おじさんと海

icecrepe/氷桃甘雪

第1話 危難の海

 



 あなたが人生に何も期待しなくても、人生はあなたを待っている。




 これは第二次大戦中、強制収容所に収監されるという悲運に見舞われながらも生還した精神科医、ヴィクトール・フランクル氏の言葉だ。

 つまるところ、氏はこう言いたいのだ。「生きてりゃいいことあるよ」と。

 文字にすると薄っぺらいが、死にかけた人間が言うとずしりと重い。


 ――――『人生はあなたを待っている』。

 グっと来るフレーズだ。



 だが残念なことに、俺の人生とやらは俺を待ってはくれなかった。



 年を重ねていく毎に一日の終わりが速くなった。

 時は過ごすものじゃなく、通り過ぎていくものに変わった。


 俺の全身を通り過ぎる時間は輝かしい光などではなく、ただの砂。

 向かい風に乗った砂を浴びるようにして日々が、時が消化されていく。

 堆積する時間の砂が思い出の化石すら飲み込み、俺の視界からは光が消えた。


 俺の成功を、俺の幸せを。

 ほんの少し先で待っていてくれていたはずの人生とやらは、既にひからびた砂岩。

 かつて人生だったモノは、ぼろぼろの細粉となって日々俺を通り過ぎていく。


 未来の彩りは褪せ、輝きは失せ、みずみずしさは涸れてしまった。


 たぶん、こんなはずじゃなかった。

 ――――こんなはずじゃ。



 嫁もなく、職もなく。


 今の俺の財産と言えば、一度も運転しないまま更新し続けた運転免許と、漢検3級と、マネジメントなんて嘘でも書けない無残な職歴。

 もはや自然に落ちてこないほど肥大化した胆石。

 いつ痛風が発症してもおかしくない尿酸値と、高脂血症真っ只中のボディ。

 ブラジャーのように赤い形のついた男の巨乳。ベルトに乗る腹の贅肉。

 貯金は38万円。



 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



 ごおお、と異国のタイヤが異国の土を巻き上げる。

 周囲は一面の熱帯雨林。

 植物の青臭さより湿った土の匂いの方が鼻をつく。

 腕毛に絡みつく湿気は不快だが、日本の梅雨を思わせる懐かしい不快さだった。


 ェイ、と運転手が俺に声をかける。

 バックミラーに映るのは日焼けし過ぎて煎餅のようになった茶褐色の肌。

 それに日本では30年ほどセンスの遅れたサングラス。


「ガールズ? ガールズレディ、オーケー?」


「イエス。ガールズ。おーけー!」


 俺が親指を立てると、イェア、と運転手は山羊の鳴くような返事を寄こす。

 角度を変えてミラーを見れば、どこか虚ろな俺の顔。

 もしかしたらその表情に気が付いて、わざと盛り上げてくれたのかも知れない。

 何だか悪いな、と思いながら頬を無理やり吊り上げて笑い、森へ目をやる。


 キー、キー、と。

 猿とも鳥ともつかない生き物の声。

 いっそ動物に生まれていたらこんな惨めさも感じずに済んだのに。

 そう考えているのは俺だけだろうか。


 畜生道の方がだいぶマシでした。

 いつか仏様に会ったらそう言ってやろう。

 ――――いや、言えないか。

 自殺した奴が会えるのは地獄の鬼と閻魔様だけだ。 



 舗装されていない道を数時間も行くと、潮の香りが漂い始めた。


(海……?)



 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



 書類選考不採用の通知が100を超えた時、俺の中で何かが切れた。

 ああ、俺は社会に必要とされていないんだ、と。


 いや、違う。

 俺の築いて来た40年近い歳月が、他人様にとっては塵ほどの意味も持たないのだと知って絶望した。


 俺より若い受付の女。

 俺より若い面接官。

 俺より若い社長。

 もうそれらに妬ましさを覚えることすらなくなっていた。


 お願いします。

 どこでもいいんです。

 半畳分でもいいから、社会に俺の居場所をください。

 そんな願いを履歴書にしたためた。


 もちろん一通一通手書きだ。PCなんて軟弱なものでは俺の心が伝わらないからだ。

 職歴も。アピールポイントも。意気込みも。

 エントリーの度にきちんとその企業に合うよう工夫を凝らした。

 ほんの一言一句の違いだが、その行間に染みこんだ俺の情熱はきっと汲み取ってもらえると思っていた。


 だがそれすらも受領されることの方が珍しくなってしまった。

 紹介会社からの連絡も途絶え、無職の期間はどんどん長くなる。

 焦れば焦るほど不採用通知が来た時の失望も大きい。


 俺が送った履歴書はもしかしたら開封されることすらないままシュレッダーの裁断音に吸い込まれていったのかも知れない。

 八つ裂きにされる俺の写真。

 あんなにめかしこんだ俺の写真。

 不細工でもお袋に愛された俺の写真。



 気づけば俺の方も社会を、そして人生を必要としなくなっていた。



 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



「うっほ……」


 まるでブルーダイヤモンドを敷き詰めたかのような海。

 心までもが洗われるような心地良い潮騒。

 目を開いても閉じても爽快。天国はここにあった。


 白い砂浜へ踏み出した俺は、さくさくという感触を楽しむ。


(すげえな。金取れるだろこのビーチ……)


 ヤシの木とは少し違う、櫛歯状の葉を持つ木々が並ぶ海岸。

 辺りに目をやると高床式倉庫を思わせる粗末な家屋がぽつりぽつりと建っており、小さな集落を形成していることが分かる。

 よそ者の俺にも目を向けず、黙々と漁網を綯う(なう)連中はガイドと同じ赤銅色の皮膚を持っていた。


 老いも、若きも、男も女も。

 皆一様に頭を垂れ、世界の日陰で黙々と手を動かす。

 ライン工(こう)を想起させるその姿に少し気が滅入った。


「エィ」


 ガイドだ。

 彼はどこかから煤汚れたボートを引っ張り出し、海に浮かべていた。


「ライド! ライドのって!」


「あ? ああ、おーけ。おーけ」


 ぎぎぎ、と80近い俺の体重でカヌーが軋んだ。

 運転手は今や船頭へと早変わりし、両手で器用に櫂を操る。

 下腕には蔓のような血管が浮き、うっとりするような筋肉の段差が生じていた。


 きこ、きこ、と。

 透き通るブルーダイヤの海を俺達は行く。

 降り注ぐ陽光はちりちりと肌を焼いたが、感覚の鈍磨した今の俺にとっては心地良い刺激だ。

 リストカットをして生きている実感を味わうという女子中学生の気持ちが、今なら少し分かる。


「エィ、ミスタ」


 スチールウールのような黒髭を口に蓄えた男は、俺の視線に気づくや白い歯を出して笑う。

 よく笑う男だな、と今更ながら思う。


「エィ。プリティ。ヴェリプリティ」


「おーいぇ。ぷりてぃ いず ぐっど!」


 いぇあ、と船頭はまた笑った。

 笑う門には福来る、だ。

 この船頭は幸福の何たるかを知っているのだろう。


 ――――そう言えばもう何年も、俺は心から笑っていない。



 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



 死ぬのは簡単だ。

 包丁で首か胸を突けばいい。


 首を吊るのは何だか苦しそうだし、飛び降りは誰かを巻き込むのが怖い。

 薬や練炭、電車なんてもっての他だ。老いた両親にまで迷惑をかけたくない。

 樹海は足が竦む。入水は苦しいだけだ。


 できれば静かに、安らかに死にたかった。

 これだけ惨めな人生だったんだ。死に方ぐらい贅沢を言ってもいいだろう。

 あれこれ悩んでいる内に俺はふと気づいた。


 ――――俺は素人童貞だ。


 神話の英雄のように処女神の御許に召されるのならこのままでも良いのだが、男として一度はカタギの女を抱いておきたい。

 それも30や40の女じゃなく、できれば若い女。

 願わくば10代。


 とは言え、強姦をやる気にはなれなかった。

 泣き叫ぶ女を見て勃起する趣味はないし、暴れる女を押さえつけるのは面倒くさい。

 それに人生最後のセックスが強姦だなんて惨めすぎる。


 高級風俗に行くことも考えたが、ああいうところは気が滅入る。

 時間制限もあることだし、もし勃起できなかったら死んでも死にきれない。


 どうせなら素人がいい。

 商売女っぽいフェラをしない素人。

 ちょっと胸を揉んだだけでアンアン言わない素人。

 溜めに溜めて、耐えに耐えた末にちょろっと快楽の喘ぎを漏らすような素人。


 とは言え、出会い系サイトは二度と使わないと決めている。

 一度そこそこ可愛い子に大枚はたいてベッドインしたことがあるのだが、散々テクニックを罵倒された。

「オジサンだから上手だと思ったのに」という声は今も鼓膜にこびりついている。思い出して少し興奮してしまうのがまた情けない。

 美人局も恐ろしいし、不細工が引っかかるかも知れない。

 何より俺は今どきの十代との間でトークを盛り上げることができない。

 やはりここは国外に救いを求めるべきだろう。


 十代の素人を簡単に抱ける場所。

 俺は赤道に近い××××という国を選んだ。

 そこそこ治安が良く、近年では日本企業の進出も頻繁な割に物価の安い熱帯の楽園。


 だが俺は失念していた。

 こういった国こそ未成年者の売春には厳しい罰則が設けられているという事実を。


 夜道に立つ女はどれもこれもけばけばしい化粧で身を飾った女ばかりだった。

 ひと目見ただけで手慣れた女だと分かる。

 つたない英語で経験の少ない女はいるかと聞くと、胡散臭そうな顔をされてしまった。

 技術の無い女なんか買って何が面白いのか、と通りすがりの男に笑われた。



 売春街でああでもないこうでもないと失望の吐息を繰り返しているところに、その男は現れた。



 スチールウールのような黒髪と黒髭を蓄えた、日焼けし過ぎの男。

 リスニングなんてできない俺にも分かるよう、彼は短く、はっきりと告げた。


 モアヤングガール。

 メニィ。メニィメニィ。

 ユー、カム?


 ――――身ぐるみ剥がれて殺されるかも知れない。

 そんな考えも脳裏を過ぎった。

 だが殺されたからどうだというんだ、ともう一人の俺が呟いた。


 このまま女を買うことができればめっけもの。

 この男に殺されたら売春という悪事に手を染めず死ねる。

 ジャングルの奥深くで死ねば葬式を上げる手間も省ける。両親も喜ぶだろう。


 結局、とうに俺のものでなくなった人生など、どう転んでも構わなかったのだ。



 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



 元来た陸地が小さく見える。


 だが遠すぎることはない。せいぜい数キロといったところか。

 波は穏やかで、ブルーダイヤの浅瀬の向こうには深いサファイア色の海域も見える。


 振り返れば眩しい太陽。

 手で庇を作り、目を細めて島を見る。

 四方数キロの小さな島は中央部がこんもりとした緑に覆われており、鳥が鳴いていた。


(暑いなしかし……)


 もう履くことに恥じらいを覚えなくなったハーフパンツから毛の丸まった足が伸びている。

 俺の立つ浜の砂は目が細かく、砂丘のようだ。

 ずぶずぶと安手のスニーカーが飲み込まれる。


(何でわざわざ島なんだろうな……)


 この島の住民が売春婦だからなのか。

 それとも国境をまたいでいるから処罰されづらいのか。

 はたまたさっき通り過ぎた海浜集落の娘たちがここで副業に勤しんでいるから、形式的に隔離された場所を選んでいるのか。

 俺には到底分からない。


 ただ間違いのない事実もある。ガイドが物取りの類ならいつでも俺を殺す機会があった。そして彼は凶行に及ばなかった。

 浅瀬と浅瀬を結ぶ藍色の海域はぞっとするほど深い。

 重石をつけて突き落とせば人間は二度と浮かび上がって来ないだろう。


 どうやらここは本物の「売春島」らしい。

 そう考えた途端に股間が疼き出す。


(女の子が住んでるのか? もうここからバイキングスタートか?)


 俺は太り過ぎたペンギンのようにひょこひょことジャンプしてみたが、迎えの女がいる気配はない。

 ビーチで褐色の少女が水浴びでもしているのかと思ったがそれらしい姿もない。

 と言うか――――



 人の気配がしない。



(まさか無人島じゃないよな)


 俺の不安をよそに陽光は燦々と降り注ぎ、ポロシャツの脇に汗が滲んだ。

 首にかけたタオルで額の汗を拭うとまた髪の毛が抜けている。


「ウェイ。ナイ」


 カヌーに座ったままの船頭がそう告げた。


「うぇいない?」


「ナイト。ナイト。夜ね。よるぅ、ガーァル、カム」


 おそらく夜まで待てば女が来る、ということだろう。

 見知らぬ場所で待ち合わせ。

 デリヘルみたいだな、と思った。

 まあ認識としては間違っていないのだろう。


「ノゥワン。ノゥワン、ヒア。ユーグッド?」


「い、いええ。ぐっど」


 んケィ、と船頭は拳を突き出した。

 俺も何となく拳を突き出す。

 どうやら本当にここは無人島のようだ。


(無人島、か)


 置き去りにされるかも。

 人食い人種が住んでいるかも。


 そんな不安に苛まれていた俺は、どっしり構えることにした。

 ぱん、と頬を叩く。


(ビビんなビビんな。どうせ終わったら死ぬんだろうが)


 船頭は良い男だったが、やっているのは観光客向けの違法売春。

 日本で言うところのケツモチはいるだろうから、俺が自殺していれば適切に処理してくれるはずだ。

 そう思うと気が大きくなる。

 どうせ死ぬんだ。残り少ない人生、でっかく構えなければ。

 尻ポケットでごついナイフがずしりと存在感を示す。


「ふっ! ふう」


 考えようによっては無人島を丸ごと貸し切ったデリヘルだ。

 日本では絶対に味わえない違法行為だと思うと罪悪感の甘みが増した。


(いいねえ。いい……)


 ここまで来て怖気づいても仕方がない。

 ブルーダイヤの水平線を見ながら俺はナップザックを下ろした。


 眩しい太陽。

 毛髪の薄い頭部にじっとりと汗が滲む。

 きこ、きこ、とガイドのカヌーが遠ざかっていく。

 どうやら彼は帰ってしまうようだ。


(夜まで一人かよ。まあ、昼寝でもしてればすぐか)


 ガイドは手ぶらで俺をここまで誘い、手ぶらで帰っていく。

 手ぶらで――――


「あっ!?」


 しまった。

 金を渡していない。


「へ、へい!! マネー!! マネー!!!」


 嘘だろ、と思いながら俺はざぶざぶと膝まで海に浸かった。

 小さなカヌーがぐんぐんと遠ざかっていく。


「マネーーーーーッッ!!!」


 両手を口に添えて吠えた。

 が、船頭は音楽でも聞いているのか軽く首を上下させており、俺には目もくれなかった。

 あっという間に黒豆程の大きさとなる船。


「あーあー行っちまったよ……」


 立ち尽くした俺の胸を罪悪感が満たす。

 せっかく良くしてくれたのに、と思いながらふと気づく。


(ああ、後払いなのか)


 この島が無人島ということであれば、誰かがここへ女を連れて来る。そいつに支払えばいいだけだ。

 もしくはデリヘルのように女たちに託してもいい。

 よく考えてみると船頭だって行為が済んだ後に俺を迎えに来るはずだ。その時でも遅くないだろう。


(ま、金を忘れるわけないか)


 俺はざぶざぶと海から砂浜へ戻り、小さな石段を発見する。

 見上げると田舎の神社を思わせる低い階段が島の奥まで続き、森の中へ通じていた。

 その先へ更に視線をやると、ぽつぽつと茅葺き屋根のようなものが見える。


「……。人、住んでないんだよな」


 しん、と島は静まり返っている。


 これが日本なら不気味さが先立つのだろう。

 だがここは陽ざしの強い南海の孤島。

 童心がくすぐられることこそあれ、恐怖で動けなくなることはない。

 どっしり構えて行こう。


(少しぶらぶらするか。どこか寝るところもあるはずだしな)


 ビールにつまみ。ちょっとした着替え。パンフレット。財布にパスポートなどの貴重品。土産物屋で買った自決用の折りたたみナイフ。

 最低限の荷物を詰めたリュックを背に、俺は歩き出す。




 違和感が萌したのは数十分後のことだ。




(どういう島なんだよ、ここ……)


 民家は島中央部から海浜にかけて段々に連なっていた。

 どれもこれもが木造で、壁面はほぼ植物と同化している。

 強い根の張る植物は少ないのか、床板をひっくり返された家屋は少ない。


 少ない、というのは実際にひっくり返された家屋があることを意味する。

 それは島のあちこちに点在しており、九十度、四十五度、はたまた百八十度といった角度で柔らかい土に突き刺さっている。

 植物でなければ台風だろう。


「……おいおい」


 とりわけ幹の太い古木の樹上に一軒の家が引っかかっているのを認め、俺は唖然とした。

 よっぽど強い台風がこの島を襲ったに違いない。

 さもなければ――――


 さもなければ、何だ?

 台風と竜巻以外に家を持ち上げるものなどありえない。


(台風が来たら絶海の孤島だな)


 どうせなら女の子が来てからそうなりたいものだ。

 そんなことを考えつつ一軒の廃屋に入ってみると家財は少なく、電気が通っていた様子もなかった。

 それどころか文明の痕跡が見当たらない。

 陶器。ガラス。鉄。プラスチック。

 人が人として生活する為に最低限必要な物資がまったくと言っていいほど残されていない。


(おいおい。ここに住んでたのは猿か?)


 砂埃と枯れ葉が厚く積もったボロボロの炊事場を抜けると、テーブルと思しき丸太。

 そこにはキノコが群生していた。

 とてもじゃないが人が住んでいたようには思えない。

 住んでいたとしたら百年近く昔になるのではないか。


「そんなわけないだろ。アホか、俺は……」


 首を振って歩き出す。

 じっと誰かに見つめられているような気がしていたが、それすらも振り切って。






 廃屋だらけの集落を抜けた俺は北の海岸にたどり着いていた。

 急斜面から恐る恐る海岸を見下ろす。


 浜辺は大小まばらな白い石と貝殻が敷き詰められており、じゃららら、と浜辺が波に洗われていた。

 その向こうにブルーダイヤの浅瀬は見えない。

 サファイア色の深海ですらない。


 海は海溝を思わせる黒で、水底はおろか魚影一つすら視認できなかった。

 白い貝殻が戯れる浜の一寸先は吸い込まれるような黒い闇。

 まるでぽっかりと空いた穴。

 初めて怖気を感じた俺は浜から離れようとし、気づく。


「お? お、お?」


 同時に二つの事象に気づいた俺は首を左右に振ってしまった。


 一つは北の海岸から少し離れた場所に見える近代的な建築物。

 ホテルと呼ぶには貧相だった。せいぜい民宿だろう。

 二階建ての建物は風雨にさらされ色あせていたが、少なくとも外壁は植物の侵食を免れている。

 窓は鎧戸だったが、それでもきちんと原型を留めていることに俺は少なからず感動した。


 間違いない。

 待ち合わせ場所はあそこだ。


 そしてもう一つの建造物へ俺は視線を動かす。

 海岸へ続く急斜面を降りきったところにそれはあった。



 石柱。

 ――――石柱だ。



 白い石を削り出してこしらえたと思しき、高さ一メートルほどの石柱。

 それが六本、貝殻だらけの海岸に並んでいる。

 屋根をひっぺがしたパルテノン神殿のような有様だ。


(すげえな。こんなでかい石なんか出ないだろ、ここ……)


 しげしげと石柱を眺めていた俺は気付いた。

 頂上部から薄い灰色の煙が上がっている。


「温泉か!?」


 汗だくのセックスの後で温泉。

 キンキンに冷えたビール。

 最高じゃないか。


(祭りとかやるのかな。あの柱をぐるぐる回ったりして……)


 よくよく目を凝らした俺は己の認識の誤りに気づく。


 違う。

 あれは『煙』じゃない。


 ――――『炎』だ。


 灰色の炎。


「……」


 言葉を失った俺は斜面を大きく迂回して海岸へ至った。

 じゃらじゃらと貝殻の鳴る浜辺には石柱が六本立っている。

 そのそれぞれが灰色の炎を噴き上げていた。


「マジで火なのか、これ」


 間違いなく『炎』だ。

 近づくにつれ俺の全身は太陽よりも熱い石柱に炙られ、手を翳せば焼けるようだった。

 試しに流木の一つにハンカチを巻いて近づけると、移り火は俺のよく知るオレンジ色に変わった。

 どうやらこの石柱から噴きあがる炎だけが灰色に見えるらしい。


「凄いな」


 考えられるのは天然ガスか。メタンハイドレードってことはないだろうが、不純物の多い鉱脈でも走っているのかも知れない。


 ひょいと石柱を覗き込むと、井戸よりも深い黒穴が広がっていた。

 投げ入れた貝殻はかつん、こつん、こと、こっ、っ、っ、っ、と永遠にも感じられるほどの音を残しながら闇へ消える。

 ――――信じられないほど深い。


(人が作ったのかこれ……)


 目が覚めるようだった。

 ピラミッドは宇宙人が建造指示を出したいう説がある。

 昔の俺は笑い飛ばしたものだが、この石柱の不思議を目の当たりにすれば「もしかすると」なんて気持ちも湧き上がる。


 灰色の炎も不可思議だが、 むしろそちらは気にならなかった。

 世界にはブライニクルだのペニテンテだのといった自然の織りなす怪奇が存在する。

 自然は人の知性など軽々と飛び越える。

 俺たちは矮小だ。


「やー。死ぬ前にいいモン見れたな」


 俺は誰にともなくそう告げ、誰に向けるともなく愛想笑いする。

 ――――『誰にともなく』。

 そのつもりだったが、俺は確かに視線を感じた。


 びくりと全身が強張る。

 頭ではなく生物の本能が何かに怯えている。


(何だよ……)


 つう、と額に浮いていた汗が一条流れる。


 びっしょりと汗をかいた俺はなぜか寒気を覚えていた。


 石柱。

 灰色の炎。

 じゃらじゃらと鳴る貝殻。

 そして黒い海。


 もしやここは神聖な場所なのではないか。

 今の俺は不用意にしめ縄の向こうへ足を踏み入れた不敬な観光客だったのではないか。

 そんな不安に駆られた俺はそそくさと民宿へ駆け込んだ。




 フロントにはボロボロになった宿帳。

 文字は掠れていて読めないが、アルファベットの記名だけではなさそうだ。

 ペンは見当たらず、インク壺は乾き切っている。


 喫煙所と思しき場所はあるものの、自動販売機なんて洒落たものはない。

 床は薄い砂埃に覆われており、微かに文明人の靴跡が残されていた。


「うへ」


 石造りの階段を昇るといくつかの部屋が見つかった。

 民宿は光源に乏しく、閉ざされた鎧戸の隙間から僅かな光が差し込んでいる。

 ラクロスの網(ポケット)にも似た黒い金属製の壁飾りは松明らしい。壁面に焦げ目がついている。


 粗末な部屋の数々を覗き込んだ俺はげんなりした。


 調度品と言えば申し訳程度の書き物机と椅子、それにぺらぺらのマットだけだ。

 それらも砂埃で薄汚れており、行為に集中できる環境とは思えなかった。


(日本人って清潔なんだなぁ)


 バスルームすら存在しない部屋の中心で荷物を下ろす。

 途上国では路肩に敷いたマット一枚で売春婦が仕事をこなすと言う。

 もしかするとこの薄汚さが売春窟のグローバルスタンダードなのだろうか。


 ――――これじゃ女の方も期待できないかも。


(チェンジしたら手数料出るのかね、ここは)


 幸い、金はある。

 だが小出しにしなければならないだろう。

 大金を見れば誰だって目が眩むものだ。

 俺はせめて女を抱いてから死にたい。


(へへ)


 死にたい。死にたくない。

 相反する二つの感情を笑うぐらいには、俺の心は荒み切っていた。


 鎧戸を開けることもせず、薄暗い室内でごろりと横になる。

 床はかさかさに乾いており、ひやりと冷たい。

 不潔なことには違いないが寝心地は悪くなかった。


「あー……」


 慣れない土地に来たせいか、ひどく身体が重い。

 そう言えば飛行機を降り、日系資本のホテルにチェックインしてからロクに休んでもいない。

 フライト中はぐっすり眠っていたが、あまり休めた気はしない。むしろ疲れたような気さえする。


「……」


 熱く乾いた木の板。

 通り抜ける涼風。

 触れ合う緑葉。

 どこか遠くで聞こえる犬の鳴き声。


 いつしか俺は瞼を下ろし、束の間の眠りに落ちていた。


 このまま二度と目を覚まさなくてもいい。

 そう思えるほど安らかな眠りに。 






 そして、夜が来た。

 ――――見慣れない四人の少女を連れて。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る