第26話 夢の沽月

 


 痛みを感じる。



 痛み。

 ――――「痛み」だ。


 痛みを頭で感じている。


 それは未だ漠然とした感覚に過ぎない。

 夢の中でめった刺しにされようと火だるまになろうと、肉が、皮膚が、じりじり痛まないのと同じ。

 痛みを感じているのは肉体ではなく頭だ。

 だから俺の反応は鈍かった。


 痛みの信号を辿り、神経を伝い、ようやくその場所を視認する。

 手の甲だ。

 手の甲が痛む。



 ――――痛ぇ。



「痛ぇ」



 言葉にした途端、俺の全身を覆っていた倦怠感に小さな穴が開く。

 ぱちんと油膜が割れるような感覚があった。


 ふらりと首を傾げる。


「……?」


 へたり込んだ俺の手の甲に乗った、小さなヤドカリと目が合う。

 そいつは緑色の眼球を持っていた。

 緑色の眼球。

 緑色の瞳。


 人間の瞳。


「!」


 あいつ。

 あいつだ。


 ――――あいつだ!!


「っ!!」


 どっくん、と心臓が一度大きく跳ねた。


 マトゥアハ。

 マトゥアハだ!

 マトゥアハ!!


 緑目! 生きていたのか。

 子供か。そうか。奴は卵生で、どこかに卵を隠していたんだ。

 何て抜け目のない奴。


 くそ、畜生、と鈍磨した身体の中心で黒く濁った闘志が泡立つ。


(何座ってんだ! 立て! ちくしょう!)


 手の甲をもそもそと這うヤドカリは今にもサーベルのような鋏を――――



 鋏を――――



 鋏を。



 ――――鋏なんて無いぞ。どこだ?



「……」


 どうやら俺は幻を見ていたらしい。


 手の甲に乗っていたのはごく普通のヤドカリだった。

 小さな黒い目が飛び出した、何の変哲もないヤドカリ。

 もちろん緑目の野郎じゃない。


 小さく愛らしいそいつは俺の手の上をひょこひょこと横切り、水滴のように海岸へ滑り降りた。

 こそばゆさと気恥ずかしさの中、ほっと胸を撫で下ろす。 


 が、心臓が全身に鳴り響かせたアラートはそう簡単には止んでくれない。


「っぉ、っぁ。っ」


 どっくん、どっくん、と胸を突き破るほどの鼓動で自然と声が漏れる。

 身体より先に心臓が目覚めてしまった朝に似ている。

 眠ろう眠ろうとする体を置き去りに、心臓様が活動を始めているのだ。

 やかましく鳴く鶏さながらに、どくどくどくっどくっと俺の心臓は糖分多めの血液を全身に行き渡らせる。


 少しずつ、思考が鮮明さを取り戻す。


「……はっ」


 吐き捨てるように呻いた。

 気をやった蘇芳が俺の身体から滑り落ち、海岸に伏せたまま胸を上下させているのが見える。

 じきに、水と飯を貪っている女どもの誰かが俺に這い寄って来るだろう。

 あと数回もセックスに溺れてしまえば、恐るべき緑目の幻なんか見えなくなる。


「……」


 緑目。

 緑目か。


 奴も、いや奴らもこの『マトゥアハ』の恵みに浴していたのだろう。


 あの異常なまでの強さはこの多幸感に由来しているに違いない。

 甘い甘いご褒美を求めてどこまでもどこまでも小賢しく、狡猾に、凶悪に進化した生物のなれの果てがあいつらだ。


 もし緑目が俺を仕留めていたら、奴はきっとそこにいる黄金のマトゥアハの下へと帰還し、恭しく膝をついたのだろう。

 敵対者の首を跳ねた巨大ヤドカリを前に、イモガイはご褒美の翡翠針をぶすりと突き刺す。

 今の俺たちと同じ多幸感に満たされ、奴は緑色の瞳を歓喜に細めるのだ。



 すべての生き物は「何か」の為に戦う。



 黒目や赤目、青目はこの恵みを思うさま貪るために戦っていた。

 緑目も――――



 この甘い恵みを得る為に――――両腕を犠牲にして、丸裸での奇襲を敢行した。



 この甘い恵みを得る為に――――ちっぽけな人間相手に千の、万の策を尽くした。



 この甘い恵みを得る為に――――不退転の覚悟で決戦の地へ赴いた。




 この甘い恵みを得る為に――――


 熱い汚泥に塗れながら、無様に鋏を振り上げ、生きながらに死んだ。





 ――――



 ――――




 ――――違う。




 奴は。

 奴はそんなもののために戦っていたわけじゃない。


 奴は俺を殺した「先」のことなど見てはいなかった。

 黒目を斃し、赤目を斃した俺とジンジャーを脅威とみなし、あのでかい体に通った一本の芯――――プライドの為に戦ったのだ。


 この小さき生き物に敗けるわけにはいかない、と。

 たった一つの敗北すら認めない、と。

 怪神としての誇り(プライド)を懸けて奴は戦い、そして散った。


 緑目のマトゥアハは家族や恋人、祈りや故郷のために戦ったわけではない。

 この黄金の神を喜ばせるために戦ったわけでもない。


 ――――まして。


 まして、幸福になるなどという目的のためでも。ない。



 音を失った視界の隅で白波が巻き上がった。

 ヤギに、羊に、見紛う白い泡と波濤が、やがて犬の形を取るのが見えた。


(ジンジャー……)


 ジンジャー。俺の小さな白い戦友。

 彼もそうだ。 


 彼は己の生存を賭して、そして主であるナタネを護るために、戦い、散った。


 本土に戻って好みの雌犬と思うさま交尾をするためじゃない。

 山ほどの牛肉に舌鼓を打つためでもない。

 ジンジャーはおそらくご褒美のことなど考えもせず、戦いに戦ったのだ。



 ふと、ズボンの布地が重くなっていることに気づく。

 目を下ろすと、俺の尻の辺りには臭く温かい水溜りが広がっていた。


 小便だ。

 俺は気持ち良さの余り小便を漏らしている。


(……)


 むくむくと得体の知れない感情が膨れ上がる。

 方向性を持った怒りでもなく、遣る方無き憤りでもない。

 さりとて悲しみや虚しさといった繊細な感情でもなかった。


 ただひどく、不快だった。

 俺は訳も分からない鼠色の感情のままに衝き動かされ、かぶりを振った。

 ゼリーのように粘ついた空気の中、残り少ない髪がゆっくりと左右に揺れる。




 俺は。


 俺は何をやっているんだ。




 ――――「もう、報われてもいいんじゃないか」?


 報われる?


 報われるだと?





 甘えるな。


 そうだ。

 甘えるな、俺。




 俺は、俺はただ戦っただけだ。

 生きる為に。そして女たちを護る為に。


 そこに報いなんて必要ない。

 見返りも、褒美も要らない。

 当たり前だ。俺の戦いは――――味気ない、「ただの戦い」だったのだから。


 恵みだと?

 人間の王様だと?

 神様の戦士だと?


 幸せだと? 



 ――――ふざけるな。



 そうだ。ふざけるな。

 俺は××なんかのために戦ったわけじゃない。

 俺は誰かにちやほやされて、喝采を浴びるために戦ったわけじゃない。

 この世界の隅っこに自分だけの寝床をこしらえて、そこで幸せに過ごすために戦ったわけじゃない。


 俺はただ、戦いに戦っただけなのだ。


(……!)


 緑目は誇りに殉じた。

 ジンジャーは野性のままに散った。


 なのに俺は。

 俺は今、喜びのあまり失禁して――――嬉ションを漏らしている。


 俺を褒め称える連中に囲まれて。

 俺を気持ち良くさせる極楽汁を啜って。

 俺の×××を競い合うようにしゃぶる女どもを侍らせて。


 良い働きであったぞ、と。

 札束で頬を叩くようにして××を寄こす神様の前で。

 ああ俺は幸せです。

 俺は報われました、と。

 山ほどのマイクを向けられてにやけ顔を浮かべる男のように。



 俺は世界のど真ん中で、小便を漏らして悦んでいる。



(……)


 薄れる視界の中、白い犬と巨大なヤドカリが俺に背を向けて去っていく。


 これが。

 これが俺の幸福か?


 これが俺の夢見た大人の姿か?

 俺が小さな頃にでっかく見えた、親父の、男の、大人の姿か?




 ――――




 ――――違うだろう。





「っ!」


 違うだろう。

 目を覚ませ、俺。



 ――――俺!




 俺を包んでいたもう一枚の、虹色にぬめる油膜がぱちんと割れる。




 生ぬるい南国の朝の風が全身を撫で、どこかへと消えていく。

 ごぶっ、ごぼぼっと。

 テレビや映画で見るものとは違う、生きた波が筒状の空気を飲み込んでは吐き出し、貝殻海岸にぶつかって砕けた。

 さあああ、と無数の白泡が弾け、後には束の間の静寂が残される。


 波と波との幕間に、誰かと誰かの睦み合う声が漏れ聞こえる。

 俺の知らない異国の喘ぎ声はひどく聞き苦しく、記憶から追い出してしまいたいほどに醜く感じた。


「……」



 ヤドカリはもう、その辺りにはいなかった。

 無限の貝の死骸に紛れ、どこかへ去ってしまったらしい。

 波間にちらついていた白い犬の影も見当たらない。

 今頃は無数の泡となって海の中へ溶けてしまったのだろう。



 浜に残されたのは俺と、四人の女と、老人と、そして神。


 俺はいつの間にか上半身を起こしていた。

 未だふらつく身体を支えるべく、両手を地について。


「……」


 ずっしりと構えた稲荷寿司の化け物。

 奴を睨み、がりり、と手で貝殻を掴む。

 歪な貝殻が手の平に突き刺さり、痛む。


「痛ぇ」


 俺は怨嗟のようにその言葉を吐き出した。


 立て。

 さあ、立て。


 ゆっくりと膝を曲げ、俺は立ち上が――――




 手首をちくりと何かが刺した。

 それは今度こそ手の甲に這い上がった小さな小さなイモガイの、小さな針だった。



 ただし翡翠色ではなく、銀色の針。


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