第8話 波の海

 


 ぱっつん少女が目を覚ましたのは赤目が絶命してから十数分後のことだった。



 俺は海水で赤目の触手と刺胞を洗い流し、貝殻海岸へ戻るところだった。

 まともに触手を食らった両腕の皮膚は赤く腫れているが、今のところ疼痛以外の症状は出ていない。

 読み通り、赤目の毒は生物に致命傷を与える類のものではなかったらしい。


 それにしても痒い。気を抜くとぼりぼりやってしまいそうになる。

 だがクラゲの刺胞は確か針・毒液・袋の三つで一セットになっている。

 患部を擦ったり掻いたりするのは厳禁だ。腕に残った毒液が噴き出すかも知れないし、針が飛び出すかも知れない。

 同様の理由で真水での洗浄も控えた方がいいと俺は考えた。

 海棲生物の体組織は浸透圧と切っても切れない関係にある。不用意に真水を浴びせて刺胞が拡縮したら厄介だ。


(大丈夫だろ。そこまで痛くはねえ)


 子供の頃、濡れたシダ植物の花粉にかぶれて顔が腫れたことがある。あれよりはだいぶ症状が軽い。

 火で少し炙って、腕に食い込んだ刺胞を焼いておこう。


 ざぶざぶと浅瀬から貝殻海岸へ戻った俺は念のため海を見やった。

 闇の向こうに巨大ヤドカリの姿は見えない。


(……野郎はもう来ないか)


 緑目のマトゥアハ。

 奴は呼吸さえ整えれば再び俺たちを襲うことができる。


 ぱちゃちゃ、とすぐ傍で足音。ジンジャーだ。

 彼は俺と同じことを考えていたのか、海の彼方へ目を凝らしていた。

 垂れた舌には粘ついた唾液が泡となっており、疲労の程が窺える。


「だいぶ派手にやったなぁ」


 犬歯に透明のゼリーがへばりついているのを認め、俺はそっとそれを剥がしてやった。

 マトゥアハの眼球を乾燥から護る器官だろう。

 ジンジャーの身体からは汗と微かな血の匂いが漂う。


 緑目のマトゥアハが戻ってきたら俺達はおそらく死ぬ。

 今の俺達に奴と戦うだけの力は残されていない。

 否、問題はそれだけではない。


(……どうやって潰すんだあんな野郎を)


 黒目や赤目と違い、緑目は陸上でも機敏に動くことができた。

 それに防具を身に着けている。胴体は巨大な白サンゴに、脚は岩のように硬い殻が覆っていた。

 まるでマクシミリアン式甲冑を着込んだ騎士だ。騎士様のご多分に漏れず、研ぎ澄まされた剣を持っている点も見逃せない。


 唯一露出している目玉を攻撃したジンジャーの判断は正しい。

 だが緑目は鋏を盾のように構えることができるし、眼球はこの通りゼリー状の膜に保護されている。

 目に見える弱点を叩いても緑目を斃すことはできない。


 もう一つ気がかりな点がある。

 身体能力(フィジカル)じゃなく、精神性(メンタル)の方だ。

 奴は俺達を――――


「ジューグ!」


 ナタネが慌てたように俺の名を呼んだ。

 ウェイカップウェイカップ言っているが、俺は振り返っただけで事態を察した。


 黒髪の少女が身を起こし、眠たそうに目を擦っているのだ。

 きょろきょろと辺りを見回す「ぱっつん」は不思議そうに小首を傾げていた。

 少々鈍い子なのかも知れない。


「ジンジャー。俺はあの子と少し話さなきゃならん」


 賢い白犬は尾を振っている。


「あいつが戻って来ないか注意しててくれ」


 わん、と忠犬が吠えた。






 目覚めた少女は俺の姿を認めるや、着衣を確かめていた。

 白い下着の透けた半袖カッターシャツ、カフェオレ色のスカート。靴はローファーだ。

 十中八九、女子高生だろう。


「えっと……お金持ちさん、だったんですね」


「?」


 脈絡の見えない言葉にいささか戸惑う。


「あの、ごめんなさい。お名前、覚えてないんです」


 日本人形のような黒髪。

 顔立ちはやや丸っこく、目がぱっちりとしている。

 纏う雰囲気はかなり柔らかい。人はプライベートスペースと外界とを隔てる膜を持っているものだが、彼女のそれは薄く、そして透けている。

 仮に女子高生がハンカチを落としていたとして、俺のような男は変質者扱いを恐れてうっかり声を掛けたりしないが、この子なら話は別だ。

 たぶん悪いようにはされないだろう。そんな確信を抱ける。


「外でするのは初めてなのでちょっとドキドキしますけど……あの、できれば一度シャワーを」


 彼女の声はとろみを帯びているかのように甘い。聞き惚れてしまいそうだ。


「待て待て」


 俺はよいしょと彼女の傍に座り、目を覗き込む。

 錯乱しているようには見えないが、長い眠りから目覚めた少女にしては妙な言葉を口にした。

 お金持ちさん。名前を覚えていない。シャワー。

 一体何の話だろうか。


「ここ、どこだか分かるか?」


 ざざあ、という夜の漣がBGMだった。


「……海?」


「そう、だな。間違ってない。じゃ、どこの海だ」


「どこって……。……」


 少女の視線が泳ぐ。

 記憶を探っているのだと分かったので、俺は黙って次の言葉を待った。


「……日本じゃ、ない?」


「××××だ」


 少女の目が驚きに見開かれ、「ぱっつん」の前髪が揺れた。


「△△△△△△じゃなくて?!」


 隣の国の名を出され、俺は怪訝に思う。


「そこに居たのか」


「はい。……うん、そうです。課外活動で」


 俺はあぐらをかいたまま天を仰いだ。

 課外活動で国を跨ぐのか、最近の子は。

 そう言えばかつて俺が通っていた進学校でも『特文系』なんて呼ばれるクラスの連中はカリキュラムが違っていた。

 奴らは夏の盛りに一か月もアメリカにホームステイしていた気がする。


「学校の先生は?」


「いや、私が聞きたいんです……けどっ!?」


 少女は石柱で丸焼きにされている赤目を見て飛び上がった。


「な、何ですかあのイカ?」


「あれに捕まってたんだよ、君は」


「何で? 私が美味しそうだからですか?」


 若干ズレた返答だ。

 聞くなら理由じゃなくて方法が先だろうに。


「さあな。ちょうど良い年齢だったとかだろ」


「私、イカに食べられるような場所にいた記憶は無いんですけど……」


「それはまあ、たぶん――――」


 ちらりとナタネを見る。

 彼女はどこかいたたまれないような表情を見せていた。


「……誰かが君を拉致して、あのデカイのに食わせたんだろうな」


 マトゥアハは捕えた人間を生かすことができる。

 だがそれにしたって限界があるだろう。

 弱り果てた疑似餌はおそらくマトゥアハの餌となり、新たな疑似餌が求められる。


 そこで海浜集落の連中の出番となる。奴らは適当な女を攫い、マトゥアハに捧げるのだ。

 今回彼らがターゲットにしたのは平和ボケした日本人三人と身内であるナタネ。

 そこに何らかの事情があったのかもしれないが、身内を売るとはなかなかの外道だ。


「ここ、もしかして島ですか? 家、帰れます……?」


「無理だ」


 一刀両断する。


「あのデカイのがあと二匹居る。海に出たら死ぬ」


「じゃあ……」


「俺がやる。心配するな」


 わん、と波打ち際のジンジャーが吠えた。


「ああ。そうだ。俺たちがやる。必ず家に帰してやる」


 先ほどまでの俺は全身に重油のような疲労が溜まっているのを感じていた。

 だが今は違う。

 それらには火が灯り、血液と共に全身を熱く駆け巡っている。


 俺は彼女達を帰さなければならない。

 この死の島から。

 例え何を犠牲にすることになっても。


「立てるか。名前は?」


 ひょいと立ち上がった少女の脚は艶めかしい。

 小枝みたいに手足の細い女子高生とは違い、正しく肉がついている。

 彼女は鬱陶しそうに靴下を脱ぎ去り、白いあんよをぷらぷらと振った。

 前かがみになった彼女の胸はなかなか見ごたえのあるものだった。不覚にも竿がいきり立つ。


「温州(うんしゅう)です」


「うんす……何だって?」


「蜜輪(みつわ)温州(うんしゅう)です。○○○附属の三年です」


 ああ、と俺は得心する。

 俺が住んでいた辺りではぶっちぎりの名門校だ。道理で礼儀正しいわけだ。


「うしゅー?」


 ナタネが首を傾げた。

 温州は身をかがめ、ナタネと目線を合わせる。


「うん、しゅう」


「うんしゅー?」


「そう。温州!」


 にっこりと温州が微笑む。

 子供をあやすという目的ありきの表情かも知れないが、その笑みは人を安心させる慈愛に満ちていた。

 ナタネの頬も自然と綻ぶ。俺には見せてくれたことのない顔だ。


「その子はナタネだ。あっちはジンジャー」


 わん、と白い犬が一声吠える。


「おじさんは?」


「おじさんでいい」


 さて何をすべきか、と座ったまま黙考する。

 まずは水か。その前に温州を休ませる場所を――――


「お~じさん」


「ん?」


 むにいいい、とべたつく頬を引っ張られる。

 温州は俺とも目の高さを合わせ、むすっとした顔をしていた。

 本気の怒りではなく、「私、怒ってます」とアピールするための顔だ。


「お・な・ま・え・は?」


「じゅ、従吾(じゅうご)だ」


「従吾おじさんですね?」


 にっこり。

 この非常時に自分より図体のでかい男を捕まえてこの振る舞い。

 可愛い奴だが、食えない奴でもあるらしい。


「もしかして……お水とか、ないんですか?」


 黒蜜のように濃く甘い声に微かな不安が滲んでいる。


「無い。水もメシも家も無い」


「分かりました。……。じゃあ作りましょう」


 温州は上腕二頭筋を見せつけるようなポーズをした。

 はは、と笑いがこぼれる。


「それは俺がやるよ。いいから休んでろ」


 既に夜更けだ。

 俺とナタネは午睡をしているから平気だが、温州は体力の消耗が著しいはず。

 力仕事は無理でも、明日から彼女には働いてもらわなければならない。

 それに眠りは記憶の淀みを整理してくれると聞く。

 未だ混乱しているであろう彼女の思考は一度眠りにつくべきだ。


「眠くないですもん」


「子供みたいなこと言うなよ」


「眠くないですもーん」


 温州は両手を腰に当て、尻を振る。

 何だその変なダンスは、と俺は思わず噴き出した。


「体、すごく軽いんです」


「痩せたせいだ。たぶん栄養失調寸前だぞ?」


 俺は彼女をどこに匿うか考える。

 民宿がダメなら――――


「おじさん」


 温州はやや強い口調で俺を引き止めた。


「……私、死にたくないです」


 はっとする。

 だがそれを顔にも声にも出さないよう努め、俺は続きを待った。


「やれることは何でもやらないと」


「……そうだな」


 高校生、か。


 義務教育は終わっている。

 彼女はもう「大人」だ。


 俺がこの子の年の頃、果たしてこれほどまでに自立的な人間だっただろうか。

 二十歳になった頃、俺はこう思った。俺の知っている二十歳の背中はもっと逞しいものだった、と。

 三十路になった頃、俺はこう思った。俺の知っている三十歳の背中はもっと厳めしいものだった、と。

 この年になった今、俺は十代の少女と十代の自分とを見比べている。

 ――――なんて無様なんだ。


 毒沼に立つ泡のごとく情けなさが込み上げて来る。

 だが俺が自分を惨めに思えば思う程、シーソーのように温州への頼もしさが募った。

 どこの誰だ。今の十代が過ごす青春を自分達の頃より劣等だと哀れむ奴は。

 新しい芽はかくも強い。


「おじさん」


 温州はぐっと両拳を握った。


「頑張りましょう」


「おう」


 俺は顔を伏せ、泣き出したい気持ちをこらえる。







 民宿の物資を捨て置く訳にはいかない。

 松明とは名ばかりのかがり火を頼りに、俺達は戦地で屑鉄を漁る浮浪者のように物資を回収した。


 緑目は確かに恐るべき怪物だが、ビル専門の爆破解体屋などではなかった。

 崩落していたのは俺たちの居住エリアとフロント部のみであり、周縁部は未だ建造物としての体裁を保っている。

 ジンジャーが俺達の匂いのする品を嗅ぎ分け、ナタネが火を翳し、俺と温州が瓦礫を持ち上げる。


 ありがたいことに蜜輪温州は深窓の令嬢などではなかった。

 彼女の手足は実によく動いた。

 動きやすいように黒髪を植物の蔓でポニーテールに束ね、少女は倒壊した民宿から様々な品を引っ張り出した。

 大小様々な鉢、黒目の歯と骨、俺のナップザック。

 考えてみると、生存にとって真に必要な物品は少なかった。


 俺達には真水が必要だった。

 美しい手指をボロボロにすることにも厭わず、温州は木の皮を剥ぎ、石を積み、薪を積んだ。

 既に真水を得る術を知っているナタネが技術を提供し、温州が素材を集める。ジンジャーは周囲を警戒する。俺は俺で別の作業を進める。

 人が増えたことで水の消費が増えると思っていたが、そんなことはなかった。

 人と人が手を取り合うことは単なる足し算ではない。

 信頼と協力は1+1を3にも4にも引き上げる。



 鉢が生きていたのは僥倖だった。

 海岸に戻った俺たちは煮沸と真水確保の手はずを整えた。

 夜明けまでに三人と一匹が喉を潤す程度の真水は確保できるだろう。


「私、そのイカに捕まってたんですね」


 温州とナタネに火を任せ、俺は赤目の解体に取りかかる。

 胴体はすっかり炙られていたが、ヒレの部分だけはまだプルプルしたゼラチン状を保っている。

 薄くスライスすれば水を集めるブルーシート代わりに使えるかも知れない。

 そう考えた俺は黒目の歯でごしごしとヒレを切り落としていく。


「ああ。そうだ」


 ヒレはかなりの弾性と剛性とを兼ね備えており、体重をかけてもなかなか切り落とせない。

 やむなく炙られた胴体部分ごと肉を削ぎ落とす。


「他に二人いる。マトゥアハの数と同じだ」


「二人?」


「ああ。背の高い……君と同じ制服の子が一人」


「どんな子でした?」


「あー……手裏剣みたいなピンバッジをつけてた」


「! スオウさん!」


「知ってるのか」


 どさりと巨大なヒレが海岸に落ちた。

 思った以上に縮んでしまっていたが、それでも一辺十メートル以上の長さがある。

 三角形でなければ使い勝手が良かったのだが、と思いながら反対側へ。


「一緒に来てた子です。他には?」


「スーツの姉ちゃんがいたな。新人OLっぽい感じの――――」


「もしかして背の低い人でした?」


「ああ、そうだ! 背は低かったな」


「桃ちゃん先生です」


 なるほど、教師だったのか。

 となると三人揃っていたところを拉致されたのだろう。


「二人とも、大丈夫なんですか……?」


「分からん。身体のどこかにその」


 ずるり、と温州が囚われていたゼラチン球からロープが伸びる。

 ほつれたように枝分かれした先端部をジンジャーが咥えていた。


「変なへその緒が繋がってる。そのせいで頭はおかしくなってるみたいだが、しばらくは死なねえみたいだ」


 何日保つのかを考えるのは時間の無駄だ。

 三日おきに現れるマトゥアハを殺し、助ける。それだけだ。

 二枚のヒレを削ぎ落とした俺はせっせと浜辺に穴を掘り、蒸留装置をこしらえた。

 造りは鉢を重ねたものと同じシンプルなものだが、規模が違う。


(中身が漏れ出さなきゃいいが、どうかな)


 ぶよぶよしたヒレは少々力を入れたところで歪みもちぎれもしない。

 更にジンジャーに噛みつかせても切れないほど丈夫だった。

 これなら鳥やカニに集られる心配もないだろう。体液が染み出したら残念なことになるが、それは試さなければ分からない。


「ふうっ。これで良し」


 たっぷりと汗をかいた俺たちは植物の茎と黒い実を探し出し、束の間の休憩を取る。

 時刻は丑三つ時といったところか。

 灰色の炎とそれに照らされる赤目の死体とが闇に浮かび上がっている。


 ナタネはうつらうつらし始めていた。

 ジンジャーもまた尾を丸め、彼女に寄り添っている。


「! そうだ」


 俺はふと気づき、民宿へ走る。

 戻ってきた俺が手にしたものを見、温州が目を丸くしていた。


「本……ですか?」


 俺が手にしていたのは民家で発見した骸骨の手帳だ。

 書き殴られているのは英語だった。

 俺には解読不能だが、現役女子高生の温州なら読めるかも知れない。


 父母だの妻子だのへの遺言だったら肩透かしだが、そうではなさそうだということぐらい俺にも分かる。

 この島で死んだ人間の遺した言葉。

 何か重大な事実が書き記されているような気がした。


「温州、英語読めるか?」


「少しぐらいなら」


 少しと言いつつ確かな自信を孕んだ声音だった。

 ちょこんと座り込んだ温州はボロボロになったページをめくり始める。


「……その生物の名は」


 少女は神妙な目で文字を追っていた。

 追いながら、口を開く。


「現地住民の古い言葉で『目』を意味する『マトゥ』に由来している」


「! マトゥアハのことか」


 俺の鼓動が速さを増した。

 恐るべき怪物の名を聞き、ナタネとジンジャーが飛び起きる。


「『マトゥアハ』と呼ばれるその生物は、災厄を司る神であると同時に豊かさの象徴でもあるとされる。ひとたびマトゥアハの怒りに触れればその土地には死の嵐が吹くが、怒りを鎮めれば溢れるほどの恵みが訪れる」


「……神なんかじゃねえ」


 吐き捨てる。


 人間と畜生を分ける知性の一線には色々ある。

 火や道具の利用。言語。それに自殺。知の集積。教化。

 子喰いの有無もそこに含まれている。


 子供は新たな時代の礎だ。

 どこかの誰かも言った通り、新しい時代を創るのは老人じゃない。

 これはほぼ世界中で共通認識とされている、いわば『信仰』。

 環境に強いられて少年兵を戦地に送ることこそあれ、人は他人の匂いがついたからといって子供を食らいはしない。


 マトゥアハはナタネのような子供の命すら供物として受け取った。

 奴らは人類の信仰を汚したのだ。

 それは神の所業ではない。断じて。

 断じて、だ。


「あれは化け物だ」


 温州は俺の言葉を肯定するかのように間を置き、再び肉厚の口唇を開く。


「マトゥアハは腐敗した魂を好む。腐敗した魂を持つ肉体を……ええと、珍味?として好む」


「……」


 腐敗した魂。

 ――――なるほど、俺だ。


 奴らは主食として人間を食らうのではなく、珍味として食らっているらしい。

 だから三日に一度なのだ。

 奴らが人間を食らうのはある種の儀式(セレモニー)であり、催事(イベント)であり、祝祭(カーニヴァル)なのだろう。

 疑似餌なんて迂遠な手段を使うのもそこに起因する。


 ふざけた話だ。

 殺してやりたいほどに。


 温州が焦ったようにしてぺらぺらとページをめくる。


「ごめんなさい、おじさん。この辺、専門用語が多すぎて読めないかも」


「どういう専門用語か分かるか?」


「たぶん魚の名前だと思います。この辺りからすごく文字が荒れてて……」


 なるほど。

 つまりこいつは「専門家」なのだ。

 海洋学者か生物学者か、はたまた比較人類学者かは知らない。

 だがこいつは何らかの痕跡からマトゥアハの存在を調べ上げ、ここに来た。


 そしてめでたく骸骨になった。


 このメモの持ち主は狭い民家で骸骨になっていた。

 もしかするとマトゥアハとは別の理由で死んだのかも知れない。


 ――――。


 ――――。



(……別の理由って何だ?)



 俺は胸騒ぎを覚えた。

 この死体は密かに島へ侵入したのだろうか。それとも正規ルートでガイドに導かれてここへ来たのだろうか。

 後者の可能性は低い。巨大な黒目や赤目、緑目が民家の中でこいつを殺したとは思えない。

 前者ならなぜ死んだのか、そしてなぜメモが残っているのかが分からない。普通に考えれば死体を見つけたガイドが処理しそうなものだ。

 ガイドは島に上陸しないのだろうか。だから死体は民家に打ち捨てられていたのか。それならメモの件は説明がつく。だが死因が不明のままだ。

 凶器は見つからなかった。自殺じゃない。他殺だ。

 どういうことだ。

 渦巻く疑問の中、俺はいくつかのフレーズをピックアップする。


 誰がこいつを殺したのか。

 その方法は何なのか。

 なぜガイドは後始末をしなかったのか。


(……)


 俺の脳内で危険信号が灯った。


 ――――何か。

 何か得体の知れない危険が潜んでいる。


 殴り書きをしてまでこいつは何を遺そうとしたのか。


「あ。ここ読める。……最後のページですけど」


 俺は小さく頷いた。

 言葉の分からないナタネとジンジャーもまた緊張した面持ちで温州の言葉を待っている。


 文章を目で追った温州は、すっと息を吸って、吐いた。

 蜂蜜のように甘い声が言葉を紡ぐ。


「もうダメだ。マトゥアハがそこまで来ている。マトゥアハは神だ。神は無敵だ。だから誰も逆らえなかったのだ。私に奴は殺せない。奴は誰にも殺せない。何故なら――――」


 温州がごくりと生唾を飲んだ。



「何故ならマトゥアハは――――死者にしか殺せない」


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