第19話 蒸気の海
万事は流動的だ。
紙の上の方程式と違って現実は絶えず揺れ動く。
ドミノ倒しの作戦が実現する可能性は低い。
だから振れ幅は大きく見積もり、イレギュラーは起こって当然だと考える。
俺たちは意図して「作戦」の目を粗くした。
途中何が起ころうと、最終的に「この状況」へ持ち込むことができればいい、と。
が、これはさすがにマズい。
(どこ行ったんだよナタネ……!)
高台からマトゥアハの背中を見下ろしていた俺は遮蔽物からそっと身を晒す。
そしてハンドサインを送り、遥か下方の温州に確認を取った。
海に近いエリアに立つ彼女は支援と中継を担当している。見えるのは炎を背にしたシルエットのみ。
い な い の か
い な い
俺の位置からは最終ポイントに立つ蘇芳の姿が見えない。
互いの動きを意識し過ぎると緑目に見つかる恐れがあるため、あえてそのような配置となった。
すおう にも き け
汗が冷たく背を伝う。
はぐれたのか。いや、そんなわけがない。
さっき緑目に潰されたことで大きなダメージを負ったのか。いや、それもない。
落ち着け。
あの子が今、行きそうな場所。
(まさかな。まさか――――)
――――居た。
希望的観測はほぼ外れるくせに、最悪の予想はいつも的中する。
この真理は地球上のどこへ行っても共通らしい。
ナタネはマトゥアハの背後に迫っていた。
虎を狩る原始人のように槍を構え、そろりそろりと少女が進む。
(あのバカ……!)
俺は彼女に何度もこう言い聞かせた。
目的はあくまでも『奴を確実に仕留めること』だと。
ナタネの出番は最後の最後だ。
奴が一度踏まれたゴキブリのようにひしゃげてから、思う存分恨みを晴らせばいい。
口を酸っぱくして言い聞かせたつもりだったが、今更ながら無理な注文だったと思い知る。
大局の為に感情を押し殺せ。
賢くあれ。冷静であれ。
子供に押し付けるような話じゃない。
(やっちまった……! 最初からあいつのことも勘定に入れとけば……!!)
いや、終着点は決まっているのだ。
過程はどうあれ、そこへ導けばそれでいい。
どっしりと構えなければならな――――
すおう が
ぴょんぴょんと飛び跳ねる温州のハンドサインが見えた。
い な い
(あぁ!?)
思わず声を上げそうになる。
喉から飛び出しそうになった言葉を両手で押し戻し、俺は再度温州のサインを確かめる。
見間違いじゃないだろうか。
だが現実は変わらない。
すおう が い な い
温州は焦りからか激しくサインを送り続けている。
心拍があっという間にスピードを上げ、どくどくどくどくと警鐘のごとく鳴る。
脚の傷が痛み始め、感覚が研ぎ澄まされる。濡れた土がむわりと臭う。
(そ、そんなわけないだろ。さっきまでナタネと一緒に――――)
ぴんと来る。
蘇芳はマトゥアハの一撃でかなりの距離を吹っ飛ばされていた。
その後の復帰が早かったので気づかなかったが、もしかして捻挫でもしていたのかも知れない。
貝殻海岸から最終ポイントまでの最短距離は斜面だ。
足を負傷したのだとしたらまず登れない。
(いや、そんなわけがねえ。足をやっちまったんなら連絡を――――)
はたと気づく。
もしかして彼女は伝言を「ナタネに」預けたのではないか、と。
負傷の手当てをする為にしばらく自分は動けない。
俺と温州にそんなメッセージを届けるよう託してナタネに単独行動を許したのでは。
そしてナタネはこう考えた。
これで私を縛る者はいない、と。
(……ッ!!)
あり得る。
大いに、あり得る。
蘇芳はこの作戦のキモだ。
いや蘇芳だけじゃない。温州もナタネも俺も、全員がキモだ。
相手は怪神で、こっちはただのヒトなのだから。
蘇芳が合流できないとなると、俺たち三人の負担はぐっと増える。
だがナタネが死んでしまってはその負担を二人で背負う羽目になりかねない。
――――いや、違う。
優先順位を間違えてはならない。
ナタネが死ぬということは俺にとっての「終わり」なのだ。
その後にどれほど鮮やかにマトゥアハを討ったところで、子供を死なせた俺は「終わり」。
命の価値は俺より彼女達の方が上だ。
褐色の少女は今やマトゥアハまで数メートルの距離にまで迫っていた。
二列に並んだ炎の道は終着点まであと二十メートルほど伸びている。
(追いつけるか……!? いや)
間に合わない。到底。
俺がナタネを救出するより早く、マトゥアハが彼女に気づいてしまう。
いや、もしかしたら既に気づいているのかも知れない。
今にも緑目は振り返り、鋏で少女を輪切りにしかねない。
(くそっ……くそっ、クソッ!!)
温州がナタネと俺を交互に見やっている。
あまりにも激しい動きは何かを否定する仕草のようでもあった。
「ぅ、う」
行けるか。
誘導できるか。
俺はうまくやれるか。
奴の触角がぴくりと動く。
飛び出してから決断する。
やるしかない、と。
高台を飛び出した俺はすぐさま燭台の一つを引っ掴んだ。
最終ポイントに立つもの以外、素材と形はバラバラだ。
骨を突き立てただけのものもあるし、既に火の消えているものもある。
火の点いた燭台を掴んだ俺は犬でも追い払うかのようにそれを大ぶりする。
「おい!! おいこっちだ!!」
明度の違いは分かるのか、緑色の瞳がぎろりと俺を見る。
高台を駆け下りる俺の意図を判断しあぐねているのか、マトゥアハはすぐには動かない。
あろうことか、動いたのはナタネの方だ。
少女は巨大ヤドカリの注意が逸れるや藪から飛び出し、槍を構えて突撃する。
恐れを知らないその動きは少なからず緑目の不意を突いた。
ヤドカリの殻にしがみついたナタネはその頂上へと這い上がり、先ほどの蘇芳と同じように槍を振り上げる。
そんな攻撃に意味は無い。
俺は心の底からそう叫んでやりたかったが、ナタネの目は濁り切っている。
緑目は俺の視線を追ったのか、こちらへ進む歩を止めた。
そして無造作に殻を振る。
ぶん、と一振りしただけでナタネの片手が殻を離れ、宙を泳いだ。
「ぅ、アアアアッ!?」
蘇芳が平然とやってのけたから自分にもできると思い違えたのか。
今や少女は外れかけのボタンのように巨体にしがみついている。
ヤドカリがもう一度殻を振ると、ナタネは傍の燭台に叩き付けられ、火の粉を浴びながら藪を転がった。
「ナタネッッ!!」
斜面を駆け下りた俺は、道中に仕込んでおいた罠の一つに目をやる。
ぬかるみに先端を埋め込んだフライ返し。
どすんと体重を乗せて「柄」に着地すると脂の混ざった泥が飛散し、マトゥアハへ降り注ぐ。
泥の量は少ない。奴は咄嗟に鋏で目を覆った。
が、甘い。
緑目の脳内では未だ両腕には盾鋏が生えていたのだろう。
だが現実には奴の鋏は細く、防御にはまったく向いていない。
そのことに奴が気づいたのは泥が顔に降り注ぐコンマ数秒前のことだった。
べちゃべちゃと降る泥の雨は容赦なく緑目の眼球を汚す。ゲル状の保護膜のおかげで傷こそ負わないものの、視界は塞がれる。
うろたえた奴は闇雲に鋏を振り回し、俺の接近を防ごうとした。
俺の方はすぐさま少女へと駆け寄り、抱き起す。
「ナタネッ!!」
「ゥ……」
幸いにして彼女の意識は明瞭なままだ。
泥だらけになったことと、敗北感に打ちひしがれていること以外に目立った傷は無い。
「頼むぞ全く……」
手を握り、立ち上がらせる。
背後では大暴れするマトゥアハが枝をへし折り、葉を散らせている。
無駄だ。
どれほど暴れようと、今の奴に眼球の泥を清めることはできない。
(今なら……)
ちらと振り向く。
――――『赤目』と目が合った。
「!?」
違う。赤目じゃない。
正確には『赤目だったモノ』だ。
ヤドカリの鋏が眼球のひっついた肉片を掴んでいる。
緑目は既に死骸となった仲間を切断し、多脚の隙間に挟んで持ち歩いていたのだ。
おそらく浜辺を去った俺たちが配置についている間にさりげなく死骸を回収したに違いない。
死骸には未だ刺胞がこびりついていたが、ヤドカリはハンカチで汗を拭うようにして器用に眼球を清める。
(こいつ……!)
ぎょろぎょろと緑の瞳を動かし、クリアな視界を確かめたマトゥアハが今度こそ俺たちを捉える。
ゆっくりと赤目の破片を下ろすと、おもむろにそれを放った。
刺胞まみれの触手が飛来する。
「!!」
慌てて木立に身を隠した俺たちのすぐ傍で、びたんと焦げたクリオネが地を叩く。
と同時に、ヤドカリの爪が地面を掻き始めた。
――――来る。
「ナタネッッ!!」
少女は食って掛かるような目をしていた。
叱られてもいい。死んでもいい。
私はアイツを殺すんだ、とでも言いたげな目。
その是非を論じている暇は無い。叱るのはすべて終わった後だ。
「カモンッ!!」
手を取り、藪の中から炎の道へ。
終着点へ向けて走り出す。
ぶじゅんぶじゅんとぬかるんだ泥の上で奴が方向転換する音が聞こえた。
「はっ……はっ……!」
「ハ……ハッ!」
マトゥアハの為に用意した道を自分達が走る。
何てバカバカしいことだろう。
そして困ったことにこの状況は想定していなかった。
用意した罠すべてが俺たちに牙を剥くなんて状況は。
「じゃんぷ! スリー、ツー、ワンッ!」
歩幅を合わせてロープを飛び越える。
約五秒後、背後から迫る巨大な存在感がそれを蹴散らし、転がって来る石で脚を打たれる。
がいん、と確かな手ごたえならぬ「音ごたえ」があった。
僅かに歩を止めたヤドカリが再び動き出す。
(クソっ……!)
脇道に逸れてしまいたかった。
だが奴が俺たちを追ってきている以上、やむを得ない。
ここで道を外れてしまうと、奴に迫られた時、更に脇道へ逸れたくなってしまう。それではダメなのだ。
逃げ続けるだけでは勝利は無い。
あくまでも勝利へ向かって逃げなければならない。
景色が横に流れていく。
二列並んだ燭台が一組、また一組と後方へ。
ぐちゃぐちゃと泥を跳ね上げ、ヤドカリが迫る。
時折ばさりと葉が切られ、背の高い枝も裁断される。
次はお前だ、次はお前だ、と背後で死神が囁くかのようだ。
「はっ、はっ!」
「フッ、フウッ」
俺の息が切れ始める。
ナタネの呼吸も怪しい。怒りが彼女のカロリーを奪っている。
道はぬかるんでおり、靴には泥が絡む。ナタネに至っては即席の靴だ。走りづらさもひとしおだろう。
「!!」
――――この先は。
蘇芳の仕掛けた骨の『撒き菱地獄』。
「ジューグ!」
「ライドォッッ!!」
言うが早いか俺は少女を抱き上げた。
それまでより勢いをつけて駆け抜け、人生最高の走り幅跳びを披露する。
まっすぐではなく斜面へ向かって跳躍し、土を蹴っての三角飛び。
五寸釘のごとき針山を越え、着地。
「ウッ」
その瞬間、足首が痺れる。
骨が軋んだのかも知れない。
飛び降りたナタネが叫ぶ。
「ジューグ!!?」
「の、ノープロブレム! カモンカモンッ!!」
マトゥアハとの距離が十五メートルを切った。
もういつ追いつかれてもおかしくない。
「ら、ランッ!! ラン、ラン、ランッ!!」
作戦はシンプルだ。
奴は身体構造上、脚で全体重を支えなければならない。
少しでもダメージを負えば歩行に支障を来たし、ともすれば自重すら支えられなくなる。
脚を潰す。あらゆる手段で、脚を。
ばらばら、と何かが葉と幹を打つ。
振り向けば巨大ヤドカリが無造作に鋏を振るい、五寸釘の山を吹き飛ばしている。
奴の胴体は接地しているため、無理やり押し通ることができなかったのだろう。
「ぐっ」
マトゥアハが脚を止めている。
本来ならここで俺が――――
「二人とも離れてっっ!!」
真上から温州の声。
高台に登った彼女が太い枝にしがみつくのが見える。
あれは、と考えた次の瞬間、すぽんとストッパーの枝が抜けた。おそらくは彼女ですら想像していない程の勢いで。
「うひゃあっ!?」
「温州ッッ!!」
少女が斜面を転がり、あっという間に泥だらけになる。
だがそこはさすがの十代。数メートル転がったところで何とか踏みとどまり、膝をついて立ち上がる。
「!!」
彼女が作動させたのは本来俺が解放するはずだった罠。
青目の巣の尾骨や頸椎を運び、丸太のように束ねたもの。
撒き菱地帯で脚を止めたマトゥアハの真上に落ちるよう、斜面の枝木は既に取り払ってある。
ごごご、と落盤を思わせる音が響く。
ゆっくりと動き出した太い骨の速度は三秒足らずで最高速に達した。
ごっ、ごごっ、ごっと白い丸太が跳ね、転がり、ぶつかり、複雑な軌道を描いて斜面を転がり落ちる。
聴覚を持たないヤドカリには気付くことも防ぐこともできなかった。
一本一本はさして重くもない骨だが、束ねたことで破壊力は飛躍的に上昇している。
押し寄せる高波に抗うようにしてマトゥアハは鋏を地に突き立てた。
その巨体目がけて次々に骨の束が衝突し、ばらばらと散らばる。
泥の飛沫をたっぷり浴びたヤドカリは一歩踏み出し、がくんとよろめいた。
見れば一本の歩脚が完全に折れている。
(良しッ!!)
ガッツポーズを決めた俺は次の瞬間、凍り付く。
奴は平然と、折れた脚の関節を鋏でばつんと断ち切った。
そしてちょうど反対側に生える脚も切り落としている。
がららん、と積もる骨の丸太に苔緑の脚が加わった。
(ふざけるなっつの……!)
緑目のマトゥアハは肩でも回すかのように軽く鋏を開閉させ、ちょうど良いとばかりに撒き菱を覆う丸太を踏む。
そして再び猛スピードで追いすがって来た。
「おじさんぼやぼやしないでッッ!!」
温州に急かされ、俺たちは駆け出す。
十メートル。
七メートル。
五メートル。
――――ゴールテープを切る。
そこはすり鉢状に窪んだ土地だった。
青目の巣よりも更に広く、ちょうど市民プールぐらいの広さがある。
元々は「何か」を探していた蘇芳が見つけた場所だ。
ここはこの島の『貯水所』。
考えてみれば当たり前のことだ。
四方を海に囲まれたこの島にはダムも川も存在しない。真水を得る手段は雨に限られる。
家屋に大きな水甕のようなものは見当たらなかった。ならばどこかに貯水池があるに違いない。
蘇芳の読みは正しく、俺たちは雨上がりの捜索の最中、この場所を発見した。
ここへ来た当初、俺がこの場所を見つけられなかったのは偶然ではない。
真水という生命線が神聖視されていたのか、貯水池は背の高い木々の奥に巧妙に隠されていたのだ。
確かにここを潰したり汚したりすることは島民にとって死活問題だ。
その神聖なる貯水池は無数の燭台に囲まれている。
民宿の壁面を飾っていた金具を参考に作ったポケットは『青目の巣』の皮を巻き、袋状に加工してあった。
内部では薪と呼ぶのも怪しい木切れと青目の脂が燃えている。
貯水池に溜まった雨水はさほど多量ではない。
奴の平たい本体がちょうど収まるぐらいだろう。
「はあ、はあ……」
全速力で走ったせいで、どっと汗が噴き出す。
「おじさん大丈夫?!」
「だ、だいじょぶ」
両膝に手を置き、肩を上下させる。
そうしている内にマトゥアハが近づいて来るのが分かった。
(仕上げだ)
顎の汗を拭い、立つ。
温州とナタネは既に覚悟を決めた表情だ。
蘇芳が居ないのは痛いが、ここで仕留めるしかない。
俺たちは貯水池を挟んで左右の岸に待機する。
仕留める手段はただ一つ。
脚に意識を集中させてからの――――
「来た」
温州の声で我に返る。
巨大なヤドカリは泥を跳ね飛ばしながら炎の道を迫り来る。
目を失い、脚を一対失い、眼球に汚濁をこびりつかせながらも、奴の振る舞いには不遜さが見て取れた。
不遜だが、不遜さを保つための警戒は忘れない。
藪の闇から緑色の瞳が浮かび上がる。
続いて苔緑のシルエット。
煌々とした炎に照らされたマトゥアハは歩を止め、辺りを睥睨した。
(気づくな……気づくな……!)
緑色の瞳が決戦の地を観察している。
貯水池。
それを取り囲む無数の炎。
最後に俺たち。
――――否。
奴はその油断ならない緑の瞳で。
最後に、『上』を見る。
叫ぶ準備はできていた。
「上げろおおおおおおーーーーーーーーっっっっっっっっっ!!!!!!」
俺と温州・ナタネは木立へ飛び込み、最後の仕掛けを作動させた。
ロープの先端を掴み、体重を乗せて全力で引く。
マトゥアハの目に映るのは太い蔓の絡んだ枝。
右斜め上方に一本。
左斜め上方に一本。
ロープが織りなす形はちょうど「M」字。
ヤドカリはMの中心に位置しており、左右に分かれた俺たちがロープの両端を引いている。
奴の眼球が自らの腹へと向く瞬間、「それ」が飛び出す。
青目の巣の背骨を切り出して作った攻城槍。
脚の一本一本は鎧に包まれていても多脚の根本はすべて腹部に集まっている。
当然そこだけは防御が手薄だ。
先端には何本もの溝を走らせ、柔らかい土の下へ埋めていた白い槍が奴の腹部を――――
「!?」
「くっ、そ!」
貫くことはなかった。
蘇芳を欠いた温州側のパワーが不足していたのだ。
ごずんと鈍い音がしたかと思うと、ヤドカリは後躍してそれをかわしていた。
穂先は甲殻を滑り、ずるんと宙に持ち上げられる。
水揚げされた巨大魚のように骨槍が吊るされ、ぶらりと揺れていた。
マトゥアハは失望したかのように俺へ一瞥を投げるや、己の眼前に立ち塞がる小さな影を認めていた。
血化粧を施したナタネだ。
彼女はいち早くロープから手を離し、奴の下へと向かっていた。
手には槍。つまようじで猫に立ち向かうようなものだろう。
どおん、と骨槍が地面に落ちる音を合図に少女が駆けだす。
「う、う、あ、アアアアアアッ!!」
ナタネは獣じみた咆哮を放つが、彼女が串刺しにされることはなかった。
一歩踏み込んだところで俺と温州が少女の脇を抱えて走り出したからだ。
「やっ、めろナタネ!」
「ナタネちゃんっっ!!」
「アアアッ! アアアア!」
俺と温州はナタネを宇宙人のように抱えて走る。
逃げ場のない貯水池へと。
ざぶざぶと濁った水が腰まで届き、動きを阻害する。
マトゥアハの爪が泥をずぶずぶと刺し、油断なく俺たちに迫る。
もうこちらには槍も盾も無い。
俺は咄嗟に少女達を庇い、奴と対峙した。
「くっ……」
「獲ったっっっ!!!」
突如として女の声が轟いた。
この声は蘇芳だ。
マトゥアハは何事かと辺りを見回――――
――――さない。
奴はそんなことに時間を使わない。
まるですべてを予期していたかのようヤドカリは殻から這い出した。
そして巨大なサンゴをフンコロガシのように鋏脚でどつき、己の死角となっていた左側面へと押し出したのだ。
「え」
ぶおおお、と大質量の骨槍が奴の真横から振り子となって迫る。その胴には蔓が巻き付けられ、俺たちの使った枝の一つに結ばれている。
文字通り奥の手であったはずの一撃が、がいんと殻に弾かれた。
ぶらりと揺れた骨槍の向こうで、仕掛けを作動させた蘇芳が呆気に取られている。
マトゥアハはじっと彼女を見つめていた。
じっと見つめていたが、ぷいと目を背けた。
まるで彼女の存在など路傍の小石であるとでも言わんばかりに。
(読んでやがった……最後の最後にこっちが死角を狙うことまで……!)
ぎりり、と奥歯を噛む。
「そんな……」
温州が声を震わせる。
脚へのダメージとそれを囮にした真下からの一撃。
更にそれを囮にした真横からの強襲。
どれも奴には通じなかった。
ざぶ、ざぶ、と。
俺たちは絶望的な面持ちで後ずさる。
ゆっくりとその場でUターンしたマトゥアハが鋏を構えて迫る。
殻を脱ぎ捨てた奴は相変わらず、醜い。
水に浸かった瞬間、奴は僅かに脚を止めた。呼吸に用いる水を交換しているのだろう。
淡水にすら適応しているのか、奴は心地よさそうに触角を揺らした。
目を細めかねないほどの喜悦が通り過ぎると、そこには殺戮者の目が戻る。
貯水池の壁際まで追い込まれた俺たちはその場で立ち往生した。
「ウ、ウ……」
ナタネが憎悪の煙を口から漏らし、温州が俺のシャツの裾をぎゅっと握っている。
このまま岸へ這い上がろうと背を向ければ、奴の鋏が俺たちの胴体を両断するだろう。
蘇芳より数分早く、俺たちはあの世へ行くこととなる。
そう。
這い上がれば、終わりだ。
――――だがもう這い上がる必要は無い。
岸から壁面へ垂れたロープを握る。俺が。ナタネが。温州が。
「なあ」
俺が口を開くとマトゥアハは振り上げた鋏を止めた。
処刑人が遺言を聞くかのごとき仕草に思わず笑う。
「カニの食い方、知ってるか」
マトゥアハは火や熱を恐れない。
最初のマトゥアハ、「黒目」は炎を噴き上げる石柱に平然と体当たりしようとした。
それは脂肪と筋肉の鎧が奴を手厚く護っていたからだ。
次に現れた「赤目」は最終的に焼け死んだが、それでも一般的な海棲生物より遥かにタフだった。
三番手、「青目の巣」と「青目」の肉も試しに焼いてみたが、ほとんど火が通らなかった。
皮も耐火性が極めて高い。燭台を作ることができたのはこいつらの皮膚があったからだ。
緑目もおそらく熱や火に強い。
――――そう、思っていた。
それはほんの些細な違和感だった。
奴が民宿を襲撃して俺とナタネ、ジンジャーを追い回したあの夜。
石柱地帯まで逃げ切った俺たちを赤目と奴が包囲した。そしてじりじりと追い込み、命を奪おうとした。
これがおかしい。
不意を突かれたことで俺は疲労困憊していたし、傍にいたのは子供一人と犬一匹。
甲殻に覆われた緑目に刺胞は効かない。赤目と鉢合うのを嫌がったという可能性は低い。
つまりあの状況下で緑目のマトゥアハが攻め手を緩める理由が無いのだ。
確かに緑目は用心深いが、臆病ではない。
あの時点で黒目一体しか仕留めていない俺を前にたたらを踏むのはやや不自然だ。
奴は硬軟を使い分ける。
一気呵成に攻め込んで、俺たちを串刺しか八つ裂きにしてしまうのがあの状況における最善手だったはず。
それができない「理由」があった。
ふとその考えに思い至った時、俺はこう考えた。
もしかして奴は炎に近づくことを躊躇していたのではないか、と。
緑目が火を忌避しているという可能性に思い至った時、俺はその理由について二通りの仮説を立てた。
一つは奴が「乾燥」を恐れている可能性。呼吸に水を使うのだから当たり前だと言える。
だがそれだけではあの夜の違和感を説明することができない。敵を一網打尽にできる好機にまだたっぷり残っている水の心配をするだろうか。
ならもう一つの可能性が妥当だろう。
もっとシンプルな話だ。
奴は炎や熱に脆い。
いや、これは正確な表現ではない。
緑目もやはり怪神だ。他のマトゥアハと同じく、奴も炎や熱には一定の耐性を持っているはず。
だがそれは「殻の部分」に限定される強さであって、「肉」は脆いのではないか。
もし奴の肉が黒目や青目並みにタフであるのなら、全身の甲殻はただの重りだ。
むき出しの下半身を殻に包む必要もない。
つまり――――
知識と物資は有限だ。
木も、時間も。黒目の骨も。青目の皮も、脂も。
もう俺たちの手元には大したものが残っていない。
自由に使えるのはせいぜい炎と海水ぐらい。あとは地面の石ころ。
炎と海水。そして石ころ。
先端を青目の巣の皮で包み、ひっくり返した傘のように加工した燭台には燃料と共に大量の石を詰め込んでいる。
石は灰色の炎でたっぷりと過熱した後、ほんの小一時間程前に移したばかり。
まだ凄まじい高温を保持している。
俺、温州、ナタネが手にした最後の蔓は燭台の頂上部付近に繋がっている。
すべての燭台は蔓で繋がれている。
「カニはな」
ハンドサインと共に俺は呟く。
「茹でるのが一番なんだよ」
ぐいと蔓を引っ張る。
燭台が一斉に内側へと倒れ、火山岩とも見紛う黒石が次々に降り注ぐ。
ぼちょぼちょと水面を叩く度、白い蒸気が噴きあがる。
温州とナタネはすぐさま俺にしがみつき、俺は二人を胸に抱えて背を曲げる。
赤熱した炭のごとき石の雨が降る。幾つかは俺の身を叩いた。
数など数えてはいられない。
砂利も混ぜたし、民宿の瓦礫も使った。
一体どれぐらいが適量なのか分からない俺たちはただひたすらに燭台に石を詰めた。
降り注ぐ大小の石は流星群よりも長く、多く、泥水に降り注ぐ。
鉄板で生肉が焼ける時と同じ、じゅうじゅうという音が俺の聞く世界のすべてとなる。
霧が立ち込め、辺りは温泉のごとき熱気に包まれる。
そして――――
煮える。
ぼこっ、ぼここっと大きな泡が立つ。
ぼこここっと泡が連なる。
沸騰した鍋のように俺の視界が泡に包まれ、脚を包む水がぬるま湯へ、風呂の湯へ、そして沸騰した湯へと変わる。
びぐんとマトゥアハが硬直する。
人間なら背をピンと反らすような仕草だ。
「おじさん!!」
棒立ちの俺のすぐ傍に温州が手を伸ばしている。
彼女とナタネは既に岸へと揚がっていた。
「こっち!! 早く!!」
「……」
ぼこん、ぼここ、と地獄の血の池を思わせる泡が音を大きくする。
少女の声が聞こえなくなる。
「――――!」
マトゥアハの巨躯に異変が生じた。
苔緑の殻が瞬く間に鮮やかな赤色へと変じたのだ。
甲殻類の殻はカロチンか何かの働きで茹でると赤らむらしいが、それと同じ化学変化が奴の巨体でも起きている。
奴はスローモーションのようにゆっくりと右の鋏を振り、左の鋏を振った。
高温で肉が凝固しかけているのだろう。動作はひどく緩慢で、ぎこちない。
多脚の関節は曲がらなくなり、もはや奴は青虫にも劣る無様を晒すばかりだった。
いつしか奴は鋏を振り回すことをやめ、ただ呆けたように天を見上げていた。
死んだ。
――――死んだのだ。
熱い。
脚が熱い。
焼ける。
肌が爛れるようだ。
だがこれで――――
「おー、じー、さんっっ!!!!」
ざぶんという音に俺は飛び上がった。
温州はいつの間にか煮えたぎる湯の中へ浸かり、俺へと手を伸ばしていた。
距離はほんの数十センチ。
「うっっ!?」
「ほ、ら早くっ、くっく、でで、出てててっっ」
「ばっ――――!!」
「はは、早くしないとわわ、私ししえええびすーぷの具にににっ」
温州の顔面は真っ青になっていた。
唇は紫色で、今にも気を失いそうに見える。
そう考えた途端、俺もまた針の中に突っ込まれたかのごとき激痛を覚えた。
「いっ」
今出る。
俺がそう叫ぶのに、一秒とかからなかった。
「だ熱っ!! 熱っ熱っ熱っ熱っ熱っ熱っ!!!」
「いいいいいいあたたたったたたたったっっっ!!!」
地獄から這い上がった俺たち二人に冷や水が浴びせられた。
蘇芳だ。
彼女はさほど大きくもない鉢を二つ抱えており、俺たちの脚に海水をぶちまけたのだ。
「こんのっ、バカ者!!!」
じんじんする脚を抱えた俺に罵声が降って来た。
蘇芳は憤激そのものの顔で仁王立ちしている。
「おじさまっ、何をぼんやりしていたんですか!!? みっちゃんが助けに入らなければ死んでたんですよ!? 人体というのは――――」
痛覚そのものを絞られるような激痛の中、俺は泥だらけになってのたうち回った。
芸人の熱湯風呂というものがあるが、あれはきっと想像を絶する痛みがあるのだろう。
短時間とは言え百度に迫る湯の中に居た俺は塗炭の苦しみを味わう。
「みっちゃん大丈夫? ちょっと脱」
「嘘……」
横たわったままの温州が目を見開く。
振り返る。
茹で上がった緑目のマトゥアハが。
再び動き出そうとしていた。
動作停止したロボットが再起動するかのごときおぼつかない動きだったが、確かに奴は一歩を踏み出した。
ずぢん、と岸に鋏が立つ。
下半身は未だ灼熱の湯の中だが、ぎらつく瞳が地面を睨んでいる。
ひっと少女たちが後ずさり、俺は痛みも忘れて立ち上がる。
「なっ……何で立つんだよ……」
俺の口から漏れたのは悲鳴だった。
だがそれが死を覚悟したものでないことは俺自身が一番良く分かっている。
俺は何故か、無性に哀しかった。
「何で立つんだよ……お前、お前っ自分がいまどんなザマか分からねえのかよ!!」
ぎぎぎ、と強張った身を軋らせ、奴が穴から這い上がろうともがく。
もがけばもがくほど、奴は泥と湯にまみれる。
苔緑の巨体がずぶずぶと汚泥に汚されていく。
抜ける鋏を何度も何度も岸に立て、ずるずると滑る胴体を持ち上げようとする。
「お前っ……お前そんなになってまで何やりてえんだよ……!」
脚を失い、目を失い、今や命すら失おうとしているマトゥアハはなおも俺たちに鋏を突き立てようとしていた。
肉は凝固し、目は白濁し、錆びついた機械のような動きしかできないくせに。
「もう誰も残ってねぇだろうが! 黒目も、赤目も! お前……お前には仲間だっていねえんだよ!!」
俺は拳をきつく握りしめていた。
爪が掌に食い込み、血すら溢れ出しそうなほどに。
マトゥアハは応えない。
応えないまま、ただ這い上がろうと鋏を立てる。
「立つな!! やめろ!!」
奴は。
そのまま岸へと這い上がった。
二本の爪だけを頼りに、真っ赤に燃える炎のような巨体を持ち上げ、最後のマトゥアハが俺たちに迫る。
奴の身体で動く部位はもはや鋏のみ。
ぐじ、ぐじゅ、と泥がかき混ぜられた。下半身も多脚も鋏に引きずられているのだ。
やがて過重に耐え兼ね、片方の鋏がごきんと割れる。
とうとう奴は鋏一本で身を引きずり始めた。
一歩ごとに泥で汚れ、仇敵の俺たちに無様を晒す。
なのに奴は歩みを止めない。
既に明後日の方向を見たまま動かない瞳には俺たちの姿すら映っていないはずだというのに。
「やめろ……」
俺は首を振りながら後ずさった。
「お前はもう戦えねえんだよ……!! 誰とも!!」
俺はなぜか、引き攣った笑みを浮かべる。
笑みだろうか。
いや、もしかすると俺は。
――――泣いているのかも知れない。
俺は絞り出すように呻いた。
「お前はもう……終わってるんだよ!!」
尻もちをついた俺は泥を掴み、奴に投げつけた。
ばちんと顔で爆ぜたそんなものを気にも留めず、奴の鋏が地を刺し、泥を刺す。
「お前は賢いんだろう!? 死ねよ……そのまま黙って死んじまえばいいだろうが!!」
ずり、ずり、と俺に這い寄るマトゥアハの力が徐々に失われていく。
ず、ず、と鋏の動きすら緩慢になり、最後は病床の老人のように震えるばかりだった。
やがて、緑目のマトゥアハは前のめりに崩れた。
巨大な鋏が泥と湯を打ち、飛沫となって俺に飛ぶ。
濃厚なシーフードパスタを思わせる香りが鼻をついた。
「ヴ、ヴアァァァッッ!!!」
ぐじゅり、とナタネの槍が奴の顔面に突き刺さる。
殻の隙間から侵入した骨槍がマトゥアハの肉をずたずたに引き裂く。
全体からすればごくごく僅かな質量がほじくり出された。
はっと俺は我に返った。
気づけば奴は俺の目と鼻の先まで迫っていたのだ。
「……」
光を失った虚ろな瞳に、もはや俺の姿は映ってはいない。
瞼を持たない怪神の目には今夜の星空だけが映っている。
「――――! ――――!」
「――――ッ! ……!」
「! ――――!」
少女達の上げる黄色い歓声の中、俺はただ一人足首までぬかるみに浸かっていた。
神を仰ぐようにして空を見上げる。
俺は緑目と同じ星空を見ているはずだった。
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