第16話 雨の海
嘘だ。
まず驚愕が胸を打つ。
白浜に散った赤い血は彼岸花のような痕を残していた。
串刺しにされたジンジャーの向こうでは巨大な緑の目が爛々と光る。
かつて恐るべき盾鋏のあった場所には左右一本ずつの未熟な爪が生えており、その一本が白犬を捉えていた。
眼前のマトゥアハは俺の知る『緑目』ではなかった。
巨大なサンゴの殻を脱ぎ捨てた奴の胴体は草履のように平たく、尾へ進むにつれ蚊取り線香のように丸まっている。
胴部の前方は申し訳程度の殻で覆われているが、下半身に当たる部分は「むき身」だ。
肉質はいかにも軟らかそうで、夜目にもぷるぷるしているのが分かる。
ぼっ、と。
発火するような怒気が誰からともなく発せられた。
副腎髄質から分泌されたアドレナリンが秒速数十センチにも達する血流に乗って全身へ。
一拍、二拍、三拍で燃え上がった俺の肉体が痛みを忘れ、快楽すら超えた憤怒の恍惚に飲み込まれる。
「ジンジャーッッ!!」
「ァ、アアアアアッッ!!」
「お前ぇぇっっっ!!!」
地を蹴った俺達は一斉に奴へ飛びかかる。
髪を振り乱しながらも温州は冷静だった。
彼女はジンジャーを串刺しにした爪の方へ飛び込み、渾身の力を込めた突きを放つ。
ぶじっと緑色の瞳に骨の槍が突き刺さったところで、反対側の爪目がけて『腺』を放った。
今しがたナタネから外したばかりの青目の腺だ。
「今ですっっ!!」
鎖でも絡んだかのように緑目が爪を振り回す。
多脚のマトゥアハは不幸にも爪と脚とを腺に絡め取られ、姿勢を崩していた。
そこへ俺とナタネが飛びつく。
「らあああああっっっ!!!!」
「アアァァァッッッ!!!」
二人がかりで槍を掴み、鍋の中をかき混ぜるような動きでめちゃくちゃに眼球を裂き、砕き、潰す。
ぶじゅぶじゅとゼリー状の保護液が飛び散り、眼球の破片が飛ぶ。
マトゥアハがもがき、ジンジャーの体が海岸へ飛んだ。
「っ! 離れろナタネッ!!」
ヤドカリが攻撃に転じる気配を察し、俺は少女を抱きかかえた。
「アアアア!! ウアアアアアアッッ!!!」
ナタネは狂った獣のように泣き叫び、脚をばたつかせていた。
その爪が俺の腕を傷つけ、顔を引っかくも褐色の少女はめちゃくちゃに手足を振り回す。
「やめろ!! おい!」
爪と脚に腺を絡ませたマトゥアハが蜘蛛のごとく跳躍する。
それはひどく無様なもので、奴は生物にあるまじき失態を晒した。
すなわち、着地に失敗してひっくり返ったのだ。
土と貝殻が巻き上がり、小さな地響きすら感じる。
「……!」
緑目はじたばたと脚を動かして持ち直すも、釣り糸のように腺の絡んだ歩みはぎこちない。
半身を引きずり、片目となった奴はじりじりと後ずさった。
剥きたての果肉を思わせる下半身が地を這うと、貝殻がべったりと貼りつく。
何て醜いんだ。
俺はそう感じた。
シャコとウミサソリを足した胴体にヤドカリの柔らかい腹。
左右非対称な上に脆い部位までさらけ出している。
奴は醜かった。
このマトゥアハは大きな殻を被らなければ軟弱な恥部を晒してしまうのだ。
生物として完成されたフォルムを持つ他の怪神と比べ、緑目のマトゥアハは明らかに未熟だった。劣っていた。
――――だが。
(この野郎……!! 奇襲じゃなくて『騙し討ち』しやがったのか……!!)
奴は完全に俺たちの虚を突いた。
緑目のマトゥアハはサンゴの殻を捨て、醜い恥部をさらけ出した。
おそらくは牡鹿にとっての角のように誇示すべき部位であろう盾鋏を切り落とし、囮とした。
俺達の注意が一点に集中する瞬間を予測し、そのほんの僅かな隙を捉える為に三日間もの間、痴愚を演じた。
そして最後の最後に「奇策」を採った。
奴は生物として人類より、犬よりも遥かな高みに居る。
なのに、奇策を採った。
これは格下が格上を食う番狂わせ(ジャイアントキリング)ではない。寡兵が一個師団を破る奇跡の兵法でもない。
ちっぽけな俺たちなど真正面からねじ伏せれば十中八九勝てると分かっていながら、奴はあえて奇策を採った。
青目と共に襲い掛かれば一人か二人は殺せる目算が高いというのに、あえて奇策に走った。
理由は一つ。
絶対に、万が一にも負けないため。
傲慢と嗜虐の末に散った無様な奴らと同じ末路を辿らないよう、奴は正面対決を避けた。
黒目や赤目が僅かな隙を突かれ敗北したことを知っているからこそ、99%の勝利を疑った。
そこにあるのは弱者を踏みにじって笑う卑劣さではない。
石橋を叩いて渡る慎重さでもない。
まして器の小ささなどでもない。
そこにあるのは、万に一つも敗北したくないという強い想い。
どんな弱者であれ、己に土をつけかねない生き物は全力で仕留める。
鳴かないホトトギスに向かって太刀を抜き、鞘当てしたからには童(わっぱ)すら切り伏せる。
格下相手に奇策を用い、死力を尽くす屈辱。
そうまでして奴が護りたかったのは――――
――――怪神としての誇り(プライド)。
緑目のマトゥアハは己を支える矜持のためにすべての恥をかなぐり捨てたのだ。
神である自分がちっぽけな人間に負けるわけには行かない。負けていいはずがない。
そのプライドが奴をここまでの極端に走らせた。
その事実に気づいた瞬間、俺の背に恐怖とも違う震えが走った。
ごく微量の畏敬と恍惚の混じる、奇妙で激しい感慨だった。
これまでの人生において一度も感じたことのない、得体の知れない感情によって俺の鼓動は更に早まる。
そうだ。
思えば最初の夜、こいつは全力で俺に襲い掛かって来た。
こいつだけは初めから全力だったのだ。
命がけの戦いの最中らしからぬ思考に浸っていた俺の視界が、がくっと斜めに揺れる。
「ぁ……?」
見下ろせば青目にやられた脚が曲がっている。
膝から崩れた俺は、もうそれ以上立ち上がれないことを悟った。
「お、おじさんっ!!?」
緑目は深追いをせず、そのまま海へと消えていく。
殻を脱いでいるせいか、足音は小さい。
最初の夜、こいつはこうやって民宿に忍び寄ったのだ。
「待て……待てよっ!!」
腕がずしんと重くなる。
膝に置いた手に力が入らない。アドレナリンによるブーストも限界だ。
汗でびっしょりと濡れた顔。
視線が自然と下へ落ち、俺は貝殻の山を見る。
んぐ、と唾を呑んで再び顔を上げた。
(ジンジャー……)
白犬はぴくりとも動かない。
おびただしい量の血液が浜に広がり、むっとするような鉄の臭いをまき散らしている。
「くそっ!! くそおおおっっ!!!」
だがこのままではおかない。このままでは。
たとえ今夜死ぬことになっても。あいつは殺す。ぶっ殺す。
「待……でっ!! 待でええっっっっ!!!」
罠の仕込みもなく、青目と戦って満身創痍の俺達。
その俺たちにすら油断しないのか。
油断してくれないのか。
あと一歩踏み込んで鋏を振り回せば、お前は俺たちを皆殺しにできるんだぞ。
お前は強いんだ。
ヒットアンドアウェイなんてやらなくていいはずだ。
さあ来い。
来て俺たちを殺してみろ。
来い。刺し違えてでも殺してやる。
――――殺してやる!
「逃げ、るな!!」
緑色の巨眼が遠ざかる。
奴は慎重に、あくまでも慎重に距離を取る。
「逃げんな……逃げんなあぁっっ!!!」
祈るように、挑発するかのように奴へ手を伸ばす。
だが緑目のマトゥアハは退却の意思を変えなかった。
奴は敵が自分より愚かであることを期待していない。
奴は相手が自分より賢いかも知れないと、絶えず思考し続けている。
俺がどれほど卑屈に振る舞っても、奴は油断をしないのだ。
神の目を盗み、不意打ちで勝利をもぎ取ってきた俺の「卑屈の盾」は奴には通用しなかった。
もつれた腺も、短いサーベルの鋏も、傷ついた片目も、夜の海へと消えていく。
ざぶざぶと多脚が波打ち際へ達する。
「ゥ、ゥ、う、ああああああっっ!! ああああっ!!」
ナタネは半ば錯乱したかのように叫ぶ。
緑目にUターンされれば命がないことを知っている温州が必死に少女を押さえつけていた。
「ダメっ!! ナタネちゃんだめだからっ!!」
緑目のマトゥアハは仲間の死骸には目もくれず、サンゴの貝殻へ身を入れた。
そしてただ一つのアドバンテージもやらんとばかりに盾鋏を体で押し、海へと消えていく。
後に残されたのは、潮騒。
糸を掴むようにして意識を繋ぎ止める俺、喘ぐように荒い呼吸を繰り返す温州。
そしてナタネの激しい慟哭だった。
血だまりの中で、ジンジャーは既に事切れていた。
昔、飼っていたハムスターは死ぬ時に一際大きな声できゅうんと鳴いたものだが、俺はこの小さな戦友の末期の声すら聴くことはできなかった。
白い体は抜けきった血液の分だけ軽くなっており、俺は老いた親でも抱いている気分になる。
柔らかさと温かさの失われていく彼を連れ、俺達は虚しい凱旋を果たした。
墓は見晴らしの良い場所に作った。
温州が風呂のようにたっぷりと花を敷き詰めたのは餞(はなむけ)のためだけではなく、腐臭を防ぐ意味もあるのだろう。
ナタネは声を上げて泣いていた。
温州もまた、拳を握りしめていた。
俺は泣かなかった。
涙を流せば彼に吠えられる気がしたからだ。
そして死んだのが二人の少女のどちらかでもなかったことに安堵している自分に気づき、その矮小さを呪った。
花びらの布団に包まれたジンジャーを埋葬し終える頃には、空が白み始めていた。
「私はこんな化け物の中に……」
紫女川(しめかわ)蘇芳(すおう)と名乗ったその少女は微かに眉を寄せた。
青目の肉袋に囚われていた彼女は背が高く、脚も長い。
手裏剣型のピンバッジを留めた制服は温州のそれと同じものだが、印象は全く異なる。
目も顔の輪郭もどこか丸っこい温州に比べ、彼女の瞳は切れ長で、頬から顎にかけてのラインもすっきりしている。
温州が女武者なら、蘇芳はトレードマーク通り物静かな忍者だろう。
その静謐な瞳はウツボと巨竜の死骸を前にしてもさほど揺らがない。
休めという俺たちの諫言に耳を貸さず、彼女は自らの置かれた状況を知りたがった。
「……みっちゃん」
それが温州のことだと気づくまでに少し時間が掛かった。
蘇芳の声は女にしてはやや低く、とても高校生とは思えない程の迫力がある。
灰色の炎に照らされる彼女の横顔は凛々しい。
「先生は?」
温州は無言で首を振った。
蘇芳は一瞬険しい表情を見せたが、俺が割って入る。
「たぶん最後の化け物の中だ」
「緑目のヤドカリ、ですか」
彼女の問いに俺は小さく頷いた。
マトゥアハ。無人島。そして俺。
彼女への説明は温州の時より短く済んだ。
なぜなら蘇芳は俺達がジンジャーを埋葬している間に自力で息を吹き返し、巨竜の死骸を検めていたからだ。
それどころか、落ちていた黒目の骨刀を腰に吊るしていた。
浜へ戻った俺たちの足音に気づいた彼女は、まず真っ先にそれを構えたのだった。
「どの道、そいつを殺さないことには帰れないんですよね」
「うん」
温州は疲れ切った横顔を見せる。
「しめちん、手伝ってくれる?」
「もちろん」
蘇芳は落ち着いた口調で告げた。
心強いことだ。
「……」
蘇芳はボロボロの俺を見、憔悴した温州を見、俺に背負われたナタネを見やる。
褐色の少女は泣き疲れて眠っていた。
俺もまた、責任感と罪悪感がなければすぐにでも意識を手放してしまいたかった。
手はじんじんするし、傷ついた脚は氷のように冷たい。
「誰か死んだんですか」
喪失の空気に気づいたのか、蘇芳は無遠慮にもそう言い放った。
本来なら喜ぶべき事態だ。
彼女は死を口にする程度には冷静だということなのだから。
だが俺は彼女の命がジンジャーの命と等価交換されたことに対して理不尽な苛立ちすら感じた。
いけない、と小さく頭を振る。
この状況下で感情的な言動をしてはならない。
「……犬が一人な」
「そうですか」
素っ気なくそう言うと、蘇芳は白いカッターシャツの裾をスカートから出す。
そこには細いベルトが巻かれていた。温州は巻いていないので、ファッションの一環なのだろう。
紫女川蘇芳(しめかわすおう)はベルトをたすき掛けに巻いた。
吊るされるのは刀が一振り。
ポニーテールが潮風に揺れる。
「私にその犬の代わりが務まるのかは分かりませんが――――」
骨刀の柄を握り、蘇芳は暗い覚悟の表情を見せた。
「死ぬ気で励みます」
彼女の瞳には強い光が灯っていた。
微かな怒りを含んだ視線にはっとする。
そうだ。
打ちひしがれている場合じゃない。
水を得、食い物を得、奴を殺す算段を整えなければ。
俺は取り乱してはならない。しかし、足を止めて思考や感傷に耽ってもいけない。
どっしりと構えなければならない。
氷のようだった脚に血が巡り、俺は激痛を思い出す。
「おじさん」
隣に立つ温州が俺の肩に頭を預ける。
その震動にすら俺の身体は悲鳴を上げた。
休もう、と俺は短く告げた。
翌日の朝食は陰気なものになった。
何かうまいものがないかと俺の膝やナタネの尻を嗅ぎまわるジンジャーの姿は無い。
尾が目の前で揺れたり、つぶらな瞳が寝起きの目を覗き込んだり。
温かい体をこすり付けたり、くうんと愛想を振りまいてみたり。
もう二度と見ることのない姿を思い出す度に俺は湿った感情が湧き上がるのを抑えられなかった。
青目に噛まれた脚の痛みは幾らかマシになった。
人間は自己再生する生き物だ。傷口には分厚い瘡蓋(かさぶた)が生まれ、
最も深刻なダメージが予想される腕には、今のところ大きな変化はない。
丸太程に膨らんでいた腕の痛みと痺れは治まりかけていたが、まだ予断を許さない状況だ。
何せ昨夜、赤目の刺胞を被ってしまったのだから。
「アナフィラキシーショックを起こさなくて良かった」
味の薄いバナナを食いながら、蘇芳がそう告げた。
彼女の上半身は今、水着風のスポーツブラ一枚だった。
色はグレーで、素材は程良く柔らかい。スポーツトレーナーが身に着けるインナーに近いだろう。
そこにベルトを巻き、刀を差している。
彼女のカッターシャツは俺の脚を巻く包帯として利用されていた。
一部はストックされている。骨折や脱臼、それに止血布として使うためだと彼女は言う。
「アナフィラキシーショック?」
温州が首を傾げる。
彼女もカッターシャツの腹周りを切り取って衛生兵の腕章のごとく二の腕に巻いていた。
丈の極端に短いシャツはアメスクを連想させる。
「蜂に二度刺されると死ぬという、アレです」
「ああ……。そっか。クラゲの毒も毒だから」
「そう。おじさまはショック死する可能性があった」
ぞっとする。
正しい知識を持たないということは、かくも危険なのだ。
「まあでも……躊躇できる状況じゃなかった」
俺が言い訳がましく言うと、蘇芳は素直に頷く。
「はい。結果的におじさまの判断は正しかったのではないかと」
ただ、と彼女は付け加えた。
「二度目の接触がどんな反応を起こすか分かりません。毒の種類によっては一度目よりぐっと症状が軽くなるケースもありますが、その逆もありえる」
「……」
「遅効性でしたよね。覚悟は決めておいてください」
「ちょっとしめっち」
温州が腰に手を当てる。
声音は優しいが怒りの色が見えた。
「そういう不安になること言わないで」
「事実は事実でしょ、みっちゃん」
「不吉なこと言うと本当になるの。言霊って知らない?」
「オカルトは信じてないの。ごめんね」
蘇芳は肩をすくめた。ちっとも謝る気の無い所作に温州がぷううっと頬を膨らませる。
まあまあ、と間に入った俺は蘇芳の腕の筋肉にやや驚いた。
「……何かスポーツやってるのか。蘇芳」
「実家が忍者の家系でして」
「オカルトは信じないんじゃないのか」
「期待なさっているようなことはできません。ボーイスカウトのようなものだと思って頂ければ」
「ボーイスカウトか」
「どちらかと言えば体育教室ですかね。夏にはサマーキャンプをやりますし、冬には子供達をスキーに連れて行きます」
「だから毒にも詳しいのか」
「保護者へのエクスキュースの意味もあります。今は専門家様が多いので」
若いのにしっかりしているな、と感心しつつ少女に水を向ける。
「ニンジャだってよ、ナタネ」
「……」
沈鬱な表情をしたナタネは案の定、返事をしなかった。
大きな葉を笹舟のように畳んだ皿の上には、まだ手付かずのバナナが残っている。
「ナタネちゃん? 食べよ? ねっ?」
気丈に振る舞う温州は何度となく彼女に話しかけていたが、返ってくるのは二言三言だけだ。
蘇芳が目を細め、ちらと俺を見た。
分かっている、と俺は頷き返す。
食欲とはすなわち生への意思だ。
今、ナタネの活力は完全に削がれている。
ジンジャーの死が彼女までもを死へ引っ張って行こうとしている。
止めなければならない。
このままでは彼女は衰弱に飲まれてしまう。
だが言葉も通じないのにどうやって慰める?
立ち直れ。言うのは簡単だ。
俺はそれをどう伝えればいいのだ。
むしろいっそ――――
(……)
蘇芳と温州。
武器を持てる二人が仲間に加わったことで俺の心に打算が生まれた。
戦えないナタネはいっそ見捨ててしまえばいいのでは、と。
彼女が立ち直ろうと立ち直るまいと、死のうと死ぬまいと大勢に影響は無――――
(ふざけんな)
ぱんぱん、と頬を叩く。
ナタネも温州も蘇芳も。
この三人の命こそが大勢だ。
「……おじさま」
味の薄いバナナをぱくついていた蘇芳が天を仰ぐ。
「どうした」
「頭痛がします。気圧が下がってるようです」
「気圧?」
「ええ。雨が降るかも知れません」
空は僅かにくすんでいた。
「……雨、ってことは」
「水……」
果たして僅か数分後、俺達の世界はバケツを逆さにしたような雨音に覆い尽くされていた。
ガトリングガンを百挺並べてぶっ放してもこんな音は出せないだろう。
日本の雨ともまた違う、熱気を伴う豪雨が葉を打ち、幹を打ち、土を打ち、貝を打つ。
跳ね返った水は蒸気となって足元に煙り、咳き込むほどに濃厚な霧と化す。
「お、おじさん鉢っ、鉢鉢鉢っ!!!」
温州と蘇芳は大慌てで水を溜める道具を集めに走る。
赤目のヒレの一枚を失った今、水を得る手段は貴重だ。
この機会を逃すわけにはいかない。
「窪んでるものなら何でもいい!! 石でも、骨でも!」
蘇芳だ。
「でも植物は使わないで! 何か溶けだすかも知れない!」
「分かった!」
俺たちはバナナを放り出して島へ走り出した。
温州は内陸部へ。蘇芳は集落跡へ。
ナタネは――――
「ナタネ?」
少女は姿を消していた。
それほど時間は掛からなかった。
俺は海岸で彼女を見つけていた。
「……ナタネ」
俺の思った通り、彼女は『奴ら』の傍にいた。
倒れ伏した青目の巣。
そして巾着袋に包まれたままの青目。
ナタネは刃を手にしていた。
黒目の歯で作ったナイフだ。
がじゅっ、がじゅっ、がじゅっと。
ナタネは無心で巨竜に刃を突き立てていた。
岩石に鑿(ノミ)を立てる彫刻家のような動き。
巨竜の体に血が滲み、豪雨に洗われる。
肉がほじられ、雨に溶ける。
それでも彼女はやめなかった。
「ナタネ」
雨音の隙間から低い唸り声が聞こえる。
犬のような声だ。
「……ナタネ」
肩を掴み、振り返らせる。
眦(まなじり)も裂けるほど、かっと見開かれた少女の目は吊り上がっていた。
口角は笑みに見紛うほど不気味に引き攣り、白い歯がむき出しになっている。
夜叉の形相とはまさにこのことだ。
瞳にはどす黒い感情が淀み、俺の名を呼ぼうともしない。
「憎いか」
ぐるるる、と彼女は死した友よりも獣じみた唸りを発する。
俺はしばし天を仰ぎ――――
彼女に一回り大きな剣を渡した。
「……!!」
温州が予備として用意していた剣を渡され、ナタネは暗い喜びを露わにする。
俺は彼女の背後に回り、そっと手を添えてやった。
「こうやってな、握るんだよ」
ナタネの体を後ろから包み、二人羽織りのようにして剣を突き出す。
突き出す。
突き出す。
猛烈な雨は俺の腕の熱を冷まし、脚の傷を刺激する。
伸びっぱなしの髭に雨粒が溜まり、薄くなりつつある髪越しに頭皮が心地良く濡れる。
「斬るな。刺せ。……こうだ」
ぐっと引き、突く。
ぐっと引き、突く。
少女の体温は高く、息遣いには興奮が混じる。
「突いたら、こうだ」
突いた後、手首を捻る。
突いた後、手首を捻る。
「……」
ナタネは俺が手を離した後も無心で剣を振るっていた。
やがて少女は巨竜へ近づき、レクチャーされた通りに肉をほじる。
ぐじゅりと突き刺し、ごじゅりとこじる。
ぶじゅっと突き刺し、ぐじゅんとこじる。
血が跳ねる。
それ以上に雨が跳ねる。
かつて姪っ子のように懐いてくれたあの愛らしい少女は今、復讐鬼へと変じた。
青目の巣という格好のサンドバッグに、彼女は何度も何度も刃を立てる。
全身を濡らす恵みの真水に目も向けず。
褐色の少女は全身を鞭のごとくしならせてマトゥアハに剣を突き刺していた。
「……」
もしかしたら俺は破廉恥なことをしているのかも知れない。
だが喜びや楽しさでは決して拭えない傷もある。
もし彼女が立ち上がれないというのであれば、そしてそれが死につながるというのであれば。
怒りの業火に薪をくべるしかない。
俗に、嫉妬は身体に悪いと言われる。
憎悪は人品を腐らせるとも言われる。
名著と呼ばれるビジネス書や自己啓発書、生活書において、ネガティブな感情は何一つとして良いものを生み出さないと忌避される。
笑え。
前向きに考えろ。
ポジティブであれ。
憎むな。
妬むな。
僻むな。
怒るな。
――――くそ食らえだ。
ネガティブな色を抜いた絵の具で一体何が描けるというのか。
わざとらしく二本入った白と金色の絵の具だけでは人物はおろか風景すらも描くことはできない。
憎悪の黒にも、憤怒の赤にも、悲壮の青にも意味がある。
人間的な感情の発露に悪があるのならヤク中のナメクジにでもなればいい。
幸福だけが人生じゃない。
人生は喜怒哀楽の粘ついた濁りに彩られている。
破滅的な感情に飲み込まれたのなら、憎悪を側杖(そばづえ)に立ち上がってもいい。
そうだ。
立ち上がれ。
打ち負かされたまま弱り果てることに正しさは無い。
汚泥のような感情に塗れてでも立ち上がれ。
俺が今、この子に教えてやれるのはそれだけだ。
無心で剣を振るうナタネは血と脂を浴びていた。
肩を上下させ、汗を雨で流している。
ナタネ、と俺は呼びかけた。
「帰ろう。水を溜める」
俺が肩に手を置くと、ナタネは蒸気機関車のように熱い息を吐いた。
ふじゅうう、と。
「食え。食って休め。あいつを――――」
煮立ったように泡立つ海を振り返る。
海にはまだ、奴の姿は見えない。
緑目のマトゥアハ。
俺達が対峙する最後の怪神。
「あいつを殺す為にな」
最後のマトゥアハが現れるまであと二日と半。
水、余るほど。
食料、まずまず。
武器、まずまず。
作戦、少々。
仲間、あり。
心持ち、最悪。
――――されど充溢。
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