連鎖を人間が本能的に避けるのはむべなるかな、だ。


 だがその忌避感も白骨化させてしまえばいくぶん薄らぐ。


 ――――『死者』は海の底に居た。

 太陽に見守られ、生者の営みが聞こえ、先祖たちの待つ、優しい砂のベッドの上に。



 俺がノスタルジックな気分に浸っていたのはほんの数秒のことだ。

 その証拠に、ど、ぶん、と大質量が海へと沈む音が聞こえる。

 奴は俺からそう離れてはいなかった。すぐにここへ追いついて来るだろう。


 こぽり、こぽぽ、と海全体が揺らめく。

 奴が水をかき分ける音がそよ風となって俺の頬を撫でる。



 そうだ。

 俺よ、甘えるな。


 神様は御自ら俗世に降り立ち、不利な状況下での戦いになど応じてはくれない。

 そんなふてぶてしい人間に神様は殺せない。


 神様は。

 神様の庭でしか殺せない。

 これが誰もが辿らなかった「最も愚かな道」。



 マトゥアハは。


 ――――海の中でしか殺せない。








 ブルーダイヤが輝くような海の天井に黒い影が過ぎった。

 尾をスクリューのように回転させ、潜航艇を思わせるシルエットが俺へと向かってくる。


 黄土色の殻。

 無数の目の紋様。

 海中で立ち泳ぎをする俺の数メートル手前で、こぽりと奴が静止した。



 マトゥアハはゆっくりと殻を脱ぐ。



 中から現れたのは表現不能のシルエットだった。

 ぐにゃぐにゃと定型を持たず揺らめく、軟らかい肉の集合体。

 殻すらも肉に変えたカタツムリのようでもあるし、小さなタコのようでもあるし、クラゲのようでもある。


 その色は――――黒に限りなく近い紫。



 俺はこいつの名を知っている。 

 ――――アメフラシだ。



 銀の尾と翡翠の尾を持つ最後の神が身体の中心で閉じていた目を見開く。

 紫色の瞳。

 俺が何よりも恐れ、何よりも求めた人間の瞳。



 剣を口から離し、手に握る。


 何分潜っていられるだろう。一分か。二分か。

 そうだ。キリ良く三分だと考えよう。


 俺は三つ指を奴に突き付けた。


「……」


 三分だ。

 三分でお前を殺してやる。


 ――――ヒーローみたいに。




 奴が動き出す。

 俺が動き出す。



 人生で一番長い三分が始まる。 


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