第15話 モスクワの海
「温州っっ!! ジンジャーッ!!」
俺は白い肉袋を引っ掴み、女子高生と犬の元へ駆け出していた。
鬼に立ち向かう桃太郎ですら犬、猿、雉を連れていたというのに、巨竜に立ち向か自分のお供は犬一匹。
その状況に不平も不満も言わず、蜜輪温州(みつわうんしゅう)は腰を低く落とし、薙刀を構えていた。
電柱のようなドジョウ竜の頭部がゆらゆらと円を描く。
フリッカージャブの予備動作を思わせる円運動が突如として止まり、ふおっと風が巻き起こる。
まず歯の無い口が地面を抉った。
続いて落下に伴う小規模のダウンバースト。
カフェオレ色のスカートが暴れ、温州の脚の付け根までもが露わとなる。
まき散らされた貝殻が水切りのごとく四方八方へ飛び散り、俺の靴を叩く。
「うっ、温州っっ!!」
思わず叫んだ俺が見たのは、視線すら動かさず薙刀を構え続ける少女の姿だった。
青目の巣は温州から数メートルも離れた地点に鼻を突っ込んでいた。
てんで狙いが定まっていない。おそらく「目」を持たないからだ。
ふわりと浮いた温州の黒髪がゆっくりと降りていく。
限界まで引き絞った弓矢を思わせる姿勢から、歩幅まで完璧に計算された足運びが一歩、二歩三歩。――――四歩。
最後に大きく踏み込み、その一撃は放たれた。
「っでえええええやっっっっ!!!」
裂帛の気合。上段からの振り下ろし。
骨の槍が白い三日月を描き、ずじゅうっと湿った肉に食い込んだ。
黒い宵闇に赤い血が舞い、真っ白な海岸へ飛び散る。
ドジョウ頭が左右に揺れ、温州は飛び退いた。
飛び退き際にも槍を振るい、怪物の横っ面を叩いている。
ダメージはおそらくゼロ。
そこで俺が追い付いた。
「うんしゅ――――」
ばうっと鋭くジンジャーが吠え、ドジョウ竜の頭に噛みついた。
到底口に収まらない大物に食らいつき、白犬が細い脚で地を引っかく。
彼は脚を突っ張って踏ん張りに踏ん張ったが、牙は皮脂で止まっていたらしい。巨竜はさしたる被害を受けた様子もなく、悠然と首を元の位置へ。
身を捻らせて跳んだジンジャーが俺達の傍へ着地する。
彼もまた無傷だ。肉体も。もちろん闘志も。
「おじさん」
残心を取る温州は静かに呟く。
怪神(かいじん)マトゥアハの目と鼻の先だというのに、大気はひどく粛然としていた。
ふうう、と彼女が息を吐いた途端、夜気は蒸し暑さを取り戻す。
「……ずいぶん長く転んでましたね」
「尻もちついちまった」
温州は油断なく緑目へ視線を動かす。
巨大ヤドカリが微動だにしないことを確認し、女官が下男に問うかのごとく呟く。
「穴は塞げました?」
「無理だ。甲羅が軟らかすぎる」
「……」
温州の全身から微かに諦念の気が漏れた。
その目が俺の脚へ。
「おじさん……」
「走り回るのはもう無理だ」
実際、いつ倒れてもおかしくなかった。
腕は持ち上がらず、脚は棒のようだ。
わんっ、と白犬が吠えた。
俺に喝を入れているのだ。
「そうだ。まだだ。まだ終わってねえ。……こっち来い」
青目の巣の射程を逃れ、そっと耳打ちする。
腰の刀に手を置いた温州はきょとんとした表情を見せた。
「えっ?」
「できるか?」
「でき、ると思いますけど……あっ」
気づいたらしい。
そうだ。それをやる。
「で、でもそれって」
わんっ、とジンジャーが警告を発する。
見れば巨大ウツボ共がばちゃばちゃと騒ぎ出すところだった。
たっぷりと水と酸素を補給した奴らは再び怒涛のごとく襲い掛かってくる。
俺たちの攻撃は終わった。
「後にしろ。……ほら、行け!!」
「っ! 分かりました!」
棍棒から抜いた赤目の『腺』を受け取り、斜面を駆け上がる温州に声を飛ばす。
「上に行くな!! 見つかる!」
振り返る温州に腕を振って海岸線を示す。
「迂回しろ! 横だ!! あいつらの目は上向きについてる!!」
斜面を駆け下りた温州は海岸に沿って陸へと消える。
満ちる潮に身を浸す緑目は彼女を一顧だにしなかった。
相変わらず大きな目を盾鋏で覆い、煩わしい光景を見るまいとしている。
(……)
大丈夫だ。
あの巨体が海に沈んで見えなくなることはない。
奴が動けば必ず俺達の視界に映る。
注意を割り振る相手は変わらない。
三分の一は青目。
三分の一は青目の巣。
三分の一は緑目。
四回の表。
俺は這い出して来るウツボ達の前で仁王立ちとなる。
助け出した少女は脈と呼吸だけ確認し、既に赤目の腹の下だ。
(さあ来い……!)
俺には一つの確信があった。
こいつらは『目』でしかものを見ない。
匂いを辿るとか、熱を探知するとか、そんな高度な芸当はできない。
ゆえに一回の表、こいつらは海岸の俺と斜面にいる女二人に平等に襲い掛かった。
裏を返せば、こいつらは目に見えないものを探知することができない。
姿を消した温州はこいつらのターゲットから完全に外れる。
仕込みの時間は十分に確保できる。
俺たちが逃げ続ける限り。
逃げる為の脚は動かないが。
俺たちは逃げ続けなければならない。
(来い。来い、来い来い来い……)
吐瀉物のごとき黄褐色が甲羅から溢れ出す。
青い宝石じみた人間の瞳が獲物を見つけた喜悦で歪む。
奴らは嗤っている。
「まだだ!」
わんっとジンジャーが応じる。
ウツボの大群がうねり、うねり、大きくうねり、牙持つ波濤となって襲い来る。
貝殻が飲み込まれ、ヒレ脚が飲み込まれ、小さな蟹も飲み込まれる。
奴らの目には俺しか映っていない。
そうだ。それでいい。
(まだだ……もっと引きつけろ)
赤目の毒にやられた腕は感覚すら残っていない。
脚もだ。もう血で濡れているのか乾いているのかすら分からない。
俺にできるのはせいぜい囮ぐらい。
――――上等だ。
蛇神(アナンタ)のごとき軍勢が迫る中、俺達は背を向ける。
わんっとジンジャーが吠える。
「走れ!」
脚を引き、脚を引き、赤目の布団に潜り込む。
ざらざらざらざら、と貝殻を這い回るウツボ共が死骸の数メートル手前で急停止した。
(良し……!)
無数の犬歯が噛み合う音は甲虫の脚の軋みにも似ている。
奴らは刺胞に近づけない習性を逆手に取られたことで怒り狂い、身をくねらせては貝を散らしていた。
「ふっ……ふっっ……」
二十弱の軍勢に囲まれながらも俺とジンジャーは冷静に呼吸を整える。
慌てるな。取り乱すな。
俺達は温州に注意を向かせない為の囮だ。
せいぜい鮮度を保ち、奴らの注意を引き続けなければならない。
この状況下で最も恐ろしいのは緑目の奇襲だ。
赤目の肉布団をそっと持ち上げ、奴の位置を確認する。
――――大丈夫だ。
盾で前面を覆ったマトゥアハは未だ波打ち際でぷくぷくと泡を立てている。
(……こいつも動かない、か)
ドジョウ竜の威容を見上げる。
無数の青目が行動する間、巨大な青目の巣は動かない。首を振り下ろせば青目を巻き込む可能性があるからだろう。
狙いを定めようにも奴は目が見えない。おそらく『青目が甲羅の中に居る』『自分の周囲に振動を感じる』という二つの状況をスイッチに攻撃行動に移るのだ。
(頼むぞ温州)
呼吸を整えたジンジャーが俺の脚の傷をぺろりと舐めていた。
俺は彼の頭を撫でてやり、外界の悪魔どもを睥睨する。
四回の表を無失点に抑えた俺に、再び攻撃のチャンスが回ってくる。
ウツボ共は次々と甲羅の中へ飛び込み、最後の一匹までもがつるんと甲羅の縁に尾を滑らせた。
四回の裏。
「ジンジャー! 頼めるか!」
ばうっと白犬が吠え、動き出した青目の巣を引きつける。
ドジョウ竜は幾度となく攻撃を仕掛けるが、ジンジャーのスピードには追いつけない。
片脚を引きずる俺は大きく迂回して甲羅へ。
感覚の失われた脚に鞭打って甲羅へ這い上がり、棍棒を振り下ろす。
ばがっとビスケットのように骨が割れ、ぼちゃぼちゃと海面を叩く。
腕が岩のように重い。
青目の巣が何度も何度もジンジャーに襲い掛かり、貝殻を巻き上げる。
棍棒を振り下ろす。破片が落ちる。甲羅にぽっかりと大穴が開く。
握る力が弱まったことに気づき、植物の蔓を手首に巻き付けて棍棒を固定する。
ウツボの化け物は水槽の中をたゆたい、一つ目で俺を嘲笑っている。
棍棒を振り下ろす。縁にこびりついた骨片をやや乱暴にこそぎ落とす。
汗が滝のように流れる。熱を奪われた全身を寒気が襲う。
緑目は動かない。どっしりと構えたままだ。
棍棒を振り下ろす。振り下ろす。振り下ろす。
振り下ろし振り下ろし振り下ろし振り下ろし――――
守りの時間がやって来る。
五回の表。
黄褐色の津波が俺達を飲み込もうと迫る。
赤目の腹に飛び込んだ俺とジンジャーは異変を察し、身を強張らせる。
貝殻を転がす音に混じり、ごりごりと嫌な音が聞こえている。
クリオネをめくった俺が目にしたのは、頭部を地面にこすり付ける青目の姿だった。
(こいつらまさか)
ぞわっと背筋が粟立つ。
(地面を掘って……!!?)
俺達は赤目の胴体の『下』に隠れている。
確かに地下から迫れば刺胞を恐れることはない。
徐々に徐々に、青目は削岩のスピードを上げていく。
ごりごり、ごりごりごりごり、と少し先の地面に窪みが生まれる。
その中に美味なる肉でも隠されているかのごとく、青目のマトゥアハは巨大な尾を振り、競い合うようにして穴を掘る。
ぐるるる、とジンジャーが唸る。
俺は彼の頭を撫で、気を鎮めさせる。
(まだだ……慌てるな……!!)
五回の裏。
インターバルを挟むことにはデメリットもある。
際限なく溢れ出していたアドレナリンの加護が消え、全身を痛みと倦怠感が満たし始めていたのだ。
ずるりと這い出した俺は萎えかける闘志を燃やし――――
ぽっかりと空いた深さ数メートルの穴に直面する。
「うっ」
つうっと汗が頬を伝う。
まずいぞ。このスピードだと七回の裏にはトンネルを作られてしまう。
どうする。どうする。
(埋めるか?! いや……)
これでは焼け石に水だ。
それに守勢を保って勝てるわけがない。
――――攻めろ。
わうっとジンジャーが一声吠え、青目の巣の襲来を告げる。
俺たちは二手に分かれ、それぞれの役目を果たさんと駆ける。
俺は決死の覚悟で青目の巣へと登り、再び網目状の甲羅を破砕した。
もうかなりの面積をこそぎ落としている。
理論上はこれで――――
(いける……いけるぞ温州! ジンジャー!!)
棍棒を振るっていた俺はおかしな唸り声に振り向く。
ジンジャー。
彼は未だ余裕で青目の巣の攻撃をかいくぐっていたが、様子がおかしい。
(!?)
ドジョウ竜の攻撃は青目の掘った穴へ集中していたのだ。
ずどん、ずどん、とプレス機のような音を立てて奴は穴を深くしていく。
(青目があそこで振動を起こしたから位置が分かるのか……!!)
まずい。
スピードを読み違えた。
このままだとこいつらは――――
「くっ、クソ!!」
がつっがつっと俺もまた甲羅を削る速度を上げる。
六回の表。
青目は姿も見えなくなるほど深い穴へ潜り、そこから横穴を掘り始めた。
振動が徐々に徐々に近づき、ウツボの進路がもこもこと盛り上がる。
(う、くっ……!!)
時間が。
時間が無い。
こいつらが穴を掘り終えたら最後だ。
が、あっという間に奴らは俺たちの足裏へ達した。
ぼごぼごと地面の下が揺れる。
「く、そっ! くそおおおっっ!!!」
地面を押し返すが、ウツボの三角頭が次々に飛び出してくる。
慌てて赤目の胴によじ登り、そこから更にぐいぐいと押す。
(温州……! まだか温州……!!)
縋るような祈りは届かない。
温州は斜面にも海岸にも姿を現さない。
青目共が変色しつつあることに気づき、俺は最後の力を振り絞って奴らを抑えつけた。
長い、長い六回の表が終わる。
六回の裏。
俺は無事に「仕込み」を終える。
甲羅の大部分を削り落とした俺は大穴を前に立っていた。
(あとは温州が来てくれれば……)
「おじさんっっ!!」
彼女の声が聞こえた瞬間、俺は快哉すら上げそうになる。
薙刀を担いだ温州は枝で作った橇(そり)に「それ」を乗せていた。
巨大な、巨大な赤目のヒレの一枚だ。
「出来ました!!」
「よおし! それじゃその穴に……」
言いかけ、気づく。
今は六回の裏。
つまり中には青目が入っている。
(ちょっと待てこれじゃ……!!)
ダメだ。実行に移せない。
俺のプランを遂行する為には青目が外に出ていなければならない。
「く……!! よし分かった!! ジンジャー!!」
わんっと白犬が威勢よく吠える。
「もう一回だ!!」
ばうっとジンジャーは勇気を奮う。
きっと恐ろしいのだろう。脚が震えている。
この白い戦友が俺と同じく怯えていたことにようやく気づいた。
七回の表。
ウツボ共の進撃を食い止める術は無い。
―――――ただ一つを除いて。
「くっ……!」
くうん、とジンジャーが鳴く。
俺たちは囚われた女子高生の入った肉袋に身を滑り込ませていた。
彼女は背が高く、すらりと脚も長い。
「狭ぇ……!」
肉詰めピーマンさながらの俺たちは息苦しさに呻いた。
だが俺達を包囲した青目はこれに手を出すことができない。
奴らにとって捕らえた女は貴重な疑似餌だ。
本当の本当に用済みになるまで決して手放したりはしないはず。
読みは当たった。
群体マトゥアハは俺達を包囲したまま、もう十数分もにらめっこを続けている。
ぎょろり、ぎょろりと青目が蠢く。
苛立ち紛れに仲間を襲う奴もいる。
(行け……行け、頼むぞ)
蜜輪温州は今、死角から甲羅へ這い上がっているところだった。
青目がこっちに集中している今がチャンスだ。
(急げ急げ急げ急げ急げ……!!)
ごくりと唾を飲む。
俺も、ジンジャーも。
あと五分。
温州が黙々とヒレを広げていく。
あと四分。
彼女は丁寧に仕込みを終えるところだった。その証拠に、骨の刀がぶらりと甲羅に垂れている。
もう後は滑り降り、元来た方角へ走り去るだけ。
あと三分。
――――一匹の青目が俺の視線を追い、振り返る。
ウツボの大群がにわかに色めきだった。
奴らのうち半分ほどが一斉に温州へと向かっていく。
「うっ、温州!! 温州逃げろ!! 逃げろ走れええええっっっ!!!」
はっと彼女が気づいた時にはもう遅かった。
ウツボの大群は逃走を許さないほどのスピードで彼女へと迫っている。
「くっ……きゃっ!?」
作業を終えた女子高生は慌てて甲羅の頂上部へ這い上がろうとしたが手を滑らせ、薙刀を手に凍り付いていた。
這い寄る無数の巨大ウツボ共は嗤っている。
袋の中の女と、新たに捕えたナタネ。
疑似餌が二つもあるんだから、新参の一匹は食ってもいいよな。
いいよね。いい。いいに決まってる。
さあ、あの肉付きの良い女を食べよう。
――――そんな感情が青目の動きから伝わる。
「うっ、く……!」
焦りが彼女の思考を加速させる。
自分はもう数分もせず、ズタズタに引き裂かれて死ぬ。
その現実を知った少女が、怯えの余り膝をがくがくさせている。
「温州ッッ!!」
出て行って何になる。
俺なんかが出て行って何になる。
彼女よりひと足早く死ぬだけだ。
肉袋の中でもがく俺は。
俺は―――――
やはりジンジャーの方が速かった。
彼はすぐさま安全地帯である肉袋を飛び出し、一直線に温州の元へと駆けたのだ。
どう好意的に解釈してもヘビとネズミほどの体格差があるにも関わらず、ジンジャーは数匹のマトゥアハに噛みつき、ぶんぶんと頭を振る。
ウツボの身体が蛇のように絞殺を目的としていなかったことは幸いっだった。
歯にのみ注意すればいいということに気づいているのか、ジンジャーは数匹による同時攻撃をうまい具合にかわしていく。
だがそれも多勢の前には無勢だ。
彼はあっという間にウツボの大群に飲み込まれ、見えなくなる。
「ジンジャー!!? おじさんジンジャーがっ!!」
ばっと黄褐色の津波の中から飛び出した彼が温州の傍へ近づき、歯を剥いてマトゥアハを威嚇する。
だがウツボ共はもはや彼を恐れてはいなかった。
奴らは犬という生き物の脆さにとっくに気づいている。
「温州ッ!!」
ウツボ共は白犬の思わぬ強襲に驚きつつも、瞳を細めて笑っていた。
それじゃあお前からだ、と言わんばかりに俺を包囲する奴らまでもが活きの良い犬へと向かう。
卵子に集る精子のようにうぞうぞと進んだ青目のマトゥアハは、瞬く間に白犬と温州を取り囲んだ。
「ひっ……」
温州が青ざめた。
俺の思考はフリーズする。
真っ白な思考の中、小さな泡のように一つの言葉が浮かび上がる。
『やめろ』
やめろ。
やめろ。
―――――やめろ。
「や」
肉袋から飛び出した俺は。
「め」
赤目の触手を数十本まとめてぶちぶちと引きちぎっていた。
「ろおおおおおっっっっっ!!!!!!」
大量の触手を抱え、俺はウツボの群れへと突っ込む。
文字通り泡を食ったように奴らが包囲を広げる。
磁石に反発する砂鉄のごとく距離を開けた奴らへ向けて、俺は死んだクラゲの触手を振り回す。
「おおおらああっっ!!!」
右に一振り。
数匹のウツボが逃げ出す。
「うらああッッッッッッ!!!!」
左に一振り。
数匹のウツボが距離を取って俺を睨む。
「アアーーーーーッッッ!!!」
大暴れするプロレスラーのごとき怒声を放ち、何度も何度も毒触手を振り回す。
「はあ、はあ、はあ……!!」
「お、おじさんっっ!!」
涙目の温州とジンジャーにに合流するも、俺は彼女達には近づけない。
近づけば刺胞を食らわせてしまう。
「おじさん手……手がっ!!」
ああ、そうだ。
これでまた腕が毒にやられる。
だがそれでもいい。
「大丈夫。死ぬのは明日だ」
俺は赤目のマトゥアハを振り回し、七回の表をくぐり抜ける。
そして七回の裏。
憎々しげな目をした最後の一匹が甲羅へ飛び込むのを見送り、俺は行動を開始した。
温州が残した骨刀を手に、「青目の巣」の前に立つ。
「……」
赤目のヒレは弾性が強い。
元々の持ち主から引き剥がす時も結局、胴体の付け根から削ぎ落す羽目になるほどだ。
引っ張ってもなかなかちぎれないし、刃物もうまく入らない。
だが穴を開けることは簡単だった。
伸ばしてもねじってもちぎれないヒレにも黒目の針はすんなり入る。細胞自体が鎖帷子のように連結しているのかも知れない。
丈夫な赤目のヒレには穴が開く。
――――なので、こんなものが作れる。
マトゥアハから切り出したヒレの一枚をぜいたくに使い、その外周部に沿って等間隔に穴を開ける。
骨の刀と「腺」を組み合わせて刺繍針のようなものをこしらえる。
温州がすべての穴に針を通せば完成だ。
怪物の素材を使った「巾着袋」。
言い換えれば、それは「網」。
――――『一網打尽』。
ドジョウ竜は口だけをぽかりと開け、見えない敵を睥睨しているようだった。
実際のところ、顔を持たない奴がどれほどの精度で外界を知覚しているのかは分からない。
「おい!!」
俺は健在な方の脚で奴の首のヒレを踏み、腹を蹴っ飛ばす。
軸足の定まらない一撃は蚊が刺す程度の痛みしかもたらさなかったのだろう。
奴は何度も何度も蹴りつけてようやく俺に首を向けた。
太古の魚竜を思わせる威容を前に息を呑む。
「こ、来い!! 来いよ!」
長い首が俺に向かって伸び、想像以上に長く太い髭を持つ顔が俺の目の前に。
やはり奴に目は無く、口は木のうろのようだ。
ほわああ、と腐った息が吐きかけられる。
捕食される恐怖は他のあらゆる感情を塗りつぶした。
歯の根が合わなくなり、膝が笑い出す。
今すぐ逃げろ、今すぐ逃げろ、と全身の細胞が警告を発する。
「おじさん! や、やっぱり私がっっ!!」
肉袋から顔を出した温州が叫ぶ。
技術なら彼女の方が上でも、単純なパワーならまだ俺の方が上。
そう言い聞かせて、この役割を奪い取ったのだ。
「ダメだ! お前は後詰めだ!」
頭を抑えつけるように怒声を放つ。
ジンジャーも今は大人しくしていた。彼が走り回ると青目の巣の注意がそちらへ向いてしまう。
すうっと温州が息を吸った。
「おじさん!! 頑張ってっっ!!」
ああ、と巨竜の口から数十センチの距離で頷いた。
すぐ近くに虚ろな目をしたナタネが見える。
逃げるか。逃げてたまるか。
ぽっかりと開いた口が俺に迫り――――
飲み込み、持ち上げる。
ぐんぐん地面が遠ざかる。
息が詰まる。
顔が潰れそうになる。
脚をばたつかせる。
次の瞬間、口内へ道連れにした「骨針」を奴の下顎に思い切り突き刺す。
鋭い黒目の刃はドジョウの肉を裂き、貫通して飛び出した。
痛覚があったのか、それとも針越しに異様な気配を察したのか。
青目の巣は呻くようにして俺を地上へ吐き出す。
「ふべっ!!」
潮臭い唾液にまみれて海岸を転がる。
数メートルの高さから落下したことでごろごろと転がった俺はあまりの痛みにそのまま丸くなった。
もう立ち上がれない。少なくとも一分は無理だ。
――――だが。
だがこれで。
これでたぶん、『獲った』。
首を元の高さに戻そうとした青目の巣がぴたりと頭を止める。
それはそうだ。俺が突き刺した骨針は刺繍針のように細い穴が開いており、赤目の腺が結ばれているのだから。
その腺は釣り糸であると同時に巾着袋の口紐だ。
赤目のヒレを使った巾着袋は蓋無き甲羅の中に敷き詰められている。
つまり。
引けば袋の口が縛られる。
縛られそして――――青目共が網に捕らえられる。
「!」
ぎぎぎぎぎ、と巨竜の首の筋肉が軋む。
奴の顎には今、青目共の全体重がのしかかっている。
にも関わらず奴は首をしならせてそれを持ち上げようとする。根がかりを起こした若い釣り人が竿を必死に持ち上げようとするように。
ばちゃばちゃと異変に気付いたウツボ共が騒ぎ出す。
だが遅い。
甲羅に敷き詰めた赤目のヒレはすでに一つの袋と化し、奴らを包み込んでいる。
奴らの歯で赤目のヒレを破ることはできない。
俺は途方もないパワーを発揮する魚竜の首を見上げていた。
盲目の竜は自らが何をやっているのかも知らないまま、ぶおんと首を振り上げた。
「じゃあな」
ぬめるウツボ共を詰め込んだ巾着袋が甲羅を飛び出し、宙を舞った。
そこに小さく開けた穴からぴゅーぴゅーと海水が間抜けに噴き出している。
どぢゃんと海岸に落下したそれはきつく口を縛られており、内側からは開けられない。
大暴れするウツボ共に合わせて袋は揺れるが、それを引っ張っていた青目の巣は首に深刻なダメージを受けたことで虫の息となっている。
温州が飛び出し、ジンジャーが飛び出す。
介錯には十数分を要した。
びたびたと海岸を打っていたウツボの群れが一匹また一匹と動きを止める。
赤目のヒレの中で青が濃度を増していく。
巨竜の尾が海岸を打つ音が小さくなっていく。
聞こえるのは数時間にも及ぶ作戦行動で疲弊した俺達人間とジンジャーの荒い吐息だけ。
温州に救出されたナタネも息を吹き返している。
海が静けさを取り戻した。
「まだだっっ!!!」
あらん限りの力を込めて怒鳴る。
「まだだ!! まだだぞっ!!」
俺は皆を叱咤し、自らの闘志も奮い立たせる。
だがその必要はなかった。
温州も、ナタネも、ジンジャーも。皆、気づいている。
緑目が襲い掛かってくるならこのタイミングだということに。
俺たちは決して油断しなかった。
「あいつは!!?」
「います! あそこっ!!」
「ジューグッ!」
ナタネが指差す先、かつて波打ち際だったその場所に巨大な白サンゴと盾鋏が鎮座していた。
月光と黒い海を背にした緑目のマトゥアハ。
その不気味なシルエットは健在だ。
(まだ来やがらねえのか。一体――――)
俺たちは決して油断しなかった。
そう。
誰一人として『油断』しなかった。
俺たちは緑目の襲来を予見していた。
だから一斉に奴を見た。
――――『一斉に』。
つまり、俺たちは隙を晒した。
ホースから飛ぶ飛沫のように、鮮血が貝殻海岸を汚す。
振り返る。
串刺しにされたジンジャーが宙に浮いている。
その向こうから、巨大な緑色の瞳が俺を見つめていた。
幼稚な鋏しか持たないウミサソリ。
遠い海で、中身の無いサンゴの殻と切り落とされた盾鋏とがごろりと転がる。
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