第3話 既知の海

 

 どっしりと構えなければならない。

 俺はすぐには走り出さず、ただじっとチョウチンアンコウ型フクロウナギ型オタマジャクシ野郎、『黒目』を睥睨する。


 黒目もまたすぐには飛びかかって来ない。

 ぎょろついた目で俺を見下ろし、ニタニタと気味の悪い笑みを浮かべ、牛が蠅を叩くようにして長い尾で海面をぴしゃぴしゃと叩く。

 奴は奴なりに初撃をかわした俺を警戒しているようだった。

 もっともそれは、猫がカマキリに抱く類の警戒心だろうが。


 寄せては返す波の音。

 濃厚な死の空気を孕んでいながら、夜の海は静かだ。

 刃渡り十センチほどのナイフを握る手がじっとりと汗ばむ。

 心臓のポンプは血液を絶え間なく全身に送り、その度に太鼓を叩くかのごときリズムを感じる。

 どくっ、どくっ、と。


 俺達は睨み合ったまま、時間だけが静かに過ぎていく。


(……)


 鍛え上げたプロボクサーですら数分のファイトでへとへとになる。

 俺の全力はせいぜい2、3分しか持たないだろう。

 行動は最小限に。攻撃は必殺の心づもりで。

 息切れは死を意味する。


 奴の巨体に対してナイフはあまりにも短い。

 皮下脂肪を貫いて心臓を穿つことは不可能だ。

 眼球では致命傷にならないどころか、ヘタをすると黒目が暴れ出し、少女が死ぬ。


 どうする。

 どこを刺せばこいつは死ぬ。


(心臓じゃねえ……目じゃねえ……)


 魚だ。

 魚の身体構造を思い出せ。

 一番脆いのはどこだ。



 ――――鰓(エラ)だ。



 気づくや否や、黒目が動いた。


 全身を左右に揺らすことで推進力を得た奴は瞬く間に数メートルの距離を詰めてきた。

 その速度は俺の想定を大きく上回っており、左右にかわすことはできない。

 あわや丸呑みにされる寸前で後ろへ跳び、地に伏せる。初撃をかわした時と同じ体勢だ。


「っ!」


 ばくん、と俺の胴体があった場所を黒目の歯列が通り過ぎる。

 ダンプカー並の巨体の躍動を肌に感じ、尻の穴がツララを突っ込まれたかのように冷えた。


 この軌道は十分に予測できていた。

 黒目はアンコウのように浜に伏せている。陸で獲物に飛びかかれば顎の肉が擦り切れてしまうだろう。

 だから奴は初撃と同じく片頬を地に向けた状態で飛びかかってくると思っていた。これは伏せることで回避可能だ。


 奴は忌々しそうに身をくねらせ、片目で俺を睨んでいる。

 残念ながら次は通じないだろう。奴は礫を飲み込むリスクを覚悟で回避不能な一撃を見舞ってくるに違いない。


 その前に仕留めてやる。

 両手で地面を押した。


「え、らあああぁぁぁっ!!!」


 気合の咆哮と共に立ち上がった俺は一直線に巨体へ向けて走る。

 ざくざくざく、と踏みしだかれた貝殻が悲鳴を上げ、速度を上げる毎になまぬるい夜気が風となる。

 猛然と駆け、駆け、駆ける俺の姿を認め、巨眼がぎょろりと蠢いた。


 灰の炎に照らされた不気味な黒い体、その首元へ飛びつく。

 鱗を持たない魚体は薄気味悪いぬめりを帯びていた。

 ナイフを振り上げた俺は気付く。


(鰓が……無い!?)


 黒目のぬるぬるした巨体には魚類に特有の裂け目が存在しなかった。

 そんなバカな、と左右に目を這わせた俺は予想だにしないものを見つけ、凍り付く。


 黒い体に点々と穿たれた白い肉穴。

 ――――銃創だ。


(嘘だろ。銃持ってた奴が喰われたのか……!?)


 ぞっと総毛立つ。

 俺よりも先にこいつと対峙させられた奴らの中には帯銃していた者も混じっていたらしい。

 銃があるのに殺される。銃を撃ったのに殺される。

 そんなバカな。

 だったらちゃちなナイフしか持たない俺がどう頑張っても――――


 ひゅっと尾がしなる気配。

 飛び退いた俺の横っ腹を長く伸びた尾が叩く。


「ぐぉ!」


 実際のところ、その衝撃は大したことがなかった。

 さしもの黒目の長い尾も自分の首を叩くようにはできていないので、ダメージは思ったほどではなかった。

 つまり、せいぜいヤクザにミドルキックを食らった程度の激痛だ。


「がっ! かっ……!」


 肋骨に爆ぜた衝撃が内臓に伝わる。

 肺から空気が飛び出す。

 涙が滲む。

 膝をつく。

 戦意にひびが入る。


 黒目はぶしゅうう、と何かを吐き出し、俺に尻を向けた。

 魚類は後退することができない。

 高速で動くナメクジのような挙動でいったん海へ向かった奴は、ぐりんとこちらに向き直る。


「かっ。ちく、しょ」


 そうだ、と俺は激痛の中で気づく。

 奴はさっきから平然と揚陸しているのだ。酸素を得る手段が鰓であるわけがない。

 何が鰓だ。


(肺呼吸してやがるのかこいつ……!)


 何てことだ、と絶望の雲が胸を覆う。

 鰓はいわば体外に飛び出した内臓。必殺の行動しか許されない俺にとって絶好の攻撃ポイントだったのだ。

 そこへの攻撃手段が絶たれた。

 どうする。


(仕切り直しかよ……!)


 西部劇のガンマン。あるいは『もう少しで四十郎』のラストシーン。

 俺たちは10メートルの距離を挟んで相対し、サイズの違いすぎる視線をぶつける。


 黒目は浅瀬に浸かり、俺の様子を窺っている。

 白く巨大な瞳は相変わらず俺を嘲笑っており、俺に殺される可能性など万に一つもないと高を括っているようだった。


 古代ギリシアの名著に言わせれば、戦争において敵が自分より愚かでいてくれるかも知れないなんて考えは捨てなければならないそうだ。

 敵は常に自分より賢い。自分より上を行く。そう考えて戦争に臨め。

 そんなことは分かってる。

 じゃあ自分より強くて賢い奴をどうやって下すんだ。名著ならそれぐらい教えろよ。


(鰓じゃなきゃどこだ!! 魚の弱点は……!)


 奴が動き出した。

 時間が無い。

 もう俺に考える暇すら与えないつもりだ。


 巨眼の向こうで左右に揺れる長い尾が見える。まるでするすると海上を這う蛇のように動いていた。。

 あれのクリーンヒットでも俺は死ぬ。

 噛みつかれれば当然死ぬ。

 押し潰されても俺は死ぬ。


 なのに俺の手には待ち針一本。

 妙案も浮かばない。


(くそっ! だったらせめて……)


 俺は踵を返し、石柱へ向かって走る。

 始終水に浸かっている海棲生物が炎と熱に弱くないわけがない。

 少しでも怯んでくれたらこっちのものだ。今は時間を稼がなければ。


 背後では貝殻をじゃらつかせて迫る黒目の気配。

 交番ぐらいなら吹っ飛ばしてしまいそうな巨体を左右にくねらせ、俺を追いかけて来る。


 炎を噴き上げる石柱にたどり着いた俺は最奥の一本に飛びつき、その背後に身を隠した。

 もちろん隠れられるわけがない。

 あのでかい目玉は飾りじゃないのだ。


 ぶおおお、と腐った魚を思わせる異臭を放ちながら黒目が突進する。

 陸を泳ぐバケモノ魚。

 恐怖で気が遠くなりそうな光景だ。


 しかも――――


「!?」


 奴はこれっぽっちも炎に怯えていなかった。


 石柱は熱を帯びている。

 触れれば肌が焼けるほどの高熱だ。

 だというのに奴は平然と二本の石柱の間をくぐり、更に二本の石柱の間をくぐる。


 海底を這うように悠然蛇行する巨体は見る見る内に俺の視界を覆い尽くした。

 石柱はこれっぽっちの足止めにすらならなかった。

 それを脳が理解した瞬間、衝撃が襲う。


 身を隠す石柱もろとも体当たりを食らった俺は水切りの石さながらのバウンドを繰り返す。

 どっ、どどっと数度跳ねた俺は最後に地面で一度大きく跳ね、貝殻だらけの浜に鼻を突っ込む。

 何枚かの鋭い貝が突き刺さり、鼻血と鼻水がこぼれた。


「ぁっ、おふっ……!」


 地面に伏したまま、目に涙が浮かぶのを感じる。

 恐怖の余りさっき飲んだばかりのビールが尿道をせり上がってくる。

 失禁の予兆だ。

 俺は小便にまみれて死ぬのか。


 もう嫌だ。

 何で俺がこんな目に。

 死にたい。楽に死ぬつもりだったんじゃないのか。


「うぅ、ぅ」


 痛い。怖い。

 痛い痛い痛い。

 怖い怖い怖い怖い。


 青黒い感情の奔流が俺を飲み込み、立ち上がる力を奪おうとする。

 黒目は無傷のまま直進し、再びこちらへ向き直ろうとしている。

 次の一撃で奴は確実に俺を食らうだろう。


 結局、俺は頭を使ったつもりで醜態をさらしただけだった。

 観客がいればブーイングしただろうし、世間の目があれば嘲笑を浮かべられただろう。

 俺は自分が思ったほど大した人間じゃなかったんだ。

 これまでの人生で何度も繰り返し呟き、手垢のついた真実が胸に去来する。


 畜生、と毒づく。

 俺は最後の最後まで惨めなままなのか。

 そう思いながら顔だけを上げる。


(……)


 いや。

 俺のあがきはムダじゃない。

 収穫があった。


 炎に照らされた黒目の身体が傷だらけであることに俺は気付く。

 鱗のない黒い巨体にはあちこちに白い傷が刻まれていた。

 銃創もあった。

 銛と思われる傷も。刃物傷も。


 多くの男たちが奴と戦ったのだ。

 その中には俺より若い奴もいただろう。老人だっていたかも知れない。

 最前線の兵士は国を想って戦うのではなく、隣に立つ仲間の為に戦うのだという。

 今の俺の仲間は、黒目に食われた哀れな魂たちだ。

 たとえ連中が死んで当然の小児性愛者でも、ヤクザでも、人ならぬ存在に立ち向かったという点では俺と同じだ。


 『まだだ』

 『まだ立てるだろ』

 亡霊共が俺を叱咤する。

 そうだ。

 俺は俺の為ではなく、あの子の為に立たなければならない。

 大人が子供を見捨てて逝けるか。


 白い貝殻を汚す赤い鼻血を見ながら片膝だけでどうにか立ち上がる。

 膝蓋骨(しつがいこつ)に手を置き、ぐいと押す。

 ぜひゅー、ぜはー、と自分の呼吸がどこか遠くで聞こえる。

 ざく、ざざく、という不規則な音は俺の脚がふらついている証だ。


(考えろ。考えろおっさん……!)


 灰色の炎に照らされた黒目はちょうどUターンするところだった。

 ぬめる巨体の威容に竦みかける足で地を踏みしめる。


(もう次が最後だ! 体力なんか残ってねえぞ……!)


 鰓じゃない。

 熱や炎もダメ。

 全身はクジラと同じで分厚い脂肪だか筋肉に覆われている。


 なら弱点は――――


(体の中……!)


 辺りには1メートルを超える槍のような流木が漂着している。

 歯列があるとは言え、一般に魚は獲物を咀嚼したりしない。丸のみにする。

 口から奴の身体の中へ入り込み、内側から奴を破壊するのだ。

 もうそれ以外に奴に致命傷を与える方法は無い。


 流木を手に取った俺はこちらへ戻ってくる巨体を睨んだ。

 次の攻撃が来たら奴の口の中へ飛び込む。


 すうう、はああ、と深呼吸一つ。

 額に取り込まれた少女はゲル状の膜の向こうで力なくうな垂れている。


(待ってろ……!!)


 大口を開けた黒目が迫る。

 10メートル。

 9メートル。

 8メ




 ――――ちょっと待て。





 このアイデア、俺が初めて思いついたのか?




「……」


 俺は一旦流木を下ろした。

 黒目の突進は何故かそれまでよりゆっくりだ。

 まるで口内へ飛び込んでくれと言わんばかりのスローな突進。

 ――――何かがおかしい。


「っ!」


 俺は奴の進行方向に対して九十度の角度で走り、攻撃をかわす。

 ばくりとハエトリグサのように口を閉じた黒目はしばし停止し、そのままずるずると海へ向かって這い進む。


(何で今までの奴らはあいつに勝てなかった? 俺より強い奴が、俺より賢い奴が……!)


 ざぶざぶと黒目が浅瀬へ突っ込んでいく。


(考えろおっさん……! 今まで戦った奴らが残してくれた道だぞ、これは!)


 鰓。

 石柱の炎。

 内部破壊。

 俺ですら思いつくアイデアに他の奴らが気づかないはずがない。

 気づいてもなお、殺されてしまった。

 それはなぜか。

 ――――決まっている。


(中に入ってもダメなんだ……! 暴れることなんかできねえまま殺される……!!)


 どくどくどくどくっと心拍が頷くように速度を増す。

 黒目の巨眼は僅かに不審の情を浮かべているように思えた。


(弱点は他にあるんだ)


 流木を手にした俺は歩き出す。


 どっしりと構えろ。

 どっしろと構えて、急げ。


(鰓じゃねえ。皮膚じゃねえ。かといって体の中でもねえ)


 じゃあどこだ。

 どこをやればいいんだ。


 今まで誰もたどり着けなかった黒目の弱点。

 誰も、たぶん触れることすらできなかった場所。

 狡猾な黒目の弱点。


 それは――――



「!!」



 落雷に打たれるかのような衝撃。


「……分かった」


 自分でもそれと分かる低い声。

 しならせた尾を海面へ流し、振り向いた黒目の口は未だ笑っていた。


 ――――この野郎。

 胸中にふつふつと怒りの泡が立ち昇る。

 なめるな。

 人間をなめるな。


 ざく、ざく、ざっざっざ、と貝殻を踏んで走り出す。

 棒高跳びの選手のように流木を構え、俺は最後の力を振り絞って走る。


 憤怒の気配を感じたのか、奴はことさら大仰に口を開けてこちらへ突っ込んで来る。

 ほら入っておいで、と言わんばかりの動きだ。


 駆ける。

 風車へ進撃するドンキホーテよりも無心に。

 5メートル。

 4メートル。

 3メートル。



 ここだ。



 奴の口はでかいが、スピードを緩めた今なら回避できる。

 俺は馬鹿のように開かれた口の中へ飛び込まず、奴の真横へ回り込んだ。

 鰓があるはずだった場所。

 そこに穿たれた銃痕へずぶりと流木を突き刺す。


 手ごたえは――――ほとんど無い。

 分厚い脂肪と筋肉に流木はほんの数十センチしか刺さらなかった。

 致命傷とはなりえない。


 ぶしゅう、と黒目が不快そうに息をする。

 構わず俺は流木にしがみつき、鉄棒の下手な小学生のように身を引っ張り上げた。

 そして黒い皮膚に爪を立てる。

 肉は厚いが表皮は柔らかい。五指を交互に突き立て、蟻の子のように這い上がった俺は巨体の頂上付近に至る。

 5メートルの高さから貝殻海岸を見下ろす。


 事ここに至っても奴は平然としていた。

 巨眼を上へ向け、思いがけない動きをした小さき命を嘲っているのが分かる。


 だがその余裕は俺の動きを見た直後に消し飛んだ。

 俺はむき出しの眼球を狙うこともせず、かと言って口内に飛び込むこともしなかった。



 俺はただ、額のゲル膜に手をかけたのだ。


 今までの奴らが狙わなかった場所。

 それは『ここ』だ。

 ここが唯一外気と接触するポイント。すなわち弱点。


「この子を盾にしてやがったのか、お前」



 糾弾の声にびくりと黒目が身を跳ねさせる。

 こいつはこの時初めて俺に慄いた(おののいた)。


「この子の背中側が弱点なんだろ。セコいな」


 いわゆる盲点だ。

 囚われの少女を助けるつもりなら剣であれ銃であれ決してこの場所は狙わない。

 助けるつもりのない奴は少女に注意を払わない。

 どういったスタンスであれ、この場所は意識の死角になっている。


 パチンとナイフを開き、少女を覆うゲル膜に突き立てた。

 寒天のようにずぶずぶと刃を飲み込むゲル質。ついには手首を突っ込み、俺は膜を引っぺがした。


 どだどだ、どだだっと黒目が暴れ出す。

 足場がぐらつき、震度4の地震に見舞われた程度には視界が揺さぶられる。

 額孔の縁を掴んだ俺はそのまま震動を堪えた。


 なおもどだだっと跳ね、黒目は俺を振り落とそうとする。


(堪えろ……! 堪えろ!)


 神輿の上で揺られるように俺は上下、上下、左右左右と激しい震動に襲われた。

 奴は必死になっている。

 必死になっているということは、これが正解だということだ。


 がごん、と黒目が石柱に頭をぶつけた。

 奴が一瞬怯む。


(今だ!!)


 ズルルル、とサツマイモを掘り出すようにして褐色の少女を引きずり出す。

 ゲル膜に覆われていた少女の首元にはアンドロイドの首元に挿すプラグのようなものが生えていた。

 透明で有機的なそれをぶちぶちと引っこ抜くと数滴の血が噴き、彼女は小さく呻く。


 石柱にしたたかに頭部をぶつけた黒目が動き出す気配。

 助けるだけではダメだ。

 こいつの息の根を止めなければ。


 ふと、少女の裏側を見やる。

 穴だ。

 人間の胴体が入るか入らないかの太さで、底の見えないほど深い穴が続いている。


 はたと俺は気付いた。


 いや、底はある。

 ――――肺だ。

 クジラやイルカは頭頂部に酸素を吸入する孔が存在すると聞いたことがある。

 つまりこの場所はこいつの『鼻』なのだ。

 新鮮な酸素が出入りし、ゲル膜で海水を遮断することのできる部位。少女の確保にも適している。


「見つけたぞ」


 びくりと黒目が震える。

 うねる巨体から恐怖の気配を感じた。

 だがそれも一瞬。


 黒目はまるで俺が何をしようと構わないとばかりに暴れるのをやめていた。

 じっと俺の気配を窺っている。


「……」


 確かにその通りだ。

 俺の手には短いナイフが一本きり。

 ちくちくやっても埒が明かないだろう。

 だが――――


「肺に水が入れば、さすがのお前もダメになるだろ」


 奴は再び嗤った。


 分かっている。

 俺は水なんて持っていない。


 そう。

 ――――手にはな。



 俺はジッパーを下ろした。



 緊張と恐怖とビールとその他諸々でぱんぱんに腫れあがったそれを孔に宛がうと、黒目がぎょっとしたように身を強張らせる。

 だがもう遅い。

 遅すぎる。


 最高の解放感を味わいながら俺は黒目の呼吸孔へ放尿した。

 100ミリ、200ミリは超えた。


 俺を振りほどこうとする奴の動作は途中から激しさを増した。

 左右だけじゃない。

 上下だ。とにかく上下に動いて俺を振り払おうとする。

 ゲル膜の内側へ入り込んだ俺は片手で少女を抱き、あとはもうがむしゃらに孔の内壁を削り落とした。

 人間の鼻腔粘膜は薄くできている。

 ドロドロした黒目の呼吸孔内部も同じで、少し傷をつけるだけで後から後から血が噴き出した。


 ごぼっ、ごぼぼがっと孔から妙な液が噴き出す。

 精液みたいな色をしており、ひどく油臭い。

 ごばっ、ごぼぼぼっと黒目が口から泡を吹いているのが見える。

 動きは徐々に鈍り、尾の動きも緩慢になりつつあった。


 もう一息だ。

 だがもう小便は出ない。

 血液は量の調節ができない。


 水を。

 こいつを溺死させるぐらいの水を。

 どこかにないか。


 辺りを見回していた俺は、たぷんと波打つビール腹に気づいた。


「……」


 おもむろに口内へ二本指を突っ込んだ。

 口蓋垂を通り過ぎ、喉の奥深くに指を横たえる。



 えれれれれれれ、えろろろろ、と腹いっぱいに溜まったビールを吐き出す。

 350ミリ缶二本分。

 それに真水と唾液と胃液のミックスジュース。

 がぼあ、と黒目が声なき悲鳴を上げた。


 血圧低下でフラフラになりながら、俺はなおもナイフを突き立てた。

 揺さぶられているのか視界が歪んでいるのか。

 それすら分からなくなるほど一心不乱にナイフを突き立て、突き立て、突き立てる。






 末期の姿は無様なものだった。


 ぎょろりとした目を上向かせ、口を半分だらりと開き、黒目は浜辺に死体を晒した。

 それは多くの人間を屠った化け物にしてはずいぶんとみっともない、汚辱にまみれた死にざまだった。



 へへ、と俺は笑った。


「ざまあみろ」


 汗みずくで、ゲロだらけで、化け物の鼻水を浴び、小便すらまき散らした俺は化け物の頭上で膝をつく。

 人生で久しぶりに味わう勝利は、こんなにも汚らしかった。





 巨体から滑り降りた俺は褐色の少女の脈を確かめる。

 ――――大丈夫だ。生きている。


「おい、おい、おい!」


 ぺちぺちと頬を叩く。

 これでダメなら人工呼吸と心臓マッサージだ。

 気道はどう確保するんだったか、なんて思っていると、睫毛を震わせて少女が目を覚ました。


 彼女は俺の顔を不思議そうに見、周囲が宵闇に包まれていること、灰色の炎が燃えていること、そして海浜に巨大魚が死んでいることに気づいて悲鳴を上げた。

 パニック寸前の彼女を落ち着かせるのには数十分を要した。




「オッケー?」


 俺は少女の細い肩に手を置き、落ち着かせる。

 彼女はカチカチと歯を鳴らしており、可哀そうなほど小刻みに震えていた。


「あいつ、ダーイ」


「ダィド?」


「いえす。もうノープレブレムだ」


 もう何度となく繰り返した説明だ。

 少女は言葉の通じない異国のオッサンより、巨大魚の方に怯えているようだった。

 そこにはただデカイ魚を目の当たりにしたという恐怖ではなく、畏敬の念があるように思われた。


 黒目のことを何か知っているのかも知れない。

 まあ、いずれにせよ。


「助かったんだよ! な? 大丈夫なんだ!」


 俺は少女を力強く揺さぶった。

 様々な汁が飛ぶが、気にしちゃいけない。


「大丈夫だから! ビビんな! な?」


 にっこりと微笑んでやる。

 恐怖はより強い感情で上書きするしかない。

 褐色の肌の少女は少し困ったように視線を宙に彷徨わせていたが、ややあってこくんと頷く。


「おっけー!」


 俺は手でOKサインを作った。

 とにかく黒目に対する恐怖を拭うのが先決だ。

 奴はもう終わった。

 俺たちは次のことを考えなければならない。


 その前に――――


「ネーム! ゆあ、ネーム!」


「ネィム?」


 何て美しい英語だろうか。

 聞き惚れてしまうようだ。


「イエス。ゆー、ネイム!」


 褐色の少女は彫りの深い顔立ちをしていた。

 声はピーナツバターのようにとろりと甘く、外見以上に幼く聞こえる。


「ナ××トゥ×××リネ」


「は、はい?」


「ナ××トル××ンエ」


「わ、ワンモア」


 俺が一本指を立てると少女はやや声に力を込め、口唇をはっきりと動かした。


「ナ××ター××ンル」


「……」


 ダメだ。

 さっぱり聞き取れない。

 ナターシャって言ったのか? ナージェジダ?


「あー……菜種(ナタネ)ちゃんだな! 分かった!」


「ナー、タネ?」


「イエス。ユー、ナタネ。オケーイ?」


 少女の目元に弱々しい笑みが浮かんだ。

 もうそれでいいよ、といった妥協の表情。

 彼女は大人の階段を一つ登った。


「ユー?」


 ああ、俺も名乗らないといけない。

 だが苗字は嫌いだ。


「俺は……従吾(じゅうご)」


「ジュゥゴオ?」


 ナタネのイントネーションは俺の期待したものではなかった。


「じゅー、ご」


「ジュゴー?」


「違う違う。じゅう、ご」


「ジューグ?」


 俺は大人の階段をだいぶ登っているので当然ながら妥協する。


「ああ、俺はジューグだ」


 鷹揚に頷き、ナタネの手を取る。


 さあ帰ろう。


 そんな言葉をかけてやりたかった。

 だがそれはできない。


 まず脱出手段が無い。

 船頭はおそらく戻って来ないだろうし、モーターボートなんて気の利いたものはここには存在しない。

 泳いで戻ることは不可能だ。

 まだ三人の女が黒目とは別の化け物に囚われている。海上でそいつらに襲われたらひとたまりもない。

 そもそも俺は残る三人を助け出すまでここを出るつもりはない。


 だからここに残るしか――――


「ぁ」


 気づく。


 化け物は次にいつ現れるのだろう。明日か、明後日か。

 いずれにせよ俺たちは『水』を飲まなければならない。

 ――――上水道の通っていないこの島で。


 それに『食事』も必要だ。

 絶えず神経を昂ぶらせていれば消耗する一方だから、虫や蛇に襲われない『寝床』も要る。


 そんなもの、どうやって調達するんだ。


「?」


 ナタネは茫洋とした瞳で俺を見上げている。

 いけねえ、と俺は自らを叱咤する。

 俺が不安になってどうする。俺が取り乱せば彼女は心の寄る辺を失うのだ。

 どっしりと構えなければならない。


「何でもねえよ。ノープロブレムだ。俺はあれよ。体育教室に行ってたんだ。草スキーとかスケートとかできるぜ。ライドオンだ」


 たはは、と笑ってやるとナタネは曖昧に微笑んだ。

 曖昧でもいい。笑っていてくれればいい。笑っていてくれれば俺の心もいくらか温かくなる。

 この状況で希望の灯を絶やしたらおしまいだ。


「よし! じゃあちょっと安全でセーフティな場所に――――」



 ずおおお、と音を立て。


 死した黒目のすぐ傍で海面が盛り上がる。


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