第9話 南の海

 


 『マトゥアハは死者にしか殺せない』



 矛盾の不快さに眉根が寄る。


 黒目も、赤目も死んだ。

 だが奴らを殺した俺は死者などではない。心はともかくとして、体の方は生きている。


 このメモの「殺す」とは物理的な損傷のことを指しているのだろうか。

 あの二体の死因はいずれも「窒息死」。肉体に致命的な損壊を受けたことによる死ではない。

 これは「殺害」には当たらない。


(違うな)


 腹落ちしない。

 死者にしか殺せないが、餅を喉に詰まらせて死ぬことはある? そんなバカな。

 このおぞましい文章の真義は記述されていない空白地帯に求められる。

 つまりこうだ。


 『マトゥアハは死者にしか殺せない。また、それ以外の理由で死ぬことはない。不死身の怪物である』


 これなら何となく意味が通る。


 だが、と俺は無精ひげの伸び始めた顎に手をやる。

 現に俺が黒目と赤目を死に追いやった今、『マトゥアハは死者にしか殺せない』という文章は成立しない。


(じゃあ……たとえ話ってことか?)


 人智を超えた怪物マトゥアハを殺すためには決死の覚悟で臨まねばならない。

 その覚悟をこの骸骨は「死者」と例えた。

 これが最もしっくり来る。


 それ以外にもいくつかの可能性は考えられる。

 例えば黒目や赤目が実は死んでいない可能性。

 奴らが実はマトゥアハなどという怪物ではなく、でかいアンコウとクリオネだった可能性。

 それから、この骸骨がそもそも頓狂なことを書き綴っている可能性。


(考え出したらキリがねえな)


 メモの信ぴょう性について俺は一旦吟味をやめた。

 だがこの骸骨がどうやって死んだのかについては一考の余地がある。


(陽が昇ったら調べるか)


 温州(うんしゅう)もいることだし、未踏の地の探索を再開すべきだろう。

 ――――どうもこの骸骨のことが気になる。


「もうこれで終わりみたいですね」


 温州が空白のページをぱららら、と流していく。


「分かった。ありがとな。……何もねえよ、ナタネ」


 不安そうにジンジャーを抱いた少女の頭に手を置く。

 その髪は汗でべたついていた。


「おじさん。これからどうします?」


「そうだな……」


 蒸留装置を組み上げた以上、水については一旦「待ち」だ。明け方には朝露を集められる可能性も出て来る。

 次に必要なのは食い物と寝床だ。

 食い物は言わずもがなだが、寝床の確保も重要になってくる。

 鈍い俺やジンジャーならともかく、ナタネや温州にとって野宿は相当なストレスになるはずだ。

 極限状態においては小さじいっぱいのストレスすら命取りになる。

 いや、もしかしたらそんなことはないのかもしれないが、後になって「やっぱり命取りでした~」なんてことになった一大事だ。


 マトゥアハに対抗する武器も必要だが、俺の方針は変わらない。

 殺すためにはエネルギーが必要だ。

 どっしりと構えていこう。


「家でも作るか」


「作れるんですか?!」


「作れねえよ」


 苦笑し、陸を見やる。


「家の役割を果たせばそれが家になるんだよ」


 鬱蒼とした孤島の森にはほとんど生物の気配がしない。

 あのでかいイナゴは鳴かないらしい。

 夜は静かだ。


「手分けしよう。俺は枝。君は葉っぱ」


「はい!」


 温州は力強く頷いた。顔には笑み。

 そのエネルギーがただただありがたい。


「じゅーぐ?」


「ナタネは留守番だ。ステイホーム」


 ちょこん、とナタネは体育座りになる。

 彼女はちらと水平線を見たが、そこにあるのは凪いだ海ばかりだ。


 赤目が死んでから既にかなりの時間が経過している。

 おそらく今夜、もうマトゥアハは現れない。

 仮に不意を突いて海から揚がって来たとしても、貝殻海岸を移動すれば必ずじゃらじゃらという音がする。

 ナタネがうつらうつらしていても平気だろう。


「あんまり遠くまでは行かないけどな。ジンジャー。油断するなよ」


 おん、と犬が鳴く。







「はい! 二十枚!」


 温州は大きめの葉っぱに狙いを定め、茎からぼきりと折っていく。

 彼女が見つけたのは芭蕉のように大きな葉だ。


「でかいな」


 ライトを向けると夜露に濡れた艶めかしい葉の表面が映る。

 森の中で松明は使えないが、幸いにして俺の携帯端末が生きていた。

 小さな虫が飛んでくるのが難点だが、人工の光は松明の炎より力強い。


 なお、携帯端末は温州がぽちぽちと操作していたが、ネットワークにアクセスできないのはローミングや技術的な問題ではなく単に電波の問題らしい。

 空が見えるのに電波が通じないなんておかしくないですか? と彼女は笑っていた。


 そう。温州はよく笑う。

 笑うというか、表情筋を意図して緩めている。

 葉を集める時は真剣な表情をしているのだが、俺やナタネに向ける表情はいつも柔らかい。


「動物がいないなら安心ですね」


 芭蕉らしき葉を抱え、温州は靴裏をぺしぺしと木の幹にこすりつけた。


「毛虫がいるかも知れねえよ?」


「毛虫」


「あとムカデとか」


「ムカデ……」


 抱えた葉の束を見た温州はぶるりと身を震わせる。


 携帯のライトに照らされた脚は程良く肉がついており、涎を誘った。

 それこそ食い物のように見える。


「戻ったら木とか葉っぱはまず洗おう。肌を刺されるかも知れねえし、花粉にかぶれるかも知れねえ」


 俺はできるだけ長い枝をせっせと回収していく。

 枝は硬いのも軟らかいのもあるが、どちらにも利用価値がある。


 それに蔓だ。

 斧を作るにしても服を縛るにしても蔓は不可欠だ。

 太さにもよりけりだが、樹木に絡むタイプの蔓は皮が厚く、まずちぎれない。

 妙にべとべとした液が滲むのが難点だが、きつく結べばまずほどけない。

 民家の近くで見つかる蔓は加工しやすいがやや脆い。

 斧を作るのに使っていたが、蔓自体を厳選しなければ実戦に耐える武器にはならない。あっという間にほどけてしまう。


 そんな講釈を垂れながら暗い森を徘徊する。

 温州はほどほどに相槌を打ちつつ、手をしっかりと動かして葉を集めていた。


「家なんて大層なこと言ったけどさ、要はテントだよ」


「テント?」


「そう。骨組みを立てて、蔓で結んで、皮を被せる」


「なるほど」


 んー、と温州が足を止める。


「どした?」


「……おじさん、枝と蔓貰いますね」


 手近な岩に座り込んだ温州はかちゃかちゃと枝を束ね始める。

 たった今毛虫やムカデの話をしたばかりだというのに大した度胸だ。


(お)


 俺が何気なく腰かけた石は温州の向かいにあった。

 つまり、白い下着が丸見えだった。


(……この角度はまずいな)


 温州は真剣な表情でせっせと枝を組み合わせていた。

 身じろぎする度に揺れるのは黒髪だけじゃない。たわわな乳房もその存在を誇示している。


 下半身に熱い血が巡る。

 この感じは非常に――――まずい。


「えっ? もお、おじさん?」


 ふっとライトを消すと温州がふざけ半分で抗議の声を上げる。


「手元が見えませんよぉ」


「はは。悪い」


 パンツが見えなくなったことで俺は幾らか頭を冷やす。


(冗談じゃねえ。落ち着けよおっさん)


 この状況で温州を襲うだなんて畜生だ。

 彼女は俺が護るべき相手であって、手を出していい相手じゃない。


 でも買春しに来たんだろう、と意地悪な俺が頭の片隅で囁く。

 助けたお礼に一発ヤらせろと言ってもバチは当たらないんじゃねえの、と。


(黙ってろ)


「あ、でも慣れたら結構明るいですね」


 温州は間延びした声でそう呟く。

 彼女に倣って空を仰げば深い黒の空に点々と星が見えていた。

 ――――何だか、日本にいた頃より空が近くに感じる。


 手を伸ばせば届きそうだ。

 実際にやろうとして、思いとどまる。

 今時分、詩人だってこんなロマンチックなことはやらないだろう。 


「できた!」


 折り紙のパーツで多面体を作るようにして、温州は一つの作品を作り上げていた。


「じゃーん! カゴです!」


「おおっ!」


 俺は思わず歓声を上げる。

 それは放射状にセットした枝を蔓で縛り、底に厚めの葉を数枚敷いただけの原始的なカゴだった。

 原始的だが、俺には思いつかなかった。


「こうすれば実とか葉っぱとか、たくさん運べますよね?」


 ほお、と感心しながら俺はカゴの耐久性をチェックする。

 悪くない。うまくすれば一度に多量の物品を運ぶことができるだろう。


「女ってすげえなあ」


「ふふ~ん。こういうのは得意なんです」


 思わず口に出してしまった言葉を拾い、温州が胸を張る。


「……お。虫だ」


「ヒィっ!?」


 中指ほどもある青虫をつまみ、手の平に置いた。

 見えづらいがしっかりとした脚が付いており、やや粘つくようにして俺の手を這う。


「食えるかな」


「と、鳥の餌とかになりませんかね?」


「んー……鳥って賢い気がするんだよな」


「じゃあ魚?」


「海はなぁ……」 


 釣竿垂らしたらマトゥアハの影が忍び寄ってきた、なんてことになるかも知れない。


「針はあるんだよ。貝殻から作った奴が。だから――――」


「あ、じゃあナタネちゃんの服を縫ってあげられますね」


「! そんなことできるのか」


 はい、と温州は以前見つけたゴボウの蔓をびいいっと引っ張った。

 インゲンマメの筋を抜くようにして細い繊維が剥がれる。


「それを糸にするのか」


「できそうじゃないですか? 繕い物、祖母に結構仕込まれてるので」


 ううむ、と俺は唸る。

 男が素材を集め、女がそれを加工する。

 原始的な役割分担が意外と理に適っていることを改めて思い知った。




 俺の驚きは『家』が完成してからも続いた。


「パーフェクトっっ!!」


「perfect!!」


 ぱん、とハイタッチした二人の少女が手に手を取ってフォークダンスのように小躍りする。


 土台は俺が民宿で集めた形の良い瓦礫と民家の木材だ。

 これらを磐座のようにつなぎ合わせてベッドの下地を作り、そこに軟らかい枝を敷く。

 屋根は硬い枝の骨組みに芭蕉の葉を重ねたもので、雀を捕える罠のように一本木で支えられていた。

 日中は濡れたり汚れた衣服を干すのにも使えるだろう。


 造りはシンプルだが花を連ねた暖簾が嬉しい。

 ほつれたナタネの衣服には温州が花びらを縫い付けてやっていた。

 わああ、と目を輝かせるナタネはジンジャーと共にきゃっきゃとはしゃぐ。


(若い女ってすげえなあ)


 空は白み始めていた。

 朝露を集めるには少し早いので仮眠を取ることにしよう。


 よいしょと寝台に横になる。

 ホテルのベッドには程遠いが、香りの良い花弁が散らしてあり、心が休まった。


「もう寝ます?」


 もそもそと温州が四つん這いで近寄ってくる。

 谷間が見えるほど露出した胸に慌てて目を逸らした。

 恥ずかしいわけじゃない。正視したら襲いかねないからだ。


「ちょい寝ようや。やっぱり動くのは昼がいいからな」


 ナタネが温州にくっつき、ハムスターのように丸くなった。

 その温州は俺の腹に背を預け、反対側ではジンジャーが俺にくっつく。


「おいおい。暑いだろ」


「涼しいですよ。ねー?」


「ネー?」


 ふふ、ふふふ、と二人の少女はくすぐり合うようにして笑う。

 ふっと口元を緩めた俺は葉の隙間から夜空を見上げていた。


(星、綺麗だな……)


 ざざあ、ざざああ、と少し離れた北の海岸から潮騒が聞こえる。

 いつしか俺たちは眠りに落ちていた。


 夢も見ないほど深い眠りだった。






 結局、目が覚めたのは昼下がりのことだった。


 俺たちは蒸留装置から真水を集め、海水を慎重に薄めて飲んだ。

 赤目のヒレはシートとしては非常に優秀で、こいつのお陰で緑目の襲撃で失った分の水は補填できた。

 温州の発案で黒い実の汁を混ぜた水は塩辛くも甘く、スポーツドリンクのように感じられる。


 ナタネ、ジンジャー、温州を伴った俺は以前より行動範囲を広げた。

 食糧、道具、情報。何でもいいから手札を増やしておきたかったのだ。


 結果、俺たちは驚くべきものを発見した。


「バナナじゃないですかあれ!」


 そう。

 温州が見つけたのと似た大きな葉を回収する内に、俺たちはよく見知った形状の果実を発見していたのだ。

 形状はタンポポの花のようだが、花弁の一つ一つが緑色の房になっている。

 形はやや丸っこく、それに平べったかった。

 生っている草木の背も低かったので、俺たちは多くのバナナらしき果実を持ち帰ることに成功した。


 もちろん口にするのは耳かき一つ分だ。

 俺は念のため石柱の火で白い実を炙り、それから少しだけ齧ることにした。

 味は市販のバナナに比べてかなり薄い。

 半日経って俺が腹を下さなければ、今夜はバナナパーティーができるだろう。


 これでバナナが食糧として期待できるようになったら、後は戦いの準備を整えるだけだ。

 俺の胸中には希望の火が灯っていた。


(余裕があるぞ今回は……!)


 赤目を斃してから半日ほどの時間が経過しようとしている。

 だが前回と違い、水と食糧をある程度集めることができた。

 それは「地獄のサバイバル」が「極限のサバイバル」に変わる程度の差でしかなかったが、心持ちはずいぶん楽だ。


 明るく気立ての良い温州の存在も大きい。

 彼女が笑うとナタネがよく笑う。

 ナタネが笑うと俺やジンジャーにも活力が漲る。

 陳腐な喩えだが、笑顔は酒にも勝る百薬の長だ。

 痛みにも、脱水症状にも、孤独にも効く。




 残された時間はあと二日半。


 水、少々。

 食料、少々。

 武器、少々。

 作戦、これから。


 仲間、あり。


 心持



 ――――『緑目』が現れた。


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