第20話 泡の海
胡麻堂桃子(ごまどうももこ)教諭が目を覚ましたのは翌日の昼過ぎだった。
彼女が事態を完全に把握するためには更に数時間を要した。
それと言うのも、俺や温州、蘇芳の説明に逐一言葉を挟んで情報を深堀りしたからだ。
化け物とは何か。
どんな生物だったのか。
どう殺すつもりで結果どうなったのか。
理解を深めてもらえるのは助かるが、説明するこっちはひどく疲れる。
日数ベースで一週間ほどのハンディがあるにも関わらず、彼女はわんこそばでも食らうようにして情報を飲み込んでいた。
小さな顎に手を当てた教諭は確かめるように何度か頷いた。
「分かりました。一旦、お話はこれまでということで」
ようやくその言葉が出て来たところで俺たちは一斉に溜息をつく。
海を見やれば、もう日が暮れ始めていた。
「ありがとうございました、蜜輪(みつわ)さん、紫女川(しめかわ)さん」
蘇芳はおろか温州よりも背の低い彼女は水を吸ったパンツスーツを、それでもしっかりと着こなしている。
髪は亜麻色だが、最近の教師は黒髪でなくても良いのだろうか。
その彼女が俺の方を向く。
「あの、えっと……」
「おじさんで構いません」
「いえ、そういう呼び方をするわけには」
「名刺は持って来てないんで」
へへ、と俺が愛想笑いをするとぷっと温州が噴き出した。
「今日まで我が校の生徒の身の安全を確保して頂き、ありがとうございました」
胡麻堂教諭は三つ指をついて深々と頭を下げた。
俺も慌ててそれに倣う。
「あ、いえ、滅相もありません」
「今回のことは私の監督不行き届きだと考えています。日本と連絡可能な場所に着き次第、学年主任を通じて校長にこの件を報告し、ただちに――――」
「や、や。そんなかしこまらないでください。俺は別に何も……ねえ、その」
「……」
「……」
そのまま言葉もなく十秒近く正座でお辞儀し合う。
膝と脛に当たる小石が痛い。
遥か彼方では寄せては返す波が貝殻海岸を洗っている。
胡麻堂教諭が顔を上げる気配に、俺も顔を上げた。
彼女はどう好意的に評しても最近就活を始めたばかりの大学生といった顔立ちをしている。
ふわふわ系とでも言えば良いのだろうか。どことなく海外のお人形さんを彷彿とさせる。
「……先生」
「はい?」
「失礼ですが、今お幾つですか?」
「26です。それが何か?」
胡麻堂教諭はムっとしたようだった。
俺は思わず顔の前で手を振り、悪意が無いことを示す。
「ああ、いえ。まだお若いのにしっかりしていらっしゃるから」
えええ、と温州と蘇芳が信じられないといった声を上げる。
「おじさん? 26歳って――――」
「世間的にはオバサンです」
「蜜輪さん? 紫女川さん?」
楚々とした笑顔の奥に殺気を感じたのか、つい十数時間前まで化け物と戦っていた二人が互いの身を抱き合う。
「誰がオバサンですか! 誰が!」
「いたたたたっ! そんなだから婚期がっ!」
立ち上がった教諭は子供のように二人をぽかぽかと叩いていた。
きゃあきゃあという姦しい声に、バナナを剥いていたナタネが寝床からひょいと顔を出した。
もうその顔からは血化粧が拭い去られている。
「ジューグ?」
「何でもねえ。レストインピース」
26。
――――26、か。
(……若えな)
何でもできる年齢だ。
新卒で大手企業に入社することは難しいだろうが、無限に等しい可能性が目の前に広がっている歳だ。
資格だって取れる。
自分探しの旅にだって行ける。
漫画家にだってなれる。
きっと彼女がそのことに気づくのは十年先のことだ。
十年後、26歳の新米教師を見て今の俺と同じ感慨に耽るのだろう。
彼女にしてみれば20数年生きたという自負があるのだろうが、社会にしてみれば胡麻堂教諭はまだ生まれたてほやほやの雛鳥なのだ。
温かい卵の中から殻を割って、ようやく冷たい風に触れたヒヨコ。
だからこそ、こうしてしっかりと職責を果たそうとしていることは俺にとって眩しく映った。
年の割にしっかりしてますね、という言葉に嘘は無かったのだが曲解されてしまったらしい。
――――職責を果たしている?
少し違う。
目を覚ましたばかりの彼女は温州と蘇芳の顔を見るや取り乱さず冷静に、どっしりと構えようとしていた。
正しく、「大人」で在ろうとした。
足腰も立たないほどへろへろに衰弱しており、記憶も混濁していたにも関わらず、だ。
マトゥアハの死骸を見ても彼女は決して気を失ったりしなかった。
「26歳で独身ってちょっとね~」
「ま、まだ言うんですかこのっ! 蜜輪っ!!」
「ちょ、しめっち助けて助けて!」
きゃあきゃあとふざけ合っているのも緊張をほぐす為のポーズなのだろう。
現に温州と蘇芳の顔には女子高生らしい笑みが戻ってきている。
俺は彼女達にこの表情を取り戻させてやることができなかった。
(教師、か)
昔は、教師なんて教員免許を取っただけの「ただの人」だと思っていた。
正しいことなんてほとんど残っていないこのご時世に、あれは正しいこれは正しくないと子供に吹き込むろくでなし。
今なら何となく、「正しさ」を背に子供たちの前に、そして保護者たちの前に立つことの苦しさが分かるような気がする。
――――俺にはとても務まらない職業だ。
「それで、この子達を監禁していた『マトゥアハ』の話なんですけど」
監禁。
なるほどそう来るか、と俺はいささか感心した。
馬だって道路では車両として扱われるそうだし、温州達が置かれていた状況は確かに監禁と言えなくもない。
ある種の超常現象すら既存の価値観に当てはめて考えなければならない公務員の性(さが)が少し気の毒だった。
「先生」
温州がはいはいと挙手を繰り返す。
「なに?」
「もう出ませんよ、マトゥアハは。ねえおじさん?」
「ん? ああ、そうだな」
初めにこの島へ来た夜、俺の見た『疑似餌』は四人。
その四人がここに全員集っているということは、すべてのマトゥアハが死に絶えたということになる。
「あとは脱出方法です」
(お前はむしろ服の心配した方がいいんじゃないのか……)
蔓のブラジャーと葉っぱのスカートだけを身に纏った蘇芳が汗で固まりかけた髪をほぐす。
彼女はいち早く元の真剣な表情に戻っていた。
「土着の神を殺したわけですから、報復を受ける可能性があります」
「報、復?」
「最悪、火炙りとか」
「そんな! 命を脅かされたのはあなた達なんですよ?」
吃驚する胡麻堂教諭を優しく諭すように温州が告げる。
「マトゥアハは災厄と豊穣の神だったらしいです。……海だから豊穣じゃないですね。何て言うんでしたっけ」
水を向けられたが、俺は肩をすくめた。
「何にせよ、邪魔するなら斃すしかないと思いますよ、先生」
温州はさして怯えた様子も見せていない。
怪神と二度渡り合った彼女にしてみれば人間なんて今更、といったところだろうか。
その油断はきちんと戒めてやらなければならないが、まずは――――
「俺たちがマトゥアハを殺したことが分かったら、あいつらは何もしてこねえよ。神様殺した奴相手に食って掛かると思うか?」
「かも知れません」
蘇芳はその可能性を否定しなかった。
「でもそうではないかも知れない。だったら最悪の可能性を想定するべきかと」
「……」
空気がひりつく。
いつの間にかナタネが寝所から這い出してきており、その手に刀を握っていた。
最後の戦いの相手は人間。
思えば俺をここへ誘い、少女達をマトゥアハに捧げた人間たちこそが真に俺が立ち向かうべき相手だったのだ。
(刺し違えてる場合じゃなかったんだな)
ふっと自嘲する。
何て皮算用だろうか。
俺は彼女達を本当に安全な場所へ送り届けるまで気を抜いてはならなかったのだ。
「大歓声で迎えてくれたらそれで良し」
蘇芳が温州へ視線を。
「ダメなら……力ずくになりますね」
温州がナタネへ視線を。
「……」
ナタネが俺へ視線を。
俺はただ、頷く。
「船が必要です、おじさま」
「分かってる。だが蔓なんてもう残ってねえぞ」
「骨もだよ、しめっち」
もはやイカダなんてものを作ることは不可能だ。
残る手段は泳ぐか、飛ぶか。
「緑目の殻を使いましょう」
「殻?」
「はい。あの大きい方ではなく、手足の殻です」
蘇芳は椀状にした手で半球形を作る。
「うまく切り込みを入れることができれば一人用のカヤックのような形にできるかも知れません」
「待って。あの殻が水に浮かなかったら?」
「だったら赤目のヒレを使いましょう。丸めて浮袋にするとか……あとは、残った青目のワタを抜いて口を縛っても浮袋に使えるかも知れません」
「ふ……む。試してみないことには分からねえな」
「ですね」
蘇芳が軽く肩をすくめた。
俺は話が途切れたところで温州に声をかける。
「温州。もし人間が相手なら刀だの槍だのでどうにかなるなんて考えるな」
「え」
「ピストル持ち出されたら終わりだろうが」
巨大だが傲慢で、身一つで挑みかかって来るマトゥアハとは違う。
相手が人間の集団だとしたら、これまでの戦法は一切使えない。
「逃げるとか、かわすとか、そっちを考えなきゃな」
「……」
温州は微かに睫毛を震わせ、目を伏せた。
(それにしても――――)
豊穣。
マトゥアハがもたらすはずだった豊穣。
それが失われたことによる怒り、か。
はて、と俺はしばし思案する。
災厄は分かるのだが、奴らが住民に「恵み」なんてものを還元していたのだろうか。
奴らが住民に「何もしない」こともある種の恵みなのかも知れないが、どうも引っかかる。
(……まあ、今考えることじゃねえか)
結局のところ、これらの推測はあの死体の手記を元にしている。
あの骸骨がたどり着いた真実が誤っている可能性だってあるのだ。
死者にしか殺せないなどという大仰な文句も字面通りの意味を持たなかったわけだし。
「おじさま。ひとまず今夜は休みませんか」
「だな。もう……日が暮れちまう」
蜂蜜に漬けたキンカンの実のような太陽が海へ降りていく。
ざああ、と波が引いて行く。
もうすっかり慣れ親しんだ磯の香りがつんと鼻をついた。
「みっちゃん、ご飯お願いしてもいい? 先生とナタネちゃんと一緒に」
「? いいけど、しめっちは?」
「ちょっと気になることがあって」
蘇芳は集落の方へ足を向けた。
「おじさんはどうします?」
温州に問われ、俺はちらりと胡麻堂教諭を見やる。
俺に背を向けた彼女はもそもそとジャケットのボタンを外しており、紺色のスーツの裾から白いワイシャツがはみ出していた。
俺はただ歳を重ねただけのおっさんだが、それでも彼女よりだいぶ年上だ。
一緒にいれば息苦しい思いをさせてしまうだろう。
温州と蘇芳はこれから学校へ戻り、社会へ戻らなければならない。
彼女達が敬意を抱くべきは教師であって、俺ではない。
俺という庇護者がいることで胡麻堂教諭の権威が削がれてしまうのであれば、俺は物陰に隠れているべきだ。
「ちょっと散歩してくる」
俺は緑目の元へと足を運んでいた。
貯水池から這い出した場所でうつ伏せに倒れた奴の死骸には、早くも虫や鳥が集り始めている。
硬い殻に覆われた上半身は無事だが、程よく茹だった下半身が細切れにされて大自然へと還っていく。
「……」
死体に魂は無い。心臓に心が無いのと同じように。
今、弱小生物に貪り食われているのは『緑目』という化け物が脱皮の際に残した皮のようなもので、奴自身の誇りはいささかも損なわれてはいない。
そうは思いつつも、俺はその無惨な有様から何となく目を背ける。
辺りに漂うのは泥と脂の浮いたヤドカリスープの異臭。
すっかり冷え切った貯水池からはもはや熱を感じない。
(……)
マトゥアハは一匹残らず死んだ。
漁民共の反応は気になるが、少女たちはひとまずの安息を得た。
だというのに、煮凝りにも似た感情の淀みが俺の胸に居座っている。
どっかとその場に腰を下ろす。
あぐらをかいた俺の前には死した緑の瞳。
壊れた暖房のようにぬるい南国の風が肌を撫でていく。
遠くにおいては波間に白い泡が立ち、近くにおいては名も知れぬ虫の蠢きと肉のちぎれる音がする。
飴色の空に雲は見えない。
無音とは音の無いことを言うが、今の俺にとってはこの自然音こそが「無音」だった。
人の声が聞こえない、美しい「無音」。
目を閉じたまま、ここへ来た時のことを思い出す。
一人ぼっちの時、俺は絶望の中にあって自由だった。
いつでも死ねるという諦観は俺の人生を煌めくようなものに変えてくれた。
ナタネとジンジャーしかいなかった頃、俺は不安を感じると同時に牧歌的な異国情緒(エキゾティシズム)に身を浸していた。
言葉の通じない少女と言葉の通じない犬。
真水も無く、食い物も無く、いつまた怪物に襲われるかも知れないという恐怖の中、俺は自然体だった。
温州が現れ、俺たちの楽園にアスファルトの匂いが混じった。
日本語でコミュニケーションの取れる彼女がありがたく、同時に恐ろしくもあった。
彼女が生き生きと振る舞えば振る舞うほど、この島に社会の匂いが染みつくのだ。
蘇芳が現れ、横断歩道の軽快なメロディと行き交う靴音を思い出した。
そして胡麻堂教諭が現れた瞬間、俺は社会という満員電車の中で人間が軋む音を聞いた気がした。
俺を置いて行ってしまったはずの連中が、この世界の果てまで俺を迎えに来たのだ。
ぎゅうぎゅうの満員電車。灰色のスーツ。
苦しそうな、迷惑そうな顔の連中が俺を呼んでいる。
ほら、まだ乗れるよ、と。
だが俺は乗ることができない。
乗ることができるのは温州と蘇芳とナタネと――――
「はっ!」
がくんと首が揺れ、視界が色を取り戻す。
(……寝てたのか)
一体、どこからが夢だったのか。
寝汗のせいで南国だというのに肌寒さを覚える。
「――――!」
「――――っ、――――っ!」
遠く、誰かの楽しげな声がした。
複数の人間が入り込んだことで、真っ白だったこの島に陰影が作られている。
俺は瞼の上から目を擦った。
(……)
なぜだろう。
俺は助け出したあの少女達にほんのわずかな疎ましさを覚えているのだ。
マトゥアハと戦っている間、俺は無心だった。
この子達を助けてやらなければならない。元の社会に帰してやらなければならない。
そんな使命感が俺の心臓に火を灯し、だらしない脂肪を燃やしてくれた。
命を賭した戦いが俺の人生に色彩を取り戻させた。
だが戦いは終わった。
――――終わったのだ。
後はあの子たちを帰して。
帰して、俺はどうしよう?
きっと警察が来るだろう。
胡麻堂教諭の学校の人間だって来るに違いない。
もしかしたら温州や蘇芳の親も。
マスコミも。
じゃあ。
じゃあ俺は――――
――――あの粘つくような社会に戻るのか。
俺を待ってもくれないくせに、俺を絡め取ろうとするあの社会に。
びょう、と異臭を乗せた風が吹く。
「……」
『生きることは戦いだ』。
そんな台詞を本で読んだ。
だが戦いだけが人生ではない。
戦うためには住民票が必要で、戦うためには平日に市役所に行くことが必要で。
戦うためには雇用保険が必要で、社会保険料が必要で、銀行口座が必要で、PCスキルが必要で。
家賃三か月分の敷金と、国民年金と、携帯とネットのプランと、生命保険と、洗濯機と。
スーツも要るし、健康診断書も要るし、履歴書も要るし、いくつもの転職サイトに登録する必要もある。
職務経歴書の空白期間を説明するトークも必要だ。
――――そんな煩わしさの先にしか、俺の戦場は無い。
いつの間にかうなだれていた俺は少しだけ顔を上げ、死んでいく空を見る。
同じ空の下で、今も誰かがデスクに向かっている。キーボードを叩いている。
そう考えただけで口から灰色の泥を吐きたくなった。
生きることは戦いだ?
なら、誰でもいいから今すぐ俺を戦場に連れて行ってくれ。
いくらでも戦ってやる。喜んで過労死してやる。社畜にだって廃人にだってなってやる。
だから俺を戦士にしてくれ。
衣食住が足りて、せめて書類選考は通過して、年収が三百万円を超えている、そんな戦士にしてくれ。
社会が戦場で、そのままならなさと息苦しさに耐える人生こそが戦いならば。
徴兵検査で俺を失格になんかしないでくれ。
志願しているんだよ、戦いたいと。
でも戦わせてくれなかったじゃないか。
お前のような愚図は要らないって。お前みたいな奴は足手まといだって。
戦いたかったんだよ、俺は。
「生きることは戦いだ」だなんて訳知り顔でいけしゃあしゃあとのたまうクソ野郎なんかよりずっと。
なのに――――
「……」
死んだ化け物を振り返る。
こいつらと戦っている時の方が、俺はよっぽど生きる手ごたえを感じていた。
この戦いがずっと続けば、こんな惨めな思いをせずに済むんじゃないか。
俺はゆらりと立ち上がる。
そうだ。
死ぬのは怖くない。
ただ、必要とされなくなるのが怖いんだ。
無言で、仕草だけで、雰囲気で、「お前なんか要らない」と言われるのが。
人間社会からはじき出されるのが。
だが――――
だがこいつらはそんなことを言わない。
マトゥアハは――――そんなことを言わない。
奴らは俺を殺そうとする。
俺はただ生きようとする。
そのシンプルなせめぎ合いの中にこそ戦いが、人生があるのではないか。
そう考えた途端、奴らと死闘を繰り広げた時間のことがひどく懐かしく、そしてかけがえのない時間のように感じられた。
生の躍動。死の興奮。
それらに抗う勇気と知恵と、怒りに満ちたあのひと時。
間違いなく。
俺はあの頃、「生きていた」。
だがあの満ち足りた瞬間を取り戻すことはできない。再現することもできない。
どうすれば俺はまた「戦える」のか。
どうすれば――――
ああそうだ、と俺は閃く。
簡単だ。
簡単なことじゃないか。
緑目のマトゥアハの腕に手を伸ばす。
互いに結びつく必要性を無くした体組織はパラパラとほつれ、俺の手は一対の剣を握っていた。
長短一対の波刃。
長剣は二メートルを超えており、片手では持つことも難しい。
鋭さは感じられないが、硬い。
そうだ。
俺はここに。
――――死にに来たんだ。
死ねば地獄で。
地獄できっとこいつらと――――
「おーじさん」
振り返る。
一番星が黄昏の空にちらついていた。
それを背に立つのは黒髪の少女。
白いカッターシャツを泥で汚し、肌もすっかり焼けてしまった前髪ぱっつんの少女。
蜜輪温州。
「ご飯できましたよ」
温州はどことなく取り繕った声でそう告げた。
おう、と立ち上がる。
両手に抱えた剣を見て温州が片方の眉を上げる。
「それ、どうするんです?」
「一応、持っておく。人に襲われるかも知れないからな」
俺は無骨な刃をためつすがめつ眺めた。
「後で研がないとな」
「……そんなに研がなくても、人は殺せますよ」
温州はくるりと背を向けた。
夕餉の席は女たちの花園だった。
胡麻堂教諭を中心に、温州と蘇芳は女子高生のようにきゃあきゃあとはしゃぎ合っていた。
怨念の炎を消したナタネもそれに加わり、四人はまさに家族か姉妹のようにじゃれつく。
この憩いの時間がいつまで続くのかは分からない。
分からないが、俺は多少の満足を覚えていた。
それは遺産の取り分を決め終えた、老人の感慨にも似ている気がした。
火は消え、ささやかな祭りが終わる。
少女たちを寝床に残し、俺は一人貯水池へと向かっていた。
ざくざくと茂みを踏み、ぬかるみに足を取られながら、火の消えた戦場へ。
「……」
暗い。
どこに何があるのかすら分からない。
俺は手探りで夕方座っていた場所を探し、ゆっくりと腰を下ろした。
炎のように赤い鋏を取り出し、見様見真似で石にこすり付けてみる。
しゃ、しゃっと鉋(かんな)で木を削るような音がした。
その音が心地良く、しゃ、しゃ、と同じ動作を繰り返す。
真っ暗な闇の中で、俺は誰へ向けたものでもない刃を研いでいた。
「……」
「……」
「……」
「おーじさん」
しゃ、と鋏を止める。
ふわりと背後から甘い香りに包まれた。甘く、それに柔らかい。
「だーれだ?」
温州は俺の首に腕を回し、耳元でそう囁く。
潮風にさんざん吹かれ、汗だくで風呂にも入っていないというのに。
女の匂いはなぜこうも濁らないのだろうか。
「蘇芳っつったら怒るか?」
「ヤキモチ焼くかも知れませんねー」
あぐらをかいた俺を押し倒すかのように温州は体重を乗せてくる。
おいおい、と肩に置かれた手に手を重ねた。
「重いぞ。やめろ」
「だ~れが重いですか、誰が」
こつん、と拳がこめかみに当てられた。
俺は仕方なく剣を置き、旅行鞄を回すようにして彼女を片手でひょいと抱き寄せる。
ひゃっと楽しそうに声を上げた温州は俺の膝の上へ。
こちらを向いた温州の表情は窺い知れない。
彼女はむき出しの脚で泥をぺたぺたと踏み、俺の腿に尻を乗せた。
「見張りは?」
「しめっちがやってくれてますよ」
「そうか」
おじさん、と温州は闇の中で囁く。
「……どこに行くつもりなんです?」
「どこも行かねえよ」
「そうですか?」
「ああ。お前ら、帰さないといけないからな」
「私達だけ?」
「……」
「……」
温州は無言で俺にしなだれかかり、そして唇を軽く触れ合わせて来た。
「おいコラ蘇芳が」
「しめっちには言ってますから。大丈夫ですよ」
温州は早くも俺の上着のボタンを外しにかかっていた。
「『みっちゃんは納豆とかドリアンとか好きだからなぁ』って」
「俺はその系列の食い物と同じなのか」
「同じです」
すんすん、と温州は俺の胸元で鼻を動かす。
そしてやや残念そうに肩を落とした。
「でも思ったより臭くないかも」
「そりゃ悪かったな」
よく育った胸を下から揉み上げると、温州は闇の中で身をくねらせた。
数度の交わりを経て、犬のように喘いでいた温州が、んぐ、と唾液を呑む。
「おじさん」
「ん?」
「私、重いですか?」
いや、と俺は首を振る。
「俺が支え切れてないんだよ」
「……」
気にしているようなので、地面に敷いた上着の上に寝かせてやった。
それから俺たちは蘇芳に見咎められるまでに三度、肌を重ねた。
一生分の吐精を果たした俺は温州を最後に一度抱きしめ、蘇芳に後を任せて見張りへと向かう。
明け方、海から終末が訪れた。
松明を手にした人々と、それから――――
――――それから、『怪神』が。
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