第25話「終わりを終えて、その先へ」

 辰乃タツノは空から、ゆっくりと美星アースを下ろしてくれた。

 何百メートルも下へと、まるで羽毛のように舞い降りる。

 全く怖くない、奇妙な安心感さえある。

 見上げる辰乃の巨体が、あっという間に雲の彼方へ見えなくなった。その姿が最後には、輪郭をほどいて人の姿へ縮んでいくのがわかった。

 そして美星は、空港へと降り立った。


「何の騒ぎだ? 飛行機が遅れてる? なら、チャンスだろ!」


 空港内は騒然としていた。

 何故なぜかどの便も、離陸を見合わせて遅れているらしい。

 この時、美星は思いもしなかった。

 突如高速で飛来し、空港のレーダーに映った巨大な影……それが、あまりにも突然消えてしまったのだ。アンノウンは勿論もちろん、辰乃だ。だが、意図せず彼女は、美星が百華モモカに手を伸べる、その背を押してくれたのだ。

 雑多な言葉が行き交う中で、美星は国際線のゲートへ走る。

 そして、見慣れた背中を人混みの中に見つけた。


「いた……百華! 百華っ!」


 絶叫。

 誰もが振り向く中で、声を張り上げ名を呼んだ。

 構わず呼びかけ、探し求めて美星は走る。

 その先で、一人の女性が振り向いた。

 驚きに見開かれた目に、息せき切って駆け寄った自分が映った。


「美星……!」

「百華! はぁ、はぁ……ああ、よかった。間に合ったか」

「アンタ……何してんの? こんなとこで」

「……わからん」


 そう、わからなかった。

 気持ちに整理をつける、関係にケジメをつける。

 それが、具体的にどういうことなのか、それはまだわからない。どうしたいかすらわからないのだ。ただ、それでも百華に会わなければいけないと思った。

 この日、この時、この瞬間……それが最後の機会だと教えてくれた少女がいる。

 立ち止まっては後ろばかり見る自分を、強く大きく押し出してくれた人。

 それは、美星の愛する、美星を愛してくれる妻なのだ。


「わからん、って……もう、何? 相変わらず変な奴。それで? ……何さ」

「ああ、ええと……ウィーン、今日つんだってな」

「そ、ドイツまで飛んでそこからバス。長旅だよー?」

「き、気をつけていけよな」

「あいよ」


 周囲は再び、飛行機の遅延がもたらす混乱の中に溶け消えた。

 若い男女が再会した、そんな映画のワンシーンみたいな光景をうらやむ余裕などないらしい。ごったがえす喧騒の中だからこそ、今の美星は百華と二人きりだった。

 騒がしさがかたどる密室の中心で、美星は脳裏に言葉を探す。

 だが、そんな彼を見て百華は笑った。

 それはもう、屈託くったくのない笑顔だった。


「もぉ、なんて顔してんの? 美星っ!」

「あ、ああ」

「丁度良かった、アタシから会いに行ったんだけど……アンタ、いなくて」

「ちょっと、醤油しょうゆを買いに。そこで、千鞠チマリから聞いた。今日、行くって」

「そっか。じゃ、やり残したこと、片付けちゃおうかな」


 そう言うと、グイと前傾に百華が身を乗り出してくる。

 彼女はすらりと細い人差し指を、トンと美星の胸に突き立てた。


「アンタにもう、未練なんかない。アタシの一生の恋人は、バイオリン。ちょっといい雰囲気で楽しかったけど……ウィーンでの日々が始まるなら、アンタとの日々はもういらない」

「そうか」

「……そうよ。そのこと、ずっと言わなかったわよね? 中途半端、アタシは嫌だからだ」

「奇遇だな、俺もだ。それと」


 美星は、じっと見詰めてくる百華を見下ろす。

 目をらす彼女の、その指ごと胸に向けられた手を握った。

 ビクリと身を震わせたが、百華は抵抗しなかった。


「俺はうそも嫌いだ。百華、そんなに俺を気遣きづかうな。……見ててつらさが二倍になる」

「美星、アンタ……」

「それと、俺はお前に未練がある。そのことを認めてくれた上で、精算のチャンスをくれたがいるんだ」

「たつのん、か……バカな娘、そんなの別にいいのに」

「俺にはよくないし、辰乃だってそうだ。お前もだろ? 中途半端、嫌いなんだろ?」


 そのまま美星は、握る手に手を重ねる。

 そして、一度深呼吸してからゆっくりと言葉を選んだ。

 自然ともう、限られた単語の組み合わせしか思い浮かべられなかった。


「百華、お前が俺は好きだった。でも、お前に好かれる自分でいるために、無用な苦労を勝手にし過ぎた。そのことは、すまん。無理をしてたから、お前をちゃんと受け止めきれなかった」

「……趣味のこと? 美星、結構オタク丸出しでしょ」

「そうだ。そういうとこも全部、お前に見せておけばよかった。俺は……お前に嫌われるのが怖かった。オシャレで頼れる好青年でいることで、お前のまぶしさに負けない輝きを放とうとしたんだ。でも、無理だった」

「そりゃね」


 百華はわずかにまなじりを緩めて、柔らかな視線を注いでくる。

 そして、彼女はそっと美星の手を振り払った。


「アタシさ、知ってたよ……美星がアタシを好きだってこと。好かれたくて背伸びしてることも、それもアタシにれてくれたからだってこと。だって」

「だって?」

「アタシも美星のこと、好きだったから」

「過去形だよな?」

「お互いにね」


 そう言って百華は小さく笑う。

 だが、うるんだ瞳にあふれそうな涙が、光をたたえて揺れていた。

 濡れた睫毛まつげを何度もしばたかせて、彼女は決壊寸前の涙腺るいせんを必死に支える。


「美星と一緒にいると……夢を忘れそうになるの。バイオリンへのあの、渇望かつぼうのようなえた情熱が遠ざかってゆく。それくらいに、優しい日々だったの」

「それでも……それをわかってても、バイオリンを取るんだな?」

「そう。アタシ、バイオリンがないと死んじゃうよ。バイオリンだけを見てないと、生きてるって思えないの。でも、美星は凄く優しくて、安らぎで、だから終わらせるの」


 退路を断つのだと百華は言った。

 美星と一緒なら楽ができる、気持ちがとてもいややされる。自分に惚れてる美星の優しさに、どこまでも甘えることができるらしい。

 だが、そうして美星を上手く頼ってしまうことが怖かった……彼女はそう打ち明けてくれた。


「アンタさ、次はアタシのためにバイクとかやめそうじゃん」

「ん、それは……それに限らずやめる、かも。さっきちょっと。でも、それはいいんだ」

「よくない。アンタがアタシを、アタシのバイオリンを支えてくれたら……バイオリンがアタシだけのものじゃなくなる。アタシは、アタシの音楽をアタシ以外の力で支えたくない。アタシが、アタシの腕だけで! バイオリンと生きてくの」

「……難儀な話だな」

「でしょ?」


 美星も気付けば、笑っていた。

 自然と微笑ほほえめたのは、いつ以来だろう。

 泣きそうな百華を安心させるように、彼は気付けば笑みを浮かべていた。


「お前に話せて、話してもらって、よかった」

「アタシも」

「……一緒に行こう、なんて言ってくれなかったから……不安だった。でも、そういう訳だったのか。そうなら、まあ……付き合いきれん。少しさびしいけどな」

「そ。アンタがいたら、アタシ……ズブズブに甘えちゃう。その時、アタシの音はどんどんぼやけていくと思う。やっぱりそれって、怖いよ」

「俺は、さ。お前がずるいと思ったよ。好きなことを我慢してまで、俺はお前にいい男だと思われたかった。でも、お前は……好きなことのために全てを捨てて、俺さえ捨てていこうとしてるのに……凄く、いい女だ」

「だろー? にはは、惚れ直したか」

「いや……惚れ終えた」

「そっか」


 美星は黙って手を差し出した。

 キョトンとする百華に、握手を求めたのだ。


「今まで、ありがとな。百華、いってらっしゃい」

「おう。行ってきまーす、っと」

達者たっしゃで暮らせよ、お前はそもそも――!?」


 その時、握手に応じた百華は……意外な行動に出た。

 美星の手を握って引っ張り、背伸びして唇を差し出してきたのだ。わずか一瞬、一秒にも満たぬ瞬間、くちびる同士が触れ合う。

 行き交う呼気もなく、粘膜同士が濡れた音をかなでることもない。

 ただ、触れた。

 離れるために触れたのだ。

 互いに名を呼び睦言むつごとを連ねた、その唇同士が触れただけ。

 重ねたとすら言えない、柔らかで軽やかなくちづけだった。

 驚きに固まる美星から、はじかれたように百華は離れる。


「わはは、すきありっ! 餞別せんべつ、もーらったっ!」

「百華、お前なあ」

「たつのんを泣かせるなよー? 美星、アンタにはもったいないくらいのイイ娘なんだから。あと、ちゃんと抱いてやれ! 何でたつのん、まだ手付かずなのさ」

「それは、その……色々あって」

「色々あるなら、色々やれよ! 頼むよもー? いい? んじゃ、行くね」

「……ああ」


 結局、百華は涙を見せなかった。

 最後まで彼女は、涙の重さに負けなかった。

 泣きそうな顔に笑みを飾って、そして去ってゆく。手を振り前を向くともう……百華は振り返らなかった。去りゆく恋心が今、解放されて溶け消える。

 美星はその背を、見えなくなるまでずっと見送るのだった。

 こうしてようやく、美星の恋は終わり終えたのだった。

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