第18話 雲の海

 

 無造作に突き立てられた鋏は墓標のようにも見えた。

 血しぶきがぬるい夜を舞い、真っ白な貝殻の浜へと落ちる。


 左手を巨大ウツボに突き刺した緑目は僅かに身を前へ傾げ、右目で愚かな女を覗き込む。

 死骸に潜んでの奇襲。

 これを怪神マトゥアハは読み切っていた。


 ナイフの入った高級店のバナナさながらにウツボの身がぱらりと裂け、中から制服が現れる。

 血まみれの肉塊が詰まった制服。

 相方を失った右目がぎょろりと動き、マトゥアハは鋏をすっと引く。



 引きかけ――――思いとどまる。

 鋏の一撃で人間がミンチになるわけがないと気づいて。



 神速の域に達する反応だった。

 奴は地面に突き刺していない右の鋏を己の死角へ――――つまり左脇へ向けて正確に振り抜いた。

 もしそこに誰かが居たら串刺しになっていただろう。


 びょうう、と一陣の風が吹く。


 テンポ遅れて貝殻が砂のように飛び、がらがらと奴の背後へ転がっていく。

 幸いにしてそこに立つ者はいなかった。奴の鋏は空を切っている。

 だが緑色の瞳は油断なく俺たちを見つめている。

 残心を思わせる佇まいに俺と温州は息を呑んだ。


 息を呑み――――左右に別れる。

 打ち合わせ通りに。


「……」


 マトゥアハがゆっくりと右の鋏を引き、左の鋏をウツボから抜いた。

 用心深い緑の瞳が二手に別れた俺達を交互に見やる。

 左の鋏にこびりついた肉塊を右の鋏で器用にこそぎ落とし――――ほとんど不意を突く形で奴は後方へ跳んだ。

 ずどん、と真後ろの貝殻が巻き上げられる。


 歩きざま、うっと俺は唸った。

 奴の死角は左目側だけではない。ヤドカリは真後ろが完全な死角になっている。

 左目のダメージを気にしつつも、奴は己の根本的な弱点を理解している。

 やはり隙が無い。


 緑目のマトゥアハは用心深く俺たちを睥睨し、ようやくぴたりと動きを止めた。

 どうやら気づいたらしい。

 殻に登った女の重さに。


 星明かりの下に猿(ましら)のごとき影が一つ。

 蔓を編み込んだブラジャーとウツボの皮を使った腹巻き、そしてバナナの葉を巻いたスカートだけを纏った姿。

 紫女川蘇芳(しめかわすおう)がサンゴの殻を登る。

 その身体はずぶ濡れで、黒髪も海藻のように顔に張り付いていた。


 マトゥアハは確かに慎重だった。

 ――――陸に揚がってからは。

 蘇芳が奴に取りついたのはヤドカリが『入場』する前。

 彼女は浅瀬に潜み、マトゥアハが海水の膜を破ると同時にその背へ飛び移ったのだ。


 ようやく異変に気付いたマトゥアハは身体を揺さぶったが、その程度では蘇芳はびくともしない。


 彼女が振り上げたのは骨の杖。

 真上に跳んだ蘇芳が全体重を乗せ、殻からはみ出た胴へと落下する。


「っだぁぁーーーーーっっっ!!!」 


 まず一撃。

 杖がずどんと甲殻をめくり、肉へと至る。

 くっと蘇芳が毒づくのが分かった。想像以上に硬いのだろう。


「深追いするな蘇芳!!」


「承ォ知ッ!!」


 少女はごりりと杖の手元を捻る。

 筒状の骨に内臓された手製の銛が飛び出し、深く肉を抉った。

 銛は青目の牙と同じく反らせてある。エギングの針と同じだ。

 ヤドカリの肉を貫いた骨の牙はもはや容易には抜けることはない。


「みっちゃんッッッ!!!」


 不安定な足場の上で蘇芳が大きく足を広げ、銛の尻から伸びる「腺」とそこに括られた石を放擲した。

 ハンドボールなら30越えは余裕とのたまった彼女の豪腕は確かに見事なものだった。

 美しいアンダースローで放たれた石は弧を描いて温州の元へ。


 俺と反対側へ駆けた温州は石柱の炎へと迫っていた。

 その彼女の元へ石が飛び、腺が伸び、マトゥアハの視線がそれを追う。


 ヤドカリはすぐさま蘇芳から注意を外した。

 賢明だ。彼女はもはや奴を傷つける術を持たない。ノミはネズミを殺せないのだ。


「来るぞ温州っっ!!」


 俺は大声を上げた。

 薙刀を背負う武者はまっすぐに駆け、砂利を飛び越え、貝殻を飛び越え、地を跳ねる小石を握る。


「捕まえましたっっ!!」


 彼女が手を上げる。

 そこに結ばれた腺はマトゥアハに突き刺さった銛へ。

 奴の両手は『鋏』。

 つまり銛を抜くことができない。

 では腺を切断することができるかというと――――


(よしっ!!)


 できない。

 奴は勢いよく鋏を振るったが、腺はビニールテープが絡むかのごとくそれを許さない。

 つまり奴は温州を手繰り寄せることすらできないのだ。


「これで終わりです!!」


 温州はすぐさま小石を手に走る。

 石柱の縁には山ほどの分銅。そしてしっかりと綯われた太い蔓。

 それを目にした緑目が明確な動揺を見せた。


 奴が思い起こすのはすぐ近くで腐敗しかけている赤目の死に様。

 決して外せない重りを括りつけられ、無様にも石柱へ磔にされた仲間の死。

 同じ手は二度食わないなんてよく言われるが、この場合は別だ。

 同じ手だと分かっているからこそ、全力で防御に回らなければならない。


 ――――さあ、怯えろ。

 あがけ。走れ。怒れ。



 奴は。



 温州から視線を外した。



「えっ」


 そして殻に登ったままの蘇芳を見上げていた。

 今まさに腹に巻いたウツボの皮を外し、一枚の『袋』として掲げていた蘇芳を。


「――――っ!! 逃」


 げきれた。

 逃げ切れた。蘇芳は逃げ切れた。

 彼女は貝殻海岸に無様に落下し、ごろごろと転がって距離を取る。

 立ち上がるや否や前傾姿勢のままバックステップを繰り返し、瞬く間に海へ。


 緑目のマトゥアハは蘇芳の居た場所へ鋏を伸ばし、残されたウツボの皮を引き裂いた。

 飛び散った皮の破片がべちゃべちゃと浜に落ちる。


(見破られた……!!)


 ウツボの皮で眼球を覆う策が。

 俺と蘇芳が同時に歯噛みする。


 巨大ヤドカリは石柱へ分銅を落とす温州を冷静に見つめていた。

 ぐん、と奴の身が引っ張られたかと思うと、メキメキと殻の一部が剥がれ、肉が毟り取られ、体液が飛び散る。

 地に鋏を立て、その衝撃に一瞬だけ耐えた緑目は――――奴は、どっしりと構えていた。


 銛が飛び、分銅もろとも石柱へ吸い込まれる。

 偽計を見破られないように俺達はありったけの分銅を積んでいた。

 それらがガラガラと石柱の内側を叩き、地の底へと消えていく。


(お前は冷静だなあ、おい)


 黴(かび)のような髭の生えた俺の顎から汗の玉が落ちた。

 乱れかける鼓動を落ち着かせるため、すっと息を吸う。

 フェイント失敗。目潰し失敗。

 なら次は――――


 吠える。


「まだだっっっ!!」


 線路の分岐器がレールを切り替えるようにして脳内プランが変更される。

 温州と蘇芳も既に動き出していた。

 俺もまた走る。


「休ませるなっ!! 畳みかけろおおっっ!!!」


 三対一の構図。

 注意の割り振りを誤れば負ける。

 極限の緊張の中、奴はじっと佇んでいた。


(まさか真正面から来やがるとは……!)


 驚きはあった。

 いくつものシミュレーションの中で、奴が真正面から突っ込んで来る可能性は低いと踏んでいたからだ。

 別の海岸から現れる可能性や、地中から現れる可能性だって俺たちは考えていたのに。


「おじさんっっっ!!!」


 先端を球状に加工した長い紐を引く温州が走る。

 彼女が操るのは「青目の巣」から搾り取った獣脂と濁った血液。球から漏れたそれらが地面に点々と跡を残している。

 目に浴びればひとたまりもないだろう。


「ぼやぼやしないでっ!!」


 蘇芳。

 彼女は海岸にいくつも埋めていた注射器のごとき骨を握っている。

 先端から滲み出す白濁液は小型の塩田から抽出した塩を溶かした超高濃度の海水。

 マトゥアハとて浸透圧からは逃れられない。あれを体内にぶち込まれたらただでは済まないだろう。


「分かってるっ!!!」


 二人とは異なる方向へ直進していた俺はぐにゃりとS字カーブを描いて緑目へ取って返す。

 目で追えば確実に惑わされ、距離感を狂わされる軌道。


 俺が携えるのは最後の『腺』。

 一撃で奴の脚を絡め取り、ともすれば行動不能に陥らせる凶器。

 この状況で腺に絡まれることは奴にとって「死」を意味する。


 三者三様の武器を前にマトゥアハがたじろいだ。

 奴はその場で脚踏みを繰り返し、背後へ、正面へ、左手へ、眼球を向ける。


 三対一。

 三対一、だ。


 黒目なら問答無用で近場の奴に襲い掛かっていた。赤目なら毒を盾に悠然と構えていた。青目なら数の暴力でねじ伏せていた。

 だが緑目は賢い。

 賢いヤドカリは注意を割り振りながら危険度を判断し、攻撃の優先度を決め、行動しようとする。

 言い換えれば、賢いがゆえに最善手を打とうとする。

 知性が奴の脚を止める。


 そして闇からナタネが飛び出す。


 彼女は手に持つ槍の穂先を灰色の焔へかざす。

 ぼっと真っ赤な炎が灯り、少女の顔を照らした。

 休息を知らぬ憎悪で濃い隈に縁どられた瞳。血化粧を施した悪鬼の表情。

 笑いにも似た怒りで歪んだ口角。何匹もの昆虫を食い殺した白い歯。


 マトゥアハの爪が数本、ごりりと海岸を掻く。


 これで四対一。

 俺たちは十数メートルの距離まで迫り、奴を四方から囲う。

 一つ目で見ることができるのは一人だけ。

 残る三人はお前の鋏をかいくぐる。

 さあどうする。


「三!」


 俺は叫ぶ。


「二!」


 少女達が応じ――――


「一!!」


 四人中三人が後方へ跳んだ。

 温州に狙いを定めていたマトゥアハがたたらを踏み、貝をまき散らす。


 後方への跳躍を繰り返す温州、蘇芳、ナタネの三人はあっという間に奴の射程から逃れていた。

 ただ俺だけが強く踏み込み、体重を乗せて駆ける。


「盾ッッ!!」


 ダミーの武器が打ち棄てられた。あんなもので仕留められるほどマトゥアハは甘くない。

 それに誰かを犠牲にするような方法は採らない。

 俺たちの勝利条件は全員揃って生還することなのだから。


 青目の巣の死肉塊から、折り重なるウツボの下から、貝殻の山の中から、黒目の頭蓋骨を切り出した盾が現れる。

 そして三枚の盾と化した少女のうち二人がマトゥアハの脚に骨を押し付け、機動隊のように抑え込む。


 奴が移動するためには脚を動かさなければならず、そこはちょうど鋏脚の可動域の外にある。

 思わぬ場所に忍び込まれたことで緑目の歩調が狂った。


 そして――――


「行くぞ」


「……」


 俺に追随するのはナタネだ。

 彼女は口元から怨嗟を煙らせ、俺に付き従う。

 少女は安全な場所で奴を妨害することより、危険な場所で奴に挑むことを望んだ。

 攻撃役は本来俺一人のつもりだったが、断れば彼女は暴走するおそれがあったのでやむなく承知した。


 ぎろりと緑目がこちらを向く。

 もう遅い。

 本命は初めからこれ一つ。

 俺は投げ縄の要領で棍棒を激しく振り回し、腺を――――




 女が一人、殻の中から投げ出された。




「ッ!?」


「っ!!」


 がりり、と貝殻を巻き上げて蘇芳と温州が急ブレーキを踏む。

 浜へ放り出されたのは一人の女だ。

 首を『腺』で繋がれたパンツスーツの女。


 緑目が問いかけるかのように俺とナタネを見やった。

 だが奴が見ているのは俺達じゃない。


 一秒。

 二秒。

 三秒。

 たっぷり数秒、奴は女子高生達に反応することを『許した』。

 驚愕に身を強張らせる二人がアクションに移ることのできる絶妙な『間』。


 斬首を執行する鋏が振り上げられる。


「せっ――――」


「先生えぇっっ!!!」


 温州と蘇芳は盾を抱えたまま飛び出した。


「ばっ……!!」


 水平に振るわれた鋏が盾ごと蘇芳を吹き飛ばし、彼女は数メートルも激しくバウンドする。

 かろうじて女教師の首から腺を抜いた温州の真上に、もう一本の鋏。

 ぎらりと鈍く光るそれが唐竹割りに振り下ろされ――――


「っ!!」


 ほとんどナタネを突き飛ばすようにして盾を奪った俺が間に合う。

 インパクトの瞬間、俺は巨人の拳を受け止めるかのごとき無謀を自覚した。


 両腕の骨が軋む。足首までもが貝殻の山へ埋もれ、冷たい砂に沈む。

 鋭いだけじゃなく、重い。

 たった一振りでこの威力。

 もう一撃でも食らえば腕の骨を砕かれる。


(……!!)


 俺の真下では温州が絶望的な表情をしていた。

 口唇が動く。

 ごめんなさい、と。


 何を謝るんだ、と俺は小さく笑う。

 そこの女を見殺しにしていれば良かったとでも言うのか。何をバカな。

 冷徹であるというのはみっともないことだ。

 命のかかった場面では、なおさら。


 巨大な鋏がゆっくりと持ち上げられる。俺達は巨体の影にすっぽりと収まっていた。


「おじさ――――」


 既にマトゥアハはもう片方の鋏を斜め上方に振り上げている。

 頭を垂れた稲穂のごとく真っ二つにされるまであと数秒。

 三。

 二。


「……いいのか、俺ばっかり見てて」


 緑目がぎょろりと動く。


 そう。

 殻の中から女が出てきたということは。

 中へ入ることもできる、ということ。


 ナタネの姿が見えなくなっている。


 ごぞりと海岸が削れた。

 身じろぎしたマトゥアハがめちゃくちゃに鋏を振り回すのと、俺と温州がその場を離れるのがほぼ同時だった。

 ヤドカリの暴れ方は尋常ではなかった。

 鋏を振り、脚を突っ張り、辺りに貝殻をまき散らす。


 大慌てで殻から這い出した本体の下半身、むき出しの胴体がぶるんと震えると、そこには褐色の少女がしがみついていた。


「ヴヴっ……ヴァァァッ!!!」 


 こじ開けた穴に腕を突っ込み、少女は髪を頭を前後に振って骨の刀を突き立てる。

 絶叫マシーン以上の荒々しさで回転するヤドカリの半身に捕まり、ナタネはその肉をちぎり、削り、まき散らしていた。


「ナ――――」


 何かが飛び散り、白い海岸を汚す。

 黒ずんだ異臭のする液体。

 骨の刀に塗りたくられているものの正体に気づいた俺と温州は数歩退く。


「うっ……」


 ――――糞尿だ。

 それもおそらく俺達のものだけじゃない。

 青目の巣と青目の大腸からこそぎ落とした汚物。

 途上国では今だに猛威を振るう破傷風菌たっぷりの毒物。一体どこに隠していたのか。


 俺はとんだ思い違いをしていた。

 ナタネの胸中に淀んでいたのは「刺し違えてでも殺す」などという甘っちょろい決意を上回る悪意だった。

 今日殺せなくても明日殺す。私が死んでもお前は必ず地獄に落とす。

 もはや呪怨のそれに近い。


「ナタネ!! 降りろっ、やり過ぎだっっ!!」


 女を温州に任せ、飛び出す。


 マトゥアハは勢いよく半身を振り、ナタネを振り落としていた。

 その華奢な身体にエビのむき身を思わせる半身が叩きつけられる。

 ぷぎゅっと小さな悲鳴。


「馬鹿野――――」


 棍棒を振り上げ、奴の元へと駆ける。


「ろおおおおっっ!!!」 


 怒りと共にフルスイングすると、甲殻に包まれた脚が鈍い音を立てた。

 振り抜いた姿勢のまま、俺は奴と視線を絡ませる。

 怪神はまるでダメージを受けた様子が無い。


(やっぱりこんなもんじゃダメか……!!)


「おじさまっ!」


 いつの間にか駆け付けていた蘇芳がナタネを引っ張り出している。

 蘇芳は身体中に傷をこしらえており、泥まみれになっていた。ナタネに至っては鼻血で顔が真っ赤だ。

 だが重篤な傷を負った様子はない。


「退け! 退け!!」


 俺が手を振ると二人は海沿いに逃げだして行く。

 温州も既に身を隠しており、残るは俺とマトゥアハだけだ。


 奴は油断なく俺を見下ろしている。

 ダメージはごく微小だが、そこには警戒の色があった。


 俺は確信を深めていた。

 ――――こいつは今、残る目を失うことを何よりも恐れている。


(知覚が他に無い、か)


 作戦会議で真っ先に俎上に乗せたのがそれだ。マトゥアハの知覚。

 緑目はほぼ間違いなく聴覚を持たない。そしてナタネの奇襲が通じたことから嗅覚を持たないことも分かる。味覚はどうだか知らない。

 触角はおそらく海流や風の流れを読むための器官のようだが、あまり発達しているようには見えない。

 奴の主たる感覚器官は、その巨大な目。


 視界から消えた少女たちが本当に退却したのかどうか、奴には知る術がない。

 いや、それどころか奴は俺のボディランゲージや言葉の意味すら分かっていないに違いない。

 意思のベクトルとでも呼ぶべきものは理解しているだろうが、それ以上のことは手探りだ。

 だからこそこうして警戒を緩めない。


(……)


 検証は、終わった。

 たぶんこいつは――――


(……。乗って来ねえか)


 奴はたった一人立つ俺を攻めるのではなく、静かに海へと後退した。

 汚された傷口を海水にじゃぶじゃぶと浸し、ナタネのつけた呪詛を清めている。

 そこにあるのは悠然とした佇まい。

 奴は過不足なく俺達のことを分析し、評価したのだろう。

 四対一になろうとも正面対決なら絶対に負けない、と。


 負けないが、油断もしない。

 ――――獅子搏兎。


 今夜の緑目は奇襲には頼らないつもりらしい。

 何せ俺たちは一度悪夢を見ている。二度と奇襲を許さないよう、極限まで警戒心を高めている。不意を突くメリットは少ない。

 だからこその正面対決。

 マトゥアハは傷口を癒し、海水を補給し、万全の態勢を整えて再び攻め込んで来るのだろう。

 俺たちが築き上げた三日間の備えのすべてを粉砕し、四つの喉笛を掻き切るまで。


 俺は高らかに突き上げた拳でハンドサインを送り、斜面へと後退する。


 旧民宿から木立の奥へと進む俺が見たのは、サンゴの殻に再び収まる奴の姿だった。

 巨大なシルエットを取り戻したマトゥアハはじりじりと斜面へ向かって歩み寄る。


 青目の死骸を通り過ぎ、赤目の死骸を通り過ぎる。

 石柱の炎に照らされ、モスグリーンの巨躯が輝く。






 今夜、島は明るい。


 ジンジャーを喪った俺達は緑目を探知する術を持たない。

 夜目の効く奴と対等な条件を保つため、あちこちに即席の燭台を用意していた。

 めらめらと燃える炎の色は赤。

 百にも迫るそれらは島を照らすと共に俺達の戦闘領域を教えている。


 マトゥアハは今、民宿を越え、集落地帯へと至ったところだった。

 奴は今、こう考えている。

 ――――ちっぽけな人間が自分を仕留める最善の方法とは何か、と。


 怪神は炎を目印に俺たちの姿を探している。

 燭台を一つ通り過ぎ、二つ通り過ぎる。

 ぬかるみを一つ踏み、二つ踏む。

 ぱちゃ、ぱちゃりと泥水が跳ねる。


 その様を俺は少し先の高台から見つめていた。

 緑目は既に気づいているだろう。

 燭台は無作為に配置されているのではない。

 ある場所へ奴を誘導すべく並べられている。


 島の一点から二列に並ぶ炎。

 その終着点は闇の中、強い光を放っている。


 炎の路を目前にしたマトゥアハは右へ、そして左へと視線を巡らす。

 俺は心の中で囁いた。

 ――――「逃げるのか」、と。


 どくっと心臓が濃い血液を全身に押し出す。

 俺は今、神と駆け引きしているのだ。


 どっくん、どっくん、と身体が鼓動に合わせて震える。

 緑目。緑目。俺は心の中で囁く。


 そうだ。その先には罠がある。

 地面に薄く引かれた溝が見えるか。そこがお前の「決死線」だ。

 一歩でも進めば最後の戦いが始まる。

 俺たちは死力を尽くし、お前を必ずここで殺る(とる)。


 だが逆に、そこでお前が引き返せば今夜の俺たちは脱兎へ変わる。

 正直に言おう。

 お前がどう行動しようと、最後はこの炎の列を歩かせるつもりだった。

 その先に待ち受ける「罠」以外にお前を殺す術は無いからだ。 


 さあ、どうする。緑目。

 お前にはプライドがあるんだろう。


 勝つ為には進まなければならない。

 進めるか。罠を承知で。

 硬軟使い分けるお前がそんな愚策を犯せるか。

 それとも逃げるか。俺たちに背を向けて。





 奴は。




 ――――炎の列から目を逸らした。

 そして多脚を巧みに動かし、その場でのそのそとUターンする。





 蘇芳が、温州が、ナタネが、そして俺が。

 人生の重大なイベントを目前に、それが延期となったかのような稚気じみた溜息をつく。




 次の瞬間。



 緑目のマトゥアハが180度回転し、剣のごとき鋏で燭台を薙ぎ払った。

 がしゃああっ、と。

 火の粉を上げる木片が辺りに散らばる。

 ぽつぽつと赤い点が闇に滲んだかと思うと、それらは繋がり合い、混ざり合い、白くも見える火炎となった。


 緑目は焚き火でも見るかのように、じいっと炎を見つめていた。

 ややあって、奴は二列並ぶ燭台の「外側」を歩き始める。

 燭台を蹴散らし、木々をへし折り、葉を散らし。

 奴は光を横目に闇の中を突き進む。


 人の作った道など不要とばかりに。

 しかし、俺たちの用意した終着点へ向かって。

 マトゥアハは悠々と決死線を踏み越える。


 恐怖と憎悪、そして僅かに色っぽい興奮が俺の感情をかき乱した。

 それらを振り払うようにして俺もまた動き出す。



 動き出し、気づく。

 温州がハンドサインを送っていることに。



 ナ タ ネ が い な い


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