【承】芹那りらせが右手を失ってから、トラック改造するまで。

第8話 「エーアイアイ(取ったのかよ)!」

■ところ 学校前 〜 校門を少し過ぎた先 

■じかん 001日目 08:32 〜 08:35

■たいとる 「エーアイアイ(取ったのかよ)!」


 その場の全員が呆然としているなか、りらせの耳の中からカナリアは、「おい! りらせ! 走れ! 走っているか!? 走れ!」と叫んでいる。

 「ああああ」、「あああ」、と言いながらりらせはフラフラと立ち上がり、左手で、先のなくなった右腕の手首を血が出ないよう、しぼるように強くにぎり、「あ」、「あ」と言い、涙を流し、走り始める。それでも血は次々としたたる。「あ、あ」りらせの制服に血がかかる。

 誰も追ってはこなかった。

「なんと、高校生の遅刻とは、げに恐ろしいものなんですねぇ」

 という百海ひゃっかいの声もしたが、それきりだった。

 今この瞬間、りらせの頭には何もなかった。弟の事も、カナリアの事も、追いかけてきた警官や公尾家の四つ子の事も。走れと言われたので走りはじめただけだ。なぜ走っているのかもわからない。相手の心を読むエスパーと戦うときには格好の心理状態。

 りらせの目からはポロポロと涙が流れ続けた。「あっ、あっ」と嗚咽おえつをあげ続け、鼻腔びこうからははなが流れる。心を守るために本能的に脳が判断しているのか、りらせの体はりらせの感情や意識を置き去りにして、走るという行動だけを選択している。

 五十メートルも走ったかどうかのあたりで、りらせは徐々に自分の状況を受け入れ始める。どれくらい走ったのかも自分では定かではなかった。その間ずっとカナリアは「おい、大丈夫か、いいか、走り続けろよ」とりらせに話しかけ続けていた。

「りらせ、ちゃんと俺の声が聞こえるか、返事ができるなら返事をしろ」

 なんで? なんでこんなことになったの? 私の右手、私の右手、痛いよ、痛い、痛いよ、誰か、痛い。助けて。私を。

「いたいよ、いたい」、とりらせはむせびながら言う。「みぎて、みぎて、いたい、いたいよ」いやだ、いや、どうして、いやだよ。

「弟はまだ大丈夫だ、落ち着けよ、とにかく走れ」

 思いたくないのに、りらせの脳は記憶を勝手に引きずり出す。たしか映画では走り続けるバスからちゃんと主人公とヒロインは逃げだせた。なのに自分は、自分だけは、欠損してしまった。右手を。もうお茶碗ちゃわん持てないな。

「右手なんかまた生えてくるから安心しろ」

「はえないよ、そんなの、いたいよ、いたい」よくそんな残酷な冗談が平気で言える。

「お前のカバンにコンバットナイフが入っているらしい。外国の軍隊で制式採用されていて、銃の先に取り付ける事もできるナイフなんだが、そのナイフのの部分に、モルヒネの注射剤が仕込まれている。それを注射しろ」

 軍隊や銃剣のくだりはいらないよね、カナリアは要点を端的に述べる練習したほうがいいんじゃないか、と思いながら、りらせは言う。「すてた」

「あ?」

「ナイフ、すてた」

「バカかお前、捨ててどうすんだよ!」

「あ、ああう、あ、うう、うう」あとで使いますなんて聞いてないし、テレビゲームでも貴重品は捨てられないようにしてあるだろバカ。それどころかそのナイフのせいでこんな事になったのだ。とりらせは思うが、疲れているし、痛いし、で声にならない。モルヒネって鎮痛剤ちんつうざいだよね? 鎮痛剤よりも止血剤を仕込めよバカ。というかそもそも爆弾なんて手に仕込むな。というか、ゴートゥーヘルとか人に言っておいてやっぱ本当は敵だろお前、敵のくせにまた味方ぶってんじゃねえ。

「さて、どうしたもんか」とカナリア。

 まるで他人事のように言うね。まぁ他人事だよね、とりらせは思う。

 その時、「エーアイアイ!!!! エーアイアイ!!!! エーアイアイ!!!!」とスマホの着信音が大音量で鳴る。

 着信音に対し、「」んじゃない、「」んだ、嫌味か? のか!? とりらせは思った。

 これは割り込み通話キャッチホンの時の音で、割り込みであるむねはカナリア側にも自動音声で伝えられる。

 (ハンニバルと入れ替わった架空の武将によって知らず史実が改変されていくという内容の昨年公開の大ヒット映画「そなた何と申す」で、架空の武将(in Hannibal)は自分のあまりの男性器の大きさに驚愕きょうがくし、混乱のあまり陰茎いんけいを切除してしまう。そして当時の敵であったローマの軍人スキピオにペニス切除した旨を伝達したところ、スキピオは非常に驚いて思わず「ーったのかよ!!!!」と頓狂とんきょうな声をあげる。その時の「取ーったのかよ!!!!」という音声が着信音として使われているのだが、不思議なことにりらせには「取ったのかよ!!!!」ではなく「エーアイアイ!!!!」としか聞こえなかった。何人かの友人に聞いてみると、「取ったのかよ」と聞こえる派と「エーアイアイ」と聞こえる派に分かれ、論争になった。しかし後日、世間の謎を究明するテレビ番組「深夜の騎士探偵団たちだらけミッドナイトナイトディテクティブクラブメンバーズ」によってその現象の謎は解明された。いわく、母音ぼいん子音しいんの聞こえ方の個人差によって二通りに聞こえてしまうということだった。「取ったのかよ」という内容の着信音に対して、りらせは『嫌味か?』などとキレていたのだった)

 左手のウォッチには「おとうさん」との表示。ウォッチの静電容量方式のタッチパネルを舌でつつき、りらせは割り込み通話に応答する。

「リラセ、無事か!」と一言目から父。どこまで事情を承知しているのだろうか? というか自分以上に関知しているかもしれない。

「パパ……、助けて! 右手が、右手が」

「止まらず走っていろよ、今そっちに向かってる。すぐに着く」

「パパ……パパ……」

 りらせの父親はりらせを呼ぶ時には外国人のような独特の発音で呼ぶ。昔からそうしているから気にはならないが、他の人がりらせの名を言う時と違うので面白い。りらせの名前をつけたのは父親なので、そういう意味では父親の発音がりらせの本来の呼び方なのかもしれない。

 「リラセ、行き先を転送した。ウォッチのナビに従って進め」と父親が言う。

 ウォッチに現れた前面通知ダイアログの許可ボタンを押すと、ナビが現れる。あとはできる限りそのナビに従って進めばいい。犯人側の用意した、現在速度を示すお手製アプリはとうに閉じている。無くても、走る速度は体が覚えた。

 割り込みは終話し、ついでにカナリアとの通話も切る。

 警察もこない(あるいは、来ていたのがだと役に立たない)、カナリアは何もしてくれない(敵か味方かもわからない)。今頼れるのは父親だけだ(ただし登場が遅すぎる)。でももっと早く話がしたかった。そうすれば右手も、こうはならなかったかもしれない。

 白いセーラー服はリボンタイよりも赤くあざやかな赤の飛沫ひまつれ、右手を失ったりらせはそして走り続ける。

 青空を見上げる、今この空のどこかにハヤセはいるのだろうか?

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