第31話 嵐の大洋

 



 文芸書の棚にはお宝が潜んでいる。




「……!」


 包装(シュリンク)を破られたコミックを見つけた俺はハタキを腰に差し、棚の奥からそれを引っ張り出す。


 タイトルを目にした途端、溜息が漏れた。

 昼間に問い合わせがあった本だ。

 在庫1なのに棚になく、客注カウンターになく、返品棚にも補充用ブックトラックにも無かった。

 どこに紛れたのかと思えばこんなところにあったとは。大方、背の高い棚の陰で誰かが立ち読みしたのだろう。


 まあ、見つかっただけマシか、と俺は小さく嘆息する。

 理論在庫と実在庫の違うこの手の本は万引きされているケースがほとんどだからだ。

 特に文庫とコミックは酷い。

 私服警備が万引き少年を捕まえた時に呼び出されたが、奴らは平然と二十冊、三十冊もの本を鞄に放り込んでいる。


 俺はつるつるしたコミックの表紙を指先でなぞり、文芸書コーナーの棚からメイン通路へ。

 すれ違う客に「いらっしゃいませ」と頭を下げることも忘れない。




 月の売上高が一億に迫るというこの店は郊外のホームセンター並みの敷地を誇り、土日は人でごった返している。

 四頭立ての馬車すら悠々と走れるほど広いメイン通路はいつ見ても騒がしく、壮観だ。


 ものの数日で六割が入れ替わるビジネス書の新刊コーナーで、自分の人生を劇的に変えてくれる「何か」を求めるサラリーマンがいる。

 新しいガムの包みを開くようにして、金髪の若者が一冊の文庫本を手に取る。 

 短冊を頼りに、棚に一冊しか差さっていない新刊を探す主婦は自分の受験番号を探す大学生のようだ。


 書店にはドラマがある。

 どこをどう切り取っても売り物にはならなさそうなドラマが。


「……ぃらっしゃいませ~」


 声を落としつつ、頭を下げてレジ前を通り過ぎる。


「いらっしゃいまっせ~!」


「いらっしゃいませー」


 熟練のパートスタッフ達が俺に向ける視線はまだ少し冷たい。

 俺は力仕事も汚れ仕事も喜んでやるのだが、いかんせん鈍くて不器用だ。

 問い合わせ対応には時間が掛かるし、ラッピングもできない。そんな俺の評価は未だに『下の上』ぐらいだ。

 それでもまあ、こうして目礼してもらえるぐらいには良くしてもらっている。


 雑誌売り場を通り過ぎ、新書コーナーを通り過ぎる。

 紐の解れた雑誌や明らかに居場所を間違えた文芸書を拾い上げ、カゴに放り込んで保護する。


 バックルームの前で回れ右をして、一礼。


「っ疲れ様です」


 一列に並んでいたエプロン姿の学生アルバイト達が一斉に俺を見る。

 まるで電線に並んだ雀のようだ。


「おじさん!」


「おじさんちーっす!」


「お疲れさまでーす!」


 きゃいきゃいとエプロン姿の十数人の男女が挨拶を寄こす。

 18時を境に閉店まで働く彼等はほとんどが大学生だ。

 世間的には成人に近い扱いを受ける彼らも、俺ぐらいの歳になると高校生と大して変わらなく感じる。


 彼等は授業があるので平日昼間はほとんど出勤できない。

 テスト期間になると一斉にシフトが穴だらけになるし、一年かけてようやく一人前になったところで、三年目には就活でいなくなってしまう。

 だから今の俺のように何時(いつ)でも何でもやる男が必要なのだ。

 俺より若いくせに俺より頭髪の後退したストアマネージャーはそう言った。


「……おい」


 険しい表情をした若い男が俺に一瞥を寄こし、すぐに学生達へ向き直る。

 名札には椒(はじかみ)の文字。

 ワックスで固めた黒髪と縁(ふち)の太いブルーの眼鏡が特徴的な彼はまだ24歳だ。


「タイムカード切ってんだろうが。遊びのつもりなら帰れ」


 彼が怒気を孕んだ低い声でそう告げると、学生たちは誰からともなく口を噤んだ。

 バックルームに漂うひやりとした空気の中、パートスタッフ達の笑い声が小さく聞こえる。


「土曜の夜だぞ。緊張しろ。……そんなことだから月に三回も入れ間違い起こすんだろ」


 椒(はじかみ)にひと睨みされた三人の男子学生が気まずそうにうな垂れる。


 物販業界において商品の入れ間違いは重罪だ。

 モノと客によっては社員が直接詫びに行くはめになる。それもクソ忙しい営業時間中に、だ。

 昼ならともかく、正社員が一人か二人しかいない夜にそんなことが起きればオペレーションは崩壊する。

 その非常事態が今月に入って三度も――――しかも夜に起きているのだから、ナイトリーダーである椒(はじかみ)の怒りももっともだ。


 俺と同じ非正規雇用の準社員である彼は、分厚い朝礼ファイルをばたんと閉じた。

 そして一同を睥睨する。


「接客用語、唱和! 鵜飼(うかい)!」


「はい! 『いらっしゃいませ!』」


「いらっしゃいませ!」

「いらっしゃいませ!」

「いらっしゃいませ!」


 鵜飼に続き、十数名の学生たちが一斉に頭を下げる。

 雰囲気に飲まれ、俺も何となくその場で直立してしまう。


「少々お待ちください!」


「少々お待ちください!」

「少々お待ちください!」

「少々お待ちください!」


 棚を受け持つ児童書のパートスタッフが椒の前を通り過ぎ、数冊もの本を抱えたまま中腰でキーボードを叩く。


「お待たせいたしました!」


「お待たせいたしました!」

「お待たせいたしました!」

「お待たせいたしました!」


 夜勤の正社員二人は椒の後方で入荷したばかりの段ボールを解き、中身をブックトラックへ運んでいる。


「ありがとうございました! またお越しくださいませ!」


「ありがとうございました! またお越しくださいませ!」

「ありがとうございました! またお越しくださいませ!」

「ありがとうございました! またお越しくださいませ!」


「よし! 今日も一日よろしくお願いします!」


 ぱきっと椒(はじかみ)が腰を直角に折ると、それまでで最も大きな声が上がった。


「よろしくお願いします!」

「よろしくお願いします!」

「よろしくお願いします!」


 コンクールを終えた合唱隊のように学生達は一列になってバックルームを出ていく。

 誰かがぱちりと柏手を打てば万雷の拍手が起きたかも知れない。


「っち。まーた客注転送断ってやがる、あのアホマネ」


 分厚い朝礼ファイルをデスクに戻した椒(はじかみ)は中腰でメールをチェックしている。

 その背中が何か言いたげであることに気づき、お宝をブックトラックに戻した俺はいそいそと近づく。


「あー……はじか――――」


 がどん、とバックルームのドアが乱暴に開かれる。


 薄く軽い金属の扉に衝突しかけた数人のアルバイトが飛び退き、よくあることだと肩をすくめながら次々と売り場へ向かっていく。

 一人、また一人と売り場へ繰り出していく学生達は空母を飛び立つ頼もしい戦闘機のようにも見えた。


「あー! おじさんおじさん!!」


 ブックトラックを押すのは文庫担当の女性だ。

 時刻は既に18時。彼女は夫と息子の待つ家へ帰らなければならない。

 この後買い物をして、子供の送迎をして、料理をするという。

 一日中レジに立った末にまだ働くのかと思うと頭が下がる。


「ごめーん! 返品棚、お願いできる?」


「おっす」


 彼女は俺の返事をほとんど聞きもせず、やけにファンシーな腕時計に視線を下ろしながら更衣室へ走って行った。


 俺はブックトラックをごりごりと返品棚の前まで運び、腕一本で一度に二十冊ほどの文庫本を抱える。

 内側へ曲げた手の平に綺麗に積み上げ、支柱とした腕に立てかけるのがコツだ。


 表紙が傷ついたり汚れないよう、棚には古い新聞が敷かれている。

 ハンディターミナルで読みやすいようバーコードを上向きに、俺はひょいひょいと棚へ本を乗せていく。

 くし、くしゃ、と新聞紙が歪む。


「ハジさん」


 バックルームに残った五人の男子学生の内、一人が声を上げた。

 残る四人は辺りに潰したダンボールを敷き、月曜発売の雑誌を梱包から解いていく。

 彼らの役割は今やどちらが本体か分からなくなるほど豪華な付録を雑誌に挟んで紐組みすることだ。


 特に付録過剰な女性誌はどの出版社のものもほぼ同じ日に発売される。

 紐組みの大変な日は事前に分かるので、今夜のように手厚いバックアップ体制が構築されるのだ。


「今夜5で足ります? 6要るくないです?」


(要るくないです?)


 レジでその言葉遣いはやめとけよと言いたくなるが、この手の言葉遣いにすぐに目くじらを立てる椒(はじかみ)が注意していない。

 ならばこの男子学生は「大丈夫」なのだろう、と俺は大きなお世話を飲み込む。


「早坂と堀を呼んでる。二時間だけなら出られるってさ」


 椒は携帯端末に親指を滑らせていた。


「私服で来っからレジには出せねえ。巻くのは最悪俺がやるから、お前ら鳴ったら走――――」


 ぴろりー、と間抜けな電子ベル音。


 『レジが混雑しているので誰かフォローに入ってください』の合図だ。

 18時台はこれが多い。売り場に散らばっているパートまで一斉に帰るのでフォロー人員が完全にいなくなるのだ。

 しかも今日は土曜日。メイン通路は山ほどの客でごった返している。


「行くっす」


 たった今声を掛けた男子学生が立ち上がり、売り場へ走り出した。

 渋面のハジが顎でドアを示す。


「神崎お前も行け。パートさんが問い合わせで捕まってるかも知れないだろ。助けて来い」


 更にもう一人の学生がバックルームを飛び出していく。

 正社員の二人は開梱に見切りをつけ、椒(はじかみ)に合図を送ると二階へ避難した。


 ハジ曰く、彼らをレジに立たせないことが夜のスタッフの至上命題なのだという。

 支払われている給料が違う以上、正社員に俺たちと同じ仕事をさせてはいけない。

 椒(はじかみ)はアルバイト達に度々そう説いている。


「……」


 ハジはホワイトボードにマグネットで貼られたシフト表をもぎ取り、じっと目を細めている。

 文庫のブックトラックを空にした俺は彼に近づいた。


「椒(はじかみ)さん。今日、忙しそう?」


「土曜ですから」


 何当たり前のこと聞いてるんですか。そんな言葉が続きそうなほど冷たい視線。

 彼は未だ俺のことを快く思っていない。

 その証拠にブックトラックへ目をやったハジは呆れたような溜息を漏らす。


「……一冊、残ってますよ」


「お。ありがと」


 俺は一冊残った時代小説を手に返品棚へ向かう。

 何でその大きさの本を見逃せるんですか、と後ろで聞こえる陰口が胸をきりきりさせる。


 雑誌の開梱を始めていたアルバイト達が無言で俺に場所を空ける。

 まるで磁石に反発する砂鉄のようだ。

 ――――避けられているようにも感じた。


「……」


 実際、俺は浮いている。

 昼は主婦たちの間で。

 夜は学生たちの間で。

 どうして成人男性のあなたがこんなことをしているんですか、という好奇の視線が痛い。


 ふう、とため息をつきながら返品棚に文庫本を置く。

 くしゃ、と新聞紙がまた歪む。


 書評コーナーから取り下げられ、こんな場所へ置き去りにされ、リサイクルの環からも外れてしまったローカル新聞。

 その日付は数か月前だ。


 文庫本のバーコードから目を背けかけた俺はふと気づき、紙面の隅をじっと見る。


「!」



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 ××××地元メディアは○日、現地で行方不明となっていた邦人男性◆◆・ジュウゴさんの無事が確認されたことを発表した。


 ◆◆さんは●日未明、宿泊先のホテルを出発後に消息を絶っており、地元警察が捜索活動を続けていた。

 男性は△△日後に◎◎・◎◎地区の路上で発見され、病院へ搬送されていた。

 意識ははっきりとしているものの××さんは衰弱しており、現在も治療を続けている。

 地元警察は××さんの快復を待ち、聴取を行う予定である。


 ××××当局は◇◇系過激派組織□□□□による関与を疑っており、夜間から未明にかけて一人で外出しないよう、観光客らに注意を呼び掛けている。


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「……」


 俺はワイシャツの袖をめくり、自分の両腕を直視した。

 赤目の毒で爪の剥がれ落ちた腕には焼け爛れたような痣が残っている。


 発見当時の俺は全身傷だらけで、着ていた服はほぼ雑巾だった。

 髪も髭も伸び放題で目には隈ができており、頬はこけていたという。

 聴取をすれば目玉の怪物が出たとのたまい、挙句に薬物反応が出るものだから、通訳と警察は俺がどこぞのテロリストに拉致されて酷い拷問を受けたのだと結論付けた。


 俺は結局、あの島のことを話さなかった。


 マトゥアハの栄養になった人々とその親族には気の毒だが、何せ天然の××が採れていた島だ。

 俺が翡翠の毒のことを外部に漏らせば、あの場所は瞬く間に欲深な人間共に占領されてしまうだろう。

 思い出すだけで射精しそうになるほどのあの多幸感。

 あんなものを世に放つわけにはいかない。


 怪神マトゥアハとそれに関わるすべては暗い海の底で永遠に眠ってしまうべきだ。

 おそらくはあのままイモガイを食らい尽くし、快楽の夢に溺れて死んだ漁民達の魂と共に。


(……)


 ぺらりと新聞をめくる。

 記事は三面から二面へ。



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 【現代の『ロビンソン・クルーソー』!! サバイバル女子高生奇跡の生還!!】


 △△△△△△政府は○日、現地で行方不明になっていた×××学園の生徒二名と教諭一名が身元不明の少女1名と共に保護されたことを発表した。

 三人は●日、在籍する×××学園の姉妹校である△△△立●●ー●●校との交流行事を終え、宿泊先のホテルへ戻る途中で行方不明となっていた。


 当局の発表によると三人は何者かに拉致された後、身元不明の少女一名と共に隙を見て脱出。

 ○○日間に渡って××地方の熱帯雨林をさまよっていたとされている。

 四人に外傷はなく健康状態も良好であるが、現在は医療機関で検査を受けている。

 400名体制で捜索活動に当たっていた現地警察は少女達の無事を喜ぶと共に、相次ぐ国境を跨いだ誘拐事件への対策を進めるよう政府に訴えている。


 ×××学園では例年実施していた交流行事の中止を検討していると発表したが、保護者と生徒からは反発の声も上がっている。

 本件には国際的な人身売買組織の関与が疑われており、△△△△△△政府は捜査を続ける見通しである。


 少女達は落雷によって発生した炎を絶やさないことで生存に必要な水と食糧を確保したとされている。

 △△大学大学院の□□教授は「一般的な日本の女子高生がこれほどまでのサバイバビリティを発揮したことには驚きを隠せない」と語る。

 教育評論家の◆◆氏は、生還した少女達の優れた判断力と大胆な行動力が家庭環境と密接に関わっていると指摘している。

 ※二名による事件の評価は●面。


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 そこには涙ぐむ両親と抱き合う制服姿の温州(うんしゅう)、そして蘇芳(すおう)の写真が添えられていた。


 きっちり化粧をしているし、焼けた肌もだいぶ色が戻ってきているからわざわざ掲載用に撮影したのだろう。

 まとまりの無い文章といい、地方紙らしい無遠慮さと下世話さが滲み出るような記事だ。

 全国紙ならもう少しまともな記事にもなったのだろうが、企業の不祥事が相次いだり芸能人が離婚したりで慌ただしかったから紙幅を割けなかったのだろう。


 それにしても、と俺は写真の上に文庫本を積んだ。


 羨ましいことだ。

 俺の親父は電話口で怒れるブルドッグのような意味不明の罵声を浴びせたというのに。


 ――――まあ、一応喜んではくれた。

 捜索活動に参加していた警察官や日本人ボランティアと同じぐらいには。




 あの後。

 マトゥアハの踊り食いに夢中になっている漁民たちの舟を奪い、陸まで戻った俺たちは車を拝借した。


 幸い、胡麻堂(ごまどう)教諭がペーパードライバーではなかったので運転は彼女に任せた。

 そして都市部へ近づいたところで俺は彼女達四人を車から引きずり出し、別の方向へ車を走らせた。

 遠く、できるだけ遠くへ。

 ――――もちろん、道半ばで車は泥溜まりに突っ込んでダメになった。

 そこから数キロ歩いたところで俺は民間人に保護された。


(……)


 俺たちは警察やメディアを前に嘘をつき続けられるほどタフじゃない。

 何かの拍子にあの浜での行為が明るみになったら、彼女達は学校で、社会で、後ろ指を指されることになる。

 それだけは嫌だった。

 だから俺は彼女達と別れた。


 車から引きずり下ろされる時、彼女達はほとんど抵抗しなかった。

 おそらくナタネ以外の三人は理解していたのだろう。

 人間社会へ、それも女の社会へ戻る彼女達にとって、俺と一時でも寝食を共にしたなんて事実は汚点でしかない。


 俺たちは出逢わなかった。

 世間にはそう思わせなければならない。


 彼女達は何者かにさらわれたが、自力で脱出した。

 亜熱帯の森の中を彷徨い、誰に汚されることもなく生還した。

 それが揺らがぬ事実だ。


 かくして俺は生還し、社会は中学校時代の友人のように俺を迎えてくれた。

 馴れ馴れしく、白々しい笑顔で。



 俺は文庫本を積み上げ、記事をすっかり覆い隠した。

 もう数か月前の新聞だ。じきに黄ばみ、色あせ、ゴミ箱へ送られることだろう。


 ぴろーん、とベルが鳴った。

 ぴろーん、ぴろーん、と『客注カウンターが無人です』の合図。

 二人が走り去る。

 固定電話が鳴り、一人が問い合わせに捕まる。


 時計を見るとそろそろタイムカードを切る時刻となっている。

 俺は懐から携帯端末を取り出した。

 カレンダーが今夜の予定を表示している。


 『19:00 会食。レストラン△△。蜜輪様』


(……)







 今生の別れになると思っていたから意外だった。

 ほとぼりが冷めた頃に蘇芳(すおう)と温州(うんしゅう)が探偵を雇い、俺の家を割り出したことは。


 聞けば特に用事があったわけではないらしい。

 謝礼金を用意してきたわけではないし、俺ともう一晩しっぽりしたいというわけでもなかった。

 ただ単に彼女達は生還を祝いたがっていた。

 そんなことのために探偵まで雇ったのか、と俺が問うと彼女達は笑った。

 だって大事なことじゃないですか、と。

 ――――あの島で起きたことも、私たちの人生なんですから、と。


(タフだよな、あいつら)


 彼女達にとっては忌まわしい記憶のはずだ。俺とのことも、マトゥアハのことも。

 だがあえて祝い事にするという。

 祝い事にして、己の記憶に、人生に取り込むという。

 俺が数十年かけてたどり着いた境地はどうやら女子高生にとっては当たり前の考え方らしい。


 とは言え、俺は躊躇した。

 おっさんと女子高生が飯を食う。

 今や通報されても仕方ないほど不自然な絵面だ。

 彼女達の将来を考え、俺は辞去しようとした。


 だがナタネが身寄りのない子供を支援する団体に保護されたという事実を伝えられ、俺の心はぐらついた。

 同時に、孤児となったナタネの余生について何も考えず、手も尽くさずに逃げ出したことに自責の念も感じた。その辺りの事後処理に胡麻堂(ごまどう)教諭が奔走してくれたことも俺の胸を締め付けた。

 温州と蘇芳はわざとらしく教諭の苦労を語った。

 先生がいなかったらナタネちゃんはどうなってましたかね、と。

 あーあーおじさんはまた逃げるんですね、と。


 そうだ。

 俺は逃げ出してしまったのだ。最後の最後に。

 本当に彼女達のことを想うなら言い訳の一つも用意してやらなければならなかったし、ナタネのことについて教諭と相談すべきだった。その面倒から逃げ出した俺は安いヒロイズムに酔ったダメ大人だ。


 だから俺は――――両手を挙げて降参した。

 せめて彼女達があの忌まわしい記憶と向き合うその場所には立ち会わなければならないだろう、と。


 よくよく聞いてみると、妙な噂が立たないよう胡麻堂(ごまどう)教諭も付き添ってくれるらしい。

 それなら一緒に飯ぐらい食ってもバチは当たらないだろう。


 事件から数か月経った今、俺たちの関係性について詮索する奴はいない。

 そもそも華の無いニュースだったので世間の興味はあっという間によそへと向いていた。






 今夜はその「生還を祝う会」当日だ。

 参加者は蜜輪温州(みつわうんしゅう)、紫女川蘇芳(しめかわすおう)、胡麻堂桃子(ごまどうももこ)の三名。

 ナタネもWEBカメラを使って遠隔で参加するという。


(……そろそろ行くか)


 ぴろーん。


 ぴろーん、ぴろーん。


「……」


 ぴろーん。

 ぴろーん、ぴろーん。


 ――――ぴろーん。


「?」


 振り返るとバックルームには俺しか残っていない。

 今日の俺は日勤で、もう定時を過ぎている。

 気分的にはレジフォローをしたいところだが、やるとハジに怒られる。

 『あんたがそういうことやったら、他の昼のスタッフさんまで「やらなきゃ」ってなっちゃうでしょ』と。

 度を超えた親切は良くない。俺が新たに学んだことの一つだ。


 だが――――



 ぴろーん。

 ぴろーん、ぴろーん。



 それにしても――――



 ぴろーん。

 ぴろーん、ぴろーん。

 ぴろーん。

 ぴろーん、ぴろーん。



 さすがに見過ごせない。

 社員は何をやっているんだ、と思いながら腕時計を見た。

 既に18時20分を回ろうとしている。


(ぎりぎりか……)


 フォローに入るのが15分、荷物を抱えてタクシーを捕まえて貸切のレストランまで25分。ぎりぎり間に合う。


 初めはあれだけ渋ったのに、いざ当日となると俺の胸は期待に膨らんでいる。

 温州や蘇芳は普段どんな佇まいをしているのか。

 胡麻堂教諭はいくらか俺に感謝の言葉を述べてくれるのか。

 ナタネは成長しただろうか。


(……ちょっとだけ待ってろよ、皆)


 行くか、と俺は戦場へ飛び出す。












 酷い有様だった。


 この店のレジは5台が常時稼働している。

 土日の夜で7台。クリスマス前には9台になるという。


 今夜はPOP置き場と化していた『10レジ』まで開けられ、ハジが会計をしている。

 釣銭なんて入っていないので親レジから無理やり小銭を手で拾い、客に渡していた。

 図書カードやクレジット、電子マネーの端末すら設置されていないレジで椒(はじかみ)はソフトな笑みを崩さず客を捌く。


 客の滞留具合に目をやった俺は目を剥いた。


(げええっ!?)


 一列に並んだ客の数は優に50を超えている。

 一般的な小売店では各レジに人が並ぶものだが、書店でそれをやると問い合わせやラッピングが発生する度に後ろの人間が待たされ、客の間に不公平感が生まれてしまう。

 それを防ぐためにこの店ではフォーク型の待機列が導入されたらしい。


 10個のレジのどこかで会計が終わる度に列の先頭が呼ばれるので、実際の待機時間は短い。

 が、一列に並んでいるので感覚的にはひどく待たされたように感じてしまうのがこのシステムの欠点だ。

 並ぶのが嫌で逃げてしまう客が出ることも危惧されている。


 が、今はそれどころじゃない。

 こんなに客を並べてしまうとクレームが起きる恐れすらある。


(おいおい社員は何やってんだよ……!)


 二階を見上げると、専門書の棚で正社員二人が『常連』に捕まっているのが見えた。

 いつも酔っぱらっている大学教授とそれを諌めない上品な奥様だ。

 大学で教鞭を執っているにも関わらず、店にとっての神様はお客様じゃなくお金様なのだと未だに理解してくれないらしい。

 何年経っても店員の白眼視に気づかない『常連』は、今夜も「知性と教養」をテーマに熱弁を振るっている。


(やべえな小一時間は捕まるだろあれ……)


 俺はすぐさまレジへ入り込み、ハジと視線を交わす。


 ハジをレジに立たせてはいけない。客注、問い合わせ、ラッピング、何でもござれの椒(はじかみ)には自由でいてもらう必要がある。

 バトンタッチした俺は大量のスリップをプラスチックの箱へ放り込み、声を上げた。


「お次でお待ちのお客様! こちらのレジへどうぞ~!!」










 レジから脱出する頃には19時30分を回っていた。


 ブックカバーを補充するスタッフ達は心地よい疲労感に包まれているようだったが、俺は背を焼くような焦燥に苛まれる。


(やべえ……)


 さっきから尻ポケットの携帯端末は震えに震えている。

 電話じゃなくショートメールなのでまだ大丈夫だろうが、年長の俺が遅刻するなんてとんでもないことだ。


 幸い、まだ遅刻時間は三十分だ。

 帰宅ラッシュの時間も避けられたことだし、タクシーを飛ばせば十五分で着くだろう。

 すまん温州。すまん蘇芳。先生、ナタネ。すぐ行くからな。

 そんなことを思いながらレジを飛び出す。


「おじさんありがとう!」


「おじさんお疲れさまです!」


「おう! お疲れっす!」


 俺はレジの面々に手を振り、売り場へ戻った。

 問い合わせに捕まらないようエプロンを脱ぎ、ハタキも放置されたブックトラックへ放り込んでおく。


 バックルームにはくたびれた様子の正社員二人とハジが居た。


「お疲れさまでーす」


 俺は一言声をかけ、そそくさと荷物を担ぐ。

 が、椒(はじかみ)の声がそれを止めた。


「残業申請しました?」


「や、いいですよ別に。たった一時間ぐらいの――――」


「ダメです」


 正社員二人が苦笑するほど鋭い声でハジが俺を引き止める。

 俺はその場で駆け足してさりげなく「急いでます」アピールをした。

 ――――が、ダメだった。


「申請してください。勤怠システム立ち上げといたんで」


 PCのログイン画面を見せつけ、ハジは青縁眼鏡の奥から怜悧な視線を向ける。


「こういうことは一人がサービスし始めたら「やってくれて当たり前」になりますから」


「うぅ」


 俺はやむなくPCへ近づき、カタカタとおぼつかないタッチで事後申請を上げる。

 金を貰えるのは普段なら喜ばしいことだが、今夜ばかりは不本意だ。この一分一秒が惜しい。


「……すいませんね、急いでる時に」


「いえいえ、いいんです。こっちこそすみません。何かこう……気が利かなくて」


 タッチしている最中に話しかけるな、と心中独り言つ。

 俺は口動かしながら指で別の文字打てるほど器用じゃないんだよ、と。


「……よし」


 申請を終えた俺が踵を返そうとすると、またしてもハジが俺を引き止める。


「ついでに一つ、いいすか」


「お、おお」


 急いでるんだよこの野郎、という気持ちをどうにか堪える。


 ノニジュースもびっくりするほど俺に辛辣なハジだが、哀しいことに彼の言うことは後々になって俺を助けることが多い。

 ハジに言われて渋々新刊コーナーの整理をやると、自然と問い合わせ対応が速くなった。

 閉店後に紐の解けた雑誌を回収する癖をつけると、ファッション誌や女性向け雑誌の名前が頭に入った。

 憎い奴からこそ学ぶことが多い。

 俺はそのことを嫌と言うほどよく知っている。


「っと。その前に一本電話してもいいですか、椒(はじかみ)さん」


 こく、と頷いたハジは黒髪を手櫛で梳いた。

 乱れていた髪がワックスの力で形を取り戻す。






『あ、おじさーん?』


 温州はすぐに出た。

 カラメルソースよりも甘い声が疲れた身体にじんと効く。


「すまん温州。ちょっと遅れる」


『そんなことだろうと思いました。大丈夫ですよ。今日は閉店まで貸切ですから』


「悪いな。すぐ行くから」


『はーい。今夜は重大発表がありますからねー』


「?」


『ふふ。来てのお楽しみです。何か私……「当たった」みたいなんです』


(当たった?)


 宝くじだろうか。それとも大学の推薦か何かか。

 今どきの俗語(スラング)はよく分からない。


『それじゃ、待ってまーす』


 通話が切れて数秒後、ぶい、と短く携帯が震えた。ショートメールだ。

 そこには黒髪ぱっつんの温州と、私服姿の彼女に腕を引かれた男女の姿が映っている。


(この二人……)


 さっき新聞に映っていた男女だ。

 年齢的には俺より少し上らしく、『ある夫婦の悲劇』と題された石像のように表情を強張らせている。


(おいおい親まで呼んだのか?)


 まさか俺やマトゥアハのことを話すつもりか。

 そんな不安が胸を過ぎったが、素行不良の温州に限ってさすがにそれはない。

 おそらく財布と「足」役だろう。


 送られた画像には名前がつけられていた。


『ファイル名:お「電話、終わりました?」』


 ハジの声に顔を上げた俺は慌ててにやけた表情を引っ込めた。


「す、すみません」


 いえ、と椒(はじかみ)は素っ気なく言う。


「女と飯ですか」


「ええ、まあ」


 ふうん、と長身のハジは俺の目を覗き込む。

 まるで「アンタみたいな無職のおっさんに女がいるのか」とでも言わんばかりの目つきだ。


「あっと……何の話でしたっけ」


 俺が問うと、ハジはたっぷり数十秒は黙りこくった。

 頭の鈍い男にがつんと響く言葉を選んでいるようにも見えるし、怒りを堪えているようにも見える。



「『おじさん』って呼ばせるの、やめてもらっていいですか」



「……」


 正社員の二人は既に二階へ避難してしまっている。


「昼のパートさんは最悪呼ばせてもいいですけど、夜はやめさせてください。……呼ばせてるあなたの方は気持ち良いんでしょうけど、ダメです」


 俺は何事も言い返すことができず、ただ力なく垂らしていた手を握る。


「あいつらまだ大学生なわけじゃないですか。何事もなければ三年ちょいここに勤めて、それから社会に出ていくんですよ。ここで悪い癖つけさせるわけにはいかないんです」


 椒(はじかみ)の声は静かなバックルームによく響く。

 学生達がいないのは売り場で問い合わせに捕まっているからだろうか。


「俺ら……何つうか、あの子らを預かることに対する責任って言うんですか。そういうの、あると思うんです。あの子らの親御さんに対して」


 ハジの声が上ずっていることに俺はその時ようやく気づいた。

 どこか早口で、言葉の繋ぎ目もおかしい。

 ――――きっと緊張しているのだろう。


 いくらこの店で長く働いているとは言え、彼はまだ24だ。

 耄碌(もうろく)した爺さんならともかく、脂の乗った俺ぐらいの年の男の非を指摘するのは勇気が要ったに違いない。


「だから、『おじさん』はやめさせてください。ちゃんと名前と『さん』付けで呼ばせましょう。俺からも言いますから」


「……」


 天を仰ぎ、顔を覆いたくなる。

 俺はやっぱり、自分で思っている程の男なんかじゃない。

 俺はいつ一人前の男になれるのだろうか。


「……分かりました、椒さん。そうしましょう」


 ハジの肩からふっと力が抜けるのが分かる。

 俺は後頭部に手をやりながら自然を床を見る。


「何と言うか、すみませんね。そういうの……俺が自分で気づかなきゃいけないのに」


「いや、俺こそ生意気言ってすいません。差し出がましいのは分かってるんですけど……」


 どちらからともなく語尾を濁す。


 もしかするとハジの言っていることは間違いなのかも知れない。

 今やショートメールで辞表を出す若者だっているし、上司と部下、先輩と後輩の関係だって俺が若い頃とは異なっていると聞く。

 敬意を払えない年上に敬語なんか使わない。

 ●卒の上司なんか軽蔑して当たり前。

 そんな考え方が常識とされる時代なのかも知れない。


 ただ、俺たちは嘘でも大人をやらなければならない。

 子供の頃に見ていた大人達の背中を、目指すでもなく目指さなければならないのだろう。

 何が本当に正しいのかは分からないが、それでも。


(……おじさん、か)


 ――――「呼ばせてるあなたの方は気持ち良いんでしょうけど、ダメです」


 ハジの言葉が脳内でリフレインする。


 ああ、そうだ。

 俺がこの職場でやっていることは中学生が保育園児の中に混じって遊ぶようなものだ。

 子供たちの中で子供の振りをして、慕ってもらうことに浅ましい喜びを見出している。

 こんなものが俺の知っている「大人」だろうか。


 俺はきちんと、大人の背中を見せなければならない。

 例え俺の「中身」が腐った脱脂粉乳にも劣る惨めさだけだとしても。


「すみませんでした、呼び止めて。急ぐんですよね?」


 ハジの声で我に返る。


「あ。ええ、大丈夫ですよ」


「お疲れ様です」


 ぺこりと頭を下げる椒(はじかみ)を後に、俺は荷物を担いで裏口のドアを開ける。


 外には闇が広がっていた。

 今夜は月も星も見えず、それなのに雲すら見えない。

 俺が開いたドアからバックルームの光が漏れ、三角定規の形となって社員用駐車場に白い図像を描いている。


「じゃあ――――」


 りりりり、とハジの胸で社内携帯が鳴った。


「はい椒(はじかみ)」


 ほんの数秒で彼の顔色が変わる。
















「ン何っで!!! カード会社控え捨てちまうんですかっっっ!!!」


 ハジに怒鳴られ、俺はひいいっと悲鳴を漏らした。


「忙しい時は事故伝には注意してくださいってあンだけ言ったでしょ!!」


「や、や、すまっ、すみまむっ!」


 椒(はじかみ)が放り投げたゴミ袋に胸を打たれ、俺はのけぞった。


 書店から出るゴミはコミックを覆う包装(シュリンク)、失敗した文庫カバー、雑誌の組み紐、版元から送られてくる不要なチラシ類、発注書などで占められる。

 客が捨てるのもレジ袋や本に挟まっている新刊案内がほとんどなので一つ一つは軽い。

 が、この規模の大型書店ともなると量が尋常じゃない。


 俺一人がすっぽりと収まろうかというゴミ袋が二十弱。

 それが今日一日で社会から不要と判断されたゴミの量だ。

 パートスタッフはあちこちのレジやゴミ箱を回って袋をぱんぱんにし、それからこのゴミ倉庫へ捨てる。

 なので中身は時間も場所もバラバラだ。


 この中のどこかに、俺が捨ててしまったクレジット伝票の「カード会社控え」がある。

 クレジットカードを使った際に発行される「お客様控え」「店舗控え」「カード会社控え」の内、客の署名の入った最も重要な一枚。

 俺はそれを紛失してしまったらしい。


 先ほどの大混雑の後、親レジの学生が念のためクレジットの伝票枚数を確認していたところ、一枚の「カード会社控え」が足りないことに気づいたのだ。

 小さく記載された担当者欄には紛れもなく俺の署名が残されていた。


「……くそっ」


 真っ暗な屋外のゴミ倉庫の前、数十の袋を前にハジが頭を抱えている。


 一体何時間かかるだろう。

 だが今気づけて良かったという考え方もある。

 レジ締めの段階でこれに気づくと、閉店後にゴミを漁るという恐ろしく悲惨な事態となる。


「あの……もしかしたらお客様に渡しちゃったのかも」


 レジに残っていたのは「店舗控え」のみ。

 カード会社用の伝票とお客様控えの伝票の二枚をレシートに添えて差し出してしまった可能性もある。


 だがハジの声色は鬼のように暗く、低い。


「棄てちまった可能性もあるでしょう。絶対に二枚ともお客様に渡したって言い切れますか」


「いゃ、その」


「だったら探すしかないでしょ。お客様に確認するのはその後じゃないと筋が通らない」


 むぐ、と俺は口を噤む。


 お客がカード会社用の伝票を持っている場合、事態はより深刻だ。

 それこそ引きちぎられて家庭用ゴミと一緒に廃棄されているかも知れないからだ。

 そうなったらカード会社とお客様にお詫びする必要が出て来るし、専用の申請書と経緯報告書を添えて社内にも報告しなければならない。

 ハジの管理下で起きたミスとしてはかなり重大な部類に入る。


 と、ひょっこりとバックルームから学生達が顔を出した。


「ハジさん! 俺らも――――」


「お前らは紐組んでろ! それとレジフォロー欠かすな!」


 手分けしてやった方が早いには早いが、そうなると見落としの危険性が出て来る。

 ハジは口にこそ出さないが、俺たち準社員とアルバイトの間にある責任感の違いを理解している。

 本当に重要な業務はアルバイトに任せてはならない。


 さりとて正社員を駆り出すにはあまりにお粗末な作業だ。

 彼は早々に協力を申し出た正社員の二人を追い返していた。自分の仕事をしてください、と。


 だから――――だから、やるのはハジ一人だ。


「椒(はじかみ)さん」


 裏口の蛍光灯の下に陣取ったハジはがさがさと不機嫌そうにビニール袋の口をほどきながら背中で問う。

 何ですか、と。


「俺もやります」


「……いーですよ。女とメシでしょ」


「……」


 そうは言われても。

 俺は生まれて初めて大きなミスをして、上司に尻を拭われている新入社員のように縮こまる。


「行ってください。日勤なんだし。後は俺と社員さんでやっときますから」


「……」


「お疲れさまです」


 俺は黙って、荷物を置きに戻った。

 それから温州にショートメールを打った。


 もしかすると行けなくなるかも知れない、と。

















 黙々とゴミ漁りを続けた俺たちはようやく「カード会社控え」の伝票を見つけ出した。



 案の定と言うべきかマーフィーの法則とでも言うべきか、伝票は最後から二番目のゴミ袋の底に入っていた。

 もう俺の手からは油分も水分も飛んでしまっている。指先は老人のようにかさかさだ。


 俺とハジは口を結び直したゴミ袋を倉庫へ放り投げ、鍵をかける。

 裏口からバックルームに入り、どちらからともなく、ほう、と溜息をついた。


「ありましたね」


「……すみません」


 俺は市民に捕獲された下着泥棒のように肩を縮め、頭を下げる。


「いいっすいいっす。誰でも通る道ですから。事故伝は」


 ひらひらと指で挟んだ伝票を揺らし、ハジは紐組みされた雑誌の数を確かめている。

 バックルームには誰もいない。

 おそらくまた全員レジフォローに向かってしまったのだろう。


「でも助かりました。俺一人だとたぶん色々あって10時までかかってましたから」


 10時。

 そうだ時間、と時計を見る。


(……)


 9時半を過ぎている。

 遅刻なんて騒ぎじゃない。


「あー……ってか大丈夫なんですか」


 椒(はじかみ)もさすがに申し訳なさそうな顔をしていた。

 彼は途中で何度か「もういいですよ」「もうあとちょっとだから帰っていいですって」と声を掛けてくれた。

 だが俺はやめられなかった。


 俺は――――こちらを選んでしまった。

 たぶん、間違った選択肢を。


 いつもそうだ。

 俺が選ぶ道は間違っている。

 俺はいつもいつもいつも、人の選ばない「ハズレ」の道を選んでしまう。

 他人してみれば考えるまでもなく「ハズレ」だと分かる行動を取ってしまう。


 絶望的な気分で携帯端末を手に取る。

 温州(うんしゅう)からのメッセージが届いていた。



 『おじさーん?』



 『何時までかかりそう?』



 『もう始めちゃってていいです~?』



 時間帯を下る毎にメッセージの頻度は少なくなり、内容は遠慮がちなものへと変わっていく。

 もしかしたら携帯の向こうで彼女は泣いているんじゃないか。

 そう考えただけで胸がきりきりと痛む。


「……」



 俺はショートメッセージを送った。


 ――――返事無し。



 俺は電話をかけた。


 ――――留守電にすら繋がらない。



 蘇芳(すおう)も、胡麻堂(ごまどう)教諭も同じだ。

 レストランの番号は調べれば分かるだろうが、その勇気は無い。返事が怖い。


「……」


 胸が詰まるような気分だった。

 ドアに背を預け、ずるずると崩れ落ちる。


 どうしてこう何もかも――――うまく行かないんだろう、と。


「あの……」


 椒(はじかみ)がおずおずと声を掛ける。


「残業、つけてください」


「……」


 へたり込むことすら許されず、俺はPCにログインして残業申請した。

 それから改めて打ちひしがれるわけにも行かず、バッグを背負ってとぼとぼと裏口へ向かう。


「日付変わるまで待っててくれたら――――」


「?」


「女の子呼べますよ。レジの石原とか。飲みに行きません?」


 それは彼なりの慰めのつもりなのだろう。

 だが俺はゆるく頭(かぶり)を振った。


「今夜は遠慮します。行かなきゃならないんで」


「え、行くんですか。……い、今から?」


「ええ」


「待ち合わせ、何時だったんですか?」


「……。……7時」


「7時ぃ!? な、な」


 目を見開いたハジがぱくぱくと金魚のように口を開閉する。

 どうしてもっと早く言わないんですか、行ってくれりゃどうとでもしたのに、とか。

 おそらくはそういった言葉が彼の喉までせり上がり、唾と共に嚥下される。


「つか、電話もメールもダメだったんでしょ? ……もう帰っちゃってますって」


 ふっと俺は自嘲気味に笑い、バックルームを後にする。


 外は相変わらずの闇だ。

 このバックルームから漏れだす光しか道を照らすものは無い。

 だが学生達も正社員も皆、この道を歩いて帰っている。


 かつん、こつん、と低く硬い階段を降りたところでハジが追い付いた。


「ま、マジで行くんですか? 普通の感覚ならとっくに帰ってますって! せめて店に電話しましょ、店に!」


 俺が歩みを止めないことに気づき、なおもハジは食い下がった。

 が、俺が階段を降りきったところで彼は呆然と俺を見やる。


「何でそんな……もう誰もいないかも知れないでしょ?」


「……」


「何が何でも行かなきゃならない理由でも……あるんですか?」


「……」


 理由。

 理由か。


 それはまあ――――







「まだ――――待っててくれてるかも知れねえだろ?」







 俺は何故か笑った。

 自分でも訳の分からない笑いがこみ上げていた。

 だがひどく――――心地よかった。


 その様をどう受け止めたのか、ハジは笑えばいいのか呆れればいいのか分からないといった複雑な表情で戸惑う。


「そんないい女がいるんですか……?」


 答えず、俺は踵を返す。

 タバコの一つもあれば口に咥えて火を点けたいが、あいにくとそんな金は無い。


(……)


 水、あり。

 食料、あり。

 武器、なし。

 作戦、なし。

 仲間、少々。


 ふうう、と俺は長い息を吐いた。



 心持ち、惨め。

 ――――いつものように。



 ふっと笑い、俺は暗い夜の中へ歩き出す。






「獅子頭(シシトウ)さん!」





 俺は片手でネクタイを緩めながら振り返る。

 スラックスの腰部からはみ出したワイシャツがぬるい風に煽られ、揺れた。


「……お疲れさまでした」


 ハジはねぎらうような微笑を見せた。

 俺は彼に背を向け、無言で拳を突き上げる。

 そして夜の街へと歩き出す。


 さざ波にも似た柔らかい風が俺の身体を撫でていた。

 そう言えば、今日はまだ月曜日だ。


 月曜日の夜。

 ここを乗り切れば、たぶん明日は良い日になるさ。


 そんなことを思いながら、俺は夜へと消えていく。




























 ふと気になり、温州から送られた画像ファイルをもう一度開いてみる。



 嫌がる両親の腕を引っ張り、にっこりと微笑む温州の顔がそこにあった。




 『件名:お爺ちゃんとお婆ちゃんも待ってまーす』




「? お父さんとお母さんだろ、その二人は」


 やっぱり最近の若い子は分からねえな、と俺は「おじさん」のような台詞を呟いた。

 まあ、行けば分かるだろう。この謎のジョークの意味も。何が「当たった」のかも。



 自動車の白いヘッドライトが並んだ夜の闇は、あの夜に見た怪神マトゥアハの口にも似ていた。

 白い歯の並ぶ黒い怪物の口。



 俺はその中へ、意気揚々と歩いて行く。




 <了>

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