第2話 「だから止まるなと言ったよな」

■ところ 家 〜 一つ目の信号過ぎ

■じかん 001日目 08:14 〜 08:17

■たいとる 「だから止まるなと言ったよな」


 予鈴よれいには間に合わないが、30三十分からのショートホームルームには間に合うかどうかギリギリのラインだ。というかホームルームなんか遅刻しても問題ないはずなのにこれに間に合わないと一限が遅刻扱いになる。なんと理不尽。いったい全体どういうわけだし。意味不明だし。残り15十五分強で走って高校まで間に合うか?

 家族共用の自転車は今父親がそのまま出張先に乗って行ってるので走るしかない。というかなんでパパンは自転車で出張してるの。パパ馬鹿なの? パパ馬鹿なの?

 通学路に信号は五つあるが三つ目の信号以外は交通量多い方の車道と平行に渡るので青信号が多く、引っかからずに着く公算が高い。

 口に咥えたままのパンをつまみ、改めて口の中に詰め込む。トーストを口に咥えたまま、遅刻遅刻〜! なんて言ってる余裕もない。

 蒸し暑い夏も過ぎて、陽射しは強くても日陰だと涼しく、過ごしやすいここ数日。カラッと晴れた青空は夏の名残りをまだ残している九月中旬の月曜日。近くの大きなビルが唸り、そのまま一陣いちじんの風が何かの合図のようにりらせの体にぶつかって散っていく。風はプリーツのよれたスカートをたなびかせ、りらせのポニーテールをほぐし、長い睫毛まつげでる。

 走り出す。


 他の学校の生徒が自転車でりらせを追い抜いていく。走るのは嫌いじゃないけど、好きでもない。残暑らしい暑さはこのところ随分ずいぶんと引いてきているが、走り始めるとすぐに体は熱くなる。持ち上げたふとももがスカートにれ、接地したつま先がアスファルトを蹴る。透徹とうてつした意識が俯瞰ふかんした自分の姿を想像させる。五体満足な二足歩行の乳類の見本として走る私の骨格。今日も私の体はちゃんと動くよありがとう私の体ありがとう私の筋肉ありがとう私のアデノシン三リン酸。ブロック先に最初の信号があって、信号を超えたかどにはコンビニ・チェーンのガバガ・マートがある。最近店内改装でイートインが内部に併設へいせつされた。プライベートブランドのチーズケーキがやたら美味おいしいので最近よく買うのと、時間があれば登校時に寄って梨ジュース(すごく安い。Lのやつがいいな)を買っていきたいところだったけど、今日は無理。まだ走り始めて分も経ってないけど、口でハァハァと息をする。まだ呼吸が乱れるほどではないけど、ローファーは走りにくい。右手に鞄を持っているので揺れる体幹たいかんに合わせて左手が振れる。

 「おやかたさまああああああ!!!! おやかたさまああああああああああ!!!」

 ドレッドノートきゅう音量でりらせのスマホが鞄の中から着信をお知らせする。いつもオートでマナーモードになるように設定しているのにいつの間にかそれは切れていたらしい。スマホと連携れんけいしている左腕のウォッチに「ハヤセ」とあるので弟からの着信だ。(着信音は、映画「そなた何と申す」で中身ハンニバルの戦国武将が家来けらいにふんどしの巻き方を教えてもらっているシーンの音声である。)りらせは走りながら、薬指の第一関節ほどの大きさの、黒いウレタンに包まれたカプセル無線イヤフォンマイクを耳に詰める。

 少し息の上がった声で「もしもし」とりらせが言うと音声認識にんしきされて通話モードに入る。遅刻寸前で登校中の姉に何か用か弟よ。

「あー、走ったまま聞いてくれ」と、外耳がいじで男の声。誰の声だ? 弟の声ではない。りらせは混乱する。誰? 「止まるなよ」と引き続き男はりらせに命じる。

 運がいいのか悪いのか、ちょうど最初の信号が赤に変わり、駐車場に白いセダンが数台まったガバガ・マートが見える交差点でりらせは足を止める。息も少し上がっている。ガバガ・マートの看板カラーは風邪をひいたときのたんのようなミルキィなうすみどり色でりらせはあまり好きではないし、現代アーティストに発注したという、建物にハチマキのように巻かれた看板デザインも、「檀家だんか回りに行くふりをしてパチンコ通いをしていたことがばれて嫁にとがめられる住職」という現代の宗教離れを暗に風刺したテーマで作られたものらしく、一般市民には理解に苦しむものだった。(しかもイラストは高度に抽象ちゅうしょう化されていて、ぱっと見ではあおけにされたハダカデバネズミにしか見えない)それでもちゃんと全国展開して多くの人間に受け入れられているのだからそこが更に理解に苦しむ。弟が知らない男に変わっていたのがワケ分からなくて、混乱しすぎて、ガバガ・マートのどうでもいい豆知識を思い出していたりらせの左の外耳道がいじどうに改めて先ほどの知らぬ男の声がひびく。「だから止まるなと言ったよな」と、演技のように心底がっかりしたような声色こわいろで。

 これは意識が加速したのか。

 多分周囲の他の人たちも同じような感覚を味わったのではないか。とりらせは思う。

 急に周りがスローモーションのように思えたというあれ、走馬灯のようにというあれ、短時間に大量の感覚情報が平時へいじいき量を超えて脳で処理されるあれ。

 進行方向の信号は赤で、りらせの近くで他の学校の生徒も足を止めて、足の裏には点字ブロックの凹凸の感触があって、ガバガ・マートはそれはもう誰もがおがみたくなるようなありがたいほどの耳をつんざく大音量を周囲にらして爆発、四散しさんした。「分かっただろ! 走れ!」と耳で男の大声。いや、何もわからねえよ! 分からねえけどりらせは赤信号を無視して走りだした。走らないと何か危ないと本能的に感じた。爆発したガバガ・マートにビビって付近の車は停車しているし、近くの人間もマジかよやべーななどと言いながらコンビニにスマホを向ける。幸い自分には何も当たらなかったが、ドンとどつかれてギュっと引っ張られる、空気の高速津波のごとき衝撃波はあったし、周囲にガラス片は飛び散っているし、ガバガマートのアイデンティティ? である看板はもう跡形あとかたもなく、店舗の天井もまた綺麗に何もなくなって青空天井でハゲ散らかし火柱を上げている。騒然とした状況を横目にりらせは学校に向けて走る。現場から走り去る何かの犯人のようでもある。何これ? 何これ? 何が起こったの?

 りらせは走る。喧噪けんそうをあとにして。 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る