第23話 喜びの湖

 


 絶え間ない潮騒と、重なり合う荒い息遣いだけが聞こえる。



 耳元で聞こえる、縋るような息遣いは蘇芳(すおう)のものだ。

 彼女は背中側から首を伸ばして俺に口づけたまま、一向に唇を離そうとしない。


 ぐいぐいと押し付けられる胸に手を伸ばそうとすると、誰かに手首を掴まれる。

 ざあ、と新たな波が押し寄せた。

 温州(うんしゅう)だ。



 俺の右腕側に陣取った彼女は優越感を滲ませた笑みを浮かべ、これ見よがしに舌を伸ばす。


 さああ、と返す波に貝殻が洗われる。

 ぷちゃぴちゃ、とワニが静かな沼へ身を浸すような音が下腹部から這い上がって来る。

 股座へ目をやると胡麻堂教諭の鋭い視線とぶつかった。


 彼女が不快感を抱いていることは明らかだ。

 だがマトゥアハの毒は彼女の抱く感情すら快楽に変えてしまう。

 臭いのに病みつきになる。

 不快なのに止められない。

 嫌悪感しか抱かないのに、身体がそれを求めてしまう。

 一見すると矛盾する感情が快楽の軛(くびき)で結び付けられ、両立する。



 小便をするような気軽さで俺は気をやった。

 解放感はほとんどなく、快楽の波長が一時(ひととき)大きくなっただけ。

 すっきりしたところで全身の毒素が存在感を主張し、再び俺の身体の中心から破裂せんばかりのエネルギーが膨れ上がる。


 青天井だ。いくらでも、どこまででも気持ち良くなれる。


 ざああ、と波が寄せては引いた。

 ドアの隙間から漏れ聞こえるように、大波小波の間から睦み合いの声が伝わる。



 ××には二通りあると聞いたことがある。

 一つは精神が落ち着く類のもの。もう一つは精神を昂ぶらせる類のもの。

 マトゥアハの恵みは明らかに後者だ。

 そしてその効力は『スッキリする』とか『元気が湧いて来る』なんて生易しいものじゃない。


 この毒を注入されたが最後、異常なまでの興奮は血管、筋繊維、神経のすべてを玉のように伝う。

 数珠のようにぶら下がった活力の玉は俺たちの心臓に無限のエネルギーを送り込む。

 例えるなら5リットル用の灯油缶に物理法則を無視して20リットルのガソリンがぶち込まれているような状態だ。


 頭がスッキリするからとりあえず快楽に耽るのではない。

 元気になったからセックスを楽しんでいるのではない。

 超過したエネルギーを肉体に留めおける適正量へと戻すために『発散』しているのだ。

 このまま何もしなければ脳が焼き切れ、心臓は蝋燭の芯のようにぶすぶすと燃え尽きてしまう。


 だからこそ温州や蘇芳のみならず教諭までもが行為に勤しむ。手っ取り早く、かつ心地よくエネルギーを発散させる手段としてのセックス。

 怪神マトゥアハの恵みを享受するにはヒトの肉体はあまりにも惰弱だった。



 ざああ、と新しい波が古い波を飲み込む。

 だが死の恐怖と隣り合わせの快楽について行けない者もいる。

 まだ幼いナタネだ。

 彼女だけは苦し気に呻き、行き場を失ったエネルギーによって身悶えしていた。

 未知の感覚に怯えるナタネは俺に身を預け、熱病患者さながらの吐息を吹き付けた。

 はぅ、ふぅ、という病的な呼吸。

 腿をまさぐるとそのリズムがひくっと乱れた。

 誰よりも長くこの島で生活した少女の脚は決して汚れてはいない。代謝が活発なせいかつるりと滑らかで、そして人の脂の温かみを感じる。


 大丈夫だ、と言ってやりたかったが俺の喉はもはや人語を発することができない。

 ヴァ、と踏み潰されたウシガエルのような無様な声が漏れるばかりだ。

 耳元では、ヲァ、と蘇芳が呻く。

 右側では、ア、ア、と温州がゾンビじみた声で鳴き、下腹部の胡麻堂教諭がグルル、と濁った声を茎に吐きつける。

 ナタネだけがかろうじて澄んだ声を漏らしていた。


 ばさばさの髪に首筋をくすぐられながらも俺は愛撫を続けた。


「ハー……ッ、ハーッ!」


 にへえ、と愉悦に歪んだナタネの表情に俺は教化欲と性欲が同時に満たされるのを感じた。

 性交の経験などない少女に女の快楽を教え込む濁った充実。強姦などより遥かに狡猾な行為に罪悪感を覚えずにはいられない。

 だがまだ終わらない。

 女たちは俺に身を寄せ、俺は指で、唇で、彼女達に応じる。

 ああ何てことをやっているのだろう、とコンマ一秒懺悔した。

 懺悔の度に罪は刺激を増し、俺の脳を黒く、濃く焼く。


「ヴ、ア……アァッ」


 小鳥が囀るようだったナタネの声も喘鳴を繰り返していく内に喉を破られたブタのようなものへと変わる。

 それに不快感を覚えなくなるほど、俺の聴覚は鈍磨している。

 聞くものすべてがみずみずしく、見るものすべてが清らかに見える。

 目を細めなければ美しく見えないはずの世界が確かな彩りと光を放つ。

 社会の闇すら美しい。今ならそう言える。


 ざざあ、と強い波が押し寄せた。

 誰もが汗と砂にまみれており、身をこすり付けるたびにじゃりじゃりと音を立てていた。

 茹だるような淫臭は雄のものとも雌のものともつかない。


 はー、はー、とマラソンを終えた選手のように俺も女たちも息を切らす。

 息を切らしているのに、血流はどんどん速さを増していく。

 感覚は鋭さを増すばかりで、満たされても満たされてもまだ足りないと淫欲は丹田で熱を持ち続けていた。


 四人の雌は代わる代わる俺を食い、俺に食われた。

 ざあああ、と聞こえる波に運ばれるかのような浮遊感。

 俺は再び、無音の浄土を覗き見る。


 ざあああ、と波の引く音と共に現実へと帰還する。

 そこで待ち受けているのは汗と砂に塗れ、今にも俺の肉体を食い荒らしそうなほど淫靡な目をした女が四人。

 はあ、はあ、はあ、と荒い吐息を吹きかける彼女達は完全に正気を失っている。


 顔が近づいて来る。

 温州の目が血走り、蘇芳の目が爛々と光っている。

 ナタネの目が濁り、教諭の目が淀んでいる。


 順番も分からなくなるほど濃厚なキスが四度。

 女たちは今、僅かに残る理性を総動員して挿入の順番を決めようとしている。

 そこに言葉は無い。あるのは雌同士で序列を探り合う、獣じみた視線の応酬。


 俺は歪んだ笑みを浮かべながら両手をT字に広げる。

 これだ。

 最高だ。最高の気分だ。

 これが俺の求めた――――



 ざりり、とサンダルの底が貝を踏む音。



 見れば、陸へ乗り付けた舟から一人の老人が近づいて来るところだった。

 赤銅色に日焼けしており、ひび割れた湖底のような肌を持つ老人だ。

 彼は何か丸く、大きなものを詰め込んだカゴを抱えている。


「――――、――――」


 老人は俺の知らない言葉で何事かを呟いた。


「……、――――」


 言葉の意味は分からない。

 だが手に持つカゴの中身がココヤシと思しき実と水の入ったペットボトル、それに燻製の魚や酒瓶であることから意図は理解できる。

 漁民共は決して俺たちを拒んでいるわけではないのだ。

 むしろ歓迎し、歓待しようとしている。

 言い換えれば、マトゥアハを仕留めた俺のことを認めてくれているのだ。


 老人はその場に膝をつき、籠を俺の近くに差し出した。

 女四人に逆レイプされている小汚い男の前で、彼は五体投地のようなポーズを見せる。


 おそらく老人はこう言っている。

 『あの四体の代わりをやってくれ』、と。


 黒目、赤目、青目、緑目。

 怪神マトゥアハを護る四体の化生。

 その代わりを俺に、いや俺たちに務めてくれと頼んでいる。


 ちらと見れば眼球の紋様が刻まれた黄金色のイモガイが目に入った。

 マトゥアハは尾を垂らしたまま、頭部を俺たちに向けている。


 無限の恵みと幸福をもたらすこの怪神を護る役目を担う。

 それはつまり――――この土地の王者になることを意味する。


 最も神に近い場所に立つ戦士。

 人間の頂点。


 快楽も、女も、食い物も、思いのまま。

 思いのままだ。


「……!」


 生唾を飲んだ俺の唇が、生ぬるい何かに塞がれる。

 再び俺の視界が白み、身体は乳粥のように甘い快楽へと沈む。



 ざああ、と波が押し寄せる。


 

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