第2話 島の海

「おぉ」


 靴音に気づいた俺は部屋の入り口を見、思わず唸った。

 夕方の内に石柱から拝借した火を廊下のポケットに点けており、宵闇はエキゾチックなオレンジ色で照らされている。


 そこにぽつんと立つ一人の少女。

 薄いアーモンド色の肌は俺のイメージ通りだが、焦げ茶色の髪とすっきりした顔立ちにはコーカソイドの名残が見える。

 衣服はややみすぼらしく、裸足だった。


 長い髪を顔に張り付かせた彼女の表情は窺い知れない。 


「お、おう……」


 思った以上に幼い。10代半ばぐらいか。

 さすがに見逃してもいい球だ。


「あ、っと。ハロー? あー……もうちょいオールドなガール、ウェア?」


 オールドはないか。何て言うんだ。

 年上。

 ノーヤングか。


「モア、モア……お」


 続いて入ってきたのは濡れたように艶やかな黒髪の少女だ。彼女のように切り揃えた髪のことを今じゃ「ぱっつん」なんて言うらしい。

 半袖のカッターシャツから伸びる手足は餅のように白く、いかにも柔らかそうだ。

 スカートはカフェオレのように淡いブラウン。

 年は褐色の子より少し上のようだ。


 ――――だがちょっと待て。


「おいおい、日本人か?」


 さすがにこの年まで生きると東アジア人の顔の違いぐらい分かる。

 目の前に立つ少女は中国人や韓国人じゃない。明らかに日本人だ。

 よく見れば彼女の衣服は高校生の夏服だった。


「……。え、拉致とか誘拐とか、そういう関係か? それはちょっと……」


 返事は無かった。

 褐色の少女と黒髪の少女は、学芸会の幽霊のようにふらふらと左右に揺れている。

 目は虚ろで焦点が定まっていない。


 そうこうしている内に更に二人が姿を見せた。


 一人は背の高いポニーテール。「ぱっつん」と同じ制服に手裏剣をあしらったバッジをつけている。

 一人はリクルートスーツに身を包んだ亜麻色の髪の女。唯一社会人のように見えるが、背は「ぱっつん」より低い。

 二人とも日本人のように見える。


 新米OL一人、高校生二人、現地人一人。


「何なんだ、おい」


 四人の幽霊は両腕を垂らしたままふらふらと左右に揺れるばかり。

 俺は多少面食らったが、ここはどっしりと構えることにした。

 どうせ死ぬ身だ。何をビビることがあるだろう。


 缶ビールの蓋を開け、一気に中身を飲み干す。

 寝起きに飲んだ一本よりずっとぬるくなっていたが、酒は憂いの玉箒。

 頭に血が巡り、気合と度胸が息を吹き返す。


「ふぃぃ。うっし。来いよ! しゃッコラ!」


 どっかとマットレスに腰を下ろした俺は両腕を広げる。

 餌を見つけた魚のようによろよろと四人が歩み寄ってきた。


 アルコールの回った全身を多幸感が包む。

 きっと日本人の客にはこうしたコスプレが受けると思われているのだろう。俺はそう考えることにした。

 女子高生の制服にリクルートスーツ。

 ちょっとマニアックな趣向だが、外国人にしてみれば水着だのナース服だのよりよっぽど日本人の変態性を裏付けるものに感じられるのだろう。

 そうだ。服のせいで日本人に見えるのかも知れない。

 実際は華僑だろう。


 少女達からは海の匂いがしたが、濡れているようには見えない。


 一人が俺のハーフパンツを下ろし、一人が俺の脚を丸太のように抱き、一人が俺に口づける。

 一本の手が俺の胸へ。一本が脇へ。一本が後頭部へ。一本が尻へ。一本が剛直へ。

 唇は乳首を這い、首筋を這い、内腿を這う。


(おお)


 身体全体がイソギンチャクに包まれたかのように痺れる。

 女たちはシャワーを浴びていない俺の身体を嫌がることもなく穴という穴をねぶり、肌という肌をなぞる。


 次第に熱を帯びる俺の身体。

 いい調子だ、と俺は頷く。


「オー」


「ぁぁ、アア」


「……」


 何だ、と首を傾げる。

 少女たちは目の焦点が定まっておらず、口々に奇妙な呻きを発していた。

 首を絞められた雄牛のようでもあるし、熱病に浮かされた患者のようでもある。


(やめてくれねえかなそれ……)


 薬物中毒だろうか。

 性病は別に構わないが、事の最中で噛みつかれでもしたら成仏できない。

 そんなことを考えながら、快楽の靄に沈む。






「ぁー」


「く、こココぉ」


「……」


 精を浴びた少女達の口からは先ほどと同じ奇妙な声が漏れるばかり。

 気持ち良くして頂いたところ申し訳ないが、いささかの怒りと共に俺は立ち上がった。


「だぁぁぁ!! さっきから何なんだ!!」


 ハーフパンツを上げた俺は四人を振り払う。

 軽い力だったはずだが少女たちは催眠術にでもかかったようにバタバタと倒れた。


「やめろその「ぁー」とか、「ぉこここ」とかいうの! 俺は弾数が少ないんだから一回一回を大事に……あ、ちょっと!」


 ふらりと褐色の少女が部屋の外へ。

 まさか終わりなのか。一発出したからもう終わりなのか。


「ちょっと! 金! 金は?」


 後を追うも、少女は既に階段を降りていた。

 俺が階段を降りきる頃には民宿の外へ。

 民宿の外へ出る頃には――――


(海……?)


 北の海岸へ。







 急斜面を滑り降りた少女は淡い灰色の炎を放つ石柱の間を歩いていく。

 その向こうには夜の黒に染まった墨のような海だけだ。


「おい!! どこ行くんだよ! おい金!」


 転がり落ちるように斜面を下る。

 貝殻のクッションに軟着陸した俺は思ったほどの衝撃がなかったことに戸惑いながらも走る。


 ぐんぐんと海へ向かう少女。

 追う俺。


 彼我の差は10メートル。

 8メートル。

 5メートル。


 3メ


「どぅべっ!!」


 流木に足を取られた俺は盛大にすっ転んだ。

 粒の大きな貝に押し付けられ、唇と頬がずきりと痛む。




 それが俺の命運を分けたことに気づいたのは、1コンマ2秒後のことだった。



「?」


 ぶおお、と強い風が俺の頭皮を掠めた。

 汗に濡れていない部分の毛髪が風に揺れ、ぱさりと頭部に降りて来る。


 何かが頭の上を通り過ぎた。

 そう気づいた俺は顔を上げ――――



 心臓が止まりかける。



「ッ!?」


 目だ。

 俺の前には直径1メートルはあろうかという『人間の目』が二つ並んでいた。


 目があるということは顔があるということだ。

 現に「そいつ」の顔はほんの数メートル先にあった。



「そいつ」は。

 ――――『魚』だった。



 ただしサイズが桁違いだ。

 見上げるほどの巨体は高さ5メートルほど。

 宵闇と同じ純黒の皮膚はてらてらと灰色の光を映しており、一見すると油凪の海面と区別がつかない。

 顔は大きく、シルエットはオタマジャクシのようにも見えた。数秒前に俺を飲み込まんとした口はぱっくりと真横に裂けており、太く鋭い白い歯が何列にも渡って並ぶ。


 マッコウクジラか。

 一瞬そう錯覚したが、違う。

 まったく違う。

 目が違う。


 クジラの目はもっと小さい。

 動物の目はどれも顔に対してかなり小さい。それにつぶらだ。


 目の前にいる「そいつ」の目はアーモンド形で、白目の色が毒々しいほどに濃い。

 灰色の炎を映し出すその「目」では、瞳孔が拡縮を繰り返している。

 虹彩や角膜といった部位もはっきりと見える。

 プルプルのゼリー状物質に覆われたその「目」は人間のそれにそっくりだった。


「!!!」


 魚は発声器官を持たない。

 だが乱杭歯の生えた口を開き、真っ赤な口腔を見せつけたそいつは確かに「吠えた」。


 ぶおおお、と卵の腐ったような湿り風が俺を叩く。

 真正面から扇風機の風を食らったかのような衝撃で目を閉じる。

 鼻どころか口の中にまで風が入り込み、頬肉を内側から外へ膨らませた。


「おぼっ! ぼっ! おおおっ!」


 恐怖。

 恐怖だ。


 冷たい氷の針が穴という穴から全身に入り込み、まず脳みそがキンキンに凍り付く。

 神経が萎びる。

 筋肉が硬直する。

 骨が軋む。


 今すぐに頭を抱えて丸くなりたい。丸くなって目の前のモノに背を向けたい。

 生物としての本能が目の前の「そいつ」と相対することを拒んでいた。

 凄まじい嘔吐感に見舞われた俺は貝殻を強く握りしめることでどうにかそれに耐える。


「うぐっ! ……はぁ、はぁ」


 おぼろげながらに事態を飲み込む。

 つまり俺は――――「供物」なのだ。


 蒸発しても構わない人間をガイドが見繕い、この島へと送り込む。

 売春を期待して待ち構えていた男はフラフラと現れた少女に釣られて――――


(?! さっきの子はっ……!)


 居た。


 巨大魚の額の部分だ。

 クレーンで吊り上げられるようにして、褐色の肌の少女がぷらぷらと宙を彷徨っていた。

 よく見ると彼女の首からは半透明のロープのようなものが伸び、巨大魚の額に繋がっている。

 まるでチョウチンアンコウだ。彼女はいわば疑似餌なのだ。


 するすると引き寄せられた少女は観音開きになっていた巨大魚の額に収まる。

 少女は半透明のゼリー状の膜越しにその姿を視認することができた。

 ああやって半死半生を保つことで「長持ち」させられていたのかも知れない。


「……」


 クジラをも飲み込みかねない真っ黒な魚は顔面こそ巨大だが、下半身は驚くほど細く長い。

 消化器官が半身に集中した特異な姿は深海魚のフクロウナギのようでもある。

 ただ食い、食らう。

 その為だけに構成された身体。


 恐怖のあまり腰を抜かし、後ずさる俺のことを奴は愉快そうに見下ろしていた。

 そう。「愉快そうに」だ。

 人間の目を持っているお陰で奴の感情は明確に感じ取ることができる。目は口程に物を言うというやつだ。


「はっ……! ははっ!」


 がくがくと膝が笑う。

 歯の根が合わない。

 ひどい寒気を感じる。


 死ぬことはやはり恐ろしい。

 すべての生物は生命体としての自分の終焉を恐れるようプログラムされているのだ。


 だが心のどこかでこの結末を受け入れている俺も居た。


 俺は事故でも自殺でもなく、人智を超えた「何か」によって殺されるんだ。

 なら仕方ないじゃないか、と。


 目を閉じる。

 そうだ。

 仕方ない。




 ――――『俺は』仕方ない。





「……なあ」


 怪物は何も言わない。

 そりゃそうだ。魚は発声器官を持たない。


「その子、離せよ」


 奴は――――笑った。


 俺を。

 その子を。

 否、人間を。


「離せって」


 がりりと貝殻を掴んだ。

 突き刺さる痛みが俺の意識を覚醒させる。


 魚野郎はどす黒い口を真横に裂き、瞳を弓なりに歪める。

 それは紛れもない哄笑だった。



 俺の人生はとっくに終わっている。

 恐怖は感じても後悔は無い。


 だがその褐色の子はどうだろう。それにさっきの子たちは。

 俺がこいつに食われた後で家に帰してもらえるのだろうか。

 ――――まさか、だ。



 なら答えは一つだ。


 大の大人が、子供を見捨てて逝けるか。



「……そうか。返してくれないのか」


 見上げる。

 5メートルはあろうかという巨体を。

 真っ赤に裂けた口と乱杭歯を。

 そして雄弁なる人間の『目』を。


 化け物が俺を見下ろし、また嗤う。

 次の言葉を予期したかのように。



「じゃあぶっ殺して、取り返すだけだなぁ!!!」



 俺の手は自然とナイフを握っていた。

 自分自身を殺す為に持ち込んだナイフを。


 長い尾が海を叩く。

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