第6話 静かの海

 


 古代ギリシア人はこう言っている。


 戦争において相手が自分より愚かであることを期待するな。

 相手は自分より賢くて当然なのだ、と。


 素晴らしい箴言だ。グッと来る。

 だが画竜点睛を欠くとはまさにこの事だ。

 奴らはこの箴言の最後にこう付け足しておくべきだったのだ。


 ――――「たとえそれがヒトでない姿をしていても」と。



「うっ、おおっ!!」


 暴れ牛のように足元が揺れる。

 到底姿勢を保つことができず、広げた両手もろとも俺の上半身が揺さぶられた。


 黒目の次に姿を見せたのは赤目だから、次に襲ってくるのは赤目だと思った。

 だがそんなはずがないのだ。

 知性ある生き物が俺にとって都合よく動いてくれるわけがないのだ。


 敵の巣穴が分かっているのに馬鹿正直に待ち伏せするわけがない。

 姿かたちを目撃され、対策が講じられているであろう状況でおめおめと待ち合わせ場所に来るはずがない。

 敵が自分のことを知っているのなら、謀り、欺き、騙す。

 一見してどれほどの力量差があろうとも全力で相手を叩き潰す。

 それこそが戦いであり、命の奪い合いだ。


 俺は完全に「相手が愚かであることを期待」してしまっていた。

 奴らのことは化け物だと思っていた。

 だが心のどこかで「動物」の類だと軽んじていたのだ。

 その認識がそもそもの誤りだった。奴らは人智を超えた生命体だった。

 俺より高い知性を持つ文字通りの「怪物」。


 いや。

 怪物なんて言葉じゃ生ぬるい。奴らはそれ以上の何かだ。

 強いてその名を呼ぶならば。



 ――――怪神(かいじん)マトゥアハ。




 脳震盪を起こしたかのような視界の中で青竹色の虹彩が不気味にこちらを見ている。


(緑目……!)


 どんな姿だ。

 どうしてこの高さに目があるんだ。

 一体何をしているんだ。

 どうして接近に気づけなかったんだ。


 様々な色彩がかき混ぜられる視界とリンクして数多の疑問が渦を巻く。

 だが何かを考えている余裕なんてこれっぽっちも無かった。


 立っていられないほどの震動の中、俺は吹っ飛ばされまいと床にへばりつく。

 室内では様々な物品が散らばり、跳ねた。

 廊下では燃え盛る薪が散らばり、ぱっと火の粉をまき散らす。


「基礎がまともに入ってねえのかここはぁぁっっ!!」 


 シェイクされる民宿の一室から転がり出る。

 まさにその瞬間、鎧戸を突き破った何かがついさっきまで俺の居た場所を抉っている。


 それはハサミだった。

 熊蜂の尻のようにぷっくりと膨らんだ先に波刃長剣(フランベルジュ)を思わせる爪先を持つ異形の鋏。

 ばっくりと裂けた床板を目の当たりにした途端、身の毛がよだつ。

 あんなものを一撃でも食らったらバラ肉確定だ。


 鋏の色は迷彩服を思わせるモスグリーン。

 重厚な処刑具は今まさにゆっくりと床を離れ、突き破られた鎧戸から屋外へ。

 べきき、と縁にこびりついていた木片までもが綺麗にこそぎ落とされた。


 ぱき、べき、と無数の歩脚が民宿の壁面に立った。

 開いている窓枠に爪の先端を引っかけ、身体を固定しているに違いない。


「う、く……!!」


 万全と行かないまでも赤目への対策には頭と体を使っていた。

 だが正体不明のこいつを。

 緑目のマトゥアハを打ち破る手段は、現状、無い。


「ナタネ!! ナタネェエッッッ!!!」


 喉が裂けるほど叫ぶ。


 ぼろりとこぼれ落ちた木片の音を合図に廊下を駆け抜ける。

 ぼごお、べごん、ぼごっ、と俺の背後で次々に鎧戸がこじ開けられる。否、乱暴にぶち破られる。

 鋏が屋内へ侵入すると何枚もの板切れが室内の床を叩き、鋏が屋外へ抜き取られると窓枠の板切れが音もなく外の世界へ吸い込まれていく。


 黒目の歯も残しておいたナッツも真水も最早関係ない。

 獲物の巣穴を見つけた緑目はこれっぽっちの情けも容赦も見せず、手当たり次第に鋏をぶち込んでは触れるすべてを引き裂く。

 俺とナタネが必死に蓄えた品々が破砕され、叩き潰される。


「くそっ!! くそおおおおっっっ!!!」


 ぼろぼろ、ばたばた、と散乱する鎧戸が玄関前を叩く。

 更に凄まじい力で引っぺがされた数枚は遥か彼方の海岸に落下し、ぽこんと間抜けな音を立てていた。


「ナタネ! ナタネ逃げろ! 逃げろおおおっっっ!!!」


 あらん限りの力で叫びながら階段を転げ落ちる。

 俺の姿を見失うやモグラ叩きを続けていた緑目の鋏が止まり、がさごそと外壁を這う音がした。


 ナタネは一階フロントで我が身を抱いていた。

 へたり込んだまま震える少女は目に涙を浮かべており、既に戦闘不能であることは明らかだ。

 彼女のすぐ傍では賢いジンジャーが主を勇気づけるように走り回っている。


「ナタネ! ナタネおい立て! おい!!」


 俺が怒鳴りつけても少女は涙で濡れた目を向けるばかりだった。

 完全に腰を抜かしてしまったのか、手を掴んでも立ち上がろうとしない。

 そうこうしている間にも上階からはパラパラと砂埃が落ち始めている。


(ヤバイ……!)


 もたもたしていれば生き埋めになる。

 だが腰を抜かしたナタネを引きずって逃げられるほど緑目はのろまな奴だとは思えない。


「立て! ナタネ立て!」


 ナタネは生まれたての仔牛よりも無様にぷるぷると立ち上がり、またへたり込む。

 初めてスケートシューズを履いた小学生のような有様だった。


(くっそ……!!)


 心中悪態をついたが、ナタネに罪は無い。

 弱さは断じて罪などではない。強さが正しさではないように。


 民宿がいよいよ崩壊を予感させる悲鳴を上げる。

 ぱらぱらと落ちる木くずのサイズが徐々に大きくなり、床で跳ねて脛を叩く。

 もう一刻の猶予もない。


 だがどっしりと。

 どっしりと構えなければならない。

 大人の体がでかいのには理由がある。


「しょうがねえなあ!!」


 背中で交差させた槍を捨て、少女を背負う。

 ほんの40キロ程度のその重みが俺の膝に、脚にのしかかる。

 これが子供の重さか。


 だが負けない。負けてたまるか。

 俺と同じ年頃の男どもは、きっともっと重いものを背負っているはずだ。

 もっと重いものを背負ってもなお、俺のように自暴自棄になったりしていないのだ。


 外を見る。

 先駆けとなるべくジンジャーが飛び出そうとする。


 逡巡。


「ウェイッ!!」


 ぴたりと犬が足を止める。

 片手でナタネを支えた俺はひっくり返っていた椅子を引っ掴み、玄関の外へと放り投げる。


 つぱっ、と。

 これ以上ないほど見事なタイミングで苔緑のハサミが視界を過ぎった。

 ――――野郎、やっぱり待ち伏せしてやがった。


「今だ!!」


 そう叫び、俺は闇の中へ。

 ナタネがぎゅっと汗ばんだ首を掴む。


「首じゃねえ! 胸だ! 胸掴め!! 脇に手ぇ入れろ!」


 ナタネは指示通りに俺の両脇に手を入れた。

 屋外へ一歩飛び出す。


 まさにその刹那、二の太刀が背後の地面をえぐり取った。

 舞い上がった土砂は一キロを超えていたかも知れない。

 濡れた土塊(つちくれ)や乾いた小石がばらばらと木々を叩き、葉を打つ。


「海だジンジャー!! 海行くぞ! シー! ゴートゥシー!!」


 緑目の全容を窺い知ることは叶わない。

 振り返れば間違いなく死ぬだろう。


 どくっどくっと早くも音を上げ始めた心臓に喝を入れる。

 走れ。

 ちょっとでも休んだら二度と立ち上がれなくなるぞ。

 走れ。


「おおおらああっっっ!!!」


 脇目も振らず走る。

 上下に揺れていたナタネがぎゅっと俺に密着する。


 先導する白い犬が時折振り返り、まるで緑目との距離を測るかのように鳴く。

 わんわんわん、という威嚇。

 だが背後の緑目が臆した様子は感じられない。

 奴は移動する度に木々をなぎ倒し、土を巻き上げている。


 ばう、とジンジャーが鋭く鳴いた。

 奇妙な無音。

 一拍の後、切断された無数の枝葉がパラパラと地面に落ちる。

 追いつかれたらナタネ諸共俺がああなる。


「止まんな! 海だ!! 海だぞっっ!!」


 視界の向こうで地面が途切れていた。

 海岸に続く急斜面だ。


 その更に向こうには夜間ライブの舞台を思わせる白い光が見える。

 石柱だ。

 炎の石柱。


「飛べ!! 飛べ飛べ飛」


 ばうっ、とジンジャーが一際鋭く吠えた。

 その瞬間、強く踏み込み地を蹴った。

 宙へ。大きく上半身を捻る。

 万物を地に縛り付ける重力の軛から解き放たれた瞬間、時間が何倍にも引き延ばされる。



 俺の視界を覆い尽くしていた「緑目」は他のマトゥアハに勝るとも劣らない異形だった。

 最強の盾と最強の矛を両立させた一対の大鋏。

 四本見える脚はどれも大人の胴より太く、力強く土を巻き上げている。

 奴の異様さはそれだけではなかった。

 ヤシガニを想起させる手足は山のように巨大な殻から生えていたのだ。

 ――――つまりこいつは「ヤドカリ」だ。


 緑色の虹彩を持つ人間の瞳は切れ長で、前方を広く見渡せるよう持ち上がった頭部に埋まっている。

 眼球が飛び出しているのではなく頭部に埋め込まれているという点においてはサソリに近い構造だ。



 浮いていた俺の身体が自由落下を始める。

 時間が動き出す。


(この図体で無音なのか……!?)


 疑問と同時に鋏が振り上げられる。

 うっと体の前面を庇いかけ、思い直して斧を掴む。


 振り抜くと同時に手首に衝撃が爆ぜた。

 軽く干戈を交えただけで分かる絶望的な力の差。破砕された斧が斜面を転がっていく。


「くっ、そっ!!」


 吹っ飛ばされ、着地し損ねた俺はナタネ諸共ごろごろと斜面を転がり落ちる。


「おおおおっっっ!??」


 天地が反転する。

 二度、三度、四度、五度六度七度。


 回転が止まった瞬間にまず、J字の骨フックが体に刺さっていないことを確認して安堵する。

 金物を手放していたのは僥倖だった。

 もしどれか一つでも身に着けていたら我が身を傷つけていただろう。

 そう思いながらよろよろと立ち上がる。


「ナタネ!! オーライ!?」


 潰されずには済んだが、ナタネは斜面の泥と小石でボロボロになっていた。

 げほげほと咳き込み、それでも彼女は呟いた。


「ンケィ」


「オーライ!! ノープロブレム!!」


 足がずきりと痛む。脛に枝でも刺さったか。

 だが止まるわけには行かない。

 ばう、とジンジャーが警告の咆哮を発したからだ。


「!!」


 緑目の奴は。

 恐るべきことに斜面を猛スピードで駆け下りて来るところだった。


 かさかさかさかさ、と四本の脚が機械よりも精密に、そして合理的に地面を蹴る。

 巨大な灰白色の殻は貝のものではなさそうだった。サンゴの類かも知れない。

 だが重量を差し引いてもあまりにも大きい。

 鍔広帽を被るようにして貝殻を背負った緑目は俺達を猛追してくる。


「じ、ジンジャー!! 逃げろ! 逃げろ逃げろ逃げろおおっ!!」


 わん、と白犬が吠える。

 逃げるってどこにだよ、と叫んでいるようにも感じた。


「火だ!! 火の方に走れ!!」


 活路はある。


 緑目はヤドカリだ。

 ヤドカリは鰓呼吸で、脚や口元に水を蓄えている間だけ陸で活動できる生き物だったはず。

 走りながらちらと背後を見ると、案の定、奴は口元から泡を吹いていた。

 あれは呼吸しているのではない。

 呼吸のために繰り返し使っていた水が粘り気を帯びているのだ。

 人間で例えるなら空気を使い回すタイプの酸素ボンベが二酸化炭素で満たされつつある状態。


 奴はじきに呼吸困難に陥る。 


(火だ)


 石柱が見える。

 灰色の炎が煙りのごとく燃えている。


 その根元には俺が準備しておいたいくつかの品も転がっていた。

 対赤目を想定して用意した簡易な盾、触手をもつれさせる為のロープ、ヒレを潰す為の分銅。

 そして取って置きの『燃えるロープ』。

 残念ながら今回はどれも役には立たないだろう。


 だが炎がある。

 奴自身は黒目と同じく炎も熱も平気かも知れないが、奴の蓄えている水は火に近づけば蒸発する。

 それに地中深くに埋まったあの石柱は黒目の突進ですら破壊できなかったのだ。

 あの鋏を防げるかもしれない。

 いや、楽観するな。防げなくてもいい。とにかく時間が稼げれば。


(こっからだ……! 俺はこっからだ!)


 緑目が迫って来たら迎撃する。時間を稼いで呼吸できなくさせてやる。

 海へ逃げ出そうとしたら殻の隙間に魚油と樹脂に浸した蔓のロープ付き投げ槍をぶち込み、火を点ける。

 足を止めたところで柔らかい中身に槍を突き刺してやる。


 ゼイゼイと息が切れ始める。

 もう体力なんか残っちゃいない。

 何てヘタレだ、俺は。


「ジューグ……」


 ナタネが泣きそうな声で名を呼ぶ。


「大丈夫。大丈夫だ……!」


 俺は何度も繰り返し、萎えかける心を奮い立たせた。

 とにかくこいつを。緑目を斃す。


 がりりり、と奴の脚が貝殻海岸に降り立った。

 がらがらがら、とがしゃどくろが荒野を這うような音と共に巨体が迫る。

 まっすぐに、俺の方にだ。


(なら迎え撃つまでだ……!!)


 石柱へたどり着いた俺は可燃ロープと投げ槍を手にする。

 ナタネを下ろす。ジンジャーがばうと吠える。

 振り向く。白地に苔緑の巨大ヤドカリ。


 ――――来るなら来い。


 10メートル。


 9。

 8。



 ざばああ、と背後で波が逆巻く。



「え」


 振り返る。



 俺は決して緑目を侮ってはいなかった。


 緑目だけじゃない。

 今なら黒目も赤目も俺にとっては油断ならない「敵」だ。

 誘拐犯を相手取るネゴシエイターよりも俺は慎重に、そして臆病になっていた。


 だからこれは油断ではない。

 強いて言うなら「役者の差」。



 ずおおお、と水柱が上がる。

 凪いだ夜の海に白波が巻き上がり、無数の触手が浜に這い出す。

 クジラにも匹敵する巨大クリオネが透き通る体を夜光に晒した。


 真っ赤な虹彩を持つ眼球がぎょろぎょろと辺りを見回したかと思うと、俺とジンジャーを認める。

 無数のレーザーサイトを向けられたかのように視線が突き刺さり、俺たちは同時に竦み上がった。


 奇襲ではなかった。

 ――――これは挟撃だ。

 俺は初めからこの場所に追い立てられていたのだ。


「ッ!? っ!!」


 投げ槍を手に、俺は何度も何度も穂先を向ける相手を変える。

 巨大ヤドカリ。巨大クリオネ。巨大ヤドカリ。巨大クリオネ。ヤドカリ。クリオネ。

 徐々に徐々にどちらもが距離を詰めて来る。


 尾を立てたジンジャーが錯乱したかのようにわんわんわんと吠え、ぐるぐるとその場を回る。

 ナタネが頭を抱え込み、膝を抱え込む。


 小便が漏れそうになる。

 がくがくと膝が笑い始める。

 顔までもが引っ張られ、ひくっと引き攣った笑いが浮かぶ。


 海からは赤目。

 陸からは緑目。


 逃げ場は、無い。


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