第21話 晴れの海

 気づいたのは明け方の監視を担当していたナタネだった。

 絹を引き裂く悲鳴に気づき、俺たちは虫の這い回る草の布団を跳ね飛ばす。


「っ」


 時刻は早朝。

 月が沈み、星が消え、しかし未だ太陽の昇らない空は群青色。

 夜気の残る空気は僅かに冷たく、目覚めるや否や不気味なほどに頭が冴える。


(何だ……!?)


 まだ俺が眠りに就いてから数時間と経っていない。

 緑目を斃してからせいぜい七、八時間だ。


(一体何が――――)


 最速の反応を見せたのは蘇芳(すおう)だった。

 彼女は飛び跳ねるや否や俺を手で制し、見張り台へと駆け出して行く。

 ずれかける蔓のブラを締め直し、葉っぱのスカートを結び直しながら。


「おじさまはそこに」


 声だけを置き去りに草の衣を纏った少女が去る。

 ちらと見れば温州(うんしゅう)も飛び起きており、薙刀を掴んでいた。

 胡麻堂(ごまどう)教諭だけはジャケットを頭に被り、二度寝を決め込もうとしている。

 無理もない。まだ彼女を救出してから二十四時間と経っていないのだから。


(もうか。もう動きやがるのか……!)


 漁民か。

 奴らはもう神の死に気づいたのか。

 そして俺たちの下へ駆けつけたのか。


 その目的は何だ。

 もし連中が俺たちを襲――――


「おじさん……」


 心なしか肌艶の良くなった温州が片膝をつき、ごくりと喉を鳴らす。


「ビビんな。人間相手ならビビったら負けだ」


 そうだ。恐れるな。不測の事態は予測できない。

 万事が思い通りに行くことがこれまの人生で何度あっただろう。


 まずは。

 ――――どっしりと構えなければならない。


 予想していなかったわけじゃない。来たるべきものが来ただけだ。

 俺たちが最後に立ち向かうべきものが向こうからやって来た。ただそれだけのことだ。

 俺は長短二対の剣を傾いた十字架のように背負い、温州を鋭く睨む。


「俺たちはマトゥアハを四匹殺した。神様を殺した戦士だ。人間なんか敵じゃねえ」


「……」


「受け入れるのは謝罪と命乞いだけだ。それ以外をちらっとでも見せたら一人残らず叩っ切る。いいか、そういう気構えで行け」


「……。はい」


 すっと温州が息を吸う。

 ほおおお、と十数秒かけてその息を吐き出す。

 彼女の顔は丹田法で見る見る内に赤らんだ。


 ざざ、ざっと落ち葉を踏んで蘇芳が帰還する。

 ごく短い距離を移動しただけにも関わらず、彼女は僅かに呼吸を乱していた。


「人です。それと――――」


 やや躊躇い、彼女は思い切って告げた。


「おそらく、マトゥアハが」












 北の海岸は騒然としていた。


 これまで化け物の上陸地点であったそこには納豆藁を思わせる船が乗りつけられており、松明を掲げる漁民が集結していた。

 男も女もいる。

 子供と老人もいる。あのガイドもいる。

 どいつもこいつも1ドル99セントで3着買える、色落ちしやすいTシャツを着ている。


(……)


 群青色の世界の中で、奴らはただの黒ずんだシルエットに過ぎない。

 背格好でかろうじて年齢や性別が分かる程度だ。

 手に持つ炎が時折彼らの顔を浮かび上がらせるも、その無表情さゆえに晒し首のようにも見える。


「早かったですね」


 蘇芳だ。

 彼女は既に臨戦態勢に入っており、青目の皮を柄に巻いた黒目の曲刀を手にしている。


「この時間に来るということは向こうも『その気』だと思われます。連中が島内の捜索に人手を割いたところで船を――――」


「蘇芳」


 早口の彼女を制し、俺はその肩を叩いた。

 小刻みに震えていた肩が静止し、上ずった声も落ち着く。


「マトゥアハは?」


「あれです」


 彼女が顎で示したのは集団の中央だ。


「……」



 小さい、と思った。



 これまでのマトゥアハは青目を除けばどれも一軒屋程のサイズがあった。

 巨大なる怪神。

 それが俺の知る「マトゥアハ」だ。


 ――――だがアレは一体何だ。


 サイズは仔牛ぐらいか。

 色も形も納豆の一粒に近く、ニスを塗ったように表面がテラテラと光っている。

 やや膨らんだ円錐状のそいつは貝殻海岸の波打ち際に陣取っており、今も波に洗われていた。


「いなり寿司か……?」


 恐ろしく緊張感の無い比喩を蘇芳は気にも留めなかった。


「おそらくイモガイです」


「イモガイ?」


 こく、と頷いた蘇芳がちらりと背後を見やる。

 殿(しんがり)は温州。

 まだ寝ぼけ眼の胡麻堂教諭を支えるのはナタネ。

 彼女達にも届くよう、蘇芳はまず英語で、それから日本語で続ける。


「海棲生物の中では間違いなく最強クラスの毒を持っています」


 ナタネはその恐ろしさを知っているのか、ひくっと喉を鳴らした。

 緑目を相手に憎悪の焔を燃やしていた彼女とは似ても似つかない。


「食ったら腹壊すのか」


「口に銛がついていて、刺されると毒を流し込まれます」


「……口?」


 見たところ、奴に口はついていない。

 奇しくも俺が「いなり寿司」と例えたように、すっぽりと殻もしくは皮に覆われている。


「良く見てください。尾の部分を」


「尾……」


 じっと目を凝らす。

 ―――見えた。


 奴の尾部には二股に分かれた長い尾が伸びている。

 一本は目もくらむほどの翡翠緑(ジェイドグリーン)で、一本は絶えず炎を照り返す銀色。

 二本の尾は未だ波の中にあるが、遠目にもはっきりと分かるほどの鮮やかな色彩を持っている。


「……ナタネ」


 名を呼ばれ、少女がびくりと震える。


「ノープロブレム。ノープロブレムだ」


「ジューグ……」


 ぬいぐるみがあれば掴みたい。そしてそのままベッドに潜り込んでしまいたい。

 そんな怯えを見せながら少女が俺に身を寄せる。


「あれ、何だか分かるか」


 蘇芳と胡麻堂教諭の通訳が重なった。

 生徒は口を噤み、前方へ注意に全力を傾ける。


「分からない。あんなモノ知らない」


「……たぶんマトゥアハだ」


「そうかも知れない。あんな貝は居ない」


「……」


 マトゥアハという存在を知っていたナタネですら存在を知らない、ということは。


「可能性は二つです」


 蘇芳の舌はいつになくよく回る。

 可能性を口にせずにはいられないのだろう。 


「一つはあれが古い電話で言う『子機』である可能性」


「子機」


 背を向けたままの温州の呟きを蘇芳が拾う。


「何らかの方法で四体のマトゥアハの危機や生死を知らせる……ゲームで言えば『ビット』でしょうか。マトゥアハの子分です」


 続けてくれ、と俺は蘇芳に頷き返す。


「もう一つは」


 彼女は最悪の可能性をゆっくりと口に含み、それから吐き出す。


「今までの四体が『子機』で……あれが『親機』である可能性」


「つまり?」


「あいつが親玉である可能性です。あいつこそが真のマトゥア――――」




「おじさん」



 温州の声が震えていた。

 ざぐ、ざぐ、と彼女がこちらへ後ずさる。


「何か、集まって来てる……」



「っ!!」



 間近で見た『そいつら』は黄金色(こがねいろ)にも見紛った。


 葉に。

 枝に。

 土に。

 携帯端末ほどのサイズのイモガイがへばりついている。

 それは雨上がりの風景にカタツムリが滑り込んだかのごとき様だった。


 問題は数だ。

 一匹や二匹じゃない。

 十匹や二十匹でもない。


 ――――百を優に超えている。


「お、おじさまこれは……これはっ……」


 水玉だけで己の魂を描き切る画家が居ると言うが、その人物の作品もこんな感じなのだろう。

 辺りはまるでイモガイの雨が降った後のように黄土色の斑点で埋め尽くされていた。


 無数の生物の住まう世界をイモガイが覆っているのか。

 それとも。

 本来的にイモガイの住処であるこの場所に『世界』と題された極彩色の落書き(タギング)が施されているのか。

 あまりにも現実離れした光景を前に俺はその認識すら曖昧になるのを感じた。


「いつの間に……」


 ぞわぞわと背を蟻の大群が這い上がるような感覚。

 奴らは例外なく翡翠色と銀色の尾を有しており、俺たちをぐるりと取り囲んでいる。


 じく、じく、と。

 熱く乾いたアスファルトに雨水が染みこむかのごとき音がする。


 迫って来る。

 奴らが迫って来る。


 ミクロン。

 ミリ。

 センチ。


「お、あ。あ……!」


 胡麻堂教諭は既に我が身を抱き、その場にへたり込みかけていた。

 温州が彼女の腕をしっかりと掴んでいるが、その彼女もまた内股になって震えている。


「お、おじさま」


 蘇芳は滑稽な程に呼吸を乱していた。

 ぜえ、はあ、と。


「種類に、よってはイモガイの、毒には、血清が無く、て」


「慌てンな」


 言いつつも、俺の声は裏返っていた。


「ジューグ!」


 真横に目をやったナタネが俺のズボンを掴む。

 見るまでもない。俺の目はトンボの複眼で見ているかのように四方八方に群がるイモガイを捉えていた。

 寝所も便所もお構いなしで、奴らはじわりじわりと迫って来る。


「慌てなくていい」


 落ち着け、落ち着け、いいか落ち着け、と俺は繰り返す。


 落ち着いて、悠然と――――


「走れ」









 陸はもうダメだ。

 誰もがそれを理解していた。


 葉の裏、枝の先。

 骨の下にも土の上にも。

 黒目の骨の貯蔵庫も、青目の皮を吊るした枝も。

 緑目の死んだ貯水池も、ジンジャーの墓も。


 おそらくもうすべてが、こいつらに覆い尽くされている。

 理屈じゃない。感覚で分かってしまう。


 俺たちはとうの昔に『詰まされている』。


「は、走れ! 走れ走れ走れっっ!!!」


 このイモガイ共に刺されても無事な可能性と漁民共と正面衝突して生き延びる可能性が比較に値するのか。それは分からない。

 ただ、本能が泣き叫んでいた。

 こいつらに覆われて死にたくない。

 こいつらの餌にはなりたくない。


 こいつらとは戦ってはいけない、と。


「おら行けっ!! 行け行け行けっっっ!!!」


 乗客を非常口に押し込む客室乗務員のように俺は蘇芳、ナタネ、温州と胡麻堂教諭の順に女たちの背中を押した。

 温州の手を引いた胡麻堂教諭が振り返る。


「い、行けってどこにっ!?」


「海だ!!」


 蘇芳が叫んだ。


「見て! あいつらも逃げてるっっ!!」


 漁民共だ。

 奴らはいつの間にか松明を手に、各々の舟へと退いているところだった。


(野郎……!)


 つまり奴らは『マトゥアハ』の先導役。

 漁民共は俺たちへの報復へ来たわけじゃなかったのだ。

 連中は神輿のようにあの稲荷寿司を運んできた。あるいは海中を蠢く奴に俺たちの居場所を知らせた。


 いずれにせよ、漁民が引いてしまった以上舟を奪うことは難しい。

 かと言ってこの場に留まればイモガイの餌になる。


 俺は貝殻海岸にぽつんと佇む黄土色のマトゥアハを見やる。


(あいつを殺せば連中も……) 


 もう断定しよう。

 あいつだ。

 あいつこそが真の怪神「マトゥアハ」。


 黒目も、赤目も、青目も、緑目も。

 すべてはあのイモガイの端末に過ぎなかったのだ。

 もしかすると疑似餌に使われた女の行く末は巨大マトゥアハのディナーではなく、あの小型マトゥアハのおやつだったのかも知れない。


「おじさまっっ!! 早くっ!」


 はっと気づけば既に俺の靴の爪先にまでイモガイが這い寄って来るところだった。


「うっ! このっ!!」


 俺はその場で何度か地団太を踏み、少女達を追って駆け出す。

 否。


「こいつをっ……!」


 蘇芳が加工しかけていた緑目の脚の一本を引っ掴む。

 細長い殻を割ったそれは細められた瞳孔のような形をしていた。

 カヤックに使う予定のそれは未だ試験段階であり、肉をこそぎ落としただけのただの『殻』だ。

 俺は何の役に立つとも分からないそれを担ぎ、駆ける。


「はっ……! はっ! はっ!」


 興奮と緊張が過剰なまでに鼓動を早める。

 その分、俺の体感疲労は跳ね上がる。

 心臓が動いたら動いた分だけ、俺は己が追い込まれていることを自覚する。


「おじさんおじさん早くっ! 早くっっ!!」


 急斜面を転がり落ちていく蘇芳、ナタネ、胡麻堂教諭。

 最後まで残っていた温州が俺を手招きしていた。


「分かっ」


 ぼたり、と。

 何かが落ちた。彼女の肩に。


 黄土色の小さなイモガイ。


「……!」


 飛ぶ。

 地を蹴って水平に。


「うっ」


 温州が呻くや否や俺の身体を重力があらぬ方向から引っ張る。

 上。横。下。上。横。下。

 一回転までは自覚できた。

 二回転。三回転で激痛が全身を叩く。

 そして列車の窓から見える世界のごとく、無限に引き延ばされた白と茶と緑と群青色の色彩が俺を包む。


 ごっ、ががっ、ごごっと。

 柔らかい温州を腹に感じつつ、俺は実に十数回もの横転を繰り返した。

 小石が飛び、砂が散り、温州と互いの体重を押し付け合うようにして斜面を転がる。


 時間にしてほんの数秒。

 ようやく停止した俺は温州の肩から奴の姿が消えていることを確認してから立ち上がる。

 二対の剣も、盾も無事だ。


「温州」


「う、うん」


 見上げればせり出した枝葉からも壁面からもイモガイがぼたぼたと落ちて来るところだった。

 奴らは地を打ってはびちびちと跳ね返り、ぷにぷにした足をびくつかせて元の姿勢へ戻ろうとしている。


「化け物が……」


 一体あの数がどこに潜んでいたのか。

 もしかすると初めからなのか。

 初めから――――俺はマトゥアハの巣の中で無様にもがく生餌だったのか。


「おじさんっ!!」


 胡麻堂教諭だ。

 ナタネを包み込むように抱いた彼女は沖合を指差し、ぴょんぴょんと跳ねている。


「こ、降服しましょう!」


「……」


 沖合の連中はじっと俺たちの様子を窺っている。

 距離はざっくり見て十数メートルか。

 奴らを見やれば自然と『マトゥアハ』が視界の中心に居座る。


「でなければあそこまで泳いで行って――――」


 悪くない相談だ。

 あの手の舟は容易にはUターンできないし、見たところ櫂の数も少ない。

 もしかすると俺たちの泳法でも追いつけるかも知れない。


 やってみようか。

 ――――たぶん、崖っぷちに追い込まれるだけだと思うが。


「おじさん」


「温州。海まで走れるか」


 うん、と立ち上がる少女の手を取り駆け出す。

 胡麻堂教諭はどこにそんな力を残していたのか、ナタネをひょいと抱きかかえ、猛然と走り出した。

 マトゥアハの数メートル手前で刀を握っていた蘇芳も俺たちの気配に気づく。


「に、逃げるんですか!?」


「いや……」


 ざぶざぶと波打ち際に入ったところで舟が後退するのが見えた。

 松明が掲げられている。網も積まれているようだ。

 近づけば追い払われるだけだろう。やはり退き口は――――



「うっ」


 誰の呻きかは分からなかった。

 ただ、それが絞り出される経緯は分かった。


 マトゥアハがゆっくりと頭部をこちらに向けていたのだ。

 貝類らしからぬ動きに誰もが呆気に取られる中、俺は気付いた。



 ――――『目』だ。



 今までの奴らとは違い、それは紋様に過ぎなかった。

 土器に練り込まれた紋様のごとく、黄土色の体表面に浮かび上がるいくつもの『目』。


 見ている。

 こいつは俺たちのことを『見ている』。

 その確信がなぜか俺の膝を笑わせた。


 がくがくがくと笑うのは俺の膝だけではない。


「っ……っ」


 温州が呑まれかけている。

 胡麻堂教諭とナタネは互いの身を抱くようにして波打ち際へと退いて行く。


「ふっ……ふーっ!」


 蘇芳は無理に息を吐き出し、気を強く保とうとしている。


(何て色してやがる……!)


 間近で見るそいつの体色は黄金にも近い。

 光沢を持った金の延べ棒のような体表面には驚愕する俺たちの顔が映り込んでいた。



「おっ、おじさま!!!」



 蘇芳だ。

 彼女は既に刀を抜いていたが、その腰はまるで臆病者のように引けていた。

 腰が引けている。あの蘇芳の腰が。


「みっちゃ……う、温州っっ!! 得物、得物をっ!! 得物ヲッ!!」


 口角泡を吹きながらも蘇芳は賢明だった。

 ばご、と俺の拳を己の鼻に突き立てたのだ。


 そう。

 恐怖は刃を尖らせるが、同時に脆くする。

 怒りだ。怒りこそが刃を真に尖らせ、硬くする。


 彼女の拳は鼻血で濡れ、鼻も僅かに曲がっているように見えた。

 だがその目には闘志が爛々と輝いている。


「私たちなら、やれる! 私たち三人がかりならっ!! こいつを!!」


「……!」


 温州がそれに応じた。

 彼女は薙刀を下段、八相、上段へと切り替え、蘇芳と同じくマトゥアハから数メートルの距離を保つ。


「こいつさえ……こいつさえ殺せばもう敵は居ない! 私達は助かるっ! 助けてもらえるはずっ!」


 怒号を放ちながらイモガイに近づく少女へ俺もまた怒号を放つ。


「近づくな!! 尻尾が動くぞっっ!!」


 赤くなった緑目の殻を盾代わりに、俺は彼女達より前へ出た。

 本来こういった場合の攻め手は俺の担当だが、今回ばかりは話が別だ。

 あの『銛』を食らったらおそらく無事では済まない。


「深呼吸しろ二人とも。ビビんな。ビビらずにやれ」


 俺はちらりと後方を見やる。

 沖合の連中は幽霊のように身動きをしない。

 呼吸をしているかどうかも怪しい。


 ふううう、と蘇芳が息を吐いた。


「行きます……」


 温州は既に腰を低く落としている。


「……」


 時代劇の主人公を包囲する雑兵のごとく、俺、温州、蘇芳がじりじりと螺旋を描いて奴へと近づく。

 ざり、ざりり、と。

 砂利ではなく貝殻を踏んで。


 イモガイもまた動く。

 カタツムリのようにゆっくり、ゆっくりと頭を巡らしている。


「!」


 マトゥアハの尾がびくりと動いた。


 ぴひゅん、ひゅひゅん、と。

 それは牛の尾のように振るわれる。


(! 見切れるぞ……!)


 遅い。

 緑目の鋏よりずっと。

 これなら――――


「俺が盾になる」


 逸る二人を手で制しつつ、俺はマトゥアハにじりじりと迫った。


「殺(や)れ。加減すんな。一撃で殺せ」


「はい」


「行くよ温州……」


 ざり、ざりりり、と貝殻が踏まれる。

 どっくん、どくん、どくんどくん、と三人分の心臓がビートを刻む。



 ざく、と蘇芳が足を止める。



 まず、俺が飛び出す。

 殻の盾を掲げた俺は奴の尾目がけて突っ込んだ。

 ひゅん、と鞭よりもしなやかに振るわれた銀の銛の先端が殻に当たって弾かれる。


「今だっっ!!! やれっっ!!!」


 弾丸さながらに飛び出した二人の少女が得物を振るう。




「は……?」




 ずぶり、と。

 ――――いや違う。


 ずぼり、と。

 ――――いやそうでもない。


 ぬぶり、と。

 ――――これも少し違う。



 ぶにゅん、だ。

 そう。

 ぶにゅん、と。



 刀と薙刀が奴の身体を貫いた。

 ――――一切の抵抗なく。


 マトゥアハはX字に串刺しにされていた。

 にも関わらず――――


「なっ……!!」


 カタツムリのように平然と動いていた。


「! 蘇芳逃げ」


 最初に犠牲となったのは。

 踏み込み過ぎた蘇芳だった。


 彼女は刀諸共マトゥアハに体当たりしていた。

 接触した地点から稲荷寿司全体に衝撃が伝う様はスローモーションのようにも見えた。

 ぶるん、と水面に波紋が立つかのごとく一点が揺れ、そこから貝全体がゼリーのように揺れる。


「ぅっ!」


 呆気に取られる蘇芳の脇腹に。

 ぶすりと翡翠の針が刺さっている。


 その軌道を目で追った俺は気付いた。

 奴の針は俺の死角を突いて彼女へ迫ったのだと。


「すお――――」


「温州よそ見す」


「おじさんっっっ!!!」


 胡麻堂教諭の悲鳴を耳にするのと、何かが体内へ侵入するのを感じたのが同時だった。


「?」


 痛みはまだやって来ない。

 俺は戦争映画でたまに描かれるあの情景が、現実に起こり得る事態だと知った。



 がらんがらん、と殻が地面を打つ。



 何も持たない両手を見る。

 その少し下で、ずぼりと翡翠の針が抜ける。


「……? ぁー……」


 意識が霞みがかる。

 後頭部から地面に叩き付けられたというのに、痛みをまったく感じない。


 俺は星空を見ている。

 翡翠の針に斬りかかる温州の姿が見える。


 ずぶん、と刃は針を『通り抜ける』。


 寒天のように刃をいなした翡翠の針が、温州の首元にも突き刺さる。

 うっと呻いた少女が針を両手で掴み、抜こうとする。

 抜こうとしたまま、俺の真上に倒れてくる。


「――――グ!」


「……っ! ――――っ!」


 小柄な少女が視界に飛び込み、めくら滅法に刃を振るう。

 それをスーツの女が押しとどめようとする。


 俺たちの時よりやや粗雑に、翡翠の針が二人を刺すのが見える。 

 崩れ落ちる体重が二人分。



 そして、朝が来る。

 朝が来ると同時に、俺の視界が闇に包まれる。


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