第27話 夢のシ胡
痛え。
――――痛え!!
視界が赤く明滅するほどの痛みに手を勢いよく引っ込める。
ぴりっとした刹那的な痛みではない。
手の甲に走った刺激は細い針となって血管に侵入し、太い針金と化す。
手に乗るイモガイが銀の針を抜いた後もその感覚は続いた。
針金は血液と共に細い管を走り、俺の全身にぼつぼつと水銀の滴のようなものを残していく。
どっくん、どっくん、と繰り返される鼓動に合わせて俺の全身は銀色の毒に侵される。
視界が揺らぎ、猛烈な眩暈に襲われる。
ぐらついているのは肉体ではなく意識だ。
強い風邪薬を飲んだ時と同じ、ひどいダウナー感。
全身の毛穴からレモンを絞るようにして活力が零れ落ちていくのが分かる。
(……)
立ち上がろうとする意思が萎え、代わりにセピア色の情景が脳裏に去来する。
とっくに化石になっていたはずの思い出の数々。
小学校の頃の俺。
中学校の頃の俺。
俺はいつも半笑いを浮かべている。
半笑いを浮かべて、恥の嵐が通り過ぎるのを待っている。
たまに思い切ったことをやろうとして――――大勢の前で派手にすっ転んで尻もちをつく。
高校生の頃の俺。
俺はいつも半笑いを浮かべている。
光り輝く人生に向かって漕ぎ出し、何度も何度も転覆して、失敗して、仲間と共に立ち上がって。
そうしている内に陽が暮れて、青春が終わる。
気づけば一人ぷかぷかと海に浮く俺の周りに仲間はいない。彼らはずっと先の方で不器用ながらも確実に櫂を操っている。
俺だけが外海ですらない場所で波に揉まれ、いつまで経っても何も掴めないままでいる。
会社に勤めてからの俺。
俺はいつも半笑いを浮かべている。
半笑いを浮かべて、オブラートに包まれた痛罵の雨に打たれている。
鈍臭い。気が利かない。察しが悪い。
残念だけど今期も君の評価はDだよ。同期の中で君だけが残ってくれたけど、まだちょっと何の結果も残せていないよね。
もう少し周りを巻き込んでほしいな。年齢相応のところを期待しているよね。
契約社員でやり直そう。それで自分を見つめ直したらどうかな。
「……」
思い出の砂の中で眠っていたはずの記憶が溶けだし、どす黒い油田が湧き出すかのごとく俺の世界に満ちていく。
井の中で喫水線を上げる泥水は俺の脚を這い上がり、腰が沈んでいく。
失意の水位はじりじりと上がり、胸までもが黒い水に浸かる。
俺は海岸の真ん中で思い出したくもない記憶の海に溺れていく。
顎まで達したところで、絶望の水が止まる。
俺の口からか細い息が漏れ、代わりに僅かばかりの酸素が取り込まれた。
確かに、俺はダメな男だった。
だが不思議と――――人には嫌われなかった。
教師や上司にも本当の意味で嫌われたことはない。
疎んじられることはあっても、憎まれたり嫌われることはなかった。
それが数少ない、本当に数少ない、俺の美点だった。
ぶす、と銀色の針が再び手の甲を突き刺す。
新たな銀の毒が俺の全身を巡り、思い出したくもない記憶の数々が蘇る。
クラスの中俺だけがいつも新しい玩具を買ってもらえなかった。
親が美人じゃなかった。
糞を漏らしそうになった。
カツアゲされた。
土下座させられた。
合格発表で涙を流した。
友達からの連絡が途絶えた。
それでも俺は嫌われたことはない。
それだけが俺の――――
ぶすり、と。
三度目の痛みと共に、今まで決して開かれることの無かった俺の心の恥部が暴かれる。
嫌われなかった?
それはそうだ。
だって俺は。
俺は俺なりに一生懸命生きて来たから。
人を騙さなかった。
ズルをしなかった。
真面目に、篤実に生きて来た。
だから嫌われることなんてほとんどなかった。
なのに。
――――ああ、なのに。
どうしてだ。
どうして病弱で咳ばかりしていたあいつがロールスロイスのファントムを乗り回しているんだ。
どうしてタバコを吹かして酒をやっていた不良が、幸せな家庭を築いているんだ。
どうして親が離婚して泣いていたあいつがマンションを買おうとしているんだ。
どうしてあんなに授業をサボりまくっていた奴が起業しているんだ。
どうしてあんなに性格の悪い奴が親に孫の顔を見せているんだ。
どうして俺の一生懸命さが――――あいつらの一生懸命さに届かないんだ。
俺は真面目に生きて来たじゃないか。
俺はこつこつと積み重ねてきたじゃないか。
研ぎ澄ましたとは言わないが。
それでもひたむきに、誠実に、生きて来たじゃないか。
なのに何で、何で俺の真面目さは報われなかったんだ。
何で俺だけがこんなにも惨めで、みっともないんだ。
何で俺だけが、社会に居場所を作れなかったんだ。
俺のやってきたことと、あいつらがやってきたことのどこがどう違うんだ!
俺は――――
俺はどうしてこんな惨めなおっさんになってしまったんだ。
絶望の水位ががあっという間に俺を飲み込む。
黒い海に沈んだ頭頂部で髪が最後にゆらりと揺れた。
気づけばボロボロと涙が溢れだしていた。
涙の粒は目から横へと流れ、ぷかりぷかりと泡のように天へと昇っていく。
俺の口は笑いの形に歪んでいた。
先生。
先生。
先生はどうして俺に正しい道を教えてくれなかったんですか。
俺は誠実に生きていればきっと報われると信じていたんです。
ズルする奴や要領の良い奴には敵わないし、不良のように大胆には生きられないけれど。
それでも、俺は他の真面目な子達と同じぐらいの幸せは掴めると思っていたんです。
誰か教えてください。
俺の人生の、一体何が間違っていたんですか。
俺には何が足りていなかったんですか。
どうして俺には嫁さんができないんですか。
どうして俺は家を建てられないんですか。
どうして俺はずっとアルバイトしかできないんですか。
どうして俺の貯金は、100万円に届くことがないんですか。
汚水を吸ってぱんぱんに張ったスポンジを絞るように、俺の身体からありとあらゆる負の感情が溢れ出す。
悲哀の海に浸かった俺の身体から更に青黒い感情が滲み出す。
全身から煙のようにどす黒い感情をまき散らし、俺は水底へと沈んでいく。
もうダメだ。
もう立ち上がれない。
息もできない。
目も開けられない。
ただこうやって膝を抱えて、目を閉じて、耳を塞ぐことしかできない。
もう俺の人生は――――取り返しがつかないんだ。
「っ……! うっく……!」
黒い、黒い絶望の中で俺は嗚咽を漏らした。
冷たい小便を漏らして、誰にも知られず、誰の気にも留められず、俺自身ですら認めたくないほど無様な半生を思い出して、泣く。
「っ! っ!」
息が詰まり、鼻水が垂れる。
涙がぽこぽこと気泡となって立ち昇り、しゃくり上げるような呼吸を繰り返す。
子供のような俺の姿を見かねてか、女たちが近づいてくる。
温州は柔らかい。蘇芳は温かい。ナタネは清らかで、教諭は大らかだ。
彼女達に抱きすくめられ、俺は無上の安心感に包まれる。
俺はここに居ていいんだ。
ああ、俺はここになら居てもいいんだ。
感極まり、俺は新たな涙を流した。
ますます女たちが強く俺を抱きしめる。
視界が柔らかい肉に塞がれ、マトゥアハの姿すら見えなくなる。
俺はもう傷つかなくてもいい。俺はもう惨めな思いをしなくてもいい。
俺はもう――――幸せになってもいい。
人肌の温かみの中でその確信だけが俺に生きる心地を与えてくれる。
手の甲で、小さなイモガイが翡翠の針を俺に向ける。
もういいだろう、と。
この薬で楽になれ、と。
銀色の毒は見るに堪えない人生の無様さを教えてくれた。
あとは翡翠の薬で安らぎを得るだけだ。
それで終わり。
それでこの苦しみは――――終わる。
俺はゆっくりと手を伸ばす。
今、この恵みを体に浴びればきっと幸福感が俺を満たしてくれる。
そうすれば――――今までの益体も無い人生を取り戻せる。
無様な、無様な人生が無かったことになる。
そうだ。
俺はこれまで台無しにしてきた人生を取り返すためにこうするんだ。
もう忘れよう。嫌なことはすべて。
何なら俺の人生すべて。
すべて忘れて、新しい幸福の記憶で塗り潰してしまおう。
嫌な事はぜんぶ忘れて。
俺の人生を幸せ一色に塗り潰
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