第10話 神酒の海

 


 まず思ったのは。

 ――――「パニくるな」だ。



 最初に気づいたのはジンジャーだった。

 それからナタネ。

 温州。

 仮眠を取っていた俺。


「ジューグ! グリーンアイ! グリンナイ!!」


 英語のさっぱり分からない俺だが、恐慌を来たしたナタネの顔を見れば何が起きたのかぐらい察しがつく。

 ジンジャーは低い唸り声を発しており、温州は黒目の骨を切り出した槍を手にしていた。


「おじさん」


 蜜輪温州(みつわうんしゅう)は穏やかに、しかし厳然と告げる。


「緑目が出ました」


「……おう」


 何でもないことだ。

 これは「何でもないこと」。


 のそりと磐座から身を起こした俺は伸びをする。

 急かすかのようにナタネがぐいぐいと腕を引いた。


「まあ待てナタネ」


(落ち着けよおっさん。お前が取り乱したら終わりだからな)


 嘘か本当か知らないが、客室乗務員は墜落する飛行機の中でも平静を保つよう訓練されるという。

 俺も同じだ。彼女達に見えるところで取り乱してはならない。


 どっしりと構えなければならない。


「ナタネ。スリーデイズ?」


「ノゥ! ノゥ!」


(だよな)


 緑目と別れてからまだ二十四時間と経っていない。いくら何でも早すぎる。

 もちろんナタネはマトゥアハの全てを知っているわけではないだろう。

 二体もの仲間を殺されたことで緑目もなりふり構っていられなくなった、と考えることもできる。

 だが、だったらなぜ午後の海岸に現れるのか。

 昨日のように夜中に襲撃すればいい。


(何企んでやがる)


 俺たちの野営地は北の海岸を一望できる大樹の陰だ。

 そっと顔を出す。


 ――――居る。


 太陽の下で目視したマトゥアハの姿は怪獣そのものだった。

 白いサンゴの殻を背負い、球体に波刃剣を継ぎ足したかのようなフォルムの鋏を構え、奴は波打ち際に鎮座していた。

 実にどっしりと構えていやがる。


(……)


 じっ、とモスグリーンの巨躯を観察する。

 動く気配は無い。

 口から泡を吹いている様子もない。

 ぎょろりとした人間の眼球は虚空を見つめたまま微動だにしない。


(……)


 十分。

 二十分。


 四十分が過ぎたところで異変に気付いた。


(動かない……?)


 緑目のマトゥアハは一切の動きを見せなかった。

 奴の目と鼻の先には俺達の設置した蒸留装置がある。さすがに襲撃の翌日に襲われることはないだろうと放置したものだ。

 だがそれらにすら注意を払わない。


 巨大ヤドカリは死んでしまったかのように体躯の半分ほどを海に沈めている。

 触角のような器官が時折ぴくりと動いているので生きていることは間違いない。

 なら奴は何をしているのか。


「ナタネ? ――――、――――」


「――――! ……――――!」


 二人が英語で何事かやり取りしている。

 俺はその間も奴から視線を逸らさない。乾いた唇をじわりと舌で湿らせる。


「おじさん」


「おう」


「人を襲わない間、マトゥアハは眠っているそうですよ」


「眠ってる?」


「体が大きいからエネルギーを節約してるんじゃないですか?」


 なるほど、と膝を打った。

 確かにあの巨体を動かすには膨大なエネルギーが必要となる。

 差し当たって目的がないのであればじっとしているに越したことはない。


「だったら何で巣に帰らないんだ」


「分かりません」


 憶測を述べず、温州は短く応じた。


「行ってみます?」


「行くって……あいつのところにか」


 俺はぎょっとしたが、温州は既に槍を肩に乗せていた。

 その流麗な手さばきに目を奪われる。もしかすると武道の心得でもあるのかも知れない。

 ――――だが。


「……今やり合っても勝てねえ」


「分かってます。でもあそこには水がありますよね」


 少女はバナナの葉を額に当て、蔓でそれを結ぶ。

 どうやら鉢巻のつもりらしい。


 すらりと白い指が髪へと動き、ポニーテールにしていた黒髪をほどく。

 そしてまた縛る。それまでよりずっときつく。


「取りに行かないと」


「……」


 その通り。

 真水は絶対に必要だ。

 それに炎も。


 幸いにして波打ち際から石柱地帯、蒸留装置群までは結構な距離がある。

 奴が動き出せばこっちは必ず気づけるし、その気になれば走って森の中へ逃げ込むこともできるだろう。


「分かった。行こう」


 ただし慎重に。

 くれぐれも、慎重に。



 だが予想に反し、奴は俺達を襲って来なかった。



 ドラゴンの護る財宝に近づくようにして恐る恐る近づき、緑目の方へ物を投げ、撤退。

 また少し近づいて物を投げ、撤退。


 それを数度繰り返し、俺たちは蒸留装置を撤収させることに成功した。

 炎も小分けにして運びたかったが、夜になればそれは目印になってしまう。


「おじさん」


 槍を背負った温州が駆けて来る。

 ナタネと温州が装置を片付ける間、俺とジンジャーは緑目をじっと睨んだままだった。


「全部回収しました。一滴もこぼしてないですよ」


「上等だ」


 ぐるる、とジンジャーも息を吐いた。


 さて、と俺は緑目を見つめる。

 彼我の距離は数十メートルほどだ。

 海に沈んでいく夕陽をバックに、マトゥアハは淀んだ目で虚空を見つめている。


 先ほどからずっとあの調子だ。

 間違いない。あいつは――――


「……温州」


「はい」


「あの野郎、寝てやがる」






 それはあまりにも虚しい事実だった。


 緑目は眠っている。

 眠っているのだ。

 瞼が無いせいで分かりづらいが、奴は魚と同じように目を開けたまま眠るらしい。


 ざざあ、と波が巨大な殻を洗う。

 潮が満ちているのか、それとも今まで引いていたのか。

 少しずつ奴の巨体が冷たい海に浸かっていく。


「何で巣に帰らないんでしょうね」


 温州は鋭くしていた声音を和らげ、糖蜜のような声で呟く。


「分からねえ」


 敵前逃亡をしたから巣穴を追い出された、なんてことはあるまい。

 奴は自らの意思で俺たちの前に姿を現したのだろう。

 問題はその理由だ。


「夜になったら襲ってくる……ってことですか?」


「だったら夜に出てくればいい」


「ですよね。じゃあ私たちの動きを見張ってる、とか?」


「俺もそう思ってた」


 黒目も赤目もこの「北の海岸」に姿を現した。

 緑目もおそらくそうするのだろうし、まだ見ぬ最後のマトゥアハも同じようにこの海岸に姿を見せる。

 赤目に備え、俺はいくつかの道具を用意していた。

 そのほとんどが俺の無力をアピールするためのガラクタだったが、決定打になりうる品も一つだけ仕込んでおいた。そしてそれは完全に役割を果たした。


 緑目はおそらくこう考えている。

 あのおっさんは次も必ず罠を張る、と。

 それを監視する為、海岸に現れたのだ。

 ただし丸腰で。


「舐められたもんだな」


「ですね」


 俺は骨の棍棒を肩に担ぎ、手近な貝殻をぽいと宙へ放る。

 ――――フルスイング。


 かああん、と放物線を描いた貝殻が結構な飛距離を記録しながら奴の近くに落ちる。

 からから、という音に奴はまったく反応しなかった。

 時折風に揺れる触角はまるで奴の呼吸に合わせて上下しているかのようだ。


「……」


 巨大なサンゴの鎧。甲殻の剣と盾。

 緑目のマトゥアハは確信しているのだ。今の俺達が奴を傷つける手段を持たないことを。

 だからこそ堂々と海岸に居座ることができる。

 これから二日と半日、奴はあの場所で寝起きするつもりなのだろう。


 罠を張らせない為に敵地のど真ん中で眠る。


(何てふてぶてしい野郎だ……!!)


 呆れと怒りがこみ上げる。


「おじさん。あのヤドカリ、どうにもならないんですか?」


 温州は冷ややかな目で巨体を見やっている。

 ジンジャーも低く唸り、ひどく不機嫌そうだ。


 緑目は極めて具合の悪い場所に居座っている。

 俺達が近づいて攻撃を仕掛けた場合、それが些細な一撃であれば鋏の一振りで追い払われ、効果的な一撃であれば海へ逃げられてしまうだろう。

 攻撃するメリットはゼロだ。

 少なくとも今は。


「……方法は、ある」


「! あるんですか?」


「ああ。一応な」


 奴の身体構造には黒目や赤目とは決定的に異なる点がある。そこにつけ込めば勝機はある。

 だがその為には準備が必要なのだ。周到な準備が。


(先手を打たれちまった、ってことか)


 奴が間違いなく通過するポイントである海岸に罠を張ることは最早叶わない。

 おそらく奴自身、己の身体構造の欠陥には気づいているのだろう。


(せいぜい余裕かましてろよ。必ず仕留めてやるからな……)


 悔しさに苛まれつつも俺たちは後ずさり、海岸を去った。




 緑目は夜になっても波打ち際に鎮座したままだった。




 小さな穴から光が差し込むようにして夜の海を月光が照らしている。

 夏の月明かりはどことなくおぼろげだったが、巨大なヤドカリのシルエットはくっきりと宵闇に浮かび上がっている。


「……」


 巨岩からそっと身を引く。

 奴の視力がどの程度のものであるのかは分からない。

 だが今のところ奴の眼球はぴくりとも動いていない。俺たちの居所を捕捉している様子もない。


「動き、ないです?」


 仮眠を終えた温州が歩み寄ってくる。

 無いな、と答えて、おはよう、と続ける。


「ナタネは?」


「ぐっすりです。やっぱり子供は夜眠くなるんですね」


 そっか、と黒目の骨を研ぐ手を止める。

 立ち上がると腰の辺りからぱらぱらと骨粉が零れた。

 ううん、と背を反らすと強張った筋肉の伸びる快感が走る。


「ちょっと寝るわ。しばらく頼む」


「はい」


 俺と入れ替わりに腰かける温州から、むわりと濃く青苦い香りが漂う。

 思わずふらついた俺は巨岩に手をつき、疑問をこぼす。


「ドクダミでも生えてたのか?」


「分かります?」


「臭いからな」


 えええ、と温州はやや大げさに驚いて見せた。


「おじさんの方が臭いですよ?」


「そ、うか? ……いや、そりゃそうだな。風呂入ってないし」


「ちょっと座ってください」


 緑目の方を見やりつつ腰を下ろすと、宵闇の中で温州が手を伸ばした。

 わしわしと薄い黒髪をかき乱される。


「髪とかベタベタじゃないですか、ほら」


「やめろよ。残り少ないんだから」


 頭皮をマッサージされるようで心地よく、俺は温州の為すがままに任せた。


「洗いましょうよ」


「塩水で体を洗えるか。焼けてるからあっちこっちひりひりするんだよ」


「……やっぱり、焼けちゃいます?」


「焼けるぞ。ナタネも初めて会った時より黒くなってる」


 うひい、と温州は軽くのけ反った。

 岩陰から飛び出しそうになっていたので慌てて手首を掴んで引き戻す。

 華奢な手首だった。


(帰ったらうまいもの食わせてやらないとな)


 そんなことを思い、自嘲する。

 帰れるかどうかも怪しい状況で何の心配をしてるんだ、と。

 考えるべきは緑目を殺すことだけだ。それ以外のことなんてすべて終わってから考えればいい。

 今この状況において生き延びることより重要な考えなんてないはずだ。


(しっかりしろ、おっさん)


 集中力が切れかけているのかも知れない。良くない兆候だ。

 良くない兆候だが、それが人間であるということなのだろう、とも思う。

 生きる為に生きることは難しい。


「おじさん?」


 瞼の上から目を揉みながら、何だよ、と応じる。


「今更なんですけど、どうしてここに来たんです?」


「旅行だ」


 俺は努めて冷静に答えた。

 内心ではとうとう来たか、という諦念にも近い感情が渦巻く。


「荷物も無いのに?」


「……まあ、半日ぐらいでホテルに戻る予定だったからな」


 ふうん、と温州が足を引き寄せ、膝を抱えた。

 暗闇の中でも白く肉付きの良い脚が俺の視線を引き寄せる。


「それで、ナタネちゃんに会って?」


「あ、ああ。ナタネはあの黒いデカイのに捕まっててな。俺が――――」


 闇の中、温州が薄笑みを浮かべたのが分かる。


「私とナタネちゃんの「しゃぶしゃぶ」、どっちが気持ち良かったです?」


 ぶおっと唾液が霧となって飛んだ。

 やばい貴重な水分が、と危うく手を伸ばしかけてしまう。


「な、何だよしゃぶしゃぶって」


 ぬうう、とネコ科哺乳動物を思わせる仕草で俺に近づき、温州は囁いた。


「フェ、ラ」


「うっ」


 闇に浮かぶ温州の表情に淫靡な色が混じる。

 日本人形のように切り揃えた黒髪。昼間見せた女武者のような立ち居振る舞い。

 それらとあまりにもかけ離れた甘い声と言葉にぞくりと背が震える。


 今すぐにでも覆い被さりたくなる気持ちを押さえ、どうにか言葉を絞り出す。


「お前らあの時、意識あったのか?」


「ぼや~っとありました。夢の中みたいな感じ?」


「……。お前、まさかその話……」


「しましたよ。ナタネちゃん、顔真っ赤にしてました」


 何もかも投げ捨て、地面に身を叩き付けてしまいたかった。


「『ジューグが私を変な目で見てるから怖いよぉ』って」


「!! そっ、そんなことナタネが言――――」


「しーっ!! しーっ!! 起きちゃいますって!!」


 声を上げようとした俺の唇に温州の指が当てられる。

 ナタネとジンジャーは少し離れた場所で互いに身を寄せ合って眠っているところだった。

 さすがに犬の方はぴくんと耳を動かしていたが、ナタネは穏やかな呼吸を繰り返している。


 しばし、沈黙があった。


(嘘だろ……)


 天地神明に誓ってもいいが、この数日間、俺はナタネに劣情を覚えることなど一度もなかった。

 なのに当の本人は俺にそんな目で見られていると思っていたのか。

 失意の中、どっくん、どっくん、と心臓だけがやけにうるさかった。


 ややあって、温州が俺の唇からそっと指を離した。


「ぷっ。あはははっ!」


 少女は我慢の限界とばかりに笑い声を上げた。


「冗談ですよ! もう!」


 ぺしいん、と肩を叩かれる。


「ナタネちゃんは覚えてないみたいだから、おじさんに変なことされた?って聞いたら、ジューグはそんなことしない!って」


「お、前なぁ……」


 冗談にしても刺激が強すぎる。

 ほっと胸を撫で下ろしたところに毒蜜のような言葉が滑り込んだ。


「でもおじさん、私のことばっかり見てましたよね?」


 安堵したところにこの衝撃だ。隠し通せるわけがない。

 ぎくりと肩を震わせると温州の言葉が絡みつく。


「すぐ休憩して座り込んで隠そうとしてしましたよね~?」


 少女はくすくすと意地悪な笑みを漏らす。

 一方の俺は図星を指されたことで恐縮していた。


 彼女の言う通り、今日の俺はずいぶんと注意散漫だった。

 もちろん緑目の監視には全神経を使っていたが、それ以外の作業や移動の際、気が散るばかりで一向にサバイバルが捗らなかった。

 それと言うのもこいつが悪い。

 いや、様々な要因が折り重なることで俺の性欲を異常なまでに昂ぶらせていた。


 売春島への自殺ツアーを計画して以来、俺は日本で禁欲生活を続けていた。

 更にここへ来てからは初日の一度しか射精しておらず、命を脅かされる事態に直面し続けてきた。

 この時点で精嚢には凄まじい繁殖欲を滾らせた子種が溜まっていたのだが、俺の理性はかろうじてこれを押しとどめていた。

 幼いナタネと二人で真水を探り、食糧を探り、恐るべきマトゥアハの襲撃に備える。

 賭けてもいい。このレベルの極限状態が続いていれば俺は決して邪な感情など抱かなかっただろう。


 だが状況が変わった。

 温州を救い出したことで俺達はより効率的に資源を回収することができるようになった。

 蒸留装置は以前よりスムーズに組み立てることができたし、赤目のヒレでより多くの真水を集めることもできた。


 極めつけはあのバナナだ。

 今のところ俺の腹具合は良好なので、あの平べったいバナナは少なくとも火で炙れば食糧にすることができる。

 依然としてマトゥアハの脅威は残っているものの、水が足り、食い物が足りた。そして寝床も足り、衣服すらも足りようとしている。


 生存を担保された俺の肉体は性欲を思い出していた。

 そこへ来てスカートをひらひらさせた生足の女子高生が俺の周りをうろうろするのだ。

 猛烈な性欲は俺の下半身を常時昂ぶらせ、彼女を直視するだけで視線は自然と尻や脚へと滑った。


「集中してくれないと困るんですけどね~」


 俺の背後へと回った温州が、ことんと肩に顎を乗せる。

 あまりにも無造作に近づかれ、俺は拒むことも押しとどめることもできなかった。


「……」


「あーあ。おじさんかわいそうだな~」


 温州はわざとらしく耳元で囁いた。


「すごーく一人えっちしたいのに、私とナタネちゃんが起きてるからできなくて……かわいそうだナ~」


「ぅ」


「おじさんが集中してくれないと私もナタネちゃんも困るんだけどな~」


 ぽてん、こてん、と温州は俺の肩に顎を乗せたまま左右に髪を揺らす。

 すっかり汗ばんでいるというのに、黒髪の隙間からはまだ甘い香りが滲んでいる。


 むくむくと盛り上がる怒張を抑えることもできず、俺はハーフパンツを膨らむに任せた。


「おじさんの力になりたいな~」


 どっくん、と心臓が跳ねる。

 俺は顔を伏せ、よくよく言葉の意味を咀嚼した。


 幸いにして俺は女に騙されたことはない。

 騙すに値するほどの金や能力、容姿を持っていなかったからだろう。

 だがこうやって男を誑かすタイプの女がいることはよく知っている。

 悪意と自覚があるならまだマシな方で、「私はそんなつもりはない」と平然と言ってのける奴だっている。

 既婚者の男と仕事中にベタベタしている彼氏持ちの女を見咎めた時、そいつの口から出て来たのがそんな言葉だった。

 悪い噂が立っていると言えば「人間関係を調整しているのに腹が立つ」だのと逆上するくせに、俺には「○○さんと最近いい仲になってますね」だなんてほざく。

 思い出しただけでムカムカした。


 だが温州はナタネの前で自分がどう振る舞うべきかを知っている。自己認識の甘い女じゃない。

 この場で俺を翻弄することになんて何の意味もないことぐらい分かっているだろう。

 ――――と、いうことは。


「……蜜輪さん」


「何ですか?」


「恥を忍んでお願いが」 


 くすくす、と分かり切った問いに先回りして温州が耳元で意地悪な笑いをこぼす。


「一回10000円でーす」


「!」


 オカズになってくださいお願いします、という言葉をごっくんと飲み込む。


「え、え」


「一万円でーす」


「一万円でどの辺りまで……」


「んー……」


 温州は少し考え込んでいたが、そっと告げる。


「手ならOK」


「手で一万円ですかい」


「深夜料金ですから」


 ちくしょう昼に頼んでおけば良かった、と心中独り言つ。

 と言うかこの子――――


「温州」


「お値引きはできませんねぇ」


「いやそうじゃなくて。もしかして経験ある人?」


「ありありです」


「二十人超えてる?」


「んー……七人ぐらい」


 おお、と俺は思いがけない幸運に涙ぐむ。

 そこそこセックスに慣れた女子高生。まさに俺が探し求めていたものだ。

 俺に言わせれば経験人数七人なんて素人だ。


 ふと、彼女が初めて俺を見て発した言葉を思い出す。

 俺を見て彼女は「お金持ちだとは知らなかった」とか、シャワーがどうとか野外がどうとか言っていた。


「援交か?」


「経済を学ぶための社会学習です。アメリカの小学生が夏休みにレモネードを作って売るのと同じです」


 にっこりと温州は微笑んだ。

 大和撫子然とした少女が援助交際をしているとは世も末だ。


「いいとこのお嬢様なんだろ?」


「……汚れるのが好きなんですよ」 


 ふっと皮肉っぽい笑みが浮かぶ。

 十数年しか生きていない子供にしてはずいぶんと達観した表情だった。


 十数年。

 厭世的になるには十分すぎるほどの歳月だ。

 彼女は彼女で何か苦いものを抱えているのだろう。


 ふと、説教をしたい衝動に駆られる。

 正しい事をしなさい、善なる振る舞いをしなさい、と。

 二十歳を過ぎた頃から続く悪い癖だ。

 悩みを聞いてやるのもいいかも知れない。

 親のこと、進路のこと、夢のこと。これぐらいの年の子は絶えず将来への不安に纏わりつかれているはずだ。

 無関係の俺に洗いざらいぶちまけることで少しぐらい気を楽に――――


(……やめだ。やめ)


 俺はゆるく頭を振る。

 正しさを説けるほど俺は立派な大人じゃない。

 それに正しさで救われるものなんてほんのひと握りだろう。


 俺は努めてふざけた声を作る。


「セットメニューとかありませんかね温州さん」


「例えば?」


「手とキスセットとか、手と胸セットとか」


「そこまで来ると七万円ぐらいですかねぇ」


「高ぇよ!」


「当たり前じゃないですか。鏡見てくださいよ」


 けたけたと温州は無邪気に笑った。

 ふっと俺も頬を緩める。

 ――――緩めている間も、決して緑目からは視線を逸らさなかった。


「ちなみに全部乗せはおいくら?」


「三十万円です」


「おお……今まで寝た男もそれぐらいだったのか?」


「本日はゴム無し特別価格ですから」


 三十万円か。さすがに足りないな。


「お口とキスと胸揉みでおいくら?」


「十二万円です」


「じゃあ十二万円コースで」


「お買い上げ、ありがとうございまぁ~す」


 コンビニ店員を思わせる楽しげな口調で温州はそう囁き、俺の首筋にちゅっと口づけた。

 口を離す寸前、頸動脈付近で静かに続ける。


「大サービスですから。これでシャキっとしてくださいね」


「……悪い。気が乗らなくなったら言ってくれ。一人でヌくから」


「人生最後のえっちが右手とでいいんですか?」


「強姦よりマシだ」


 ふふ、と温州は小さく笑う。


「十一万九千円にサービスしてあげます」




 俺は舌の上で角砂糖を楽しむようにして彼女の味を堪能する。

 堪能しながら、あっという間に昇り詰めた。


「ちょっと早いんじゃないですか?」


「温州が巧いんだよ」


 ちう、と唇を甘噛みし合う。


「でしょ? ふふ」


 温州は俺の首に腕を巻き付け、先ほどよりも情熱的に口づける。

 味蕾の一つ一つまでもをこすり付けるようなディープキスの後、つうっと唾液の橋を渡す。


 真っ赤な目をした温州が、ごくりと見せつけるように唾液を飲んだ。

 ――――真っ赤な目をした温州。


「……おい待て」


「ふぇ?」


「目、どうした」


 俺はその時初めて温州の目を見ていた。

 驚くほど真っ赤に充血しており、黒ずんだ隈まで出来ている。


「ちょっと見せろ」


 ぐりん、と眼科医のように瞼の裏を見る。

 病気なら手の打ちようがないが、虫刺されや草にかぶれたのなら貴重な真水を消費してでも洗った方がいい。


「だ、大丈夫ですよ。ちょっと寝てないだけですから」


「寝てない? 朝は?」


 ええと、と温州は気まずそうに口ごもる。


「朝も寝てないのか? お前、昨日まで赤目に捕まってたんだぞ?」


「捕まってる間、ずっと寝てたから大丈夫ですよ」


「ベッドでゆっくり寝てたわけじゃないんだぞ。イカの頭の中に詰め込まれて失神してたんだ。疲れが溜まってるに決まってるだろ」


 俺がやや語調を荒げると温州は遠慮するような笑みを浮かべた。


「だ、大丈夫ですって」


「何がだよ」


「私、三日ぐらい寝ずに学校行って、そのままお茶のお稽古に出たこともあるから」


「あのなぁ」


 だはあ、と濁った呆れの溜息を漏らす。

 しっかりしていると思ったが、こういうところで意地を張られても困る。


「……スイッチ」


「ん?」


「寝たらスイッチ、切れる気がするんです」


 見れば温州は。

 震えながら笑っていた。 


「あんな……あんな化け物に勝てるわけ、ないじゃないですか」


「……」


「おじさん、警察官でも自衛隊でもないんでしょ? 武道の心得もないって分かりますし、すぐ息切れしてるじゃないですか……!」 


 温州の頬が引き攣ったようにぴくぴくと動く。

 まばたきの回数は多く、呼吸もスキップか何かのように長短まばらなものへと変わっている。


 彼女は平常心を保ってなどいなかった。

 表面張力の限界まで水の張ったビーカーのように、ぎりぎりのところで理性を保たせていたのだ。

 もしかすると先ほどまでの軽妙な態度はある種の躁状態だったのかも知れない。

 ひどく興奮した様子で彼女はまくし立てる。


「あ、あんな……あんなサーベルみたいなもの振り回すカニ、どうしろって言うんですか……!」


「温州」


「寝たらダメなんです……! 寝て起きたらアレが目の前にいるかも知れないじゃないですか!」


「温州」


 ほとんど反射的に彼女の身体を引き寄せ、ぎゅっと抱きしめる。

 言葉だけで泣く子を宥めることができたら良かったのだが、残念ながら俺に子育ての経験は無い。


 肉はついていたが、小さな肩だった。


「大丈夫。大丈夫だ」


 ううっ、と一声呻き、温州が静かに涙をこぼし始める。

 その涙を掬うことはしなかった。拭うこともしなかった。泣きたい時は泣けばいい。


 俺の臭い胸に押し付けられ、温州は恐る恐る俺に抱き付く。


「……勝ち目はな、ある」


「そんな嘘言ってはげ、励ましてる、つもりですか」


 ハゲで単語を切るな――――じゃない。


「あいつ脚があるだろ」


「うん」


 ぐしゅ、と少女がしゃくり上げた。

 嗚咽を噛み殺し、不器用な呼吸を繰り返す。


「今までの奴らとは違う。緑目は脚で体重を支えてる」


「……」


 黒目や赤目は筋肉やヒレで海岸を移動していた。

 翻って緑目は多脚で器用に地面を蹴り、俊敏な動きで陸を移動することができる。

 裏を返せば――――


「脚を潰せば動きを止められる。あいつは無敵なんかじゃねえ」


 その言葉がどこまで彼女に届いたのかは分からない。

 もしかすると俺はもっと優しい言葉で慰めてやるべきだったのか。それとも苦しい気持ちを吐き出せてやる努力をするべきだったのか。

 そんなことを考えながら十数分が経過し、ようやく温州は嗚咽を止めた。


「……私、家に……帰れます?」


「当たり前だ」


 後頭部のラインに沿って手を這わせる。


「あいつは倒せる相手だ。お前は知らないかもしれないが、ジンジャーがあいつを一人で食い止めてた」


「ジンジャーが?」


「そうだ。俺と二人がかりならもっとうまくやれる。間違いなくな」


「……」


 だから、と俺は彼女の頭を胸に押し付ける。


「何も心配するな。……伊達に年食ってねえから」


 俺のついた唯一の嘘に温州は深く頷いた。

 すまんな、と心の中で彼女に詫びる。

 俺は穴の開いた鍋にも劣る、どうしようもない中年だ。

 だが今だけは、この子たちの庇護者であらねばならない。


 ――――すまん、ともう一度詫びる。





 しばらくの間、俺は温州を抱きすくめてやった。

 人間、何かに包まれると安心するものだ。たとえそれが醜い脂肪の塊であっても。


 ゆりかごのように体を揺らして彼女が眠るのを待ちながら、俺はじっと緑目を監視し続けた。


 二時間ほど眠った後で温州は用を足しに立った。

 戻って来た彼女は再びコアラのように俺の胸へ収まり、腰に脚を巻き付けた。


 そして抱き合ったままセックスをした。

 心だけが十年ほど若返った、粘つくような情交だった。




 三十万円が三回で九十万円。

 手持ちの金では足りない。そう告げると温州は「後払いでもいいですよ」と言ってくれた。


 支払いは日本に帰ってから。

 ――――踏み倒すことになるのが、心苦しかった。






 翌朝。

 緑目は相変わらず波打ち際にどっしりと構えていた。


 だが俺はそうも行かなかった。

 温州とセックスしたからではない。



 赤目の毒が今頃になって効き始めたからだ。


 

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