第7話 賢者の海
灰色の炎が頬を熱する。
汗が伝う。
どっどっどっどっという心拍が徐々に速度を上げる。
民族衣装で着飾った女がいれば祭りのようにも見えただろう。
だが実際に俺たちを取り囲んでいるのはクリオネの化け物とヤドカリの化け物。
狂ったように吠え続けるジンジャーの声。
蹲ったナタネが悲鳴を押し殺す。
(どうする……!)
まさに進退窮した鼠だ。
槍の穂先を交互に向けながら俺は必死に脳を働かせる。
赤目なら対抗策はある。だが緑目を放置すれば背中をばっさりやられてしまう。
緑目に立ち向かえば赤目が自由になってしまう。腰を抜かしたナタネが餌食にされる。
さりとて逃げ出せば緑目が水を得て復活してしまう。
今夜は良くてもその次はどうだ。その更に次は?
逃げ続けることで命を拾えるのは俺だけだ。
今退けば囚われの女たちが死ぬ。死んでしまう。
(やるしかねえ……二匹とも)
どうやるんだ。
どうやってだ。
俺一人でどうやって――――
狂ったように吠えていたジンジャーが飛び出していた。
まっすぐに緑目の方へ。
「! ジンッ」
俺はとんだ思い違いをしていた。
ジンジャーは狂ってなどいなかった。
主を襲わんとする敵を威嚇していたのだ。
あるいは、己を奮い立たせていたのか。
舌を垂らしてまっすぐに駆ける白毛の犬を緑目がじろりと見下ろす。
鋏は真横に振り上げられていた。
ヤドカリの常識では考えられない動き。
これをジンジャーは跳躍してかわす。
闇夜に犬が踊る。
ばうっと一声吠えた忠犬は緑目の顔に着地し、危険な眼球付近を避けて殻を駆け上がる。
彼が攻撃に転じなかったのは正解だった。緑目の鋏は盾の役割も果たすらしく、カマキリのように引きつけることで顔を覆うこともできる。
刃が尾の毛をかすめ、綿埃のような白毛が舞った。
呆気に取られていた俺に咆哮が降ってくる。
ばう、と。
「……!」
そうか。
お前が囮になってくれるのか。
――――いや。
俺はヒトの傲慢を振り捨てる。
何が囮だ。動物はいつから人間様にとって都合の良い命に成り果てたというのか。
奴は必死に生きている。
忠義の有無など関係ない。
ジンジャーは命を脅かされた一匹の獣として緑目に挑むのだ。
ならば。俺は俺のやるべきことを。
殻の上を燐光のごとく駆け回りヤドカリを翻弄する犬に背を向ける。
数十にも及ぶ真っ赤な目が一斉に俺を捕える。
下半身をクラゲに変えたクリオネは既に陸へと這い出していた。
もぞもぞと触手を蠢かせ、左右のヒレで浜の貝を打ち、ぬめる巨体が俺へと迫る。
黒目に比べて不格好な動作だ。
腹の下の筋肉を使うのではなく、ヒレで地面を叩いて移動しているのだろう。
恐れるなと言う方が無茶だ。
既に黒目という一体のマトゥアハを屠った後だと言うのに、足が震え始める。
勇気なんて所詮一時のカンフル剤だ。恐怖に足が竦むのは生物としてごく当たり前のことなのだ。
ぱあん、と頬を叩く。
じんじんと痛む頬から顔全体に熱が広がる。
どっしりと構えなければならない。
(落ち着け。行くぞ)
縄つきの槍と盾を手にする。
可燃物の絡んだロープを引きずり、赤目へ吶喊する。
海中ならいざ知らず、陸上で触手は伸縮しない。
長短入り混じって見えるのは中に数本、太い触腕が混じっているからだ。
距離を見極めろ。
7メートル。
6メートル。
ここだ。
俺は槍投げの構えを取る。
左手で照準を定め、右手を弓のごとく引く。
飛べ。飛べ。飛べ。
「とべええええっっっっ!!!!」
ぶおん、と空を切る。
練習の甲斐あって流木の槍はまっすぐに飛んだ。
が、違和感に顔をしかめる。
「痛っ!!」
全力の投擲で右のひじ関節がビリリと痺れたのだ。
練習では角度と姿勢の調整で必死だったので全力を出したことはなかった。
まさかこんなにも痛むなんて。
(もう一回行けるか……?!)
ぶらん、と腕を垂らす。
そう言えば、バレエの「黒鳥の32回転」は練習では64回転するらしい。
真に本番を成功させるにはそれほどまでの特訓が必要ということだろう。
俺の一撃は情けない程の付け焼刃だ。
だが付け焼刃でいい。
もう今後の人生で投げ槍なんて成功しなくていい。
今は届け。
神すらも欺いて飛べ。
祈りは――――通じた。
柔らかい胴体にずどんと槍が突き刺さる。
クリオネの巨体が波打つ。
「よぉし!!」
ガッツポーズ。
だが赤目はそれが何だと言わんばかりに触手を胴へ向ける。
無数の触手のうち、数本の太い触腕が槍に絡む。
絡んだはいいものの、もぞもぞと動くばかりで槍は抜けそうになり。
器用なタコと違い、奴の触手は不器用だった。
それもそのはず。何せあの細いクラゲ脚にそこまで精密な神経は通っていない。
「――――!」
精密な動きこそしないが、触手は奴にとって全神経を集中して動かすものではない。
巨体がうねり、すぐ近くの俺に迫る。
ジンジャーが赤目ではなく緑目を敵に選んだのは正しい。
面制圧を試みるクリオネの化け物は津波のごとくのしかかってきた。
いかなるスピードを以ってしてもかわす術は無い。
受けて立つしかない。
鎧戸を粗雑に組み合わせた盾を構える。
両手持ちに近い構造のそれは攻城盾に近い。
襲い来る無限の触手が音もなく盾に触れる。
磯の匂いが俺を包む。逃れるように一歩バックステップ。更に一歩。そして真後ろへと走る。
ちりちりと肌に触手の先端が触れる。
本来なら触手をかわす葉っぱのマントを着て来るはずだった。
いつもそうだ。備えれば備えるほど事態は俺の思う通りに進まなくなる。
刺胞に触れた肌がひりつく。
だが毒は本来弱者の武器だ。こんなにでかい奴がカツオノエボシのように強烈な毒を持っているはずがない。
後で唾でも付けて耐えればいい。
そんな浅知恵すら飲み込むほどに奴の触手は数を増す。
ブラシに包まれるかのような状態に陥り、思わず盾を捨てる。
――――想定以上に動きが速い。
「くっ、そ!」
触手が瞬く間に盾を飲み込む。
数本の太い触腕が本来の役割を果たした。
つまり、盾に絡みついて動きを封じ、飛び出した胃袋にそれを差し出したのだ。
じょばあっと不穏当な白煙が漏れ出す。
ひいっと悲鳴を漏らした俺は確かな手ごたえを感じながら一目散に石柱へ逃げ出した。
足を止めた赤目は胃袋に盾を放り込み、それが何であるかを吟味しているようだった。
結果、食い物ですらない木片はぽいと胃袋から放り出される。
そうしている間も数本の触腕が槍を抜こうと必死になっていた。
(! やべっ)
石柱にたどり着き、槍から伸びるロープを火に放る。
ちりりり、と灰色の炎がオレンジ色に変じた。
だが蔓を伝う速度は絶望的に遅かった。
炎はゆるゆると奴へ向かう。
その頼りなさは例えようも無かった。
数十メートルの巨体に対して自生の蔓が一本きり。
束ねて結び強度を増しているとは言え、決定打にはなりえない。
赤目の眼球が一斉に蠕動した。
今ならそれが嗤いの仕草だと分かる。
こいつも結局、黒目と同じだ。小さきものの知恵を笑う。
灯油が地を伝うようにしてゆっくりと炎が蔓を這い、そして煙も上げずに消えた。
とうとう槍が絡め取られ、貝殻の浜にがしゃんと落ちる。
奴はそれすらも胃袋に収めた。
流木はじゅわりと溶解され、黒目の骨だけが原型を留めている。
赤目は骨に残る黒目の味を愛おしむようにして胃袋の中でそれを弄んでいた。
その威容に俺は恐れ、慄いた。
後ずさる。
もう武器なんて残っちゃいない。
いや、武器なんて意味をなさない。
人は怪物など殺せないのだ。
緑目と戦い続けるジンジャーの荒い息が聞こえる。
彼は限界だ。
緑目が振り回す鋏は先ほどから貝殻をバラバラと巻き上げ、雨のように降らせている。
奴もまた限界だ。
だがジンジャーに背を向けることはしない。
牛は蠅に腹を立てないが、人は蚊に対しても怒りを感じる。
生物として格上の自分がこんなちっぽけな奴を殺せないはずがない。
そんな矜持が、知性が生物を惑わすのだ。
「はあっ……はあっ」
俺の肺は早くも降参を宣言している。
もちろん手足もだ。
濡れるほどに汗をかいた男が一人、両膝に手を置く。
「ジューグ……」
石柱のすぐ近くに身を寄せたナタネが泣き出しそうな声を漏らす。
無力感に苛まれているのか、衣服をぎゅっと握っていた。
「大丈夫だ」
んぐ、とひと呼吸おいて唾と恐怖を飲み込む。
「……大丈夫」
軒先を伝うようにして汗の玉が顎に連なり、ぼたぼたと落ちる。
赤目が動き出す。
手札を出し尽くした俺に対して、奴は驚くほど酷薄な目を向けていた。
思えば結構な博打だ。
そんなことを思いながら、腰に吊るした最後から二番目の武器を手に取る。
J字に加工した黒目の骨。
柄には奴の黒皮を使っており、今まで握った分だけ手に馴染む。
石柱の影で最後の作業を終える。
「行くぞ」
誰にともなく告げ、駆ける。
強く踏み込み、ぶんぶんと骨針を回転させる。
一応は練習した甲斐があり、それは正確に赤目の触手群へ。
今回は突き刺さる必要がない。
赤目は骨の針を興味深そうに眺めるや、無数の触手でそれを絡め取った。
そして当然のごとく胃袋へ。
生物の必然として、奴は最も鋭敏な器官でその危険性を確かめようとしたに違いない。
口にして気づく。
ああ、これは「黒目」の骨と皮だ、と。
胴体に詰まった赤目がゆるゆると上下に蠢く。
どうやら悦んでいるらしい。
何よりだ。
しっかりと胃袋へ収まったのを確認し、ぐいと手を引く。
J字の骨の手元。
日本刀で言う「下緒」の部分には穴が空いている。
そこに通しているのは最後の武器だ。
「!」
ビタビタとヒレで浜を打ち、こちらへ進撃する赤目が微かに反応する。
それもそのはず。
俺が握っているのは黒目がナタネを拘束するのに用いていた「あの」器官だからだ。
夜目には透明に見えるロープ状器官を黒目の骨に通し、決して外れないように結んでいる。
その形状は――――「釣り針」。
奴は黒目を食う。
だが黒目の骨は奴には消化できない。
そしてこのロープ状器官もまた溶かされずに残っていた。
この釣り針に対して赤目は有効な対処方法を持たない。
特に。
――――反対側に重りが結ばれている場合は。
ふうう、と。
丹田法ですべての息を吐き出す。
腰を落とす。
ここまで運ぶのに転がすしか方法のなかった超重量の分銅を掴む。
平たく敷いた石に乗せ、更に数センチ高くした石絨毯に乗せ、更に数センチ――――と気の遠くなるような作業で石柱の縁まで持ち上げておいたそれを、押す。
底の見えない石柱の火の中へ。
当然、そこにも黒目の糸が結ばれている。
釣り針に続く糸が。
「じゃあな」
ナタネの手を取り、走り出す。
刹那、分銅が無限の闇へ落ちていく。
胃袋の中のJ字針が赤目に深く突き刺さる。
ぴんと張ったロープに引きずられ、赤目がずぞぞぞ、と浜を移動する。
自重を筋肉で動かす黒目ならこれに耐えただろう。何より奴は身が詰まっていた。
だが赤目はヒレで地面を打って移動する。しかも内臓を持たない為、見た目以上に軽い。
つまり、その場に踏ん張ることができない。
見えない糸に引かれるようにして巨大クリオネが石柱の一つへ吸い寄せられる。
びちびちとヒレが浜を打つも、そんなものは気休めにもならない。
一見すると石柱と赤目が綱引きをしているような状態だ。
じりじりと引っ張られる赤目。
無数の触手もヒレも、今や何の役にも立ちはしない。
ブラックホールに吸い込まれるようにして奴の巨体が石柱に突き立った。
海棲生物である奴は直立したりはせず、しなびたクラゲのようにして石柱にへばりついている。
赤目は落ちることはできない。
洗面器大の分銅なら収まる石柱にも赤目の巨体は到底入らないのだ。
さりとて石柱は破壊できない。
なので――――奴は生きながらにして焼かれる。
このまま、死ぬまで。
じりり、ぷすぷす、と白い湯気が立ち始める。
縁日のイカ焼きのような匂いがするかと思ったが、実際にはサザエを焼くような磯の匂いが漂う。
胴体の中で赤目がびくびくびくと揺れていた。
透き通る身体にミクロサイズの赤い斑点が浮かび上がる。
それはぶつぶつと胴体を汚しつくし、やがて赤目のマトゥアハは明太子のような色合いに変色した。
マトゥアハはさぞ熱に強いのだろう。
それに炎にも。
だが焼かれ続ければいつかは死ぬ。
酸素も得ることができない。
俺はナタネを木陰に避難させ、言った。
「終わりだ」
緑目の判断は早かった。
鋏の刃で地面をえぐり、土砂と貝殻で壁を作る。
きゃうん、とジンジャーが怯んだ隙を見て奴はくるりと海へ方向転換すると、そのままがさがさと退散して行った。
途中、奴は赤目の石柱とすれ違った。
無数の目が縋るようにして緑目に向けられたが、ヤドカリのマトゥアハは一顧だにしなかった。
そして緑目が海の中へと姿を消すと、赤い眼球が天を向く。
一つ、また一つと。
完全に脱力した赤目のマトゥアハの頭部から、ずるりと何かがこぼれ落ちた。
それが「ぱっつん」を捕えた子宮状の器官であることに気づいた俺はすぐに走り出す。
ぬるぬるしたクラゲのような器官から少女を引っ張り出す。
場違いな制服姿に顔をしかめつつも、俺は彼女の心臓の上に耳を置いた。
とくん、とくん、と一定のリズムが聞こえる。
「……よし」
緑目の消えた浜には静寂が残されていた。
燃え続ける赤目は音も無くしなびていく。
わん、とジンジャーが吠えた。
奴は土だらけだし、貝殻であちこちを傷つけられていたがそれ以外に深刻な傷を負っている様子は無い。
木陰から赤目を窺うナタネも無事だ。
わん、と再びジンジャーが吠えた。
「家、無くなっちまったな」
わん、とまたジンジャーが吠える。
「水もだぞ。メシも」
くうん、と鳴くかと思ったが白い犬はぱっつんの頬をぺろぺろと舐めていた。
「……そうだな」
また、やり直せばいい。
俺の人生と違い、ここでの生活は立て直せるのだから。
次のマトゥアハの襲来まで、あと三日。
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