第28話 夢のシ毎

 

「――――」


 翡翠の尾を持つイモガイに手を伸ばしかけ、俺は静止していた。


 意識は相変わらず混濁したままだ。

 肉体もまた濁ったぬかるみに浸かっている。

 胸の奥から絶え間なく湧き出す失意と後悔の泥。

 己のすべてが泥へ溶けていく心地良さの中、ふと思う。


 本当に幸せの記憶で人生を塗り潰すのか。

 ――――本当に何もかも忘れていいのか、と。


(……)


 何を言っているんだ、と理性が俺を諭す。


 忘れたくない記憶なんて無いだろう。

 かけがえのない記憶なんて無いだろう。

 親は俺に失望した。

 友は俺の元を去った。

 社会は俺を拒んだ。


 ほら、俺には何も無い。


 俺の記憶を満たしているのは目も当てられないほどの後悔と屈辱だけ。

 頭から尻尾まで隙間なく汚泥の詰まった鯛焼きのようなものだ。


 そんなものしか残っていないのなら。

 惨めな記憶を差っ引いた時、そこに何も残らないのが俺の人生だというのなら――――


「……」


 『そんな記憶しかないのなら、何もかも忘れてしまえばいい』。


 そう続けようとしたところで、気づく。


 惨めな記憶を差っ引いた時、そこに何も残らないのが俺の人生だというのなら。

 俺の半生を満たしているのが恥と後悔の記憶だけだというのなら。




 それこそが。


 それこそが俺の人生だったのではないか、と。




「!」



 そうだ。



 ――――そうだ。 



 俺の『中身』はこれだ。


 鯛焼きの中に餡子が詰まっているように。

 エクレアの中にクリームが詰まっているように。

 俺の心と身体の中にはどうしようもなく惨めな記憶だけが詰まっている。

 隅々まで。隙間なく。みっちりと、恥と屈辱だけが詰まっている。


 だったらそれが――――それが俺の『中身』だ。

 穿き古して湿った靴下よりもひどい悪臭を放つ記憶だけが俺を形作るすべてだ。

 どんなに渇望しようと俺は逃れられないのだ。この湿った敗北感から。



 なら――――



 ――――ダメだろ。捨てちゃ。



「……!」


 いくら臭くて汚くても、これが俺の中身なら。

 入れ替えちゃダメだろ。綺麗で美しい、清らかな未来なんかと。

 塗り潰しちゃダメだろ。幸福な記憶なんて虹色のまがい物で。


 鯛焼きから餡子を抜いてラーメンを詰めて。

 エクレアからクリームを抜いてカレーを詰めて。

 それで、そいつは一体何になるんだ。


 俺の「中身」は何物にも代えられない。

 代えさせてはいけない。



「……アー……」



 深い淀みの中で、俺はゆっくりと汚泥を吸い込む。

 否、鈍化した時間感覚の中で汚泥と錯覚するほど粘りを帯びた空気を吸い込む。


 空気。

 そう、これは空気だ。

 吸って、吐く。


 ぼここ、と培養液に浸された人間が呼吸をするように大きな泡の塊が立ち昇る。

 俺はうっすらと目を開けた。


「……」


 視界は未だ歪んでいる。

 無色不透明の膜が俺を包み、女たちが、海が、神が、その向こうにいる。


 気だるさは拭えない。 

 ひどい不快感と倦怠感がなおも俺を蝕んでいる。

 頭の中には何一つとして明るい考えが浮かばず、未来の見通しも立たない。

 快楽の衝動はいまだ拍動に乗って全身を巡っており、俺がたどり着いた真実すらも指の隙間からこぼれ落ちてしまいそうだ。


 毒だ。

 翡翠の毒と銀の毒が俺の血中で蠢いているのだ。

 こいつらが居る限り、心はともかく身体が動かない。


 なら消えてもらおう。



 ――――どうやって?



 もちろん、こうやって。



 貝殻を掴んだ俺は拳を喉へと突き入れる。

 初めて怪神と戦った夜と同じように。いや、あの時よりも深く。

 ハンバーガーよりでかい拳で顎関節が外れかけ、タニシのような貝殻が喉の肉をがりがりと削り、胃袋へと落ちていく。

 そして食道で引っかかり――――


「うっ……おろええええええっっっ!!!」


 ばらばらと貝殻が地を打つ。

 唾液と血が飛び散り、あっという間に胃袋がひっくり返る。

 四肢に力が戻っていたらその場に伏していただろう。


「おぼっ、おぼるうううえええ、うううううえええええっっっ!!!」


 激しい嘔吐の際、人は「お」より「う」を多く発する。

 吐き出そうとする意思が胃の自然な反応に先立つ。


「ううううえええっっ、えええええげええっっ!!!」


 俺はへたり込んだまま、体をくの字に曲げていた。

 びちゃびちゃと吐き出す。ありとあらゆるものを吐き出す。

 翡翠の毒。銀の毒。

 鼻に詰まった汚泥。喉に詰まった汚泥。耳に詰まった汚泥。

 腐った思考。濁った感情。淀んだ決意。

 血も、肉も、骨も。

 俺という男を構成する惨めな記憶以外の全てを吐き出す。



 嘔吐は数分続いた。



「ふ、っぐ」


 涙で歪んだ視界を拭い、鼻水を拭う。

 はー、はー、と喘鳴を繰り返しながら最後に口元を拭うと意識が明澄さを取り戻した。


 視界が広がり、耳が波の音を捉える。

 ざざあ、という穏やかな朝の波。波間から届くのはあられもない嬌声。


 海だ。

 俺は貝殻海岸にいる。

 マトゥアハがいる。女たちがいる。老人がいる。

 老人は目を見開いており、俺に振りほどかれた女たちは辺りに這いつくばっている。

 神だけが、どっしりと構えて俺を見つめている。


 口の中は塩辛い味でいっぱいだった。

 唾液ごとそれを飲み込み、立ち上がらんとして片膝をつく。


「……」


 目を下ろせば小さなイモガイが翡翠色の尾を振っていた。

 幸せになれるのに、幸せになれるのに、と。


「うるせえ」


 奴をひっくり返す。

 水槽越しに見たカタツムリのような腹が見える。


「……大きなお世話だ」


 尖った貝殻をイモガイの腹に突き刺す。

 湿った肉がぎゅうっと収縮する感触。びちびちとヒレ脚が揺れていた。


 ――――視線。


 十メートルも離れた場所で黄土色の殻に覆われた怪神が身じろぎする。

 驚いているようにも見えたし、嘲笑っているようにも見えた。

 俺の近くに傅いていた老人は慌てたように舟へと逃げだして行く。


 ずりり、ずりり、とマトゥアハが貝殻の上を這う。

 黄土色の殻に刻まれた無数の目の紋様が俺を見つめている。


「何笑ってんだよ。……次はてめえだ」


 さあ、俺よ。

 謎を解け。

 不死身の怪神マトゥアハの秘密を。弱点を暴け。


 本当にこいつが無敵の怪物ならあの四体の守護者なんて必要ない。

 こいつは何かを隠している。

 それを暴く。暴いて、殺す。


 最後の怪神を殺すのも、俺だ。


(……怪『神』?)


 くくっと喉から笑いが漏れた。

 何が神だ。



 俺の人生(みじめさ)を否定するような奴が、俺の神であるわけがない。



 俺は立ち上がる。

 いつものように、ずいぶんと時間をかけて。







 よろめきながら、赤熱した炭を思わせる鮮やかな二対の剣を拾う。

 身の丈すら超える波刃諸手剣と、太刀ほどの長さの一振り。かつて俺が打ち破った神の残骸だ。

 弓手(ゆんで)に剣。馬手(めて)にも剣。

 これでいい。準備はできた。


 仔牛ほどもある大きな稲荷寿司を見据える。

 奴は二対の尾をひゅひゅん、ぴひゅんと振り、俺を嘲笑っている。


 残された時間はゼロ。


 水、ゼロ。

 食料、ゼロ。

 作戦、ゼロ。

 仲間、ゼロ。

 武器、あり。


 この剣の他にあるのはたぶん――――

 たぶん、意地だけ。



 俺は地を蹴って走り出す。





 ――――





 ――――





 数歩駆けたところで急停止し、最後に一度だけ振り返る。




 温州、蘇芳、ナタネ、胡麻堂教諭。

 嘔吐の際に跳ねのけられた女たちは虫の息の中、俺を見上げていた。

 焦点の定まらない瞳には理性の光がある。毒が抜けかけているのだろう。


「……」


 何か言わなければ。


 俺が死んだら彼女達も死ぬ。

 そうならないよう、戦っている隙にうまく逃げ遂せてほしい。

 今なら舟を奪える。温州、蘇芳。頼む。先生はナタネを頼む。


「……」


 言え。

 何か言え。

 この子達を送り出せ。

 送り出すのが大人の役目だ。



 『俺のことはいいから逃げろ!』

 『舟だ。舟へ行け!』

 『達者でなお前ら!』



 違う。違うな。

 そうじゃない。


 ――――『送り出す』。


「!」


 そう言えば高校の時、国語の教師が教えてくれた言葉がある。

 卒業する俺たちに贈った言葉。

 確かスペイン語の挨拶で、直訳すると意味の変わる言葉。



 『Vaya con Dios』



 裸になった温州は虚ろな目をしたまま、なぜか泣いていた。

 同じく裸の蘇芳も。裸のナタネも。裸の胡麻堂教諭も。


 俺は笑った。



「……『Vaya con Dios』」



 

 さようなら。




 ――――神と共に往け。






 彼女達に背を向け、歌舞伎役者のようなポーズで二対の剣を掲げた俺は喉も張り裂けんばかりの雄叫びを上げる。

 耳が受容を拒否するほどの濁った大音響。



「――――――――――――――――ァッッッッッッ!!!!」



 走る。

 走る。

 砂を蹴散らし、貝を蹴散らし、波を蹴散らし。



 俺もまた、神と共に往く。


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