第12話 蛇の海

 

 水、少々。

 食料、あり。

 武器、あり。

 作戦、あり。

 仲間、あり。


 心持ち、身体、共に最悪。


 ――――その状況下に『奴』は現れた。



 先手必勝とは何も速攻のことばかりを指すのではない。

 互いに知らない者同士であるのなら、先んじて敵方の情報を得た者がアドバンテージを得る。


 磐座を離れた地点から海岸を見下ろし、俺達は「青目」の姿を目撃していた。


「……!」


 俺達は奴に一手先んじた。

 にも関わらず、濃厚な敗北の空気が辺りに立ち込める。


(よりによってか……)


 人智を超えた怪神(かいじん)マトゥアハ。

 その最後の一体は亀に近いフォルムを持っていた。


 鱗に覆われた長い首はキングコブラのように直立しており、口元はドジョウを思わせる髭に覆われている。

 俺は亀と例えたが、楕円形の甲羅を纏う胴体は意外にも長い。

 水かきのついた前脚で貝殻海岸に上陸した奴はずるずるとリュウグウノツカイのような胴体を引きずっていた。

 強いて名前をつけるなら「リュウグウノドジョウタイマイ」といったところか。

 甲羅と皮膚は自然界においては珍しい琥珀色。


「龍……みたいですね」


 俺があえて飲み込んでいた例えを温州が口に出した。

 そう。奴は東洋の龍に似ている。

 だが決定的に違う点が一つ。


(気色悪いツラだな)


 奴の「顔」には目がついていない。

 のっぺらぼうの顔に見えるのはドジョウのような髭ばかり。

 では目はどこにあるのか。


 ――――甲羅だ。


 多角形が連なった甲羅の一つ一つが凹んでおり、その中にちらちらと輝く青目が覗いている。

 目は固定されていないのか、闇の中から覗いては引っ込み、覗いては引っ込む。

 それも真上にいる俺達だからこそ見ることのできる光景だ。正面に立てば奴のことを完全に盲目だと錯覚しただろう。


 目の在り処を知っていることが何のアドバンテージにも感じられないほど奴の佇まいは堂々としていた。

 のそりのそりと前進し、首を巡らせ辺りを見やる。

 波打ち際の緑目は未だ沈黙しており、青目もまた緑目には興味を持っていないようだった。

 互いに不干渉なのか。


 うぉん、とジンジャーが警告を発する。


「分かってる。緑目から目ぇ逸らすなよ」


 小さく頷いた温州がナタネに通訳し、今度は日本語で続けた。


「肺呼吸ですね」


「ああ」


「動きは速いと思います?」


「思わねえ。甲羅のせいでヒレ脚を動かせる範囲が狭いからな」


「同感です。それに方向転換にも弱いと思います。攪乱が効くはずです。……狙いは鼻でいいですか?」


「おう。あれの脚を狙ってもダメだ。接地面積がでかすぎる」


「分かってます。罠は忘れます」


 俺と温州は緑目に備えて設置した罠の転用を諦めた。


 準備は空振りに終わる。よくあることだ。

 だが心の準備さえ完了していれば善後策を講じることはたやすい。


 取り乱すな。

 どっしりと構えなければならない。


「ジューグ」


 ナタネが俺のズボンをぎゅっと掴む。

 これまで赤目や緑目といった化け物を見て来た彼女にとっても奴の異形は――――


「心配されてるんですよ」


 温州が言葉を添えた。

 彼女もまた闇の中で不安そうに俺を見つめている。


「正直に言ってください。今日のおじさん、何%ぐらいですか」


 俺は天を仰いだ。

 黒目の時は驚愕のせいで80%。赤目の時は緑目の奇襲があったせいで40%。

 今は――――


「10%だ」


 嘘をついても仕方がない。

 高熱と同居する異常な寒気。空えずき。脱水症状。めまい。

 インフルエンザとノロウイルスをいっぺんに食らったかのようなこれらの症状に加え、両手が死にかけている。

 完全に死んでいないのは患部の血を抜く瀉血(しゃけつ)とやらを試したお陰だ。多少は腫れが引いたように見える。


「……」


「そんな顔するな」


 100%の実力を発揮できる舞台なんて滅多にない。

 徹夜明けだろうが風邪を引いていようが喪中だろうが、やらねばならない時はある。


「大丈夫だ。何とかする」


 ナタネと温州の頭を交互に撫で、俺は陸へと近づく青目を睨む。

 確認すべきはまず二つ。

 目を持たない青目のマトゥアハが敵を探知する方法。そして攻撃手段。


 背中に目のついた化け物はどうやって周囲の障害物を認識しているのだろうか。

 音か。匂いか。超音波か。

 奴はどうやって人間を捕食するつもりだろうか。

 圧潰の他に何があるだろうか。手で打ち払う、噛みつく、首を叩きつける辺りか。


 その二つが分からない限り、膠着状態が続いてしまう。

 まずはこの場を動かなければならない。


「背中に乗ってみる」


 俺の得物は棍棒だが、これは殴打の為の武器ではない。

 柄に結んだ赤目の「腺」、温州を拘束していた丈夫な器官こそが真の凶器となる。


「背中?」


「カメなら背中が死角だ」


 温州は首を振る。


「種類にもよりますけど、カメは首を使って左右にローリングできますよ。ひっくり返せば動けないという話は迷信です」


「そ、そうなのか」


「あの重量なら無理だと思いますけど……でもわざわざ近づくんですか?」


「遠目からだと呼吸する場所が分からねえ。それにモタモタしてたら緑目が起きるかも知れん」


「それこそ緑目の思う壺かも知れません。完全に分断してから攻めた方がいいです」


「分断したら緑目の動きが分からなくなる」


「視界に入れながら動く方が無茶です。陸にさえおびき寄せてしまえばもしかしたら罠が効くかも」


「ロープ系の罠なんか効かねえ。ぶっ壊されるだけだ。忘れろ」


 今すぐ攻めるか。それとも待つか。

 おそらく互いに一理ある。

 いや、理(ことわり)なんてものは無数にある。甲論乙駁、喧々諤々。

 温州もまた持論に自信を持てていないのが表情で分かる。


 どうする。どうすべきだ。


 わん、とジンジャーが短く吠える。

 まるで「自分を忘れるな」と主張するかのように。 


「……おう。そうだな」


 俺は万全には程遠い。頭だけで考えてはならない。


「温州はナタネを護ってろ。俺とジンジャーであいつに近づく」


「……」


 鉢巻を巻いた女子高生は微かに不満そうな表情をした。

 骨の薙刀を担いだ彼女は少しでも前線で戦力になりたいと言いたいのだろう。女だてらに見上げた気概だ。

 だがナタネを放置するわけにも行かなかった。

 前線に出さないからといって護りを手薄にしていいとは限らない。何せ相手は化け物だ。


「そんな顔すんな。残っててくれ。何かあるかも知れん」


「何かって?」


「分からん。分からんから備える。何が起きてもいいように」


 血気に盛る勇ましい俺が頭の片隅で笑った。

 戦力を分断するなよ、やる時は全力でやれよ、と。


 ふん、と俺は鼻を鳴らす。

 臆病者だと笑わば笑え、だ。


「あいつを殺すのは通過点だ」


 温州の肩に手を置く。


「みんな揃って帰ることがゴールだ。その前提を忘れんな。殺すことより護ることの方が大事だ」


「……分かりました」


 温州は小さく肩を落としつつも薙刀を構える。

 流麗な足さばきで素振りを二度、三度。


「おじさんもですからね」


「ん?」


「おじさんも一緒に帰るんですからね」


 温州はやや強い声でそう言った。

 俺は彼女に背を向け、ぶくぶくと膨れた手を振る。


「行くぞ、相棒」


 うぉん、とジンジャーが吠える。










 ジンジャーが斜面を滑り降り、俺は海岸を大きく迂回して青目に近づく。

 奴の首の高さは優に4、5メートルを超えており、近づくにつれて押し潰されるほどのプレッシャーを感じた。

 奴が寝返りを打っただけでも俺には致命傷となるだろう。

 甲羅はちょっとしたプール程度の面積がある。


(落ち着けよ。落ち着け……)


 でかい奴なら他にもいた。

 黒目も、赤目も、緑目も、こいつと同じくでかかった。

 だが殺すことができた。殺すことができたのだ。


 今のところこいつは黒目の凶暴さも、赤目の妄執も、緑目の俊敏さも持ち合わせていない。

 怖気づくな。しかし慎重に行け。


 ざくざくと貝殻を踏む俺とジンジャーが距離を詰める。

 二手に分かれた俺たちは九時を示す長針と短針のように青目へ迫った。


 十メートル。気づかない。


 八メートル。まだ気づかない。


 ちらと横目で緑目を見やる。――――奴もまた動いていない。

 最も恐れなければならないのは緑目による急襲だ。

 青目に注意を向けた首を横から鋏でちょん切られることを最も恐れなければならない。


 逆に、青目と緑目を同時に敵に回すこと自体は決して脅威ではない。

 なぜならマトゥアハの巨体は互いの動きを阻害する。

 二頭の象が争う中を蟻が二匹這い回るようなものだ。俺達を踏み潰そうと大暴れすれば奴らも無事では済まないだろう。


 六メートル。高熱のせいか、早くも呼吸が乱れ始める。

 惚れ惚れするようなフォームで疾駆するジンジャーが羨ましい。


 四メートル。もうそろそろ尾とヒレ脚の射程に入る。

 歩幅を縮め、回避のステップ意識しながら貝殻を踏んで走る。



 ――――二メートル。



(こいつ、何で動かない……?)


 のそのそと移動していた青目は石柱の火に顔を向けて静止している。

 照らされる顔はのっぺらぼうで、髭が夜風に震えていた。


「……」


 じわりと手に汗が浮かぶ。

 ジンジャーは威嚇するように唸っているが、すぐにそれをやめた。


 こいつからは殺気が感じられない。それに気づいたのだろう。


(見えねえからか……? それとも……)


 疑念を抱きつつ、ちらりと緑目を見やる。

 奴は虚ろな瞳のまま、ぷくぷくと海面に泡を立てていた。

 どうやら青目を囮に自分が仕掛けるという寸法でもないらしい。


 俺とジンジャーの視線は再び青目へ。

 目を持たず、口を持っていることすら疑わしい『リュウグウノドジョウタイマイ』は灰色の炎に照らされている。


 耳がBGMを思い出す。

 ざざあ、と穏やかな波が貝殻を洗い、陸では葉がさらさらとこすれ合う。

 どくん、どくん、と鼓動に合わせて全身が揺れた。


(どうする。動かねえなら……)


 一分だけと時間を定め、観察に徹する。

 青目の巨体には赤目のような攻撃器官が見当たらない。少なくとも表面的にはウミガメと同じ程度には無害のようだ。

 尾びれは長いが、甲羅付近の胴体が左右に曲がらないところを見るに可動域は狭いらしい。


「っ!!」


 何気なく首の裏側を眺めていた俺は気付いた。

 孔(あな)だ。

 首の裏側に六つほどの孔が並んでいる。


(あれがこいつの……)


 黒目と同じだ。

 やはりこいつも体表に孔を持つタイプの肺呼吸生物。

 他に鰓は見当たらないが、ひとまずあれを潰せばこいつは大きく弱体化されるはずだ。


(……登るか)


 腰に吊るした棍棒の感触を確かめ、奴の甲羅に手を掛ける。

 ――――まだ動かない。


(何なんだこいつら)


 波打ち際の緑目は動かない。

 上陸した青目も動かない。

 俺とジンジャーだけがせっせと動き回る様はまるで滑稽だ。


 いや、と俺はその考えを振り払う。


(何だろうと関係ねえ。中に人が捕まってるんだ……!)


 甲羅を掴んだ手に体重を乗せる。

 その瞬間だった。



 にゅにゅうう、と。

 甲羅の表面から何かがひり出された。


 それは鼻のすべての毛穴から角栓が飛び出す光景に似ており、実際、飛び出したモノは黄褐色だった。

 黄褐色で太い、「何か」。




 どうして気づかなかったんだ、と。

 まず後悔の黒い痺れが全身を駆け抜けた。


 続いて俺はうわ言のように呟く。

 温州、と。


 後ずさり、後ずさる。

 奴から、いや「奴ら」から目が逸らせない。 


「温州……」


 棍棒を握る。




「ナタネ連れて逃げろおおおおおっっっっ!!!!!」




 最後のマトゥアハの背中に並んだ、二十に迫る「青い目」。

 それらは当然のことながら、生物を構成するパーツの一つだった。


 それぞれが5メートルはあろうかという黄褐色の平たい身体。

 内向きに生えた鋭い歯列。

 そして顔に対して不自然に巨大な「青い一つ目」。


 トコロテンのように飛び出した巨大ウツボの大群が一斉に甲羅を滑り降り、俺達へ襲い掛かる。


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